馬の背よりも、本よりも
昨日読み残していた数ページだけ。
そんなつもりが、気がつけば読書に没頭していた。没頭してしまうと周りがまったく見えなくなる――僕の最大の欠点だ。
「それで」
背後から伸びてきた二本の腕が、読んでいた本をパタリと閉じた。そのままギュウッと、苦しくなるほど強く抱きしめられた。
「私はいつまで、ほったらかしにされるの?」
囁かれる抗議の声と、背中に当たる、やわらかな素肌のぬくもり。
しまった、と思ったが後の祭り。
「ご、ごめん」
「あなたの恋人は、私じゃなくて、本でしたっけ?」
少し尖った声が、耳朶を打つ。
「読書の邪魔なら、帰りましょうか?」
「ま、待って! 謝る、謝るから! 土下座でも五体投地でも、何でもするから!」
慌てた僕に、君が小さくため息をつく。腕の力が緩んで、まったくもう、と僕の頬にキスをする。
「土下座も五体投地もいりません」
「え、じゃあ――」
「でも許しません」
本を置いて、こっちを向いて。
甘い声で命じられ、僕は素直に従った。
毛布をかぶった君が、あきれ半分の笑顔で僕を見つめていた。
「ほんと、読み始めると周りが見えなくなるんだから。困った人!」
「いてっ」
君の指が、僕の額を強めに弾く。顔をしかめた僕を見て、君が楽しそうに笑う。
「で、あなたの恋人は、誰?」
僕の頬をなでた後、誘うように君が腕を広げた。
僕は素直に、君の腕の中に身を投じる。
「僕の恋人は君だよ、柚結」
「信じていいのかしら?」
笑いを含んだ君の言葉に、「信じて」と優しくキスを返す。
「柚結。今読んでた本に、僕にぴったりの言葉があったんだ」
「どんな言葉?」
「アラブの諺でね。楽しみは、馬の背の上、本の中、そして女の腕の中」
「なにそれ」
「つまり、本を読んでるときより、こうして柚結の腕の中にいるときのほうが楽しい、てこと」
「シャワーから戻った私に気づかず、三十分もほったらかした人に言われてもねぇ」
「いや、それは」
言葉に詰まった僕を、君の両腕が包み込む。君のぬくもりに包まれて、僕は幸せな気持ちになる。
「ほんと、ごめん。許して」
「許しません」
「どうしたら許してくれる?」
「口先だけじゃなくて」
蠱惑的な笑みを浮かべ、君が囁く。
「本よりも私を愛してるって、証明して」
僕はうなずき、明かりを消した。
これでもう、本は読めない。
柚結、こんな僕を愛してくれて、ありがとう。
愛しているのは君だってこと――今からちゃんと証明するからね。