070_幸せが欲しかっただけなのに。
001
「──、。──、────……!」
『ぁ、えと。………っ、は、。……?……ぁ』
「──ね、────大、。──!──!」
「──、──────、──『大丈夫……!?』
目が覚めた。まるで、長い微睡みの中にみたいだった。
……私は今、何をしていたのだろうか。目の前を見ると、椅子に座り、机の上に置かれたクラムチャウダーと、半分に分けられたカスクートが見えた。
視線を上げると、そこには、何処か不安そうな目線で、此方を見詰める老夫婦の姿が。私が、いつもとは違う事を察したのだろうか。
一つも口の付けていないクラムチャウダーの、甘い香りが私の鼻を掠めるのと同時。
「大丈夫?貴方、随分と体調が悪そうじゃない。顔色も、悪いわ。風邪なんか引いてしまったら……!私の家は、医者に行けるお金何て無いわ。大丈夫?もし、体調が悪かったら言って。勿論、無理をせず、今直ぐに!」
「……今日、薪を小脇に抱えて、持って行く時からそうだったではないか。やはり、外の瘴気に晒されて、風邪を引いたに違いない」
──その言葉と共に、目の前のクラムチャウダーと、カスクートの乗った皿が戻された。
手に握られたスプーンが、カラン!と大きな音を出して、床に落ちる。
はっ、とした私は、すぐ様拾おうと腰を下げる──が、それは老爺に止められた。次に、老爺は「もう、奥の部屋で寝て来なさい」と一言。
……「違う」そう言いたかったけれども。
私は、一口も食べられなかったクラムチャウダーの香りを、胸にそっと抱きながら。静かに、部屋のドアノブに手を掛けて。部屋の中へと戻って行く。
……見なくても分かる。背中に刺さる、心配と同情の籠った眼差し。
私の、頭から離れないのだ。あの、先生と呼ばれる、忌々しくも儚い、狼の姿が。
「あぁ、……っ。ぐ、ぅ。……うぅ、う」
明日の朝飯は、唯の粥になるだろうか……いや、私に明日なんてないんだと思う。私は、ベッドの端で、顔を疼くめ縮こまった。
いつもは日差しが気持ち良くて、全開に開けている窓のカーテンだって、今日は絶対に開けない。外は明るいが、その日差しが、私にとっては途轍も無く、眩しいのだから。
──嫌だ、死にたくない。私が先生の元に戻れば、この善良な老夫婦は死ぬだろう。
死ぬか、死ぬよりも壮絶な苦痛を味わうか。そして、「お前のせいだ!」と、私を責める。
いつだって、私は悪者だったんだ。裏に居る、私の身体の操り糸を手に取った奴が、私を操って。それによる批評は、全て私が背負わなくちゃいけない。
それに人形師が、変えの効く人形を粗末に扱わぬ訳が無い。
躾と称して、鞭を与えるサーカスの道化師と同じだ。私は、ずっと支配されている。
……ああ、あの時の私の言う事を、聞けば良かったのかもしれない。あの忌々しい言葉を嘆く彼女の言葉に従って居れば、私はこうは成らなかっただろう。
『後悔しても、もう遅い』。彼女の放った言葉が、私の心を抉るのだ。
『──ほら、言ったろう。私の言葉は、やはり合っていた。ヴェルギリウス、君はやっぱり、私が居ないと駄目だなぁ。巣立ちしてまも無い鳥が、口を開けば餌が来ると思って居るのと同じ。間抜けで、何も知らない馬鹿』
クレヨンで、子供が塗り潰した様な絵が見える。所々、枠線からはみ出して居る所があるが、今はそんな事等どうでもいい。
……彼女は全てを知って居るかの様に、私の頭に手を添えた。
居る筈の無い彼女の息が、ほわっ、と私の首筋に。私は一人、悲しさに喘ぎに嘆いた。
私は今、一時の幸せの為に、全てを投げ出した事を後悔している。少女の温もりが、生暖かくて。私の心を酸化させる……。
『よーし、よーしっ。そう、泣かないで、ヴェルギリウス。君はやっぱり、巣立ちするにはまだ早過ぎたんだ。巣立てば、自ずと危険が待ち伏せる。親鳥の恩恵や慈悲を、もう味わえなくなっちゃうんだ。ずっと、幸せな夢の中に居たいだろう。だが、それは無理だ。ならずっと、殻に籠る方が幸せだろう?』
自問自答の繰り返し。頭の中の、もう一人の自分と会話をして居る様な気分だ。自分が質問や、苦痛の旨を伝えれば、少女は必ず答えてくれる。その答えが間違っていようとも、私には分からない。
