066_後悔を胸に抱き、人は成長するのだと。
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あの日から、何日経過しただろうか。勿論、老夫婦とは顔すら合わせていない。
偶に、部屋の前に置いてくれる食べ物を食べて、時間をぼーっとして潰す。それだけ。……だけど、私はそんな怠惰な時間より、夜が嫌いになった。
今夜も、ずっと寝られなかった。ずっと、異様に白いベッドスーツの上。端に蹲りながら、今にも消えそうな蝋燭の灯火を横に、何度も閉じたカーテンを覗き見る。
誰か居るか、心配になるから。林の隙間に佇む、先生の姿が容易に見える。そして、私はそれが現実になるのが怖いんだ。
奴は、鼻が良い。私の居る場所何て、積木を三つ立てる様な物。赤子の手をひねるに等しいお遊び。
サワサワ、カサッ。微風が靡き、木々が揺れ動く音だけでも、私の肩が跳ね上がる。そして、カーテンの隙間から外を覗くのだ。ずっと、それの繰り返し。
……前に、聞いた事がある。戦場から何を見てきたのか。戦場から帰還したした軍人や、支部職員やらは、総じて全員、何処かおかしくなるらしい。
──例えば、見えない様な幻覚が見えたりだとか、心に負った深い傷が、現実にまで現れるんだとか。
私は、歪な傷だらけの手で、両耳を塞いだ。けど塞いでも、聞こえてくる。数々の記憶の断片や、聞こえもして欲しくなかった声が。
『ねえ、ヴェルギリウス。私ね、貴方にも一緒に死んで欲しかったなあ。君だけ生きててずるいよ、私なんて、生きる事すら出来なかったのに。どうして、ヴェルギリウスはそんな苦しいフリ何かしてるの。私の方が、余っ程苦しいのになあ。死にたくなかったなあ』
雀斑、金色の髪、欠けた乳歯、その全てを透き通す瞳。メアリーはこんな事を言わない。
分かってるのに、聞こえてくるから……!
『どろっどろに溶けちゃえば良いのに。君には分からないよね、突起した内臓が、段々雪に沈んで行って。真っ赤になるの、そして、指先の感覚から無くなって……。溶ける様に、死ぬ。死んじゃえよ、死んじゃえ。生きてる価値何て無いのに、何一丁前に生きてんだよ。迷惑を掛ける位なら、さっさと死ね』
蝋燭の灯火も向こう。メアリーの顔が見える。蝋燭の火が揺れるのと一緒に、メアリーも揺れ動くから。……私は、耳から手を退けて、向こう側へと手を伸ばした。
手に入らない。……いや、手に入らないからこそ、こんなにも美しいんだ。私は醜い、死にたいけど、心の底では人一倍生きたい。自分勝手な欲望が、他人を蝕んで行くから。
『君ならば、どうしたでしょうか?ヴェルギリウスは、死んでも天国には行けないよ。地獄か、そのまま豚にでも転生するんじゃない。だって、君は悪いから。あの人と同じで、膨大で、醜くて、欲深く、悪い。逃げ様とするな、救いを求めるな。救いを求めて良いのは、聖人君子か人間だけだ。君は、君子でも無く人でもない。唯のお、馬、鹿、さんっ』
メアリーに手が届いた。
──そう思った時には、もう、蝋燭の灯火は消えていた。いや、私がこの手で消したのだと。
手の平に、火が消えたばかりのマッチが、押し付けられた様な感じ。手を戻し、痛む傷口を指で擦る。
「……………………ッ、ちぃ……?」
火傷していた。けど、元々から真っ赤で、傷だらけの手だもの。そんな、小さな傷は目立ちすらしない。……ふしゅ、っ。
もくもく、と、煙があがって行く。灰色の煙だ。先程の様に、掴めもしない灰色の、煙。
もう散々だ。もう、この世の何処にも居たくない。死んでも楽になれない、かと言って生きるのも辛い。……ああ、そんな事を考えては駄目だ、ヴェルギリウス。
──カリカリ、ッ。黒色の、布眼帯を爪で削った。
人が、指のささくれを千切る様なもの。何かする為、安心する為の行為。
「……糞が、糞がっ…………。死ね、死ね……。どうして、私ばかりがこんな目に……っ」
口から出たのは、聞くも無惨な弱音だった。
誰にも言えなかった。吐けなかったから、この世へ恨み言を呟く。
