怪現象の正体は
日曜日、華凛は自転車で遠出していた。
六花から電話をもらい、いっしょに出かけたのである。場所は県営公園になっている城跡だった。昔、お城があったところで、いまは天守閣や城郭などはなくなっているけれど立派な石垣だけは残っていて、公園として整備されていた。小学校の授業の「郷土の歴史」で戦国時代末期に何某という大名が築城したといわれを習うここは、いまでは市民の憩いの場所として開放されている。
早くもつぎのマンガにとりかかろうとしている六花が、作品に登場する場所の参考にしようとそこへスケッチに行くので、華凛もついてきたのだ。家から遠かったし、一人では不安だと言うのもあって。
マンガをかくのにそんなことまでするのかと華凛は驚いた。
「だって本物を知らないと、かけないじゃん。想像だけでかくとウソになるよ」
「でもマンガって空想のもんでしょ?」
「そうだけど……ぜんぶが空想じゃないもの。絵がウソっぽいと、そこが目立っちゃう。それにせっかくかくんだから、できるかぎりクオリティを上げたいよ」
クオリティだなんて難しい言葉知っているな……そう感心してしまう華凛は、それほどの情熱を傾けている六花に比べて、そこまで本格的なものはかけていなかった。どちらかというと童話の世界に近いものしか考えていなかった。
だから今日、六花のマンガに対する真剣さが見られそうだと思った。マンガの参考にするためのスケッチというのがどんなものなのか、親友のやることが興味深かった。
城跡公園に着くと、自転車を駐輪場に残して六花はスマホのカメラであちこち写真を撮り始めた。写真といえば、旅行に行ったときの記念写真ぐらいしか写したことのなかった華凛は、六花が石垣のアップや、雨ざらしで傷んだベンチや、サビの浮いた街灯や小さな売店なんかに向けてシャッターを切っているのを不思議な気持ちで見ていた。
天守閣跡の広場まで登ってくると、今度はスケッチブックを開いた。写真も撮ったけれど、写真では収まり切れない風景をかくのだと六花は言った。
少し高台にある広場からは町の景色がよく望めた。真夏では暑くて日差しが強く熱中症になってしまいそうだったが、十月ともなれば吹く風もさわやかで、気温もそれほど高くない。秋空に白い雲は高く、急に雷雨が降り出すようなこともない。
まだ強い日差しをふせぐためのつば広帽子をかぶり、授業中に黒板を見るときのメガネをかけた六花は石のベンチに腰をかけて懸命にえんぴつを動かしている。そういえば、六花が見せてくれたマンガにはやたらと大きなコマに風景がえがかれていた。そしてその一コマで作品の世界が理解できたのを華凛は思い出した。
すごい早さであちこちの風景を写生したスケッチは何枚にもおよんだ。華凛は、夢中で絵をかく友だちの姿をスマホのカメラに収めた。一心不乱でスケッチしているところを見ていると、なんとなくそれを残したくなってしまったのだ。
お昼にはピクニック気分でお弁当を広げた。華凛は自分で作ってきていた。学校の行事とかならともかく、いつも仕事で疲れている母親を日曜の朝から起こして作ってもらうのも気が引けて。といっても、手の込んだおかずはできなくて適当なお弁当になってしまったが。もっと姉の手伝いをやって作れるようにならないと、などと思ったりした。
「マンガは、読んでいるときには気づかないけれど、かくとなると気がつくことが多くて」
コンビニで買ってきたおにぎりをほおばって、六花が自説を披露する。
「ただ絵がかきたいだけなら、好きな絵をかいていればいいけれど、マンガとなるとそうはいかない。かきたくない絵もかかないといけないから、絵をかくのがそうとう好きじゃないとそこまでかけないよね……」
キャラクターをじょうずにかける人を見ると、「マンガをかいてみたら?」なんて気軽に言ったりするけれど、人物さえかければマンガをかけるかといえば、そうはいかない。マンガには背景もあるし、家や教室など、どんな場所にいるかによって、置いてあるものがかけていないと、どこにいるのか読者に伝わらない。クルマとか自転車とか、あんまり興味のないものだって出てくるし。記憶だけでかいたりすると、細かいところが省略されて、幼稚園児のお絵かきみたいになってしまう。
「おまわりさんが出てくるシーンがあったとして、どんな制服を着ているのか、急に思い出せる?」
六花にそう言われて、華凛は思い出そうとする。が、どこかぼんやりとしか出てこない。
「五円玉がどんなものかは知っているけど、その絵をかけるかと言われたら正確にはかけない。絵をかく、というのはそういうことなんだよ。インプットがなければアウトプットはない」
まじめにマンガと向き合っている六花に、華凛は感心してしまう。熱く語る親友はまぶしいほどで、それはけっして学校では見せない面だった。
「へーえ……。そこまで考えるんだ……」
半分に切ったゆでたまごを口に入れた華凛は、広場に来ている親子づれを遠目に眺める。母親とボールで遊んでいる幼い男の子。なにげなく見ているこんな光景でも、六花は注意して見ているんだろうか、とその横顔をうかがう。
(わたしにそこまでやれるかな……?)
