六年三組 新町華凛
朝の空気が日に日に冷たくなっていくのがベッドで布団にもぐっているときから感じられる。
(そろそろ起きなきゃ……)
真夏のような寝苦しさや真冬のような厳しい寒さのない、ちょうどいい季節。
新町華凛は、白いカーテンを通して差し込む朝日で、枕もとの目覚まし時計を取り上げて時刻を確かめると、鳴る前にアラームを切って起き上がった。
六時四〇分。
月曜日。また一週間が始まる。
ベッドから飛びおりてクローゼットを開けると、クリーニングの袋をかぶった制服を取り出す。
パジャマをぬぎすて、着心地を確かめるようにしながら制服に着替えた。十月も半ばで、今日からは冬服が着られるのだ。
華凛は、夏服よりも冬服が好きだった。冬服のほうがデザインがかわいい。青いブレザーに白いラインが入っていて、オレンジ色のリボンタイも夏服にはない。
姿見の前でくるりと回る。髪の毛がふわりとゆれる。
(よし)
華凛はドアを開けて自室を出た。
ダイニングキッチンでは、もう母親が三人分の朝食の準備をしているところだった。おみそ汁の匂いがたちこめ、納豆のパックと昨日の夜に残った筑前煮と焼けたばかりのベーコンエッグが、湯気のたつご飯といっしょに白いテーブルに置かれていた。
「おはよ、ママ」
「あら、今日は呼ぶ前に起きたのね」
キッチンのガスコンロの前に立つ母親は華凛を振り返って、
「あ、そうか。今日から冬服だったわね」
えへへ、と華凛は照れ笑い。
「ちょうどよかったわ。お姉ちゃんを起こしてきてちょうだい」
「ええー」
とたんに眉をよせる。
「中間試験の勉強で、ゆうべは遅くまで起きてたから、起こしてあげないと起きないし」
「お姉ちゃんったら、なかなか起きないんだもん」
何度か母親に言われて起こしにいったが、まともに起きてくれたためしがなかった。
「さぁさ、早く」
華凛はしぶしぶ姉の部屋に向かう。せっかくいい気分の朝だったのに。
四歳上で高校一年の姉・柚葉は、ダンス部の朝練があるときは華凛より早く起きて学校に行っていたが、定期試験前はクラブ活動が休止するのでぎりぎりまで寝ている。
ドアをあけて、華凛のと同じ五・五帖の広さの姉の部屋に踏み込むと、上布団が盛り上がっているベッドに向かって、
「お姉ちゃん、起きてよ」
手に取ってみた目覚まし時計は、アラームはもうとっくに鳴ったはずなのにしっかり止められていて、これじゃぜんぜんセットした意味がない。
「お姉ちゃんってば」
布団の上から揺り動かした。でもすぐに起きない。
「学校に遅れちゃうよ」
起こし続けていると、
「うるさいわね」
怒りだした。でもやっぱり起きてはくれない。
華凛は目覚まし時計のアラームを最大ボリュームで鳴らして、布団の中に放りこんだ。
「なにすんのよぉ」
布団をはねのけて、やっと起きた。
「だってなかなか起きないんだもん」
「きのうは遅くまで勉強してたんだよ」
寝ぼけ眼で柚葉は華凛を見ると、めんどくさそうに、
「着替えたら朝ごはんに行くから」
それを聞いて、華凛は姉の部屋を出る。
朝のニュース番組を流しているテレビを習慣的になんとなく眺めながら朝食をとっていると、制服を着た柚葉がまだ眠そうな顔でダイニングキッチンに入ってきた。高校の制服も冬服だったが姉は妹ほど愛着がない様子。
無言でテーブルについた。
「明日から試験だっけ?」
柚葉の分のおみそ汁をよそって、母親がきく。
「そ。今日は午前中まで授業で、お弁当を食べたら午後には家に帰ってる」
「ええー、いいなぁ……」
「遊んでられるわけじゃないのよ。あんたも中学生になったらわかるから」
「今日は夜勤だから、夜は二人だけでお願いね」
母親は看護師で、週に何日かは家に帰ってこない。病院が夜勤の日は壁のカレンダーに印をつけてある。
「試験勉強したいからコンビニでなにか買ってきていい?」
母親が夜勤のときは、夕飯はいつも柚葉が作っていた。母親が仕事してくるおかげで生活できるんだってわかっているから、姉妹が家事を分担するのは当たり前だった。といっても、姉の柚葉のほうがやれることは多い。
「じゃあ、わたしが作ろか」
「華凛が?」
柚葉はあきれた目で十一歳の妹を見た。小学校六年生では家庭科で調理実習とかも習っていたから少しはおぼえがあるのだろう。
「できるわけないじゃん」
でも柚葉は信用していない。
「やってみたいの」
「包丁で手を切るわよ」
「どうする、柚葉? 華凛に作ってもらう?」
母親はためすような目を長女に向けた。
「わかったわよ。勉強の合間にわたしが作るわ。華凛に作らせたら、なにを食べさせられるかわかったもんじゃないし」
「そんなことないよ」
姉の失礼な言いように、妹は反発する。
「じゃあ、華凛はお姉ちゃんの手伝いね」
ふっと息をつく柚葉。父親がいてくれたら母親が夜勤に出ることもなかったろう、と思うこともあった。でもそれを願ったところでしかたがなかった。すぎてしまった時間は戻ってこない。
テレビ画面の隅に表示された時刻は七時半をすぎていた。
「いけない。もう出なきゃ」
