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囚われの華凛

 ほんの少しの間、意識を失っていたのかもしれない。

 気がつくとそこは見知らぬ場所で、華凛は起き上がってキョロキョロしてしまう。

 薄暗いところだった。三方は積み上げた石の壁で囲まれており、残る一方の壁は竹で編まれた格子になっていた。それはまるで動物園のオリのようだった。

(オリ?)

 自分のその連想に、華凛は戦慄を覚える。

(わたし、閉じこめられているの?)

 とっさに竹製の格子に両手をかけて力を入れてみるがビクともしない。板張りの天井は低く、手をのばせばもう少しで指先が触れてしまいそうだけど、つきやぶれない。もちろん、石造りの壁は蹴ったところで崩れない。

(ここはどこなの?)

 どうしてこんなところにいるのか記憶をたどった。

(そうだ、あのとき、ヤミチに石を返そうとしたんだ……)

 そのとき、突然落とし穴に落ちてしまったかのようになって、そのあとどうなったか記憶がない。幸いどこも怪我をしていないようだが。

 あんなところに落とし穴があるわけがなかった。となると、考えられるのはヤミチのしわざ……。

(ここはヤミチが作った牢屋なんだわ)

 せっかく石を返そうとしたのに、捕まえるなんてどういうことなのか、ヤミチの考えがわからない。いっしょにいたケイゴもいないでは尋ねようがない。もっとも、ケイゴがヤミチについて詳しく知っているかどうかはあやしかった。が、それでも一人きりよりは心強いはずだった。

 こんなところにいるわけにはいかない。華凛は現代に戻らなければならないのだ。ケイゴはいまごろなにをしているのか、同じようにヤミチに捕まって、べつの場所に閉じこめられているのか……。

「ケイゴさーん!」

 華凛はさけんだ。近くにいるなら聞こえるだろうと思って。

 しばらく返事を待ってみるが、ケイゴの声どころかこだまさえ返ってこなかった。だからもう一度呼びかけてみた。

 すると、

「静かにしていろ」

 ケイゴとは違う声がして、格子の向こう側に小さな人影が現れた。人影……人の形をしているが、人ではない。

 ヤミチ。

 竹の格子を通して、華凛はヤミチをあらためて観察する。薄暗いそこに立つ妖怪は、見れば見るほど現実とは思えなかった。

 小型犬ほどの大きさだが、体毛はなく皮膚は赤い。大きな口はなんでも丸飲みできそうな。黄色の瞳はどこを見ているのか、カメレオンのように絶え間なくギョロギョロと動く。

「ここはどこなの? わたしをどうする気?」

 見た目はグロテスクだが、そのサイズが怖さを相殺していた。単純に力だけの勝負なら負けない気がした。ただし、相手は妖怪であり、不思議な妖術を使われたら手も足も出ないだろうが。

「それをいま、話し合ってるんだよ。決まるまでそこで待ってろ」

 人間の発する声と比べて異質な、高音の嗄れ声。インコがしゃべっているような声だった。

「わたしはどうなるの?」

「気の毒だけど、もう命はないかもな」

「なんだって?」

「ここは川の底に沈むようだから、われらはそれをくい止めないといけないのだが……」

 ダムができるのを知っていた。それは驚くべきことだった。

 しかもここがダム湖に沈むのをくい止める――というのは、さらなる驚きであった。

 いかなる方法でそれが実現できるのか、ダムを破壊してしまうのか、それとも華凜には想像もつかない術でやってのけるのか……。いずれにしても驚異である。

「おまえを捕まえたのはそのためだ。だが……」

 ヤミチは細い節くれだった指で鼻のところをかいた。

「それがくい止められるとは、おれは思えんのだけどな」

 そのとき、もう一匹、ヤミチが格子の向こうにひょこひょことあらわれた。二匹のヤミチの区別がつかない。まったく同じ姿形なのだ。

「話し合いが終わったぞ」

 あとから来たほうのヤミチが言った。声もそっくりだ。

 これだけ似ていてヤミチはどうやって互いを区別しているのだろうと、華凛はそれどころではないはずなのに、気になってしまった。

「こいつを、いけにえとして神にささげる」

「やはりそうか。そうなるんじゃないかって、思ってたぜ」

(いけにえ?)

