妖怪ヤミチ
光の輪をくぐった先にあったのは、かすかにおぼえのある風景だった。
新町華凛は辺りを見回す。夜の駅前広場から、昼間の田園地帯に変わっていた。太陽は高くあり、ちぎれたような雲がぽつりぽつりと浮かんでいた。見渡す周囲は山に囲まれ、異様なほど大きなダムが山あいをふさぐような壁となって立ちふさがっている。
「ここは……」
十一歳ともなれば、なにが起きたのか想像できた。でも、にわかには信じられなかった。
「そう。六年前にきみが住んでいた里だよ」
となりに立っているのは、華凛をここへ連れてきた、あの若者だった。
「ぼくの名前はケイゴ。タイムトリッパーさ」
「わたしは、華凛」
ケイゴ、という音から、おそらく名字ではなく、下の名前だろう。
華凜は反射的に自己紹介して、気づく。
「タイムトリッパー? 時間をこえる能力を持ってるってこと?」
タイムマシンとか、機械の力を使って時間旅行をするわけじゃなくて、体ひとつでそんなことができる超能力者……。
「そう。そして、きみのお父さんを救けるためにね」
ケイゴと名乗った若者は、さっきも言ったことを繰り返した。
「お父さんを……?」
華凛はつぶやく。
「わたしにできるの?」
「きみにしかできないんだ」
それもさっき言っていた。
「どういうことなの?」
「いまは、きみのお父さんが行方不明になってしまう秋祭りの夜の二日前で、当時五歳だったきみは高熱を出して家で眠っている。そのときのことをおぼえているかい?」
華凛は首を横にふった。かすかにおぼえているのは、秋祭りがすごく楽しかったということだけ。断片的な記憶しかなかった。あの日の夜、いっしょに神社に行って屋台を楽しんだはずなのに、どうしてそのあと父親だけがいなくなってしまったのか、そこのところがよくわからなかった。祭りでいっしょだった姉なら、おぼえているだろうと思うのだけれども、柚葉はずっとなにも言おうとはしなかった。たずねてはいけないような気がして、だから華凛はなにもわからないままだった。
「高熱を出した直前、きみは、妖怪に会ったんだよ」
「え?」
華凛はすっとんきょうな声を出してしまった。いきなり予想もしていなかった単語をきいて、面食らう。
「ようかい?」
「そう」
「ようかいって、あの、妖怪?」
華凛の頭のなかに、『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する異形のお化けが思い浮かんだ。
妖怪が本当にいるとは、もう六年生である華凛にとっては半信半疑だった。幽霊はいるとは信じているし、だから妖怪も、もしかしたらいるのかもしれない。自然現象ですべてを説明できないことが、この世にはあると知っているから。とはいっても、現代日本にあって妖怪を見たなんて聞いたことはないし、たとえ存在したとしても簡単に姿が見られるとは思えなかった。宇宙人のほうが、まだ可能性が高いような気さえした。
「妖怪ヤミチ、というんだ」
ヤミチ……。聞いたことがなかった。
大勢の人たちによって捜索がおこなわれたにもかかわらず、父親は見つからなかった。行方不明になった経緯がわからないとはいえ、もっと現実的な理由なのだと思っていた華凛は、妖怪のせいでというのが驚きだった。
(本当だろうか……)
疑うのも無理なかったが、いまこの場所に来ているということがそもそも超自然的な現象であり、ならば頭から否定もできなかった。
「秋祭りの数日前、神社でひとりで遊んでいて、きみはそのヤミチに出会った。そしてヤミチが落としてしまったかれらのご神体の石を持っていってしまったんだよ」
「わたしが、そんなことを?」
まさか自分が妖怪と出会っていただなんて思ってもみなかった。華凛は思い出そうとしたが、そんな記憶は出てこなかった。強烈な経験なのに、きれいに忘れている。
「そのご神体の石をヤミチに返せばいい。そうすれば、お父さんはヤミチに誘拐されることもなくなるだろう」
「お父さんは人質になっちゃったの? 捕まって、いまどこにいるの?」
