大衆空間と自己独立
大衆と私
私は誰か
大衆空間と自己独立空間
引きこもりの方々へ
自決的独立を
なぜ私達は生きているのでしょう。なぜ私達は生きられるのでしょうか。私とは誰なのでしょうか。
私は私であるという証明があなたにできますか?
私は私であるという唯一の認識は知人の視認と証明書だけになる。つまり、国に属しているから私は私であるだけで、何にも属さず誰にも知られずに生きている人間がもしいるならば、私は私である自認は不可能である。
私は知人の視覚を利用した証明による自認は酷く不鮮明であると考えている。知人の感覚による自覚は大衆社会の空間に空いた小さな穴である。大衆社会があり、知人は大衆に属しているが、私は知人からしたら特別であるため私を私たらしめるあらゆる文句を言ってくる。特徴から居住地まで。大衆社会があるからこそ知人がおり、大衆社会があるからこそ特異点として自認させてもらえる。つまり知人による自認は他者評価による偏見にすぎない。
では大衆社会からの独立はいかがだろう。大衆社会を数珠繋ぎになった一つの空間とし、自己は別空間にいる。それならば自己自認が成り立つ。しかし理論的欠陥がある。
大衆社会を別空間とするならば自己空間を認識できるのは自己しかいない。私を私が認識する以外にない。
つまり自分の視覚で自分を確認できる範囲しか自己空間は成し得ない。その小さな空間は大衆と切り離されている。大衆社会のあらゆる雑踏、道化、卑劣さ、残酷さから私は独立し境界線を置いているのだ。
これを突き詰めた世界観、空間認識は誰しもが備えているマイノリティに繋がる。マイノリティは自己認識の権化であり、生命線である。
私が私たらしめることを絶対的に支えてくれるのは大衆一般社会である。大衆社会を大衆社会以外の何者でもないと考えることで、人々の人格を否定し、感情を否定し、大衆という物に置き換えることができる。
目の前にうごめく巨大なロボットである大衆は常に私を取り巻いているが、私と巨大なロボットの空間は断絶されている。
この理論を聞いて欲しい人々がいる。引きこもりと言われている方々だ。
君達の周りに蠢く人間らしき物は大衆という巨大マシンであり、敵対するに値しない。君が引きこもり大衆内で孤立する必要はないのだ。
外出する際に大衆を傍観すると面白い。大衆がより私を強固に動かしてくれる。
雑踏があるから静謐な私がいる。
道化がいるから敢然とした私がいる。
君からしたら私もその大衆なのだが、私は常に自尊自衛独立を心がけている。