 華凛は目を丸くした。とんでもないことが決定されてしまったらしい。

「魂の玉が告げるところの『われらの棲家すみかが水の底に沈む行く末』を変えるには、いけにえをささげて神のおこないを思いとどめてもらうほかにない、との言い分が多かった。われらのおさもそういう考えだ」

「さもあろう。おれもそんなことになると思ったしな」

「ギャハハ、おまえなんか、そんなことを思いつくおつむなんかないくせに、よく言うぜ。というわけで、おまえ――」

 と、偉そうな言動のヤミチが、華凛に木の枝のような指をつきつける。

「さ、ここから出ろ」

 出ろ、と言われてもどこから出るのよ――そう言い返そうとしたとき、華凛はどういうわけか竹格子の向こう側にいた。

(あれ? いつのまに。どうなっているの?)

 まるで手品でも見せられているようであった。これこそ妖怪の技なのかもしれない。面妖な術を使いて人を化かす……そんな感じである。

 華凛は周囲を見回す。そこは林のなかだった。神社の裏手の、ケイゴといっしょにやってきた場所……なのかどうかはわからない。ぐるりと見渡しても、三六〇度木ばかりで、唯一華凛がさきほどまで閉じこめられていた石造りの小さな牢屋があるほかには人工物は見当たらなかった。神社のお社も見えない。

 が、それでも、ここから逃げ出すチャンスかもしれない。どの方向に行けばいいか見当もつかなかったが、さして高くもない山だし、下って行けば里のどこかに出るだろう。そう思ってヤミチの様子をうかがったとき、

「さぁ、おれについてこい。逃げようなどとは思うなよ。ここはおれたちの棲家で、人間の棲家とはつながっていないから、逃げられないんだぞ」

 あとからここへ来たヤミチが、華凛の心を見透かしたようにそう言うのだった。

 華凛はどきりとする。が、それが表情に出ないよう努めた。

 このヤミチの言うことはウソではないだろう。ここはヤミチの「国」なのだ。通常の世界とは異なる隔絶された世界に存在するヤミチの国。たぶん、このまま逃げていつまで走っても、この林からは出られない。芥川龍之介の短編小説「河童」の主人公のように、ヤミチの世界に華凛はつれて来られてしまったのだ。

 となると……いっしょにいたケイゴはどこにいるのか気になった。

「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど、わたしのそばにもう一人、男の人がいたでしょう、その人はどこにいるの?」

 ヤミチは黄色い瞳をぐるぐると回し、

「知らんな。おれはそんなやつ、見ていない」

 と、答えた。もう一匹のヤミチも黙っていて、どうやら知らないらしい。ということは、ここへは華凛だけが連れてこられた……あの落とし穴によって。

 ケイゴのことを知らないということは、この二匹は、石を返そうとしたときにあらわれた何匹ものヤミチのなかにいたのではないようだ。個体の区別がつかないので、華凛には確かめようがない。動物を相手にしている感覚に近かった。

「そんなことより、さぁ、行くぞ」

 横柄な口調でヤミチが先導する。華凛の背後にもう一匹のヤミチがつき、前後をはさまれるような形で歩き出した。

 いったいどこへ連れていこうというのか――。

 一人きりで、華凛は不安を覚えた……。



 けもの道のような、草の生えていない筋のようなところをしばらく歩いていると、木々の陰に何匹ものヤミチがいて、華凛を珍しげに見ているのが目に入った。見世物になっているようで、華凛はハロウィーンのステージ衣装を着ているせいもあってか落ち着かない。しかも次第にヤミチの数が多くなってくる。

 やがて木々のない空間に出た。ちょっとした広場のようになっていて、そこに多くのヤミチが集まっていた。ずらりと居並ぶ妖怪の前に連れ出され、囲まれるような視線に圧倒されてしまう。五十匹はいるだろう。

