六年前の事件
その神社は家の近くにあった。
山に囲まれた里には秋が来ようとしていて、山の斜面に作られた神社の境内にも、どんぐりが散らばるようになっていた。もう少し季節がすすむと山の木々の葉の色が変わっていくだろう。
新町華凛は幼稚園が終わると、一人でここへ遊びにきていることが多かった。過疎の村にありがちなことであるが、ごく近所に同じ年ごろの子供はいなかった。普段の遊び相手である小学四年生の姉・柚葉はまだ学校に行っている時間だ。
その神社には小さな社殿があるだけで、祭りのときは人が大勢来ても普段は無人だった。今年ももうすぐ秋祭りがおこなわれる予定だったが、いまは静かな風がときおり吹くだけで誰もいない。石畳の両側にコケの生えた古びた石灯籠が三基、ひまそうに立っていた。
とくに意味もなく、どんぐりをレジ袋に集めてまわりながら社殿の裏側へ回りこんだとき、がさり、と音がして動くものの気配があった。見ると、木々の生えた林のなかになにかが動いたようだった。
自然の多く残るこの地域には野生動物も多かった。タヌキやイノシシなど、農作物を荒らす動物はよく見かけた。シカやキジやサルを見たという人もいた。
だから華凛も、きっとそんな動物だろうと思ったのだ。以前、雪が積もったときに野ウサギを見たことがあったので、いまもなんの警戒心もなく音のしたほうへと歩いていった。
野生動物は人間の姿を見るとすぐに逃げてしまう。華凛はそれが残念でしかたない。だからそっと近づく。
なにがいるのか、目を皿のようにして林のなかへと分け入った。落ち葉をふんで音がならないように、慎重にすすんでいった。
いた……。
十メートルほど離れた木の陰からはみ出しているのが見えた。でもそこにいるのは華凛の知識にはない生き物だった。
カエルのように体毛はなく、全体が赤色をしていた。二本足で直立しており両目はぎょろりと大きかった。体長は五十センチほど。たったいっぴきで、そこにいた。
(なんの生き物かしら?)
サルでもリスでもない。
大人なら知っていても、まだほんの五歳の子供にとっては知らないことが当たり前に多く、あとで母親にでもたずねようと思って、よく見ようとさらに近づいた。木の陰に身を隠しながら、姿勢を低くして、あと五メートルほど。
じっと目をこらして、華凛はその生き物を目に焼きつけんばかりにして一歩一歩、注意深く距離を縮めていく。
ばきっ、と足元で枯れ枝をふむ音がした。意外と大きな音で、華凛自身も驚いてしまった。
ぎゃっ、という声がその生き物から漏れた。そしてさっと身をひるがえすと、ものすごいスピードで逃げていった。目にも止まらないといった感じ。
「あーあ……」
華凛の口からため息とともに声がでた。惜しかった。もう少しだったのに。
「あら?」
そのとき、生き物がいた場所になにかが落ちているのに気づいた。
きれいな石だった。大きさは握りこぶしぐらい。青色と銀色の流れるような模様が入っていて、ホタルのように弱い光を放っていた。
華凛はためらわずそれをひろいあげる。手のひらで転がして、じっくりと観察した。
少しも汚れておらず、幼い華凛の目でも、それがただの石ではないように見えた。きっとすごく値打ちのあるものだと、子供心にもそう思えた。
(ママにきいてみよう)
どんぐりでいっぱいにふくらんだレジ袋に石を入れると、華凛は林から走り出した。神社の境内を抜け、鳥居をくぐって、転びそうになりながら石段を駆けおりていく足元で、驚いたトカゲが青い尻尾を引きずりながら草むらにさっと身を隠す。
クルマもほとんど通らない神社前の道路を走って帰った。周囲は刈り取りを終えた田んぼが広がり、たくさんの赤とんぼが舞うように飛んでいた。
彼方には、山と山の間をふさぐように建設されているコンクリートの白いダムが見える。巨大な壁のように圧倒的な存在感をもって、里のどこからでもその威容を望見できた。
小川にかかる橋をわたって、神社から百メートルほど離れた家に駆けこんだ。
「ママーッ、ママーッ!」
カギのかかっていない戸をがらりと開けて玄関に飛びこむと、大きな声で呼んだ。昔ながらの日本家屋は玄関土間が広く上がり口が高い。そこへ手をついて、華凛は奥の間に向かって体を伸ばす。
「どうしたっていうの?」
取りこんだ洗濯物を奥の和室でたたんでいた母親が玄関までやってきた。祖父母は畑に出ていて、いま家には母親しかいなかった。
「ほら、これ見て!」
華凛はレジ袋を差し出して、なかから石を取り出そうと手をつっこんだ。
