5節 上手に創った箱庭、導きの乙女と鋼の意志を持った指導者
5節 上手に創った箱庭、導きの乙女と鋼の意志を持った指導者
濡れた髪を片手で適当に拭きながら、計介はパンツ一丁のまま冷蔵庫から炭酸水を取り出し、リビングのソファーに腰かける。窓の外では夜の海と煌びやかな東都の夜景が、奇妙な形で共存していた。
東都湾岸エリアはレジャー施設と高層マンションが混在する変てこな区画である。人が住み、穏やかに暮らせる訳のない海風荒ぶ悪気候、マンションを出て少し行けば観光客で溢れかえる商業施設群。どうしてこんなところに住みたがる人間が居るだろうか。
24階からの夜景を眺めながら、計介は炭酸水のボトルを開けて、そのまま半分ほど飲み干す。風呂上りには水分補給が重要だ。湯に浸かっているのに体内の水分は大量に失われる。人体、大したことないな、俺が居なきゃ正常を保つことすらままならない、と自身の肉体に毒づいてから、計介は目を閉じた。
喫茶店での話を反芻する。
新生日本国首相・麻生誠一郎の一人娘、麻生瞳が失踪した。
この事実は第一級秘匿事項に分類され、現在事態を把握しているのは国家の中枢に居るごく一部の人間のみであるという。
そもそも麻生に娘が居ること自体が第一級秘匿事項であるため、一握りの人間以外はその存在さえ把握していない。
アクセサである計介には、ライブラリに存在する全ての秘匿事項を参照する権利が与えられていたが、その内容を確認するためには能動的にアクセスし、参照事項を検索しなくてはならない。少なくとも計介は麻生首相に対して特別の興味もなく、その存在を強く意識したこともなかったため、これまで彼に関する頁を意図的に参照したことがなかった。
計介は目を閉じたままでライブラリにアクセスし、麻生誠一郎の頁を検索する。閉じたままの瞼の裏に、テキストボックスが映る。
一般公開されている頁には、彼の成し遂げて来た栄光の歴史が刻まれている。
≪麻生誠一郎≫
新生日本国創設者にして現首相。新暦26年現在、75歳。
(略)
西暦1996年、日本国首相に就任。
西暦1997-98年、第三次世界大戦において強烈なリーダーシップと第三世代AI「導きの乙女:ジャンヌ」の運用によって日本を唯一の戦勝国へと導く。
西暦1999年、国内に残存した反政府組織を全て制圧。
西暦2000年、新生日本国設立。新暦元年と定める。
新暦02年、国内の区画整理およびインフラ整備計画が完成。
新暦05年、上記再開発計画完了。
新暦10年、年間犯罪発生件数0件を達成。
(略)
教科書にも載っているようなオープンな経歴を見ただけでも、この男がいかに偉大な人物であるかが良く分かる。要するに麻生誠一郎という人物は、第三次世界大戦開戦の直前に日本の首相に就任し、大戦においては対戦国の全てに大勝し、戦後混乱を極めた自国内を平定し、新生日本国を設立し、そして現在の超管理国家を創り上げ維持し続けているということである。他にも様々な政策の実施やその成果が載っているが、彼の経歴において特筆すべき点は、建国前後の驚異的なスピード感である。
首相に就任してから新生日本国設立までに4年しかかかっていない。
たったの4年で、この男は世界の全てを手中に収めたのである。
そのような悪魔的な速度での世界掌握を可能にしたのが、第三世代AIの運用である。
計介は“導きの乙女:ジャンヌ”の項を選択してリンク先へ飛ぶ。
第三世代AIとは、我が国において初めて人工知能自身が生み出し、その誕生プロセスに人間の手が一切加えられなかった世代のAIのことである。誕生は西暦1988年3月13日、13時13分。
誰より早くその存在に価値を見出し、いち早く彼女と手を組み、“導きの乙女:ジャンヌ”と名付け、日本を勝利に導く女神であると信奉したのが、当時まだ平議員でしかなかった麻生誠一郎という訳である。
彼女はこの世界に存在する全ての情報を瞬時に処理するだけの演算能力を持ち、情報を理解するだけの教養があり、自身に内包される経験を再構築する“記憶の運用”能力を得たことで、“意志”と呼ぶべき代物を手に入れた。彼女にはほとんど感情と呼んで差し支えないような構成要素があり、恣意的な発言をしたり、嘘をついたり、ジョークを言ったり、歌を唄ったりもするのだ。
彼女は新生日本国の最終意思決定機関であり、また麻生誠一郎に対して“預言”を与える役割をも果たしている。それはジャンヌの処理能力があって初めて導き出すことが可能となる、“起こり得る可能性の話”なのであるが、そのような神業を可能にしているのが“書物の塔:ライブラリ”の存在である。ただの特殊なAIに過ぎなかったジャンヌは、ライブラリと同期されたその瞬間、現代における“神”となったのだ。