「人間を連れてまいりました!」

 華凛の前を行くヤミチが声を張り上げた。

「さがってよろしい」

 それに答えたのは、か細い声だった。

 どのヤミチだろうと視線をめぐらせていると、一匹の個体がおぼつかない足取りでゆっくりと前に進み出てきた。

 どのヤミチも同じように見えるなかで、その一匹だけがほかのと違い、どこか動きに元気がない。それでいて威厳のような気配を発して、周囲を威圧するような雰囲気をまとっていた。年齢を重ねた者だけが持てる、尊厳に満ちた存在感がその一匹にはあった。

 あれがヤミチのおさ……。

「人間よ、きくがよい。われらは、魂の玉をぬすんだおまえを神にささげるいけにえとすることに決めた」

「ぬすんだわけじゃないわ」

 華凛は反論した。とんでもない誤解であった。

「落としたのをひろっただけよ。だから返しに来たの」

 しかしヤミチの長は耳を貸さない。

「われらは魂の玉によって、近く、われらの棲家が川の底に沈むことを知った。それは神のおこないであり、われらは魂の玉を通じて神にそれを思いとどまるよう伝えるために、大きな壁に向かうところであった。おまえはそれをさまたげた。すなわちそれは大いなる災いである」

「ちょっと待ってよ」

 あの石――魂の玉と呼ばれるあの石は未来予知装置であり、同時に神(神さまが実在するかどうかはべつとして)との通信装置というのであった。神社を含むヤミチの棲家がダムに沈むことを知って、大きな壁――つまりダムの神と対話して、それをやめるように訴えようとしていたのを華凛が邪魔した……。

 だから華凛を神へのいけにえにすることで解決しようと決めたのだ……。現代人の感覚ではその理屈はむちゃくちゃだが、ヤミチの思考では正しい選択であるらしい。

 しかしいけにえにされるとあっては、その認識を放置できない華凜である。

「あれは人間が造ったダムで、川がせき止められるから、水かさが増してここが沈んでしまうの。いけにえなんかささげても、ここがダム湖に沈むのは止められないわよ」

「黙るがよい!」

 長は意外に通る声で一喝した。

「いにしえより、われらはこの地を棲家としてきた。それは神をうやまってきたからである。ここが川に沈まないように神に願うのは、われらのつとめぞ」

「みんなでここからもっと高い場所に引っ越すのよ。そうすれば助かる」

「人間の言うことはきかぬ」

 ぴしゃりと拒絶されて、華凛はうなだれた。そして絞り出すように言った。

「ごめんなさい……。わたしたち人間があなたたちの棲家を奪ってしまうんだものね……。仕方ないなんて言えないよね。そんなのは人間の都合にすぎない。ほんとに勝手すぎるよね……」

 ダムの建設が自然破壊といえば、その通りだ。ヤミチだけではない。里に生息する野生動物だってこの地を追われてしまうのだ。移動できない植物はそのまま朽ちてしまう。人間のひとりよがりな行為によって、そんな悲劇が繰り返されてきた。おそらくこれからもそんなことが……。それを思うと、華凛の心は暗く沈んだ。必要な事業だとはいえ、なんと業が深いのだろう。

「われらのおさ

 後ろにひかえていた一匹のヤミチが片手を挙げて発言を求めた。

「なにか?」

 華凛に対したとげとげしさを残したまま長は振り返った。

「われらはいけにえをささげたことがありません。どうやるのでしょうか?」

「うむ……?」

 長は冷静さを取り戻したようだった。

「いけにえはただ神にささげればよいというわけではない。神にわれらのおこないをわかってもらわねばならん。そのためには、それなりに整えねばならぬものがある。よし、これから、それらをみなでとりかかるぞ」