「それが、きみたちが怪事件と呼んでいる影のことなんだよ」
「あっ……!」
柚葉が言っていたことを思い出した。夜、駅から帰る途中で出会った「影」に、父親の気配を感じたと話していた。柚葉は父親の記憶が、五歳下の華凛よりは多かったし、鮮明だった。たぶん、だからわかったのだろう。
父親が会いに来たのだ。引っ越ししてしまった家族をさがして。
「ということは、さっき鏡から出てきたのは……」
ケイゴはうなずく。
「でもあの影には意識がない。いわば欲求だけの存在だ。だから接触したところでコミュニケーションはとれない。無闇に出現するだけなんだ」
(じゃあ、あのときも……)
財田六花と城跡公園に行った帰りに遭遇した怪事件。しかし華凛は父親だとは気づかなかったし、影もなんら意志を示さなかった。
いっしょにいた六花ももちろんわからない。他人にとっては怪現象なのだ。正体がわからなくて当然だ。
華凛は、父親が行方不明になった直後、ダムの補償として新たに作られた村落には住まずに、父親の代わりに仕事をする母親についていって姉とともに大きな町に引っ越した。だから父親は、家族がどこにいるのか知らないでいた。
六年もかけてさがし続けて、そして、やっと見つけられた……。けれども「影」であるため意思を伝えられなかった……。
でもあのときの「影」はなにかに追いかけられてそれどころじゃなかったような気もして、そこではっと気がつく。あの直後に続けて出てきたもうひとつの影は、ケイゴだったんじゃないかと思った。ケイゴが怪現象を調べていて、もしかしたら怪現象が、見る人によってその印象を異にしていたのは、ケイゴを「影」と見間違えたからじゃないか……。六花とふたりで目撃した怪現象を思い出して、華凛はそう推測する。
それを確かめようとして口を開きかけたが、先にケイゴが言った。
「きみのお父さんはヤミチに捕まってはいるが、影だけがなんとか束縛から逃れられたんだ。でも体はずっと拘束されている」
行方不明になったままの父親のことを知っているケイゴの話のほうが大事だった。
「だがご神体の石を返せば、そんな未来にはならない。怪事件も起きないことになるんだ」
石を返すだけでいいのなら、相手が妖怪だろうがなんだろうが恐ろしくても会える。
「じゃあ、その石ってのはどんななの?」
華凛は訊いた。
妖怪と出会った経験をしてひろった石なら、どこかに大事にしまってあるだろう。どこかの引き出しにしまってあるかもしれない。引っ越しのときに持ってきた荷物のなかにあったなら、いまも家のどこかにあるはずだ。しかしそんなものがあったろうかとまったく記憶にない。
「握りこぶしぐらいの大きさの石だよ。青色と銀色の模様が入っている」
ケイゴはよどみなく教えてくれたが、華凛は首をかしげた。そんなものを見たおぼえがなかった。引っ越しのときにすててしまったのか。それとも厳重にどこかに保管してあるのか。ともかく、父親が人質にされてしまう前にヤミチに石を返してあげないと。
「じゃあ、早く家に行ってさがしましょうよ」
「ちょっと待ってくれ。その前に、ひとつ知っておいてほしい大事なことがある」
ケイゴは急に、もっと真剣な表情になった。
「なに?」
「きみは、この時代の華凛と会ってはいけない」
「それって歴史がかわるってこと? でもわたしたちは歴史を変えようとしてるよ」
歴史というとおおげさだけど、過去を改変することで未来に大きな影響を与えてしまうということなら同じだ。
「いや、そうじゃない。物理法則はくずせないんだ。いま、この時間には、きみが二人いる。それがどういうことかわかるかい? 本来、それはありえない。同一空間にふたりのきみが存在すると、質量がエネルギーに変わってしまうんだよ」
華凛にはケイゴの説明が理解できなかったが、とんでもなく悪いことが起きてしまうのはわかった。
「じゃあ、石をさがすときは、五歳のわたしに会わないようにしないとね。高熱を出して寝てるって言ってたよね」