「あれ?」
ところが、手はどんぐりしかつかめない。
「どんぐり?」
「うん。どんぐりだけど、きれいな石をひろったの。でもどこにもない……」
「落としちゃった?」
「うん。さがしてくる」
「どこでひろったの?」
「神社で。そうそう、へんな動物がいたよ。二本足で立ってた」
「クマじゃないわよね!」
母親はびっくりしてたずねた。この付近でクマが目撃されたという話はきかないが、いない、ともいいきれなかった。冬眠が近くなると、たくさんのエサが必要になって、山からおりてくることがあるという。子供にとっては童話に登場する親しみのある動物だが、実際は猛獣だ。子供が襲われたら、ケガだけではすまないかもしれない。
「クマさんじゃなかったよ。んーとね、赤くてね、すばしこかった。ママ、なんだかわかる?」
「赤くてすばしっこい……」
母親はオウム返しにつぶやき、そんな動物に思い当たらない。きっと、なにかの見間違いだと思った。ニホンザルとか……。
「あ、そうだ、石をひろってこなくちゃ」
思い出して、華凛は弾かれるように玄関から飛び出していこうとした。ところが、外へ出る前に、まるでゼンマイの切れたオモチャのように突然ばたんと倒れてしまう。
「華凛!」
母親は悲鳴を上げて土間へおりた。倒れた娘を抱き起す。
華凛は意識を失っていた。額に手を当てると熱くなっていて、頬も赤くなっている。
看護師の資格を持っていた母親は、熱中症を疑った。すぐに抱きかかえて和室へと運びこんだ。
布団をしいて寝かせると、保冷剤で頭を冷やして様子を見た。
それから華凛は三日間、起きなかった。原因はわからなかった。
華凛が目覚めたのは、秋祭りがとりおこなわれる二日前だった。
楽しみにしていた秋祭りにはどうしても行きたかったから、その前にすっかり体調が戻って華凛はよろこんだ。
そのときには、神社で出会った奇妙な生き物のことも、ひろった宝石のような石のこともすっかり忘れていて、姉といっしょに遊びに行くことしか頭になかった。
その日、午後からおこなわれる祭りの準備が午前中から神社で始まっていた。秋の収穫を祝い、神様に感謝して新米を奉納するのである。昔からの素朴な信仰による祭りで、規模もそれほど大きくない。
それでも地域の人々にとっては大事な祭りで、村人が総出で盛り上げる。とくに今年は、来年には村全体がダムの底に沈んでしまい、この場所での祭りは最後となってしまうとあって、とりしきる自治会から、いつもよりにぎやかにやりたいとの意向がでていた。代々使われているお神輿に、例年以上に多く飾りつけをし、神社に奉納するお米の量も増やした。来年からは、神社も居住地も、里のすべてがべつの場所に移るので、神さまにこれまでの感謝をこめたお祭りにするのであった。
大人たちの祭りであるが、里に住む子供たちにとっても、この祭りは楽しみだった。お神輿が里じゅうをめぐりながら、あちこちでおかしを配るからだ。いつ配るかわからないので、子供たちはお神輿のあとをついて回った。
午後四時。小学校の授業が終わって、子供たちが下校する時間に合わせて、そろいのはっぴを着た大人の男たち十人ほどでかつがれたお神輿が、交代のかつぎ手をともなって、集会所の建物横に建っている、自治会の管理する古びた倉庫を出発した。
何十年も使われてきたお神輿は、漆もあちこち剥がれてくたびれた感じがいなめなかったが、龍の彫刻も立派な重さ二百五十キロほどの大きなお神輿であった。
華凛は、学校から帰ってきた柚葉といっしょに、うきうきしながら出かけた。
お神輿といっしょにお囃子も陽気に里を練り歩いた。太鼓がとんとんと鳴らされ、笛がぴいぴいと吹かれる。その音を聞きつけて、大人も子供も家の外へと出ていく。人家が密集していないので見通しがよく、移動していくお神輿を見つけるのは簡単だ。
華凛は柚葉に手をひかれて、そこへ向かった。
そして、先に来ていたほかの子供たちといっしょにお神輿のあとをついて歩いた。
お神輿をかつぐ大人たちは威勢のいいかけ声をあげている。時間をかけて里をゆっくりめぐって、陽が暮れるころに神社に到着するのだ。
お囃子がやんで、お神輿のかつぎ手が交代する。そのとき、
「おかしを配るよー!」
段ボール箱を持った大人が呼びかけると、なかから何種類かのおかしの入ったビニール袋がいくつも取り出された。
歓声を上げながらむらがる子供たちに、次々と配られていく。