「わかりました」

「できあがるまで、人間をもとのところへ閉じこめておくがよい」

「ははぁっ」

 恭しく頭を下げた、華凛を連れてきたヤミチが、

「さぁ、来い」

 尊大な口調で命じる。

 そして華凛は、さっきと同じように二匹のヤミチに前後をはさまれて、今度は牢屋へと連行された。

 出たときと同様に不思議な術によって竹格子の内側へと閉じこめられると、先導したヤミチは去っていき、あとには見張りの一匹だけが残った。

「準備ができるまで、どれぐらいかかるの?」

 華凛は、ひまそうに牢屋の前に座りこんでいるヤミチにたずねた。

 すぐにいけにえにされずにすんだものの、安堵している場合ではない。なんとか打開策を講じなければ、遅かれ早かれ殺されてしまう。なにか対策を考えていられる時間がどれだけ残されているか――。

 しかし見張りのヤミチは頼りない。

「さぁな。おれにはわからん。だいたい、いけにえをささげるっていうのがどんなもんか、知らないからな」

 長も、これまでそんなことをしたことがなかったらしいから、もしかすると準備にかなりの時間がかかるかもしれない。

「ただ、おれはいけにえなんてささげたって、なんにもならねぇような気がするがな。神のやることを変えるなんてできっこないと、おれは思ってるんだ。大きな声じゃ言えないけどな。おれは、おまえを気の毒に思うぜ。それよりも、よぉ……」

 ヤミチは座ったまま振り返った。竹格子を通して、黄色い目が華凛を捕らえる。

「長の前で言った話は確かなのかい? あの大きな壁は、人間が造ったって。人間は、あんな大きなものが造れるのか?」

「そうよ。あれはダムといって、川をせき止めて、水を貯めるものなの」

「なんだって、そんなものを造るんだ?」

「下流の水害対策と飲料水の確保や水力発電に使うのよ」

「…………」

 ヤミチは頭の左右から鋭く飛び出している耳をぴくぴくと動かした。

「人間のやることは、よくわからねぇや」

 華凛はがっかりした。詳しく説明したところで、妖怪には人間の暮らしが理解できないだろう。いけにえの効果に懐疑的なこのヤミチなら、もしかしたら話がわかるかもしれないと思ったが、わかってもらうのは想像以上に難しいようだ。

 だけど――とヤミチはまだ話を続ける。

「ここが川に沈むのがどうしても避けられないなら、おまえの言うように、おれたちがここから出て行くしかないわけだな。ここにいたら、みんな死んでしまうんだし」

 華凛は顔をあげた。

「そう。そのために村も神社も高台に新しく造り直しているの。神社があれば、ヤミチたちはそこへ移り住めるんじゃないの?」

「だけど、おれたちはここから出たことがない」

「出られないの?」

「おれたちはこの地から離れられない。だから外へ行くときには魂の玉がいるんだ。あれがあれば、どこへでも行ける」

「わたしが高台の神社へ案内してあげる。そして今度はそこを新しい棲家にできたら――」

「それしか助かる道がないなら、そうすべきだろう。といっても、それは難しいだろな。なにしろ、おれたちは大昔からここに住んでいるからな。ほかへ移り住むなんて考えられない。そんな考えのやつらばかりだからな、長もふくめて」

「じゃあ、あきらめるの? わたしをいけにえにして、それでみんな死んでしまうんじゃ、なんにもならない」

 ヤミチはくるりと背中を向けた。見張りの仕事にもどるかのように。たった一人では大勢を変えることができない無力感が、華凛と、そのヤミチの心にも重くのしかかっていた。

 ヤミチはすっくと立ち上がる。

「見張りを代わる頃合いだぞ」

 声がしたほうを向くと、べつのヤミチがやって来ていた。

「わかった。しばらく頼む。休んだら、また来る」

「心得た」

 華凛の見張りが交代した。

 話のわかるヤミチは去っていった。華凛がヤミチの国に連れてこられてからどれぐらい時間がすぎたのかわからないが、それまでずっとあのヤミチが華凛に張り付いていたのだ。せっかく分かり合えそうで、有効な解決策を模索できるかというところだったのに。また来るとは言っていたが、そんなものはアテにはならない。いけにえの準備のほうが先にできてしまい、もう二度と会えないかもしれないと思うと、華凛は残念でもあり悲しかった。



