4節 瞳は良く手入れをされた小麦畑で早朝に見られる金色
4節 瞳は良く手入れをされた小麦畑で早朝に見られる金色
「愛とは何か!何か!何なのか!」
講堂の檀上には薔薇の花びらが舞っている。
全校生徒899名の前に立ち、両手を広げたその一身に薔薇のシャワーを浴びているのは、東都学園の生徒会長、伊集院光輝その人だ。
「愛とは2学期!!2学期こそが愛!!君たち全員、よくぞ誘惑の夏休みから舞い戻って来てくれた!ようこそ2学期へ!!ようこそ愛の学園へ!!」
講堂の照明が落ち、スポットライトが伊集院会長を照らし出す。薔薇の花びらは益々量を増し、もうほとんど会長の姿は見えない。
「2学期には何がある!?そう体育祭がある!文化祭がある!!そしてクリスマスがある!!2年生には修学旅行もあるではないか!!これが愛でなくて何だと言うのか!?愛とは希望だ!生命の輝きだ!諸君!いや諸君!!イベントだらけのこの2学期を通して、大きな愛を育みたまえ!!そしてまずはこの私が!この伊集院光輝から!!君たち全員を愛そうではないか!いや既に愛しているのだ!!!!」
会長の咆哮に続いて方々から歓声が上がり、講堂の窓ガラスがビリビリと震える。
振り返ると、絵里が引きつった笑顔を送って来た。
どうやら絵里も若干引いているらしい。
伊集院会長は入学したその日に生徒会長に就任するという異例の経歴の持ち主で、学力、性格、指導力、容姿等の全ての要素が、生徒会長としての資質にピッタリと適合しているのだという噂だ。
東都学園では、入学のタイミングと、学年が上がるタイミングで、生徒一人ひとりに最適な役割が通知される。それはAIによる適正診断の結果に依るもので、この役割に関しては生徒側に拒否権がない。つまり、委員会や係活動に関しては、毎年4月に来る通知に従い以後1年間、役割を全うするしかないのだ。
一方、部活動に関しては自由選択が認められている。もちろん、部活動についても適正診断の結果は通知される。でもその“自分に合った部活動”に所属するかどうかは生徒一人ひとりの判断に任せる、といった具合になっているのだ。
そんな具合で、伊集院会長は1年次から生徒会長で、今年で3年目という訳なのだ。
私は去年からの会長のお姿しか知らないけれど、去年よりも薔薇の量が随分と増えた気がする。どうやら会長のこだわりで、演出の薔薇の花びらはホログラフではなく“本物”しか使わないとのことなので、後片付けは毎度のこと大変そうだ。
「以上、伊集院会長による新学期のご挨拶でした。諸般の事情により、今晩の学生寮・大浴場は、“ローズ風呂”とさせて頂きますのでご了承ください」という司会生徒の言葉に合わせて、清掃委員の学生達が素早く檀上を片づける。
そんな様子を横目に見ながら、私は風紀委員の号令に従って講堂を後にする。
講堂を出ると渡り廊下があって、本校舎へと渡ることができる。本校舎は3階建てで、1階は3年生、2階が2年生、最上階が1年生という具合に、学年によってフロアが分かれている。私たちは2年生なので、渡り廊下から本校舎に入って、階段を使ってひとつ上の階へ上がらなくてはならない。
「あ~あ、早く3年生になりたいよねぇ。もう階段がキツくってさぁ…」
先を行く絵里が振り返ってそう言ったけれど、その顔は100%笑顔だったので、たぶんお決まりのセリフを言いたかっただけなのだと思う。全然キツそうには見えなかった。
私たちのクラスは2年10組。講堂側の階段を上がってから、さらに廊下を一番奥まで行かなきゃならない。登校時には一番手前だから良いのだけれど、集会の後は少し帰るのが大変だ。