それなら、会わずにすませることも可能だと思った。寝かされているのはたぶん看病のしやすいように、両親の寝ている部屋だろうから。
五歳のころ、姉の勉強机のおいてある部屋を共同で使っていたが、夜寝ているのはいつも両親のそばでだった。
「そう。それも妖怪ヤミチに会った影響だね」
「え? じゃあ、ヤミチに石を返したら、わたしはまた高熱を出して寝こんじゃうの?」
「いや、それはだいじょうぶだろう。幼児のときは、ちょっとしたことで熱を出すこともあるだろ」
「そう……それなら……」
根拠がうすかったが、いまはそれどころじゃなかった。
そうと決まれば、あとは石が家のどこにあるかをさがすまでだ。いくらなんでも、そんなさがしにくいところに保管してはいないだろう。
「事情がわかったようなら、行こうか」
「うん……でも」
やることは決まったけれども、華凛はひとつ気になることがあった。
「わたし、このかっこうのままで……?」
ハロウィーン祭りでステージにあがるときの衣装のままだった。紫色の短いトップスに、顔にはカボチャが笑っているフェイスシール。
「気にするな」
ケイゴは気にしなかった。
どうしてケイゴがそんなに事情に詳しいのか、華凜は疑問に思わないではなかったが、そんなことより問題解決のほうが重要だった。
二人は歩いて家に向かった。
華凛にとっては、記憶の底にかすかに残っている、この里での暮らし。田畑の多いここで五歳だった華凛は毎日のように走り回っていた。
幼稚園に通っていた。古い日本家屋に住んでいた。家の周辺の道や小川にかかる橋。どこかなつかしい気もするけれど、どこか様子が違う。
それが、自分の身長が伸びたことによる視界の高さの違いからだとわかったのは、住んでいた自宅である、日本家屋の外観を見たときだった。
六年前の記憶がよみがえる。忘れていた、家の中の間取りやそこでの生活が、急に思い出された。
(そうだ、ずっと前にここに住んでいた!)
すっかり鮮明に思い出したわけではなくとも、見たことがあると思えた。
「家にはママがいるはずだけど……」
母親と、そして祖父母もいっしょに暮らしていた。六年後の現在、祖父母は、ダムで水没しない高い場所に新しく作られた集落に建てられた家に居を移していて、夏休みや正月に何度か行ったことがあった。
「ママには、わたしだと、わからないんじゃない?」
よその子が来たと思われたら、家のなかで石をさがせなくなる。だからといって事情を説明しても、わかってもらえるような気がしなかった。
「いまは外出中だ。家には寝こんでいるきみしかいない。祖父母の畑を手伝いに行っている」
「そうなんだ……」
なんでそこまで知っているのかと華凛はいぶかるが、いまはそれを聞いている場合ではないと、ケイゴに従う。
「急ごう」
「はい」
家には普段からカギがかかっていなかった。ひどいときには玄関の引き戸が開けっ放しだった。泥棒がいないからという、昔ながらの習慣が抜けないのだ。でも今回はそれが幸いした。
華凛とケイゴは、家に入った。
この家の部屋で、五歳の自分が眠っているのだと思うと、華凛は奇妙な感覚にとらわれた。どんな寝顔なのかな、と見てみたい衝動にかられたが、ケイゴがさっき言っていた『とんでもないこと』が起こるというのを思い出し、ぐっとこらえた。
「廊下を進んで奥の部屋が、お姉ちゃんといっしょの部屋で、たぶん石はそこにあるんじゃないかって思う」
広い玄関土間に入って、ダンス用の靴をぬいで高い上り口からそっとあがり、華凛は言った。
「わかった。そこで石をさがそう」
家の南側には廊下(広縁)があって、家の外と出入りできる開口部は、ガラスの大きなサッシで開け閉めできるようになっていた。陽が差しこむその廊下で、奥の部屋へ行けた。
二人は奥の部屋の前まで廊下を進むと、部屋と廊下を区切っている障子戸を静かにあけた。
畳のしかれた和室に、柚葉の勉強机がおいてあった。華凛の勉強机も、小学校に上がると同時に買ってもらう予定だった。