 交代したヤミチは石頭であった。華凛の話を聞こうともしない。暖簾に腕押し。たぶん、ヤミチのほとんどがこんな性格なのだろう。まったくもって絶望的であった。

 神にいけにえをささげる儀式の準備がいつ整うのかわからない。執行のときを待つ死刑囚のようだった。看守がやってきて、「さぁ、出ろ」と言ったときが、華凛の最期である。そのあとは、もうどんな抵抗もできない気がした。

 だからとにかく、どうにかしてここから脱出しないといけない。しかし思いつくかぎりの手をつくしてみるも、牢屋の外に出ることはかなわなかった。

 牢屋のなかには道具になりそうなものはなにもなく、体ひとつで脱出するのは超能力でもないかぎり不可能であった。

 そこへ、

「見張りを代わるぞ」

 また、交代のヤミチがやって来た。

「ん? なんか早くないか?」

 見張りの石頭ヤミチは首をかしげる。

「そんなことはないぞ。それより、長のほうを手伝ってきてくれないか。手が足りないようなんだ。おれはしっかり休めたから」

「そうか、わかった。ではここはまかせる」

 そう言うと、そそくさと立ち去る。あとに残るのは――どうやら戻ってきてくれたらしい。あいかわらずヤミチの区別はつかなかったから、念のためにたずねてみる。

「さっきのヤミチだよね? どこへ行ってきてたの?」

「これを持ち出してきたのさ」

 そのヤミチの手には、ほんのりと銀色と青色の光を放つ、あの魂の玉があった。華凛は目を見開く。

「もしかして……」

「これで国の外へ出て遠くへ行ける。おれたちが次に住まうべきところへ連れていってくれ」

 その言葉を言い終えた瞬間、華凛は牢屋の外にいた。

「急ごう。断りもなく人間を解き放ったと知れたら、追っ手が来る」

「でもこんなことして……」

 明確な反乱行為である。懲罰の対象とされてしまうだろう。そこまでするとは、華凛には予想外だった。

「どうすれば助かるかと考えた末、おれはおまえの言うことを信じたんだ。さぁ、ついて来い。この国の出口に行くぞ」

「はい」

 ぐずぐずしてはいられない。一刻も早くここ、ヤミチの国から出なければ、もう脱出できるチャンスは二度とないだろう。

 華凛は、ちょこちょこと小動物のように走るヤミチについていった。林の木々の間を行くのに慣れているヤミチのあとを遅れずについていくのは容易ではなかったが、必死に追いかけた。

 数分後、前を行くヤミチが立ち止まった。華凛を振り返る。

 息を切らしながら、ヤミチに追いつく華凛。

「この穴へ飛びこむ。この先が外の世界だ」

 ヤミチが指さす地面には、直径一メートルほどの穴が、井戸のように口を開けていた。のぞきこむと真っ暗で、飛びこむには勇気がいりそうだった。

 華凛がたじろいでいると、ためらいもなく穴へと飛びこんでいくヤミチ。

 取り残されて、もう華凛も穴へ入ってしまうしかない。そういえば、ヤミチの国に来たときも穴に落ちたのだ。だから外へ出るときも穴に入るのは道理だ。

「えいっ」

 華凛はその場でジャンプし、穴のなかへとダイビングした。

 土の匂いが一瞬だけしたが、そのあとは上下が逆転するような目が回る感覚があって、華凛は混乱する。

 しかしそれもほんの数秒で、いきなり目の前が明るくなった。

 穴から飛び出した華凛は、地面に落下する。

「華凛!」

 名前を呼ぶ声がした。見ると、ケイゴが穴の縁で目を丸くして立ちつくしている。

「これはいったい、どうなってるんだ? このヤミチは……?」

 華凜とほぼ同時に出てきたヤミチと見比べ、なにが起きたのか混乱している。

「この穴はどうなってるんだ? なかに入ってみたけど、穴の底にはなにもなかったぞ」

 華凛が穴に落ちてから、ずっとここで救助しようと手をつくしていたようだった。穴は、ヤミチがいっしょでないと通りぬけられない仕組みらしい。

「説明はあとでするわ。それよりヤミチ、行きましょう。案内するから」

 今度は華凛が先頭に立つ。高台の造成地がどこにあるかは知っていた。毎年、祖父母の住む家に帰省していたから。里からどうやって行くかも、五歳の頃の記憶だったが、毎日工事車両がそこへ向かって走っていたのをおぼえていた。

