036_隣人を疑え、葛藤と苦悩。
004
──第一支部所属、ペテロ。彼女は、支部解体に伴い、死んだ友人であるマタイの支部部屋へと足を進めていた。
……家に帰ると、マタイが来ると思い、張り切って買ってきた、冷めた料理が待っているのだろう。そう考えただけで、自分が滑稽に思えて来る。
ペテロは、靴音を廊下内に響かせて。家にある冷めたチキンについて、思いを巡らせる。それに、パーティー用のポテトも追加で入れておこうとした自分が馬鹿だったと、そう心の中で呟けば。
「……畜生、畜生……っ」
口からは、耐えず恨み言が吐き捨てられて。
それに加えて、あの腹が立つヨハネとも対面した。散々な一日だと、ペテロは今日と言う日を呪う。しかし、声には出さない。
そして、入りたくない、マタイの支部室の目の前へと佇むペテロ。……少し息を整える。
支部長専用の部屋は、その者が信頼を寄せる者、もしくは同じ位の支部長や、上層部のあのお方でしか入れない聖域。故に、プライベートな空間なのだ。
彼女はまた、息を整えた。マタイが死んだと言う、真実を受け止める為に。
だが、思い出したくもない記憶が、ふつふつと湧き出る様に湧き上がって来るのだ。
『───。美味しいチキンを用意して待っていてよ。あ、チキンはあのお店が良いね。ほら、昔一緒に食べに行った所さ。チキン・ボンランって所のね』
「……………………っ、糞……っ!」
ペテロの心の中に響く声。それは、マタイ本人であった。かつての、今や懐かしいと思えてしまうそんな記憶。ペテロは、支部室の扉の取っ手を握り締め、歯を食いしばる。
『───。私は拷問が好きだ。君も、何かあったら拷問してあげるから、いつでも相談に』
『はっ、狂ってんのかお前はっ。それに、私はいつ、如何なる時でも弱音は吐かぬ。相談等、懺悔と同等だっ!』
「……………………っぅ゛……ぐっ……!」
血が出た。歯を食いしばり過ぎて、歯茎から血が出て来たのだ。……とある日の、酒場での思い出が蘇って、ペテロの心をさらに傷付ける。
懺悔等とほざいた自分を、殴り殺したくなった。今やその思いは砕け散り、罪を思いっきり全て吐き出したい。
『懺悔も立派な選択さ、──ペトロ。……けど、私は君の苦しむ様よりも、こうやってねっ』
ペテロは、本当に信頼している相手には、自身の本当の名前である『ペトロ』と言えと告げていた。そして、酒場の記憶は続く。
マタイは、態と男らしく振る舞うペテロの内心を透かす様に。彼女の髪にそっと触れ。
『ペトロがこうやって、普通に笑っている様を、それよりも多く私は見ていたいんだ』
『なっ──?!』
「……っ!く゛そぉ゛っっ!!」
それが、ペテロがマタイを好きになった瞬間だった。彼の前では、彼女は女として居られた。
……故に、今日と言う日を、楽しみにしていたのかも知れない。
部下の為に、態とリーダーらしく振る舞う偽りの自分を、その時だけは、無くしていられたから。
『──ペトロ、次は何処に行こうか。……ふふっ、頬にジャムが付いているよ』
「……っ、ふぐっ……っ!!?」
だが、ペテロは受け入れなければいけない。
マタイが死んだと言う真実を。そして、遺品整理という名の地獄を味合わなければならないのだ。好きだった相手の遺品を、この目で確りと焼き付けながら。
『────ペトロ、お酒作るの上手いねっ!……こんな汚仕事辞めて、私と一緒にバーでも開こう。うん、そうしようっ!名前は何にしようか……っ』
「……辞めてくれ、もう喋るな。……マタイっ」
『──ペトロっ!今日は君の誕生日だろ?ほら、これ。前に美味しそうって言ってたマフィンなんだけど……っ』