部屋のすみにマーカーで絵のかかれた段ボールの箱があった。華凛のおもちゃ箱だ。華凛が自分で好きなように絵をかいたのだ。五歳のころのつたない絵が、確かに自分のものだと華凛に思えた。
歩みよって、段ボール箱のなかをのぞきこむと、絵本や積み木やぬいぐるみが入っていた。どれもこれも思い入れのあるオモチャだ。よく母親に読んでもらっていた絵本は、十一歳になったいまでも大事にしまってある。
でも、石はなかった。
「あれ?」
どんぐりの入ったレジ袋があった。
その瞬間、華凛は思い出した。石とそれにまつわる記憶を……。
「思い出したわ」
そう。確かにあの日、神社から石を持ち帰った。その石をひろう前に見た、妖怪ヤミチ。ヤミチの記憶は出てこない。けれども、美しい石については、そのレジ袋に入れたのを思い出した。
けれども、かんじんのその石はなかった。
「なにか思い出したのかい?」
ケイゴが訊く。
「石を落としたのよ、きっと。神社から家までの間で。石をさがしに行こうとして、わたし、倒れたんだよ」
そして、そのまま寝こんだのだ。
「なら、神社までの間を歩いていれば見つかりそうだな」
手がかりが見つかった。
華凛とケイゴはその部屋を出ると、廊下をもどって玄関から外に出た。外へ出る寸前、華凛は家のなかを振り返った。自分が寝こんでいるはずの、閉められたふすまで見えない部屋に視線を送っていると、
「なにをしてるんだ、行くぞ」
ケイゴが急かした。
「うん、待って」
華凛は後を追うように玄関を出た。
神社までの道筋はわずか百メートルほど。たったの百メートルが、五歳だったころの華凛にはすごく遠くに思えて、この距離よりも遠くに行かないようにしていた。
途中で落としたというのなら、道端に落ちているだろうと思えた。誰かにひろわれている可能性もあったが、いくらきれいだとはいえ、大人がそんな石ころをひろうとは考えられないし、まだどこかに落ちていることを願った。
華凛とケイゴは地面を見ながら、神社へつながる道を歩いていった。
しかし神社までの間の道のどこにも、それらしい石は落ちていなかった。走っていて落としたというなら、レジ袋から飛び出したとしか考えられない。そんなに遠くへ転がっていくはずがない。
「もう一度、家までの間をさがしましょう」
神社の石段を上がりきった鳥居の前で、華凛は来た道を振り返る。家までの百メートルの間にあるのは、道の両側に刈り取られたばかりの乾いた田んぼと、途中の川にかかる橋ぐらい。落としたとしたら簡単に見つかるだろうに、どこにもないとなれば、すでに誰かにひろわれてしまったか……。もしひろわれてしまっていたら、さがしだすのは不可能に近い。だが、見回してもこんな時間に人通りもなく、誰かにひろわれたようには思えなかった。
わかった、と言って歩き出すケイゴについて石段を下りようとした華凛は、
「もしかして……!」
「どうした?」
「川に落としたのかも」
「川に?」
華凛はうなずいた。
「川は浅いから、入ってさがしてみるわ。そこへ行きましょう」
「よし、わかった」
来た道をもどる。もちろん、その間も、もしかしたら見逃していたかもしれないと、道路や田んぼに目を配る。
道端や田んぼを二人で目を皿のようにしてさがしてみたが見つからなかった。川に落としたのかもしれないという華凛の予想は当たっているかもしれない。
すぐに川についた。
幅は十メートルほどの小さな川だ。里にはいくつもの川が流れていて、一番大きな川は幅七十メートルもある。建設中のダムはこの川をせき止めるのが目的だった。
華凛たちが、入って石をさがそうとしているのは、その大きな川から農業用水を得るために江戸時代に造られたという小川だった。梅雨の時期にはホタルが舞うゆるやかな流れの浅い川は、里の子供たちにとっては遊び場のひとつだ。
橋のたもとから草のはえる斜面を二メートルほどおりて石だらけの川辺に立つ。石はたくさん転がっていても、目的のヤミチの石は、ざっと見回したかぎりでは見つからなかった。青色と銀色をしてほのかに光るわけだから、すぐに目につくだろうに。ということは、やはり川のなかにある?