教室に入ると各々が自分の席に着く。私の席は窓際の一番後ろ。これは意見が分かれるところだと思うのだけれど、私は一番の当たり席だと思っている。日当たりも良いし、他の生徒が片側にしか居ない席というのは気が楽だ。一番後ろの席ならなおさらで、前と右の2人だけが相手なのだ。精神的負担は、四方を囲まれた席の1/2。とても助かる。
ちなみに私の席のひとつ前は絵里で、右隣りはクラス委員長の四谷君だ。四谷君はいつも眼鏡がピカピカで、お箸の持ち方が教科書的に正しくて、私たちのクラスで一番の秀才で、それはつまり学年トップだということだ。各学年の「10組」は、各学年にひとクラスずつ設けられている成績上位者クラスなのだ。1組から9組までは学力に関係なくランダムにクラス分けされているらしい。
教室の扉が開いて、山縣先生が「全員居るかぁ~?」と誰に向けて言うでもなく、まるで独り言のようにつぶやきながら入って来た。
「2年10組30名!全員揃っております!」
四谷君が立ち上がってそう言うと、山縣先生は大きく息を吐いて、教卓に両手をついた。そして「残念、違いまぁ~す」と言ってニヤッと笑った。
「実は今日からこのクラスは、総勢31名になりまぁ~す」
先生の言葉に、教室がざわつく。絵里もこちらを振り返って「やっぱり!」という顔をした。
「先生!それは一体どういうことでありましょうか!?他クラスからの昇級生が居るということでありましょうか!?」
四谷君の問いに、先生は「甘い、甘いねぇ委員長殿はぁ」と言って首を振る。
「なんと今日は、転校生君が来てくれてまーす」
教室のボルテージが一気に上昇する。「転校生!?」「嘘だろ!?」「漫画でしか見たことねぇよ!」などと皆が思い思いに驚きを表す。正直、私も少し驚いている。一体どんな事情があるとそんなことになるのだろう。ちょっと想像できない。
「んじゃあ、入って来てもらおうかねぇ」そう言って先生は教室の入口に向かって声を掛ける。「おい、入ってこーい」
教室のドアがゆっくりと開く。
男子は目を見開き、女子は息をのむ。
どうしてだろう。
経験したことのないような時間の流れが生まれる。
少し開いたドアの縁に掛けられた右手の指にはどこか親密さを感じる。
まるでどこまでドアに負担をかけずに開閉できるのか実験しているみたいだ。
私はその指のしなやかな動きに目を奪われる。
はじめから決まっていたみたいに、彼の右手は悠雅にドアを開け、滑るように教室に入り、一連の流れの中で緩やかにドアを閉め、音もなく教卓の横まで移動する。
そこまで来て、私ははじめて彼の顔を見る。
細くて柔らかな髪。
丁寧に添えられた鼻と耳。
微笑みを携えた口元。
そして彼の瞳は、良く手入れをされた小麦畑で早朝に見られる種類の金色だった。
そんな瞳、見たことがなかった。
私は彼から視線を外すことができない。
彼の瞳に、私は存在ごと吸い込まれそうになる。
でも次の瞬間には、強く突き放されて、全てを見透かされそうになる。
吸ったり吐いたり、その繰り返し。
その瞳には呼吸がある。
その瞳は“生きている”。
一体何を見ているのだろう。
彼はただ、まっすぐ前を向いているだけなのに。
おそらくこのクラスの全員が、今、彼と目が合っている。
そんな錯覚に陥る。
それなのに不気味さは全くといって良いほどなく、その瞳はただひたすらに美しく、憧憬に満ち、心地良かった。
心臓の音を耳元に感じる。
いつもよりも、ずっと穏やかに鳴る心臓の音。
彼の口元が僅かに動く。
その瞬間、時間の流れが元に戻る。
「はじめまして。結城司です。よろしく」
そう言って笑った彼の顔を、私は時の狭間に取り残されたような気持ちのままで、どうしようもなく眺めていた。