074_後悔。
004
「…………」
「──おい、人を見て挨拶も無しか?本当に、躾のなっていない餓鬼だな」
風呂上がり。いつもの様に頭巾を被り、悠々とタオルを片手に、リビングに着いた私の目の前には、憎たらしい男の姿があった。
珍しく、眼鏡を付けていた様だが。私が来たのを見ると、直ぐにその眼鏡を畳んでしまい。そのまま、新聞に目を移す。
……今は、極力奴と話は交えたくない。
私は、奴を極力無視する様に、静かに空き部屋を自身の部屋にでもしようと、螺旋階段の一段目を踏み込む──が。
「おい、ヴェルギリウス。お前、機嫌が悪いからって、直ぐに上に行っちまうか。……はっ、無様だな。上でわんわんと、声を噛み殺しながら泣く気かね?」
「…………」
挑発は無視だ。これに乗れば、奴の思う壷。だが、先生は暇なのか。新聞を丸めて、楕円形の様な筒を作り。
──それを片手に、ゴミ箱へ新聞紙を投げ棄てたのである。
次に、腰掛けから腰を上げ立ち上がれば。横に何度も身体を捻らせて。ぐっ、と背伸びをした。背伸びをした時に、先生の尻尾と耳が同じく、上へ上がっていたのが滑稽だった。
……だが、本当に随分と暇なのだろう。先生は、階段を登ろうとする私へ手招きをし、「此方に来い」と呟いたのである。行きたくなかった、本当に行きたくなかったけど……。
かの言葉が、脳裏を何度も巡るのだ。
『…………もう、何もしないと言う。……お前の言う通り、お前の言う事だけを聞く。…………お前が、殺せと言ったら殺す。…………お前が、私に死ねと言ったら死ぬ。…………………もう、お前の望む事全て、叶えるから……っ』
だから、諦める事にしたんだったね。
『……だから、もう、勝手にしてくれ。先生、お前の言う事は幾らでも聞く。全て、希望も、光も、灯火も。……全て、投げ出すと約束するから。……………………もう、私から、何も奪わないでくれ………………っ』
何も奪われたくないから、私は奴へ従順の首輪を託したのだった。今や、主人が私の首輪を握り、此方へ来いと言っている。
……だから、行かなくてはならない。だって私は、もう自分で何も考えない事にしたから。
希望も、光も、灯火も。全て、投げ出すと、あの日、奴の前で誓ったから。もう、何も奪われまいと、自信を持って言えるのだ。
私の体は、動いて行く。そして、佇む奴の目の前へ。屈辱だ、だが、以前とそれ以上の感情が浮かばない。平坦な平野に、少し大きな丘があるだけ。もう、何も感じない。
これが、従うと言う事なのだと、私は初めてそれを知った。頭を空っぽにしていても怒られない、植物の様に、水を待ち侘びる。
それだけ、ただそれだけの事。だから、私は何もしない事にしたんだ。あの日、私の全てを投げ出すと、誓ったのだから──。
「……本当に、滑稽だな、ヴェルギリウス。全てを奪われない為に、まだ残っている数少ない物を奪われまいとて出した結果が、これという訳か……っ。だが、俺は煩い雌豚よりも、此方の方が性に合う──」
──私はお前の、その全てを見透かす様な瞳が嫌いだ。黒く、塗り潰されている筈なのに、何処か人間味のあるその瞳が、嫌いだ。
……多分、今の私ならば、奴にお手をしろと言われ様とも、喜んでそれをするだろう。
「だが、これだけは覚えていろ。俺は、まだお前のあの言葉に、賛成はしていない。……どいういう事か分かるか?その小さな脳味噌かっぽじって、良く耳に納めておくんだな」
「……そうか、そうなのか。……だが、私はもうそれで良い。ああ、そうだ。今の私なら、全てを喜んで先生、お前に差し出すだろう。お前が私の少ない思い出をくれと言えばやるし、この身を差し出せと言えば渡す」
空っぽの瓶の中には、物を詰められると思うだろう。だけど、その瓶のコルクは硬く詰まっていて、物を入れられそうにない。
「……っ、ああ、何故だろう。……何で、こんなにも私の身は軽いのだろうか。全てを投げ出したからだろうか。……もう、全てがどうでも良い。はは、……はは、ははは……」
涙は出ない。掠れた笑いが出るだけだ。
……私は、小刀を握った。その小刀はかつて、ユダを殺した小刀で。だが、もう何も感じない。
目の前の事で精一杯な私にとって、それはそれで、これはこれ。ユダが死んだのはそれで、これはこれ。割り切った、腹を括った。だから、このシナリオに辿り着いた。
……それに、先程、風呂に入っていた時に気が付いた。……私が殺した、あの老夫婦が。
──ユダ達の、育ての親だという事を。
髪色は一致している。昔から、ユダには騎士道の様な、正義に重んじる行動があった。
そして、私の部屋には、騎士道の本が山程と。それに、彼奴らが言っていた特徴と、ユダ達が一致しているし……。
何より、家を出て行く際に、老爺が手に握っていた写真立て。
そこには──ユダと、その兄。そして、老夫婦の写真が入っていたんだ。パニックになって分からなかったけど、頭がクリアになった今なら、よく分かる。
