050_故郷へ帰還した老い耄れ。
003
彼の頭は本で読んだもろもろのこと、例えば魔法、喧嘩、戦い、決闘、大怪我、愛のささやき、恋愛沙汰、苦悩、さらには、ありもしない荒唐無稽の数々からなる幻想でいっぱいになってしまった。つまり、書物の中で展開される、こうした仰々しい、雲をつかむような絵空事が彼の想像力の首座を占め、その結果、騎士道物語の虚構はすべて本当にあったことであり、この世にはそれほどたしかな話はないと信じこんでしまったのだ。
──ドン・キホーテ前篇(一) 第一章──
……腕が痛い。重い瞼を無理矢理上げ、ズキズキと心臓の鼓動と共に脈打つ腕を見てみると、血の滲んだ包帯が巻かれている。
どうやら、誰かが私の腕に鋭い刃を当てて、この腕を傷付けたらしい。腕に巻かれた包帯には、血が滲み出している。
私が体を動かそうとすると──……動けない。背の方へ目を向けると。手錠で両腕を縛られて。突き刺された鉄のポールに、それを通されて居る様だ。芋虫の様な動きしか取れない訳である。
「……っん、は……ッ、てぇ……!」
「っ、起きたか、ヴェルギリウス。──ああ、その腕の傷は、その……とある細工をする為に、お前の血が必要だった物で。少し強引な手で回収させてもらった」
私が腕の痛みに顔を顰めるのと同時に、ユダは此方へ気が付いたのか、薄暗い地下室内。木製の椅子から立ち上がると、そのまま私の元へと駆け寄って。だが、私はそんなユダを、仇の様に睨み付ける。
──その私の視線を見て、ユダは少し表情を曇らせる。
「……お前らは、何をしようとしてるんだ。この糞野郎ッ!……っ、畜生、そんな顔するなよ。私が辛くなる、さっさと、その見るだけで吐き気のする顔を引っ込めろッ!」
私は、反吐を吐く様に、そうユダへと吐き捨てると。ユダは、「名前で呼んでくれなくなったんだな」と一言、そう虚しそうに呟けば。
身体を何度ももどかしく動かす私の隣。冷たい地下の地面に座り込めば。
「今まで、私が積み上げた関係も、これで終わりだ。終わってしまったんだよ。もう、苦楽を共にした私は居ない。私達は、崇高な目的を達成する為に、お前らの命が必要なんだ」
「……っ、崇高な、願い……ぃ?」
『崇高な願い』と言う部分に、反応を示す私を横に。私と少しでも長く、話をしたいのだろう。ユダはゆっくりと、全てを話し出した。
「我々の目的は、『この世界を変える』事。その為には、事務所なんて小さな力じゃ駄目だ。童話世界全体に、名が知られなくてはならない。だから、我々は長年空席の第五支部、フィリポの席に目を付けた」
──どうやら、ユダ達は『世界を変える』と言う目的の元。その目的を達成する前段階として、我々童話殺しの首を刈り、支部長の座まで成り上がるらしい。
「……っは、まるで子供の描いた絵の様だな。そんな荒唐無稽な夢は、直ぐに終わるぞ。それに、私の首を刈ってどうする。……童話殺しの素顔や素性は、世間一般に公開されて居ない筈だ。受け入れられるものか──」
「受け入れられるさ。……お前らは、何で自身の素性や服装が、世間一般に公開されないと思うか?目撃者が全員死んでいるからか、他に偽物が居るからか。……いいや、違う。──皆、お前らの『報復』を恐れているからなんだよ」
「報復?」掠れた声でそう言い返すと、ユダは「そうだ」とハッキリ呟けば。そのまま、虚しそうに。明後日の方向を眺めながら。
「お前らの服装や顔を見た人は、少なからず存在している。だが、そんな目撃者は全員、口を揃えてこう言うんだ。『何も知りません。何も分かりません』って。……目撃者とされる者の年齢の大半は、十二歳から二十四歳前後」
この問題には、まだ幼いが故の『精神的』な原因が挙げられるらしい。
「先ず先に、老人は逃げ遅れ炎に巻かれて死ぬ。そして親世代は、家族を庇って死亡するケースが多い。──親を目の前で殺され、逃げ仰せた子供や若者には、何が残ると思う?」
「……せ、ぃ神的……な、ショックか?」
「そうだ。逃げ足の早い若者や、親に庇われ逃げた少年少女の幼き心には、酷くショッキングで、衝撃的な光景だっただろう。それは、『トラウマ』となって残るのだ」
トラウマ、肉体的又は精神的な攻撃により、それに長く囚われてしまう病の事である。
「故に、彼らはこう思うだろう。『この話を言えば、彼奴が報復として来るんじゃないか?』『素性を明かせば、奴らが復讐しに来るんじゃないのか?』と。あまり情報が公表されていないが故に、そう思ってしまうんだ」
「……なら、尚更。どうやって私達を童話殺しだと認識させる……っ?」
「簡単だ。人と言うのは、誰かが名乗り出れば、それに群がり集まる生き物。故に、私がお前らの首を掲げれば、恐怖から解放されて、彼らは揃って口を開くだろう──」
そう言い終わると、ユダは「まだ時間はある」と言い。……最後まで私と話を続ける様だ。
……ユダと出会ってから、数ヶ月。本当に色々な事があった。最初はユダを信用して居なかった私やオズヴァルド、先生も、段々とユダを信用して行く様になって……。
よく、ユダが何かをやらかし、先生に怒られて居た様な。
「──……そんな事も、あったな。ふふ、今や懐かしい思い出だ。まるで、荒唐無稽な夢を聞いている様だ。実に、懐かしい」
そう、他人事の様に語るユダの姿が忌々しい。それに、自分も殺したくなる。──まだ、目の前の裏切り者を殺せぬ生温い情に溢れた自分が、憎たらしいよ。殺したいよ。
……今はユダ、お前が憎いよ。
私が試行錯誤、何かこの手錠を抜け出そうとしているのを見て、ユダは少し黙り込むと。
「無駄だよ、諦めな。この世に、魔法や希望なんて物は存在していない。現実逃避も甚だしい、それこそ、荒唐無稽な夢の様だ──」
と、その時。地下室がズンッ、と揺れる様な感触と共に、パラパラと埃が落ちて来る。爆発だ、下の何処かで、何か爆発が起きたのだろう。ユダはその爆発音を聞き、「早いな」と呟けば。手に、『コキュートス』と刻まれた大剣を握り締め。
「ありがとう、ヴェルギリウス。さようなら」
そう、最後の言葉を言い残した。
──ッ、ドゴン。