華凛はそこで、はたと気づいた。
(もしかしたら、いまわたしがかこうとしているマンガがどうしても進まないのは、なにも見ていないからなのかも)
絵をかく参考というだけじゃなくて、ストーリーも、想像だけでかこうとするから行きづまってしまっているのかも――。
「なんか、えらそうに言ってしまったけど……、でもわたしがマンガをかいてて感じたことだから、ぜんぜん的外れじゃないと思うよ」
ずずず、とストローが音をたてた。紙パックのオレンジジュースを飲み干して、六花は昼ごはんを終える。
ううん、と華凛は首を振る。
「そんなことない。やっぱ、六花ちゃんってすごいよ。本気でやってるんだなって……」
親友の本気度に圧倒される華凛だった。最後のブロッコリーを口に放りこんで、弁当箱のふたを閉じる。
お弁当後も、六花はスケッチと写真撮影に没頭した。こんなにもたくさんの資料が必要なのかと訊くと、念のために集めているけど全部が全部使い物になるかはまだわからないと六花は答えた。
でもそれが苦労かといえば、そういうわけでもなく、むしろ楽しげで、華凛は今日、これにつきあえてよかったと思った。
夕日が赤く城跡公園を染めている。広場も石垣も木立も赤く照らされて、二人の影も長くなっていた。
「そろそろ帰らないとね」
スケッチブックをかばんにしまい、六花はベンチを立ち上がる。
「思ったよりも時間がすぎちゃったね。今日はありがと、つきあってくれて」
「いいよ。わたしもいろいろ知ることができたから」
スマホで時刻を確かめると、もう五時半であった。日が沈むといっきに気温が下がって寒くなる。それに――。
お互い口には出さなかったが、例の怪現象のこともある。そうそう出会うとは思えなかったが、それでももしかしたらということを考えてしまう。
自転車に乗って、国道の幅の広い歩道を帰る途中で陽が沈んだ。薄暗い残照のなか、車道を行きかうクルマはヘッドライトを灯していた。
橋をわたり、高圧電線の鉄塔のわきをすぎて、二人がやっと町内にたどり着くころには、もうすっかり真っ暗だ。
前を走る六花の自転車がブレーキをかけて止まる。すぐ後ろを走っていた華凛も急ブレーキ。
「どうしたの?」
そう訊いてから、華凛はなぜ止まったのかもう想像していた。
怪現象……。そうは思いたくなかったが、まっ先にそれを思い浮かべてしまった。
六花は黙ったまま前を向いていた。道路の前方が周囲に比べて異様に暗くなっていた。街灯の光も見えない。
田んぼの横を通るこの道は、日ごろからあまり人通りがない。人がいないときに怪現象は現れるということらしいから、この状況はまさしくそれで、華凛は緊張した。
六花は一度、怪現象に遭遇していた。
「ねぇ、もしかしてこれが……?」
だからこれから怪現象が起きるのかどうかもわかるのではないかと思ってたずねた。
「あっ」
闇のなかに、人の形をしたものがいるように見えた。
逃げよう――。頭のなかではそう思っていたが、体が動かなかった。まるでかなしばりにでもあったかのように足が動かせないのだ。ハンドルをにぎりしめる手に力が入って、痛くなるほど。
突然、暗闇がひとつのかたまりとなって飛び出してきた。それは一瞬で華凛と六花のわきを通り過ぎて後方へと消えていった。そしてさらにその次の瞬間、その闇のかたまりを追いかけるように、もうひとつの気配が前方から弾丸のように撃ちだされてきたように感じられた。それは目に見えるような実体をともなったものではなかったが、風を残して通りぬけていき、最初のよりも人間のようなはっきりとした輪郭を持っているようだった。どちらかというと、とらえどころのない正体不明のものというより、体温のある存在のような。
それを目で追って振り向くと、暗い空の彼方に向かってなにかが飛び去っていった。それがなんなのか判然としない。それにもう消えてしまっていて、なにかがいたという痕跡すらなくて。
「いまのは……?」
目を見開いて、華凛はたったいま目撃したものを六花に確認する。
「あれが怪現象……?」
なにが起きたのか、怖がっているひまさえなかった。
六花は、ううん、と首を振っている。
「前に見たのは、あんなんじゃなかった……」
「人影がふたつなかった?」
「うん……」
うなずく六花。
(どちらかがお父さんの気配……?)