君の事が、世界で一番憎かった。
『へえ、そうやって言い訳ばっかり言うんだね。死んだ私達に、申し訳無いと思わないの?みっともない。下衆も、此処まで落魄れれば、最早化物だね。その醜い顔は、何処で洗えば元に戻るのかなあ。薄茶色に汚れて、傷だらけの体は、誰に何をされて、そんな風になっちゃのかなあ。……ねえ、私に教えてよ。私、ぜーんぜん分からないんだっ』
「だ、っ……まれ。……黙れ、っ。黙れ黙れ」
キィ、ッ。部屋の扉が開いた。だが、何も分からない。何者かが、私を罵って来る。そんな言葉ばっかりが、聞こえて来るから。
分かっている癖に、糞が。ああ、爪を噛みたい、眼帯を爪で抉りたい、ささくれを捲りたい、歯軋りをしたい。だけど、出来ない。
爪は深爪で、もう噛めない。眼帯も、もう傷付けたくないから。ささくれは無い。あるのは、醜い体だけ。歯は欠けていて、満足出来ない。……なら、どうしろって言うんだよ。
『自分でも、分かってるんでしょ?逃げてばっかりじゃ駄目だって。……自分じゃ、あの人を殺せないって。けど、分かってるけど、やらなくちゃいけないんでしょ。オズヴァルドに聞かれた時は、図星で殴っちゃったよね。あの時は本当に、惨めで笑っちゃった。木陰で、あの人も同じく笑っていたよ。君の事を、皆が笑い者にする。嗤うんだ』
「……ぁ゛っ、あ、、。……っ、嫌だ、辞めろ」
『そんな君は、本当に惨めだよ。過去はね、消せないんだ。何度後悔しても、懺悔しても、所詮は唯の戯言だ。何も分からない、何も無い。何も残らない。一丁前に生き抜いて、それで見せたのがその姿。人一倍生きたい癖に、死にたいと願っている。どれもこれも全部、お前が招いた事なのに。お前があの時、あの人へ向かってああ言わなければ、こうなっていなかったのに。全ては、お前が作り出した。──自分で作った世界から、また逃れ様とするのかい?ヴェルギリウス』
煩い、黙れ。死ね。何がだ、何も分からない癖に。
私の事を散々、嗤いながら囁きやがって。糞が、そう言う所が嫌いなんだよ。お前には、死んでも死にきれない程の苦痛を味合わせてやる。私を嘲笑った罪だ。お前も罪を背負うべきなんだ。
私ばかりじゃ馬鹿みたいじゃないか。お前らも平等に、私と同じ舞台に立って来て見ろよ。泣き叫べ、命乞いをしろ。
『……──ああ〜、ヴェルギリウス。俺は、そんな醜いお前が愛おしいよ。もっと、俺に依存しろ。俺無しじゃ、生きられなくしてやる。忠順な犬になって、俺を殺して、死ね。それで良いじゃないか。これで、お前は死ねるし俺も死ねる。互いに搾取され、搾取し合う関係。お前は、俺の玩具なんだから──』
「──ッ、ぅ゛。黙れ!!!!!!!」
『っ、ふふ。ざまぁねぇな「っ、きゃあ!」
先生から、そんな女々しい声が聞こえた。
ナイフを壁に突き立て、押し遣り相手の顔を覗き込むと……そこには、老婆が居た。そうだ、先程の言葉は彼女の声掛けだったのだ。
幻覚に、幻聴。全ては、私の作り出した世界……。はは、乾いた笑みしか出せないさ。
私は急いで奴の首から手を離す。
──老婆は私が首元から手を離したのを見て、ケホケホと咳き込めば。此方を見て、また、痰の詰まった嗚咽を。
ああ、私は何て事をしでかしてしまったのだろうか。抱えきれない程の罪悪感で、胸が埋まった。こんなにも、私に良くしてくれている人なのに。
……一瞬、奴の顔に見えたからって。自分の身勝手な言動に反吐が出る。
だが、信用はしたくないし、好きにもなりたくない。どうせ、崩されるんだから。
だが、そんな私の心情を察してか。老婆は、静かに蝋燭に火を付けて。地面を眺めながら、服の裾を握り締める私の手元へ、そっと手を添えた。私の手からは、血が滲み出して居ただろう。
しかし、何一つ。顔色変えずに、彼女は私の手を握ってくれた。
歳を重ねた女の手。皺だらけで、だけど、何処か安心感がある……。
「貴方に何があったのかは知らないけれど、私達は何もしてあげられないけれど。……これだけは言える。私達は、貴方の敵じゃない」