私は、彼奴の命、兄の命、仲間の命……剰え、奴の育ての親。全てをこの手でぶち壊した。
……もう、笑えてくる。昔の自分なら、此処で絶望していただろう。だが、今なら分かる。その絶望の先に、虚無があるのだと。
…………小刀を、私は逆さに持ち替えて。
「──笑えるよな。……絶望を超えた先、人類の極地が、何も無い『虚無』だってのは」
「……そうだな、笑えるよ。それだから、俺ァ人間と共に、全て歩むと決めている──」
003
今回も、結果は惨敗だった。よろめいた隙を突かれて、所かしこを小銃の床でぶっ叩かれた。
……今回の負傷は、脇腹と胸筋、腹筋と頬。前者の三部位は、重い打撲跡。頬の傷は、結構深い。笑ったりしたら、口元から傷口が避けそうな具合にはな。
私は痛む身体を動かして、木の床の上で寝転がった。……天井、吹き抜けだからか、屋根の内部が良く見える。今回の戦闘でも、私は何度この天井を見た事か…………。
「っくく、……ははは。……はははははっ??」
目元を腕で覆い、私は声を荒らげて笑った。
先生は身体を洗いに行っているから居なかった。……部屋内に、私の声だけが響き渡る。
何も感じないのに、何故か笑いたくなる。もう、先には絶望しか待っていないと分かったから、どうでも良くなったのかもしれない。
ビリ、ッ。頬の肉が少し裂けたが問題無い。
笑っただけで、頬の肉が張り裂けるこの体。実に、面白い。私には、何も残されていなかったんだ!思い出だって、日常だって、仲間だって、愛情だって!全てが全部消えた。
分かっていたのに、私はその選択を何度も選んだ。そして、この結果に辿り着いた。
人生を全て、最初からやり直したい。それが出来たらどれだけ楽な事か。だが、人生はそう甘くない。だから、私はここに居る。
力が欲しい。全てを圧倒する力が。けど、私にはそんな力はありません。
だから、満足に戦えません。身体と心に傷を負って、全てに絶望しながら、どうせ死んで行くんだ。
理想の自分を思い描く程、その理想は段々と掛け離れて行く……。人生、後悔だらけだよ、本当に。全ての選択肢が裏目に出た。
辛い、苦しい、そんな言葉すら投げれなかった結果がこれだ。醜くて、間抜けで、獣臭くて、馬鹿で、後悔足らずの木偶の坊。
何も、得た物は無かった。このまま、死ぬ方が世の為になるだろう。
だが、死ねない。死にたいと言いながら、死ねない。私は、そんな自分を殺したい。だけど、殺す勇気は無いし、自分を殺せる度胸も無い。
全部裏目に出た。
辛い人生だった。
後悔のマスを踏み続けた人生だった。
何も楽しくなかった。
あの時に潔く死んでおけばよかった。
取るに足りない毎日だった。
武器の刃を研ぐだけで一日が終わった。
奴に指一本触れられなかった。
鏡を見るだけで憂鬱になる毎日だった。
風呂場で見る自分の体が、どれ程醜いか知らしめられる毎日だった。
何度も自殺を考えた人生だった。
全てを奪われて私の心の中の私は死んだ。
私は要らない子だと思った。
けど、そう思えば誰かが否定してくれると思っていた。だけど、誰も否定はしなかった。
だが誰も、私にすら見向きもしなかった。
悟った、人間の欲深さについて。
私の苦しみをもっと分かって欲しかった。
だから、私は人を沢山殺した。
けれども、心には穴が空いていて、決して埋まる事は無い。
憂鬱だ、死にたい。
彼奴の顔を見るだけで気持ち悪い。あの視線が厭らしくて嫌いだ。
過去を抉る様な事ばかりをしてくるあの狼が嫌いだ。
「──っ、くははははっ??何も、何も私には無いじゃないか……っ???失わまいとてこの選択を誓ったのに、私には何も無かったんだ……っ。はははは??はははは??!??」
死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
溺れて死んじまえ。窒息死しろ。
首を絞められて死ね。苦しんで死ね。
身体を引き裂かれて死ね。
仲間に裏切られてから死ね。
絶望して死ね。
身体を虫に食いちぎられながら死ね。
体に針を無数に突き刺されて死ね。
豚に食われて死ね。
豚の糞で窒息して死ね。
火で炙られて死ね。
出血多量になって死ね。
絶望してから死ね。
正義なんてないと分かってから死ね。
罪なき人々を殺して、斬首刑にされて死ね。
口から泡を吐いて死ね。
煙で喉が焼け焦げて死ね。
頭に血が上って死ね。
精神に異常をきたしてから死ね。死んでも尚死体を嬲られろ。
溶岩の中に埋もれて死ね。
樹海で一人迷って死ね。
……──死ね。
「──ははははははは??はは、はははっ?はは……はは、は。……っ、はは。……ははは」
目の前がぐちゃぐちゃだ、思わず、ゲロを吐いてしまった。……地面に漂う、酸っぱい匂い。私はそれを嗅ぎながら、笑った。
「……どうして、こうなっちゃったんだろぅ……っ──……〜??」