かきこむように朝食を食べ終えると、柚葉はあわてて立ち上がり、テーブルに置いてあるお弁当箱の包を取り上げる。
「行ってきます」
あわただしくダイニングから出て行き、玄関ドアが開いて閉じる音。
「さ、華凛も用意しなさい」
「はーい」
食べ終えた食器を姉の分まで流し台にもっていき、
「じゃ、行ってきます」
ランドセルを背負い、ダイニングキッチンを出る。集団登校の集合場所に行って、そこから登校することになっていた。全員がそろわないと出発できないから、時間どおりに集まらないといけない。とくに六年生ともなると、下級生の面倒をみる立場だ。
スニーカーをはくと、玄関ドアを出た。こうして、いつもと同じ、新町華凛の一日が始まった。
家から歩いて二十分ほどのところにある創立五十四年だという小学校は、全校生徒八百人ぐらい。六年生は四クラスあって、新町華凛の六年三組は三十三人。
冬服に変わったせいで雰囲気の違う集団登校の先頭で下級生たちを引き連れてきた華凛は、登校時間で混雑する玄関で上靴に履き替え、二棟あるうちの北側校舎の三階にある教室に入る。
先に来ていたクラスメートたちのざわざわとした話し声。すでに朝からまた例のウワサで盛り上がっているようだ。
怪現象。
夕暮れの、人の絶えた道でまっ黒い影が追いかけてくるという。影は、男性なのか女性なのかはっきりしない、明らかに人間ではなかったという話もあるから「不審者」ともいえない。なんだかぼんやりしたイメージばかりで危害をくわえられたわけでもなく、危険だとは聞かない。たんに不気味なだけで。でもなにか起きるんじゃないかという恐怖が、みんなの心を不安にさせていた。
そのウワサが流れ始めてもう半月になろうとしている。もちろん、先生も含めて大人たちは無関心だ。その間にも、怪現象のあやふやな目撃談に尾ひれがついて、嘘か本当かたよりない話ばかりが流れてきていた。
教室では数人のグループがいくつかできていて、華凛がそのひとつへ入っていこうとすると、横から腕をつかまれた。
友だちの財田六花だった。華凛が小学校に上がったときからずっと同じクラスで、一番の仲良しだ。一年生の新学期、知り合いのいないクラスでたまたま前の席にいた六花に声をかけたのが始まりだった。それ以来、学年が上がって二回もクラス替えがあったのに、運良くずっと同じクラスになれた。
「ちょっと、華凛ちゃん」
と、ささやくような声音で。
(え?)
六花は、朝っぱらからちょっと真剣な顔つきで、華凛は少し戸惑ってしまう。色白だから、そんな表情をされると、気圧されるようなすごみを感じる。
「どうしたの?」
六花と同じように、声のトーンを落として訊いた。
「実はわたし、きのう見たの」
「見たって……なに?」
「みんながウワサしている、あの影よ」
「ええっ!」
「シッ。声が大きい」
六花は立てた人差し指を口にあてる。
「本当なの?」
「塾の帰りにね……」
「どんなだった?」
「人の形をした影だったと思う。でも薄暗くて、よくわからなかった」
「危ないことはなかったの?」
「思いっきり走って逃げたら、逃げ切れた」
「みんなには、言わないの?」
「うん……」
六花はうなずく。あまり目立つのは苦手なのだ。
しかし単なるウワサではなく、確かな目撃証言を得られたということは、怪現象は実在するのだ。都市伝説だと思っていたけれど、そうじゃなかった。襲われたという話は聞かないとはいえ、もしなにかあったらと思うと、華凛は朝から背筋が寒くなった。
「影なんかが現れたら、おれが正体を見破ってやる」
華凛たちから離れたところで、男子たちが威勢のいいことを言っているのが耳に入る。
「もし妖怪だったら、どうするんだよ」
「妖怪なんか、いるかよ」
「ただの影だろ。おれは、影に立ち向かってやるぜ」
「みんなで怪現象をさがしに行かないか?」
遊び半分でそんな話をしている。
そこへチャイムが鳴った。黒板の上に取り付けられている時計の針は八時四〇分。
ばたばたと音をたてて、みんなが席につく。
職員室からの移動時間を計っていたかのように、担任の先生がチャイムの鳴り終わると同時に教室に入ってきた。三十五歳で化粧の厚い独身教師は、小脇にかかえた出席簿を教卓の上にたたきつけるように置いて、
「朝の会を始めるわよ」
いつものように出席をとりはじめた。
華凛は、隣の席にすわる六花の様子をちらりと見る。誰にも話していないことを友だちに話せて、少し落ち着いているように感じられた。一度でもそんな経験をしたら、次は襲われるのではないか……と、不安に思っていてもおかしくない。
(この怪現象が、本物の事件につながらなかったらいいけれど……)
華凛がそんなことを思っていると、
「じゃあ、授業をはじめるよ。一時間目はみんな大好き算数よ」
先生がうれしそうに宣言した。
時間割どおりなのに、ええー、と不満そうな声がクラス全体から上がった。
華凛はランドセルから教科書とノートを引っぱり出す。ペンケースからえんぴつを取り出して、授業に集中しようとした。
このとき華凛は、自分の身になにが起きようとしているのか、まったく想像すらしていなかった。