華凛と柚葉もひとつずつもらった。ニコニコ顔で受け取ったおかしをさっそく食べはじめる。姉に包装をあけてもらったうまい棒をかじる妹。
戦利品のおかしを受け取った姉妹はいったん家に帰った。日が暮れたころ、こんどは神社に出かけるつもりだった。子供にとって祭り自体に興味はなくとも縁日の屋台には心がおどった。数が少ないながらも金魚すくいやヨーヨー釣りやリンゴあめなんかの屋台を毎年楽しみにしていた。
六時ごろ、父親が仕事を終えて帰ってきた。
「おかえりなさい。子供たちがいっしょにお祭りに行こうって、お待ちかねよ」
玄関に入るなり、母親が出てきて言った。
華凛と柚葉も、足音をばたばたと立ててやってきた。
「パパ、行こう」
と、せがむ。
「わかった、行こうか」
「パパはお仕事から帰ったばかりなんだから。少し休憩してからにしたら」
「だいじょうぶだよ。お祭りに行って、帰ってから晩ごはんにしよう」
「やったー!」
二人の娘ははしゃいで手のひらをタッチ。
「じゃあ、行くぞ」
父親は帰宅しても、靴をぬぐことなく、また外へ出た。華凛と柚葉がそのあとに続いて出てきた。
辺りはもうすっかり暗くなっていて、陽の沈んだ西の空は残照でかすかに赤かったが、それもすぐに夜に飲みこまれてしまうだろう。
祭りのメイン会場である近くの神社は、飾られた提灯に電気が灯され、境内も、そこへ続く石段も明るく照らされて、それを見るだけでもわくわくするものがあった。あちこちから集まってくる人たちが、列のようになって道を歩いていたり、自転車に乗ってきたり、あるいはクルマを使ってやってきたりしている。
早く早く、と気持ちをおさえられなくて、華凛と柚葉は手をつなぎながら父親をせかす。普段は速く感じる父親の歩みが、このときばかりは遅く感じた。
ほどなくして神社についた。
華凛にとって、この夜の神社はいつもと違う装いをまとい、よく知っているはずなのにどこか異なる場所のように見えた。それはまるでおとぎの国のような空間に変わっていて、心がときめくのだ。
赤くつらなる提灯の光。日頃、ほとんどひとけがない神社に、今夜は村じゅうから集まってくる人たち。境内から絶え間なく流れてくるお囃子の音。そして、一番の目当てである屋台の並び。華凛には、そのすべてが幻想的に感じられた。
神社の入り口である石段につながる道路にまで屋台が開いており、かき氷やたい焼きやボールカステラなんかが売られていた。
華凛は早くも魅了されて目を輝かせていた。数日前に、この神社であった出来事などすっかり忘れて。あるいは、あれは夢だったのだと思っていたかもしれない。
「パパ、あれ買って」
チョコバナナを父親にねだると、
「少しにしておかないと、晩ごはんが食べられなくなるよ。小さいバナナにしようか」
ダメとは言わず、せっかく祭りに来たのだから晩ごはんにひびかない程度ならと、財布を出してきた。
「ずるい、わたしも」
「お姉ちゃんもチョコバナナ?」
「わたしはイチゴ!」
さいそくされて柚葉の分も買うと、
「さぁ、上まで行こうか」
チョコバナナとチョコイチゴを食べながら、三人で石段をあがっていく。五十段ほどの石段をあがりきったところにある鳥居をくぐると、神社の境内に入った。
人がいっぱいいた。
いくつかの屋台が煌々とした明かりをつけていて、お社のなかではお囃子が鳴らされ、その前にはお神輿が置かれていた。賽銭箱の前ではお参りをする人の列ができていた。
華凛と柚葉と父親はその列に並び、お参りをすませると、境内に入ったときから目をつけていた金魚すくいへと一目散に向かった。
五歳ではなかなかうまくすくえない華凛は、少しはすくえた柚葉に負けまいと、こんどはヨーヨー釣りに挑んだりした。
オモチャのアクセサリーでも、子供にとっては宝物に見えた。
時間がすぎていき、もう晩ごはんの時間になってきていた。家では母親と祖父母が待っている。
「パパはこれから自治会の人にあいさつに行くから、二人とも先に帰ってなさい」
あいさつで時間を取られる間、子供たちは退屈するに違いない。
小学校四年生の柚葉なら、夜暗くても妹をつれて帰れるだろう。祭りで人出もあることだし、心配はいらないと思った。
「うん、わかったよ」
秋祭りを心ゆくまで堪能した姉妹は境内を後にした。
父親は、社殿の近くに張られたパイプテントの下に集まっている、祭りの実行委員である自治会の人たちにあいさつした。県の職員である父親は、ダムの底に沈んでしまうこの里の住民たちと、国や村役場のパイプ役として最初の説明会からずっと関わってきていた。