だから、全てを投げ出す事にした。もう、何も考えたく無い。
考えた結果、直ぐこれだ。全てが、彼奴によって壊される。カルメ◇の時だって、感傷に浸っていた私を、奴は溝の中に沈めた。
全部そうだ。私が何かやろうとしたら、全て先生が壊して行く。だから、私は怖いんだ。
少しの幸せを願っただけなのに。何故、私はこんな目に遭わなくてはいけないのか。
私は何故、のうのうと呑気に生きて居る野郎共を背に、こんなにも苦しまなくちゃいけない。
『ああ、可哀想なヴェルギリウス。……私──いや、俺は嬉しいよ。ああ、お前がこんなにも苦しんで居るだなんて。これで、俺はまた死に近付ける。……〜っ、ああ〜〜。興奮して来たじゃないか。っ、くふふ、ははは!』
少女の姿が消えて、目の前に忌々しい狼の姿が現れる。いつもの、人を小馬鹿にする様な笑みを浮かばせて。ケラケラとまた、私を罵って。
──「苦しい」。私がそう叫ぶと、奴は嬉々としてその口元をつり上げるだろう。
此奴は、私の事を便利な道具としか見ていない。そして、表情を楽しむ玩具として、奴はまた存分に、私を虐め倒すだろう。
殺さず、ましては生かさずに。殺さず生かさずの合間。最悪の地獄を味合わせるのだ。
私だけが、こんなに苦しんで。私だけが、こんなに悲しんで。慈悲も救いも無い世界。救いが見えたのかと笑えば、総じて苦痛が待っている。私には、苦痛しかありません。
私には、心を通わせる仲間は居ません。
私には、溝底の鼠の餌がお似合いです。
私には、幸せ何て似合いません。
私には、いつも絶望が付いています。
私には、何も有りません。
私には、空っぽの瓶しか有りません。
繰り返し、繰り返し。幸せになって、それ以上の絶望を味わって。その、繰り返し……。
『お前には何も無い。失敗作の阿婆擦れが。幸せを望むなんて、身の程知らずも甚だしいな。……さて、お前は、あの森奥の。老婆の家で何をされたんだっけか。肉親の血肉を味わって、それから。お前は何をした?──ああ、俺は臭いでしか人を判別出来なくてね。お前があんなに幼いと、全く分からなかったんだよ』
「嫌だ……っ。辞めろ、死にたぃ。……嫌だ、嫌だ。……ッ。その話は、するな……ぁ??」
『さあ、あのお遊びのお話を、もう一度俺に聞かせておくれ。──俺は知っている。全てを暴かれたお前が、どんな顔をするのかを。……あの時の顔は、随分と傑作だったよ。生を諦めて、だが、その感覚に身を委ねて。そして、身を襲う嫌悪感に眉を歪ませて、ぐちゃぐちゃに咽び泣く……』
死にたい。思い出すだけで、吐き気と羞恥の感情が私を襲うのだ。「はっ、はっ」と、息が荒くなる。
全てがぐちゃぐちゃになって、顔も、あの時よりも歪んでいると思う。
心の底から、言葉では表現出来ない様な感情が、押し寄せて来るのだ。私って、きもちわるぃ。どうして、こんな風になってしまったのだろうか。今は唯、目の前の男が憎い。
「……っ、全て、お前のせいだ──……っ!お前が、私の全てを奪ったんだ。ッ。だから、私は、あんな目に遭ってしまった。……今は唯、お前をぐちゃぐちゃに殺してやりたいっ」
『ああ、出来るならそうしてくれ。それに、全て他人のせい、か。無責任の集合体だな、他人に全てを押し付けて、生きて居る塵めが。あの時、お前は俺に言ってくれただろう?「お前を殺して、私も死ぬ」──と。もう、忘れてしまったか?俺はあの時、言葉にァ出来ない高揚感に襲われた。俺の運命を、変えてくれる奴が現れたから。俺だけの、壊れない玩具。それだけで、俺ァ嬉しかったよ』
「黙れ……っ。黙れ黙れ黙れ黙れっ……ッ!!」
喉奥から、きゅう、と締められた声が捻り出る。「げほっ、げほっ!」そのせいで咳き込む私を背に、私の生み出した先生は、笑っていただろう。もう、想像しただけで分かる。
……私は、ベッドから静かに立ち上がった。自分でも、何がしたいのかが分からない。
『さて、お前はどうする。この幸せを、どうやって自分の手で収めるんだ?』
そう言って、先生は私の頭をそっと撫でた。