「っふーーーっ。……あぁ、落ち着け私っ。過去に囚われるな、厳格で厳しくあれ……っ!」
マタイが、ペテロの名前を呟くのと共に、ペテロの心は段々と、壊れて行く。好きだったから。
──実を言うと、今日。しっかりとマタイへ自身の思いを告白しようと思っていたから。家に、隠れて買って来たテッセンの花束を置いていたから。
思いを、然りと伝えようとしていたから。
家には、一人では食べ切れない量の冷めた豪勢な食事と、意気揚々と生きる花束が置かれてあるのだろう。
電気は付いていない。ただそこに、あるだけだけど。
『────ペトロ、それ、何?……あ、今日、私の誕生日だから……?っ!本当にくれるのかい?!な、何か悪い物でも食べたのか!?』
「……ぁ、あ゛ぁ……っ。あ゛ぁあ゛っ……?」
『──ペトロ、もし、私達がこの仕事を辞めるまで生きていたら……縁起が悪いけど、しっかり聞いて。……一緒に喫茶店でも開かないか?料理は君の手料理でさ』
ペテロは思いを募らせた。……確かに、マタイは私の料理を良く褒めてくれた。
そして、態と傲慢で厳しく振る舞っていた私の本性を見抜き、本当の私と接してくれた。だが、そんな彼は、もうこの世には居ない。
ただ、幻影と化した彼の声が。淡々と脳内へ響くのみ。それも、特別な私の名前だけ。
『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』『ペトロ』
「く゛そがあ゛ぁ゛ああ゛ぁ゛ああ゛ぁ゛あああか゛ぁ゛あ゛あぁぁあ゛ああ゛ああぁ゛あああ゛ぁあ゛ぁ゛ああああ゛っ!?!???」
ペテロの、厳格で傲慢な、他人と自分に厳しい彼女の殻が破かれた。──ペテロは叫んだ。マタイの追悼と、自身の弱さに絶望し。
そして、開かれた部屋の扉。……その部屋は──真っ黒だった。まるで、今のペテロの心を表す様に。白一つなく。天井までも、一面黒く塗り潰されている。
そして、不気味にも佇む一つの本棚と、真ん中にはエグゼクティブデスクと革製の椅子がポツリ。
「……お前は……っ。悩んで居たのか……?部屋一面が真っ黒じゃないか……??」
放心状態のペテロは、一歩一歩、噛み締める様に歩いて行く。そして、その手が壁に触れた時。ザリッ……妙な感触が、ペテロの手元を襲ったのだ。
ペテロは咄嗟に手を引き、自身の手元を眺めると。
手元は、真っ黒に染まっていた。そして、よく見るとその壁にはムラがある。小さなムラが何個も。何個も。
「まさか──!」。放心状態のペテロは急いで心を整理し、壁へ目を近づける。
「……──なんだこれ。……全部、数式……?」
ペテロには数学が分からない。しかし、奇怪な程に書き込まれた数字の数々を見るに、そうとしか思えない。
……この部屋の壁、床、天井一式全て、気難しい数式なのだと馬鹿なペテロは理解した。だが、それと同時に、ペテロの頬は釣り上がり、笑みを浮かべていた。
しかし、それと共に。やるせない涙も少量。
「くははっ。……確かに、お前はそういう、少し頭のネジが外れた奴だったよ……っ。……度し難い、度し難いぜ、マタイ」
思い出に耽り、ペテロは涙する。
目元からこぼれる涙は、まるで世界に堕落した騎士を思い出させる様な。
……そんなペテロは、ふと机を見ると。机の上に置かれた、一通の紙切れを見つけ。
「マタイが何か、私に残してくれたものかもしれない」。彼女は目元の涙を拭い、近場に寄り紙切れを持ち上げる。
何故、彼奴は此処に一つだけ紙切れを置いていたのだろう。仕舞い忘れたなんてヘマをやらかす様な奴では無い。ペテロはそう思う。
そして、メモ紙を捲り、裏を確認する。
だが、次の瞬間。ペテロの目元が固まった。