華凛はダンス用シューズとソックスを脱いで、川に足をつける。
「冷たぁい!」
真夏と違って水温が低くなっていた。すねまでの水かさにぶるっと身が震え、二の腕が粟立つ。冷たさに顔をしかめつつ水面をのぞきこんだ。
「あるかい?」
そのあとからケイゴも川に入ってきた。
「まだ見つからないよ」
華凛は川面から視線をはずさない。
どんな石だったか、華凛の記憶にはない。けれども普通の石とは明らかに異なるのなら、川の底に沈んでいてもすぐにわかるはず。ときどき小さな魚が泳ぎ去るのが見えた。
「あれかな?」
橋のほぼ真下で、そこだけ異なる色彩が目に入った。華凛は冷たい水に手をつっこみ、ひろいあげた。手のひらに収まるサイズのその石は青色と銀色の模様がきれいに入っていた。ほのかに光を放っており、天然の石とは違う気がした。
「それだよ!」
ケイゴがさけんだ。
華凛は微笑んだ。
「あとはそれをヤミチに返せばいい」
「わかったわ」
ほっとする華凛。
「でも、どうやってヤミチに返すの? 妖怪が簡単に姿を見せてくれるとは思えないけど」
「だいじょうぶだ。ヤミチには石が必要なんだ。だから石を持っていけば、すぐに出てきてくれる」
妖怪ヤミチ。華凛は一度見ているけれど、どんなものかおぼえていない。見たら思い出すのだろうか。
妖怪といえば、グロテスクなイメージがある。五歳のときには大きなカエルでもさわれたかもしれない。でも十一歳のいまとなっては、ヤミチの恐ろしげな外見に、身がすくんでしまうんじゃないかと想像した。ヤミチがどんな姿をしているのか、ケイゴは詳しく説明してくれない。それでも、そばにいてくれていっしょに石を返してくれるなら心強かった。
「なにかをさがしているんですか?」
そのとき、突然、橋の上から声をかけられた。
二人は見上げた。大人の男の人がらんかんから身を乗り出していた。
華凛は雷に打たれたような衝撃をおぼえた。写真で見て、よく知っている顔だった。
「お父さん……」
幼いころはパパと呼んでいたその男性がそこにいた。
会えるとは思っていなかった。絶句して、立ちつくしてしまう。
「はい、でも見つかりました」
ケイゴが笑顔を返した。
「そうですか、それはよかったですね」
華凛の父親は、そう言うと立ち去ろうとした。
「あの!」
華凛は思わず声をかけてしまった。ハロウィーンのステージ衣装を着ていることが気恥ずかしかったが、それ以上に気持ちがまさった。
「そこの家の……えっと……華凛ちゃんのお父さんですよね……」
「そうだけど……華凛のお友だちかな……?」
「ええっと……」
いまの華凜は、姉の柚葉よりも年上なのに、友だちだと答えるのもためらわれた。
「今日は、娘は倒れてふせってるので、会わせてあげられなくてごめんね」
父親がまだ陽の高いこの時間に仕事から帰ってきたのは、寝こんでいる華凛のためだったんだ、とわかった。
「いえ、いいんです……」
会えるとは思っていなかったから、なにを話せばいいかわからない。心臓がどきどきと強くうつ。幼いときの父親の記憶はぼんやりとしていて、たよりない。けれども目の前のこの人になにかを伝えたくて、なにかを伝えなければならないと思って、華凛ははだしのまま河原の斜面を、何度か草ですべりながらもかけあがった。
橋のたもとまであがった。なのに、頭のなかにはなにも浮かんではこない。父親の前まで来て、なにも言えなかった。
「あの……」
ハロウィーン用の短いトップスの胸元を右手でにぎりしめ、言葉がのどでかたまってしまって、口が開いたり閉じたりした。
すると――。
「もしや、きみは……」
父親はなにかを感づいたようだった。十一歳の華凛を見つめ、でも、思い浮かんだことが信じられず、ためらいがちに言った。
「そうか……。どういうわけかはわからないけど、きみがここにいるということは、私は遠からずこの世にはいなくなるのかな……?」
少しさみしげな顔をした。話しかけてきたのが成長した華凛であり、それがわかると同時に、未来から来たことの意味が察せられたようだった。もちろん、このあとになにが起こるのかは知りようはずもない。それでも、この非現実的な出来事を受け入れたなら、その理由にはなにか大きな災厄が関わっているのだと予想できたのだ。
華凛は首を横にふった。
