リセット。
美風を送り届け、その後どうやって家に帰ってきたのかは、あまりよく覚えていない。
ガチャ……
「おう! お帰り、轢……斗……?」
「……」
リビングにいる叔父貴の横を素通りし、自分の部屋へとふらふらと進む。
カランカラン……どさっ……
松葉杖を無造作に床へ転がし、ベッドに制服のまま倒れ込んだ。
ブレザーやズボンが皺になろうが、どうだっていい。
枕を抱きかかえたまま、ごろりと横向きに寝転ぶ。
………………
ぽたぽたぽたぽた……
身体が脱力した瞬間、両目から静かに涙が溢れ出てきた。
重力に素直に従いそれは流れ落ち、掛け布団が瞬く間に濡れていく。
自分で別れの言葉を切り出したくせに、心がこんな大ダメージを喰らうなんて……想像以上だ。
知らなかった感情、喪失、虚無感。
シミュレーションなんて、まるで役に立たなかった。
目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのはあの瞬間の彼女の顔だ。
驚き……言葉を失っていたな、美風。
本当は、君が怒ってくれると思ったんだ……だけど、美風は……何も言わなかった。
『何、勝手なこと言ってるの⁉︎』でも『分かった……』でも『嫌だよ‼︎』でもなく……何も……。
………………
「……俺は……ほんと駄目だな……」
プルルルルル……ピッ!
「あ? うん、うん……そんなこと言ったってなぁ……あぁ……あぁ……」
たいした厚みもない扉一枚で隔たったリビングでコール音が鳴り、誰かと電話する叔父貴の声が漏れ聞こえてきた。
「そうは言っても……あぁ、声かけられない……え? それは本人達の問題だろ?」
………………
電話の相手……もしかして森羅さん……かな?
いや、自分に都合よく考え過ぎだ。
ごろりと転がり、反対の壁側を向く。
涙で湿った布の感触を耳が感じ取り、その部分を避けるように頭の位置をそっとずらす。
俺達の『お付き合い』、キッカケは誤解から生じた偽物のカレカノ関係。
俺がいつも彼女の隣にいられたのは、不思議好きな彼女の興味対象であり、ただの虫除け役だったからに過ぎない……不釣り合いな二人。
友達以上でも、それ以下でもない……そして俺は自ら恋人役を降りた。
決戦前にこの関係を一度リセットしたくて、別れを予告した。
悪魔になった堕天使から美風を救うことができたら……あらためて、きちんと俺から告白する……つもりだったけど……あの柔らかな拒絶で、俺の心は……折れてしまった……。
これが……失恋、か。
勘違いしていたんだ。
美風が俺のこと、特別な存在だと思ってくれてると……これは、贅沢を願った罰だ。
俺達は……少しだけ秘密を共有した、ただの『友達』……それだけなんだ。
ぎゅっ……
枕を力強く抱き締めて、再び目を閉じる。
ストーカー堕天使撃退作戦、決行は明日。
偽物とはいえ、俺は美風にとっての『今カレ』から『元カレ』になるんだな……過去の存在へと変わる……それでいい。
易々とアイツに負けるつもりは無い……だが、もしも……『相討ち』だった場合……明日、消滅するのは……俺かもしれないのだから……。
最悪の結末を迎えた時、俺の存在が彼女の足枷にならないように……いつだって願うのは、大切な美風の幸せ……ただ、それだけ。
「美風は……大切な『友達』だから……」
◇
「んんっ……」
身を捩りながら、眼球を動かす。
部屋の中は真っ暗だ……いつの間にか眠っていたんだな。
サイドボードの目覚まし時計に手を伸ばし、頭のボタンを一度叩くと、文字盤が蛍光緑に光る。
その明かりでさえ、今の自分には眩しくて思わず顔を顰めた。
……21:30過ぎ……か。
眠りは脳味噌の強制シャットダウン……よっぽど俺の心は疲弊していたんだな。
「はぁ……」
のそのそと、重い身体を起こしてベッドから降り、着たままだった制服を床に脱ぎ捨てた。
片隅に転がる松葉杖を拾い上げ、部屋から出る。
辛くても悲しくても生理現象は通常通りなのが、なんだか少し虚しかった。
◇
ジャーーッ!
トイレを済ませてから、洗面所で顔を雑に洗う。
ばしゃばしゃ……ぽたぽたぽた……
水滴の飛び散った鏡の中に映る自分の顔……げっそりとした頬に、腫れぼったい目、かさかさの唇。
「あぁ……なんて……」
「ひでぇ顔……だな、轢斗」
「……プライバシー侵害だよ、叔父貴」
俺の独り言を途中で奪った彼が、鏡越しに苦笑いを浮かべ立っていた。
「ははっ。洗面所のドア閉め忘れているヤツが言っていいセリフじゃねぇな。それと、下着一丁でウロウロしてんな、風邪ひくぞ」
バサッ!
言いながら、叔父貴は俺の頭に大判のタオルを掛けると、その上からぐしゃぐしゃっと無造作に撫で回してきた。
伝わる体温と柔らかな感触に包まれて、涙腺がまた緩みかけるのをなんとか堪え、一言だけ呟いた。
「……痛ぇよ」
「そういや轢斗。お前、なんも食ってねぇだろ? 腹が減ってはなんとやら、だ」
「……」
促されるままダイニングテーブルに着席すると同時に、電子レンジの音が『チーン!』と鳴った。
漂うソースの匂いは……冷凍焼きそばだな?
俺が起きたのに合わせて食事を温めてくれた、優しい保護者。
食事を前に、両手を合わせて、頭を下げる。
「……いただきます」
「おう、いただけ、いただけ! 食ったら……少し、話をしようか……」
ぷしゅっ!
そう言って叔父貴は向かいの席に座り、缶ビールを開けた。
◇
「全く……お前はすぐ、大切なことを見失う」
叔父貴には、帰り道の美風とのやりとりだけを伝え……そして案の定、呆れた声が返ってきた。
「美風ちゃんのこと、好きなんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、なんで?」
「ちゃんと……こ、こ、こ、告白し直したくて……でも、それも叶わない」
「はぁ……美風ちゃんも、お前自身も……どちらも傷つく選択を、俺は『正しい』とは呼びたくないな」
ダイニングのチェアを傾けながら、叔父貴は頭を上にぐわっと逸らせながら溜息を吐いた。
「なんでそうなるんだよ、ったく……」
天井に向かってぶつぶつと文句を呟く叔父貴の喉元を眺めながら、少しだけ……後ろめたさが頭を擡げる。
明日の作戦内容は……叔父貴に話せないな。
こんな俺でも、もしこの世からいなくなったら……この人はきっと悲しむだろうから……言えない。
また、これも彼にとっては『正しくない選択』なんだろう。
「明日、美風と一緒に出掛けて……そこで『一区切り』をつけるよ」
「……当事者間の問題に俺はとやかくは言えない。お前自身のことだからな。轢斗が考えて決めたこと……まぁ、いっぱい悩んで、たくさん失敗しろ。それが人間らしくていいんじゃねぇ?」
「人間……らしい……か」
ガシャッ!
そう言って、叔父貴は空き缶を片手で握り潰し、キッチンのゴミ箱へと放り投げた。