「……『我々が崇める、あの御方を疑え』……?」
周りを黒く乱暴に書きなぐられた部屋の真ん中に、マタイの筆記である丁重な文字で、そう書かれていたからだ。あの御方、我々が崇め奉る、この支部全体の設立者。
支部所属の人間、ましては、特に信仰心の強い支部長だ。そいつが、こんな馬鹿げたメモを残す筈がない。勿論、私もそんな冗談は死んでも言えないだろう。
「……いや、ヨハネの派遣に。……異様なまでの支部解散の速さっ。……何かが、我々に悟られぬ様、何かが隠されて────」
次の瞬間、扉のノック音と共に、ペテロの肩や心臓が飛び跳ねる。……妙だ。そして、不気味だ。まるで、鳥籠の中で、踊らせられている様な──、そんな感じがする。ペテロは警戒し、紙切れを懐へ隠せば。
「……誰だっ。この部屋への接近は、あの御方や支部長以外禁止されている──」
数秒の沈黙。……怪しいと感じたペテロが、懐の鞭を握────。
「──わたしは、お前達が崇める『あの御方』だ」
そして、その時。一気に部屋内の空気が重くなる。ペテロの冷汗が逆さまに向いた。
ペテロは跪く。扉越しでも分かる、あの御方の纏うオーラや声に圧巻されて。涙が一気に引っ込めた。
「はっ。我らが崇める主君殿。先程の御無礼をお許し下さいませ。貴方様が望むのなら、私は命さえ断ちますとも──」
「それはいい。…………ペテロ、お前と話すのは初めてだね」
心が落ち着く、花畑の様なそんな声。その声に惚れた。
あの御方と会話を混じえただけでも、幸福。昔のペテロなら、涙さえ零していた筈。……だが、今は違う。あの紙切れだ。
今は、少しあの御方を信用出来ないのだ。ペテロは少し眉間を顰め、そう考える。──だが、あの御方はそれでさえも、見透す様に。
「ペテロ、君。何かわたしに隠している事があるんじゃない?」
「なっ──?!」
一気に、頭の中が空っぽになった。嘘?どうして。それに、この手紙……──どうする。あの御方に嘘をつくか?……我々の崇めるあの御方を信じるか、親友であるマタイを信じるか。
ペテロは悩んだ。……だが、答えは。
「『いいえ』。貴方様に嘘など吐けません」
初めて──我が主君殿へ嘘を付いた。
その言葉を聞き、あの御方は黙った。そして。
「それは本当かい?わたしは嘘つきが嫌いでね」
「ええ、『勿論ですとも』。貴方様に、『嘘はつけません』」
あの御方あの御方も、証拠が無ければ何も言えまい。そう思ったのだろう。それと同時に、外で鶏が囀りを。
その囀りが、少しマタイの心を落ち着かせた。……が。
「嘘だ」
その言葉で、全てが崩れ落ちた。何故?襤褸がでる様な事は言っていない筈。いや、あの紙自体が、私を試すあの御方の試験だった?
一瞬にして脳内の思考を巡らせるペテロ。そして、それと同時に、ペテロは圧倒的な殺意を感じ取ったのだ。……死が、近い。
獣の感等ではない。体がそう訴えている。圧倒的な恐怖、世を終える死への恐れ──。
「……ヨハネに伝えた筈なんだけどね。『今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と」
「あ………………………………。──ァ゛ぎ、っ??」
その時。ペテロの首が奇怪な音と共に折れた。まるで、それが必然だったかの様に。部屋内には、鈍い音を立てて倒れる死体が一匹。
そして、消え行くペテロの視界には、自身の死体を丁重に抱き抱える、あのお方の姿が……。
あのお方は、幼げな幼女の姿で──……。
だが、そんなペテロの最期を知る者は、この世で、『あの御方』以外、誰も知る由の無い事だろう──。
何故ならこの世界は全て、あの御方の意のままに。