姉の柚葉が言っていた。でもそうなのかどうか華凛にはわからない。父親の記憶もおぼろげで、もしそうだとしても気づけない。
「とにかく、帰ろ」
華凛は言った。おそらくもう現れないだろうし、無事にやりすごしたのなら、こんなところでモタモタしていてもしかたがない。
真っ暗だった道の先には街灯が光っていた。
十月といえばハロウィーンの季節だ。町のあちこちにジャック・オー・ランタンやコウモリなんかのハロウィーンの飾りが目立ち始めている。
毎年十月三十日に駅前の広場では、商工会主催のハロウィーン祭りがもよおされる。子供たちやボランティアではたらく大人たちが、お化けに仮装したりして盛り上がった。仮設のステージも作られて次々と出し物が演じられた。縁日のように屋台もたくさん出て、夜九時まで駅前広場はにぎやかだ。キッチンカーまで来ていて、クレープ売りには行列ができていた。
華凛のダンス教室も、ステージでダンスを発表する。いつもとは違うハロウィーン仕様の衣装でステージに立つことになっていた。
夕方五時、ハロウィーン祭りが始まる。
オープニングは中学生によるブラスバンド演奏。そのあとは幼稚園児による合唱、小学生バトントワリングなど、配られたタイムスケジュールにはステージプログラムが目白押しだ。
ダンスの出番があるからと、華凛は六花といっしょに祭りに出かけていた。
もらったお小づかいで、屋台でわたあめやたこ焼きを買っては、ステージの出し物を見ていた。ハロウィーンのフェイスシールを貼ってもらって、二人とも祭りを楽しんでいる。
「そろそろ出番だから、行ってくるね」
広場に立っている街灯のひとつに大きな時計がとりつけてあり、それを見上げて華凛は六花といっときわかれる。
「いってらっしゃい。ダンス、ここから見てるよ」
手を振って見送る六花。
華凛のステージの出番は六時ごろで、二十分前にはステージ裏に建てられたテントに集合する段取りだった。
ステージの裏に設営された、運動会で使うようなアルミ製の四本柱に支えられた白いパイプテントの下に入ると、ダンス教室の先生が待ちかまえており、やって来た生徒たちに衣装をわたしていた。この日のためだけの特製のハロウィーンの衣装をかぶって、魔法使いに扮してダンスをするのだ。
華凛は衣装を受け取り、服の上からかぶった。丈の短い薄手の紫色のトップス。
姿見も用意してあるので、そこで確認する。
(これでいいかな……)
華凛はまじまじと鏡に写る自分をチェック。くるりとその場で一回転して背中もたしかめた。
そのとき、鏡のなかが突然、暗くなった。
(えっ?)
なにが起こったのかわからないで驚いていると――。
「きゃあ!」
長方形の鏡のなかから闇が飛び出してきた。ねっとりとしたタールのような黒いものが華凛を包みこもうとする。
危険を感じてとっさに身がまえた。
そこへ、べつの方向から声がした。
「やっと見つけた! きみ、こっちへ!」
いきなり腕をつかまれて、強く引っぱられた。
その痛みに顔をしかめつつも、状況がよくわからなくて、引っ張られるまま足をふみ出した。
テントの外へ出た。
華凛はそこでやっとつかまれた腕を解放された。
誰だろうと思ってその顔を見るが、知らない人だった。高校生か大学生ぐらいの若者で、華凛よりもずっと年上だ。すらりとしたスタイルで、背が高かった。どこかで会ったろうか……。
「あの……」
華凛がとまどっていると、
「説明はあとだ。時間が止まっている間に跳躍するよ」
早口でそんなことを言った。
(時間が止まってる?)
華凛は周囲に視線を走らせた。
駅前広場にいた大勢の人が全部、まるでマネキン人形のように動いていなかった。ステージ前に集まっている人も、屋台にむらがっている人も、駅へと向かっている通行人も、おこぼれをあずかろうと歩きまわっているハトも、車道を行くクルマも動いていなかった。なにもかもが写真に写し取られたかのように微動だにしない。
(そんなばかなことが……!)
そのなかで、自分だけが動けるのが不思議だった。
(それもこれも、この人がやったこと?)
人間にそんなことができるわけがなく、ということは、この若者は人間ではないのか――。いや、特殊な能力を持つ人間……。
華凛が視線をもどすと、その若者は手で空中に大きく輪を描いた。その輪の内側が白く光る。
「さ、ぼくと来てくれ」
手まねきするけれど、未知のものにたいする新たな恐怖が、華凛の足をふみとどませた。目の前にいるこの若者はただの人間でないことは間違いない。
鏡から出てきた闇を見て怪現象のことが頭に浮かんだが、またべつの怪現象が起きていて、めまぐるしさに目を白黒するばかりである。
「ちょっと、そんな……。なんですか、これ」
さらに白く光る円のなかへ入れと言われても、素直に言うことはきけない。
「きみのお父さんを助けに行くんだよ。六年前のあの日にね。時間を止めていられるのは少しの間だけなんだ。だから早く」
「お父さんを助ける?」
華凛は意味がわからない。けれども若者が切羽つまった表情で訴えているところを見ると、ここは協力したほうがいいような気がしてきた。なにより、行方不明になっている父親のことを知っているというのが、華凛に恐怖をのりこえさせた。
「そう。それはきみにしかできないんだから」
「わたしにしか……」
そう言われると、もううなずくしかなかった。姉が話していたことも思い出されて、この若者についていくことで、一連の怪現象のすべての焦点がはっきりとさだまるような気がした。
「わかったわ。行くわ」
決意して、華凛は、差しのべられた手をとる。
そして二人して、空中に浮かぶ円い光のなかへと飛びこんでいった。