 ヤミチを従えて道路を歩いていくのは、誰かに見つかりそうだったが、気にしてなんかいられなかった。ヤミチたちと、その国の未来がかかっているのだ。幸い、ヤミチは身長が五十センチほどしかないから、遠目では犬でも連れているように見えるかもしれない。

 ケイゴにこれまでのことを説明しながら、神社の石階段を下り、里を横切って、山の登り坂を歩くこと四十分。ダムに沈まない高台の造成地に到着した。途中ですれちがうクルマもあったが、注意を払うことなく通り過ぎていった。

 造成地に建てられている、移住のための住宅はどれもこれも真新しく、何軒かは建設中であった。

 神社もできあがっていなかった。鳥居もまだ立てられてはおらず、工事中の社殿からは木材の香が漂った。境内には石材が積まれていて、これが石畳になるのだろう。ヘルメットをかぶった作業員が何人かいて工事をすすめている。

 少し離れたところからその様子を見る華凛とケイゴとヤミチ。

「ここに新たに国を造るのか……。これはなかなかに骨が折れそうだ……」

 ヤミチはつぶやく。

「だが、おさたちをなんとか説き伏せないとな」

「苦労させるけど、あとのことはお願いするしかないの。わたしたちは、未来の時間に帰らなくちゃいけないから」

「おれたちのことは、おれたちでなんとかするさ。……ありがとう」

 ヤミチは回れ右して歩き出す。

「あの!」

 その背中に向けて、華凛は声をかけた。振り返るヤミチ。

「あなたの名前を教えてください」

 すると、

「おれに名はないよ。では、さらばだ」

 そう言い残し、ヤミチは帰っていった。ものすごい速さで、あっという間に視界から消えた。



 緊張していた力がぬけて、華凛はその場にしゃがみこんだ。

「だいじょうぶか? 疲れてきてるんだな」

「うん……でも、これでいいのね?」

 華凛は確認するかのようにケイゴを見上げた。

「ああ、そうだな。これでいい。石はヤミチのもとに返してあるし、あとはかれにまかせて、ぼくらは現代に帰ろう」

「ねぇ、ケイゴさん……」

 現代から過去へ行くときと同じように、ケイゴが手で大きく空中に輪をえがいていると、華凛はたずねた。

「ヤミチたちは、ここがダムの底に沈んでしまったら、やっぱり死んでしまうの?」

「全滅はしないだろう。ヤミチがずっと生きていなかったなら、人質になっていたきみのお父さんは、黒い影としてでさえも出てこれなかったかもしれない。ヤミチの束縛から逃れて、六年もかかって、家族をさがしてうろつきまわって……なんてことはできなかった」

「ということは、わたしのやったことは……」

 ここまで案内させて移住をすすめたのは、余計なお世話だったか。

「意味がないことはない。ヤミチに希望を与えたから、きみは解放されたんだから……。もともとヤミチの何割かはここを脱して生き残った。きみのお父さんが、実体を持たずに影としてしかあらわれなかったのは、ヤミチの妖術が完全に解けていなかったからだともいえるからね。ということは、里がダム湖に沈もうとも、その後もヤミチは生き残っている。ただ、あのヤミチが奮闘すれば、全員の移住がかなうかもしれない。それはとりもなおさず、きみの功績になる。――よし、トンネルができた。現代にもどるよ」

 ケイゴは華凛の肩を抱きかかえるようにして立ち上がらせると、いっしょに光の輪のなかへと飛びこんだ。

 一瞬にして、六年前の世界から現代へ。ハロウィーンの日の夜の駅前広場に、二人はもどった。

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