「そうならないように、ここへ来たの。わたしが、お父さんを救ける。ぜったいに」
左手の石を強くにぎった。
そして、華凛の靴とソックスをもって、おもむろに川から上がってきたケイゴを振り返った。
「ケイゴさん、行こう!」
力強く、父親に約束するように、そう言った。
父親とわかれ、神社に向かって走っていった。勢いで、「ケイゴさん」などと年上の男の人を呼んでしまったことに若干の照れくささを感じつつ、そんなことよりも、やらなければならないことを早く終わらせて、現代にもどりたかった。もどって、結果を見たかった。
石段を一段とばしで駆けあがり、あっという間に境内に至る。
神社の参道である石畳に立ち、華凛は周囲を見回す。無人の境内は静かで、まだ秋祭りの準備もされていない、静謐な空間だった。
(この近くに妖怪ヤミチがいる……)
「妖怪はどこにいるの?」
息をはずませ、華凛はたずねた。
「社殿の裏側、林のなかだよ」
華凛に続いて境内に入ったケイゴは答える。
「そっと静かにね。いくら石を返そうとして持っていったとしても、騒がしくしていたら怖がって出てきてくれない」
「そうなんだ……」
「どんな姿だろうと、けっして驚いて声を出したりしないで」
「う……うん」
華凛はぎこちなくうなずいた。自信はなかった。とんでもなく醜悪な妖怪だったら、思わず悲鳴をあげてしまうかもしれない。
「でも、できれば、どんな妖怪なのか教えてほしいなぁ」
だからそう希望した。
「そうしたいところだけれど、ぼくもどんな姿なのか知らないんだ」
ケイゴはなんでも知っているかというと、そうでもなかった。
「じゃ、出てきても妖怪かどうか、わからないんじゃない?」
「いや、ぜったいにわかるよ。だって生き物じゃないんだから」
生き物じゃない――。生身の体をもった存在ではない。それは華凛の理解の外にあるものだった。
突然あらわれたり消えたり、なにも食べなかったり、大きさが急激に変わったり、風をあやつったり、とにかく、ありそうにないことをする。妖怪とはそういう不思議なものだ。見ればわかる、というケイゴの言葉は信じられそうだった。
二人して神社の裏の林のなかへふみこんでいく。落ち葉が靴の下でがそごそと音を立てる。
しばらく無言で進んだ。静かで、鳥の鳴き声さえしない。普通の林とはどこか様子の違う雰囲気があった。もともと神社は神さまを祀る場所である。厳かな空気が満ちていてもおかしくはない。そこに妖怪がいる、といっても不思議ではないような気がする……。
三分ほどたっただろうか。
「ヤミチがあらわれたよ……」
ケイゴが小声で言って、ぴたりと歩みを止める。
華凛も立ち止まった。
「どこ?」
「静かに待って」
そう言われて、華凛は口を閉じて息をつめる。
すると、がさがさっ、と草がゆれた。
さっとそこへ目をむけた。
華凛は息をのんだ。ひっ、という声がのどの奥から出てしまう。
身長五十センチほどの二本足で立つ体毛のない赤い体がそこにあった。目はぎょろりと大きく、瞳がネコのように黄色い。口は大きく耳まで裂けていた。顔の両側にある耳は真横にするどく飛び出していた。
確かにケイゴの言ったとおり、ひと目で普通の動物ではないとわかった。
(幼いころのわたしは、こんなものと遭遇して怖くなかったのだろうか?)
なにも知らないで突然こんな姿の妖怪が目の前にあらわれたら、恐怖で腰をぬかしていたに違いない。妖怪ヤミチ――。華凛にとって、それほどまでに異様な外見であった。
ヤミチは何匹もいた。もしもここでいっせいに襲いかかられたら、とてもではないが逃げきれない気がした。
「石を……返しにきました」
恐怖に負けそうになりながらも、華凛はゆっくりと言って、左手ににぎっていた石を差し出すと、草の上にそっと置いた。
そして、ケイゴといっしょに少しずつ後もどりしていく。ヤミチを驚かさないように静かに後退した。二メートル以上離れると、一匹のヤミチが草むらからのそのそと出てきた。短い脚をちょこまかと動かして草の上の石の前まで来ると、それを取り上げ、確かめるようにかざして見ている。
そのせつな、華凛の足元の地面がなんの前触れもなく消失した。
「あっ」
息をのむように声が出て、華凛は落下した。なにが起きたのかわからなかった。いきなり目の前が暗くなって、それはまるで地底深くへと落ちていくようだった。