LOST
短編です。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
「なあ。突然、知っている人間がいなくなるって、どう思う」
男は手玉をクッショッンに当て、七番ボールを右奥のポケットに入れた。
鮮やかなものだった。
男の言葉に俺は飲んでいるジン・トニックのグラスを止めた。
店内には俺たちの他にもう一組の男女がいるだけだった。
「誰かいなくなったのかい?」
俺はストゥールに腰をかけ直しながらいった。
男は左手で綺麗なブリッチをつくり、丁寧に八番ボールに当てた。が、球はポケットの角に弾かれた。
男は首を振った。
球が入らなかったからなのか、俺の質問にたいするものなのか分からなかった。
「失踪したのでも、死んだわけでもないんだ」そこで男は、言うべきか迷ったように一瞬黙った。
俺はキューの先にチョークをつけ、白球をうとうとしたところだった。
「誰も覚えてないんだ、その人物のことを…」
その言葉に驚き、力が乱れた。手球は八番球に当たることなく、ワンクッションして手前のポケット近くでとまった。
「なんだって?」
俺は男をみた。男はゆっくりした動作で煙草を取り出して、いった。
「昨日まで共に働き、遊び、語っていたのに、だ。
初めからそんなやつ存在しなかったように、みんなの中からそいつの全ての記憶、痕跡が消えてる」
今度は俺が首をふる番だった。
「そんなやつがいるのか?」
俺の問いに男は疲れたように笑っただけで何もいわなかった。
「大変面白い話しだけど、信じられないね」
「ま、それはそうだろうな」
もうナインゲームには興味を失ったように、男は煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。
「ひとつ忠告して言いかな」と俺はいった。
男は軽く俺をみた。
「あまりそんな話をしない方がいいと思う。頭がおかしいと思われるだけだ」
「ああ。分かってる……たとえ話だよ」
男は目を細めて遠くを見つめている。その姿をみた俺はなんとも言えない気持になった。
「……仮に聞くけど、その人物の名前は?」と俺はいった。
男が小さく名前を呟いた。
その名前の響きは、何故か俺の胸を締めつけた。
男が何か不安そうな、それでいて少しばかり期待したような目を俺に向けていた。
俺は笑ってやった。
「俺が『あ、思い出した』とでも言うと思ったか? 全然しらねーよ。そんなやつ」
男は「だろうな」といってどこか寂しい笑顔をかえした。
しかし俺はその時、確信していた。
分厚い雲が月を覆い隠そうとも、月が必ず存在するように、その消えてしまった人物がいた事を。
それは確かに存在したのだ。
それも、俺の、とても近くの存在として。
語り、遊び、時には喧嘩もしたかもしれない人物。
でも俺はその人物についてなに一つ思い出すことは出来なかった。
男か女か。それとも老人か子供か。それすら分からなかった。
俺はグラスを傾けながら、外の音に耳をすませた。答えが聞けるかもしれないと、無意識に考えたのだろうか。
しかし聞こえたのは知らない音楽に混じって聞こえる雨の音だけだった。
明日、晴れれば、その人物について思い出すことが出来るだろうか、と思った。
いや、出来ないだろう。
寝て起きれば、何事も無かったように失われた人物を知ることなく、時間は流れるだろう。
それはこのグラスに入った氷が溶けてなくなってしまうように、必然なものとして俺は受け入れるだろう。
しかしこの男は違う。
今は存在しなくなった人物を何処かで感じながら生きていくのだ。
俺が失い、男だけが取り残された記憶を持ちながら。
俺は男にたずねる気にはなれなかった。
どうして俺は覚えて無いんだと。
どうしてその人物は消えたのだ。
なにより、お前は何故覚えているのだ、ということを。
俺は酒をあおった。
忘れてしまおう。
今すぐにも、こんな話しは忘れるべきなのだ。
たとえその人物がとても大切なものだとしても、俺にはどうする事も出来ない。
それは俺以上に男が分かっているのかもしれない。
その人物の記憶が無い俺に、何が出来るというのだ。
横で男は何かに耐えているよう歯をくいしばっていた。
俺にはこの男のように、その人物について考え、嘆く事も、悲しむことも出来ないのだ。
ぽっかりと無意味に心に穴をあけられたような感じだった。
そこに有るのは悲しみでも怒りでもなく、いいしれない喪失感だけだ。
泣くことも出来ない俺はどうすればいい?
やはり忘れるべきなのだ。こんな話しは。
俺は再び酒を飲んだ。
頭の中にモヤがかかってくるのを感じた。
じとじとした雨が振る音を聞きながら、目を閉じ、俺は酒がもたらしてくれるだろう、歪で柔らかな場所の訪れを待つことにした。
End
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他にも短編を書いてますので、よろしかったら読んでみて下さい。