ダムの建設は、最初は反対運動もあり、計画は簡単にはすすまなかった。それでも住民たちとの交渉に多くの時間をかけ、話し合いでようやく補償問題を解決してダムは着工し、いよいよ完成までもう少しというところまでこぎつけたのだ。来年には竣工し、貯水がはじまる。
父親があいさつに行くと、自治会の人たちは、「ごくろうさま」と出迎えた。
「この場所での秋祭りも最後になるけど、神社も新しく別の場所に建て直されるわけだし、神さまも許してくれるだろう」
と、七十歳をすぎた白髪頭の自治会長が笑顔を見せる。
「新町さんもここまでたいへんだったねぇ。ビールでも飲んでいくかい?」
パイプテントの下に運び込まれた折りたたみ式のテーブルには、缶ビールが何本も置いてあった。大人たちも祭りを楽しんでいた。
「いや、ぼくは公務員ですので」
「もう勤務時間は終わったんだろ、まぁ、飲んでいけよ」
酒が入って気分がよくなっているのか、紙コップを押しつけられた。
しかたなく父親はビールをもらった。一杯だけ飲みほすと、
「じゃあ、ぼくは、奥のお社まで行って、そこの神さまにもあいさつしてきます」
会釈してテントを離れた。
この神社には、本殿であるお社の他にも、その裏側に「奥社」が存在した。それは本殿よりも山の上の方にあり、普段は誰も寄りつかず、それがあることすら知らない人も多かった。いつ誰がなにを祀って作ったのか――。けれども、少し上から里を見渡せるそこにあるからにはきっとなにか意味があるはずで一度調べてみたことがあった。
すると、土地の古い言い伝えに出会った。ヤミチ、という妖怪がこの山には棲んでいて、ここはもともとはそれを鎮めるための神社、ということらしかったが、それ以上詳しいことはわからなかった。過去になにか大きな自然災害でもあったのかもしれない。それがヤミチという妖怪の言い伝えに変化したとも考えられた。
妖怪など迷信にすぎないと思ってはいたが、ダムに沈んでしまうわけだから、父親としても無視できなかった。
細い石段を上がっていって一分ほど。たどりついたそこにあったのは、小さなお社だった。賽銭箱もなく、犬小屋ほどの大きさのそのお社は、お祭りのにぎやかさから取り残されたかのように、さみしく建っていた。自治会が持ち回りで掃除しているとはいえ、お社が朽ち果てるのは時間の問題のように思えた。
月明かりの下、父親は手を合わせる。そして、ダムの底に沈んでしまうことに許しを請うた。
と、そのとき、背後でなにか物音がした。がさがさと林の草をかきわける音だった。夜行性の動物……タヌキとかかなと思って振り返ると、そこには二本足で立つ、見たこともない生き物がいた。しかもその数は十ほども。体長は五十センチほどしかなくとも、それだけの数の未知の生き物が現れては、さすがに怖さを感じた。しかも夜なので暗く、生き物の正体ははっきりしない。
凍りついたように、しばらく見つめ合ったまま、互いに動かなかった。
すると、
「玉を返せ」
なんと、生き物が口をきいた。
父親は空耳かと思った。人間じゃないのに、言葉をしゃべるわけがない。
ところが、
「あのときのやつと同じ匂いがする。玉を返せ」
「玉を返せ」
「玉を返せ」
そいつらは口々に言って、林のなかから飛び出してきた。あっという間に取り囲まれた。
父親は腰を抜かした。
「なんのことだ? 玉って、なんのことだ」
なにを言っているのか心当たりがない。それよりも、人間ではないなにかが言葉を話しているという状況が飲みこめなかった。
「おまえの匂いはおぼえているぞ」
「あの玉は、われらのものだ」
「返さないと、ただではすまぬ」
またも口々に言った。
動物じゃない、と父親は思った。けれども、それじゃなにかというと……そこで気づいた。こいつらがヤミチ? まさか、ほんとうに妖怪が!
「匂いってなんだ? 玉なんか、知るものか」
妖怪と会話をしているのが現実とは思えなかった。とはいえ、話が通じない。それは妖怪だからなのか――。
「玉を返せぬなら、おまえの体を預かる」
ぎゃぎゃ、と鳴き声のようなかけ声がして、いっせいにその生き物が飛びかかってきた。
たちまち黒い煙がたちこめて、父親を覆い隠してしまった。声をあげることすらできなくなった。
そしてあとには、なにもなくなっていた。父親も、その生き物も気配すらなくなって、そこには静かなお社があるだけだった。
華凛の父親が行方不明になったと大騒ぎになったのは、その夜、遅くなってからだった。