「……その証拠が、何処にあると?皆そうだ。私の敵で無くとも、私に深い喪失感と絶望を味合わせて、そのまま死んで行くんだ」
私の姿は、まるで拗ねた子供の様だったと思う。だけど、彼女はそんな私の顔を、腰を屈めて覗き込み。──優しい、嘲笑等は籠っていない顔で、笑った。……笑ってくれた。
そして、私の頭を撫でながら。まるで、小さな子供をあやす様に。
「何があったか、言わなくても良いから。私達に、貴方の言いたい事だけを吐き出して。大丈夫、何も言わない。何もしないから」
「…………………………」
先程の物音を聞き付け、老夫婦の夫の方も、片手に蝋燭を握りながらやって来た。だが、老爺の方も、私の姿から察したのか。
何も言わずに、老婆と共に、静かに話を聞いてくれた。……部屋内に数分、静寂が流れた。だけど、彼等は私が口を開くのを、ずっと待ってくれた。
信頼はしていないけれども。少し、言おうという勇気が貰えた。
口が震える。目の前に、カルメン達の姿が見える。
笑ってる、嫌だ、またあの様に成りたくない。……だけど、私は、今言わなくてはいけない。今言わなきゃ、駄目だって。
「怖い、お前らと共にするのが怖い」
「「………………」」
「私は、幸せになるのが怖い。幸せになるって事は、次にそれに見合う不幸が来るって事だう?……永遠に続かないからこそ、人々はそれを幸せと呼ぶんだ。だから、もう幸せになりたくない。適当な、不幸の渦に飲まれて生きていきたい。どうせ、何も変わらない」
昔の私なら、此処で言葉を区切っていたかもしれない。だけど、今の私は違う。
「………………けど、変えたい。私は、こんな自分を変えたいって、思ってる。……先に言っておくよ。私は、お前達を信用しない。だけど、えっと。……ごめん、なさぃ」
それだけは言いたかった。謝罪の言葉、久々にこの言葉を使った様な気がする。
その日は、ぐっすりと眠れたよ。それはもう、親の近くで、子羊が寝る様に。
──そして、それからまた時間が経過した。
私は、窓から差し込む光で、いつも通り目を覚ました。小鳥が鳴いている。何とも、清々しい朝だと言うのか。
ベッドから立ち上がり、見えるは部屋の扉のみ。……心臓の鼓動が鳴り止まない。だけど、此処で行かなくちゃ、一生後悔する気がする。私は、成長しなくちゃいけない。
……また、物申す少女の声がする。
『ねえ、本当に良いの?ヴェルギリウス。その先には、君を苦しめる事しか無い。血塗れの絨毯に、笑い声。何も見たく無いだろう。なら、その手を離すんだ。後悔するぞ』
ドアノブを握る手が震えている。
『何度も、何度も。誤ちは直らない。過去は消えない、だから、もう辞めにしようよ。そのまま、いつもの様に寝よう。勝手に、部屋の前に飯は置いてくれるだろう。……なあ、ヴェルギリウス。お前は、本当に行くんだな』
「……ああ、行くよ。私は、いつまでもいじけたままでは居られない」
心の中で、そう呟いた。
それを聞いて、背中に居る何かは、私に聞こえる様な大きな溜息を。……そして。
『また、後悔したいのか。血塗れになって、地面に倒れる屍をもう一度見たいと。その場の感情で、後の全てを決めるのか。それじゃあ、身勝手が過ぎる。私は、お前の為を思って言っているんだ。私は、お前自身なんだ。再度言う、お前は後から必ず後悔するぞ。……それでも、良いんだな』
「ああ」。私はそう言う様に、ドアノブに体重を掛け、遥々と部屋の外に出た。
目の前のリビングには、珈琲と新聞片手に、此方を見て驚いている老爺が一人。そして、片手に豚肉の燻製……ベーコンを持っている、老婆の姿もあった。少し、気恥しい気もした。
『……良いんだな。後悔するなよ、お前さん』
「ぁ、えと。……その、ご老体では、些か井戸の水を汲むのは辛いだろう。……わ、っ。私が、汲みに行って……いや、行かせて欲しい」
鼻に薫、珈琲とベーコンの香り。そして、見えるは白黄色の目玉焼き。私はその日、久々に人と対面で食事をした。その日の会話は、随分嬉々としていただろう。
──これは、私が此処に来てから、ざっと一ヶ月経っての出来事である。