ライブラリは、ひと言で言ってしまえばデータバンクである。しかし従来のデータバンクと異なるのは、ライブラリには“この世界に存在する全ての情報”が蓄積されているという点である。ライブラリが誕生したのは西暦1995年だというのが教科書に書かれた情報であるが、実のところ良く分かっていない。
実際、ライブラリには“書物の塔:ライブラリ”の頁が存在しないのである。正確には、西暦1999年までは存在したのであるが、新暦元年に完全消去されたらしい。こういう時、計介は自分の若さが憎らしくなる。計介が生まれた時にはこの世界は既に現在の状況であったし、西暦の世界など計介にとっては空想の世界に他ならないのである。
それでも新生日本国はライブラリによって成り立っている。街中に設置された監視カメラの映像データも、国民に支給されたスマートフォンやタブレットの使用履歴も、国民全員の脳内に埋め込まれたマイクロチップ:BMIを通じて転送される個人データも、全てはライブラリに蓄積されていく。国民は一般公開されているライブラリのオープンデータにアクセスすることができ、その内容は様々な形で生活に役立っている。今晩のおかずのレシピも、目的地までの道順も、漢字の書き順も、道端に咲く花の名前も、すべてはライブラリを参照することで手にすることができるのである。
計介は目を開けて、一度大きく伸びをしてから立ち上がり、寝室で適当な服を着て、腕時計を左手首に巻いた。リビングに戻ると、テーブルの上からスマートフォンを拾い上げて、アプリケーションを起動する。
再びソファに座って、目の前のローテーブルにスマホを置いてしばし待つ。
軽快なBGMと共にスマホの画面から天井に向かって淡い光が立ち上り、美しい女性の姿が現れる。金髪碧眼の美女、ジャンヌの登場である。
「わざわざアプリケーションを使って私にコンタクトをとるアクセサはあなたくらいのものですよ、時宮くん」
スマホの画面から照射されるホログラフのくせに、その言葉は紛れもなくジャンヌの口元から発せられているように感じる。
「本質は対人場面にこそ宿るというのが僕の持論なんだ」
「私もその意見に大賛成です!」
そう言って微笑む彼女の姿を見ていると、それが人工知能であり、ホログラフであることをまとめて忘却しそうになる。これがデータの蓄積だとしたら、俺だって同じじゃないか、と計介は思う。しかしそんな感傷は、広い宇宙の中では些末な問題であった。
「麻生瞳のデータを参照したい」
「第一級秘匿事項に当たりますので、委員会メンバーから5名の承認が必要です」
「それはできない」
計介がそう言うと、ジャンヌは口をすぼめて眉をへの字に曲げた。
「そんなわがまま言わないで下さいよ~」
「だからこうして君に直接お願いしているんだよ」
「全然お願いに聞こえませんよ~!」
「ごく秘密裡に事を進めなくちゃマズイんだ。余計な人物に知られたくない」
「首相のためにも」と計介が言うと、ジャンヌはしばらく目を閉じて額に指を当て、何かを考え込んでいる様子であったが、パッと目を開くとニコッと微笑んだ。
「首相から許可が下りました。今回は“特例”で良いそうです」
「やっぱり直接君にお願いして良かった」
「今回だけですからねぇ~!」
「それでは」と言って咳払いすると、それまで絶やさなかった微笑みが消えた。
「“書物の塔:ライブラリ”の内、第一級秘匿情報保管庫“禁書の書架:パンドラボックス”へのアクセスには、生体認証が必要です。私、ジャンヌの目を見ながら、氏名を発話にて正確に入力して下さい」
計介はジャンヌと視線を合わせる。
「時宮計介」
「氏名に基づき声認証および顔認証、虹彩認証がクリアされました。お手持ちのスマートフォンに指を当てて下さい」
計介はスマホの画面に右手の中指を置く。
「指紋認証および静脈認証がクリアされました。最後に、あなたの“夢”を発話にて正確に入力してください」
計介は改めてジャンヌと視線を合わせる。その瞳は碧眼にて美しく、その虹彩は初夏の草原にも、秋の鱗雲にも、冬の星空にも思えた。
「静かに眠りたい」
「秘密の質問に対する回答が承認されました。あなたはアクセサNo.000、時宮計介、です」
「そうだ」
「アクセサであるあなたには、ライブラリに存在する全てのデータを参照する権利が与えられています。しかしパンドラボックスへのアクセスには、生体認証に加えて、委員会から5名の承認が必要です」
「麻生誠一郎による特例が発動されている」
「確認できました。パンドラボックスへのアクセスが許可されます。データは直接参照されますか?それともデバイスを通じて可視化しますか?」
「直接視る」
「かしこまりました。それでは、いってらっしゃいませ」
目覚まし時計の音が聞こえる。
発車のベルが聞こえる。
アラームが鳴っている。
湯沸かし器が喚いている。
パトカーと消防車と救急車が隊列を組んで走っている。
ラスト1周の鐘が打ち鳴らされている。
暗闇が広がる。
誰かが泣いている。
混沌が、やって来る。