3節 レトロな喫茶店、スカーフを巻いた資産家と写真の中に居たはずの少女
3節 レトロな喫茶店、スカーフを巻いた資産家と写真の中に居たはずの少女
東都東部は昔ながらの街並みが未だに残る下町エリアである。
したがって区画というものが直線でなく、妙に入り組んだ作りになっている。無駄に大きな通りと異様に狭い路地が組み合わさっているのだが、そこに人間らしさが残っている、と計介は思っている。新都心エリアなどは大戦後に完全に再開発され、全ての通りが均一な道幅を保ち、全ての区画が直線で出来ているのだ。
それはどちらが良いというものでもない。利便性は新都心に分があり、人情味は東部に分があるだけの話である。ただそれだけだ。好みの問題である。
計介は路地を抜けて駅前のロータリーに出る。西葛犀の駅から吐き出される帰宅ラッシュが、ロータリーで待ち構える無人バスに飲み込まれていく。
定員に達すれば速やかに扉が閉まり音もなく発進していくバスは、次から次へとやって来て、人々をストレスなく運搬していく。人件費さえ全くかからなければバスの台数はここまで増やせるのかと、旧暦の人間なら驚くことであろう。
そんな光景をしばらく眺めて5分38秒をつぶしてから、計介はまた別の路地に入って行った。目的の店は、ほんの20.55秒で目の前に現れる。
灰色のビルの1階に居を構える昔ながらの喫茶店は、通りに面してガラス張りで、中の様子が良く見える。窓際には席が3つ。入口から数えて一番奥の席に座る紳士が、計介に向かって小さくウインクを送る。
計介はそれを何となく受け止めて、小さく頷いてから店内に入る。入口のドアには今時珍しいカランコロンと鳴るベルが付いており、木目の床は計介の歩みに合わせて小さくキュッキュと鳴った。その全てが懐古趣味的な最新の品であった。
「やあ計介。相変わらずの時間ピッタリマンだね」
「日比谷さんこそ、その珈琲もう何杯目ですか?」
「丈二おじさんって呼んで欲しいんだけどねぇ、僕は」
「また話の最中に何度もトイレに行くんでしょう、丈二おじさん」
そう言って計介が対面に座ると、「君のそういう所が好きだ」と言って日比谷はウインクをした。計介は「ウインクおじさん」と心の中でつぶやいてから、店員を呼ぶ。
「ブレンドひとつ下さい」
「待て待て、この店ではブルマンを頼みたまえ。なあ、マスター」
マスターと呼ばれた男は、「こだわりを、是非」と言って計介にウインクを送った。この時点で計介は大分帰りたくなっていたが、「じゃあ、それで」と言ってウインクおじさんの内の1名を退散させる道を選んだ。ブルーマウンテン“風”でしかない珈琲にこだわりもクソもないだろう、と計介は思った。新生日本国に他国との国交はなく、国家間の物流もないのだから。いや、ブルーマウンテンの味を再現するために品種改良をこだわったのか、と一瞬考え直した計介であったが、そのこだわりは少なくとも喫茶店の人間にどうこうできる領域ではないなと結論づけた。
そんな計介の思考を読んだように、日比谷は語り出す。
「それでもこだわりは必要だ。珈琲は豆の状態では本質的に価値がない。炒られ、挽かれ、淹れられて、初めて珈琲は珈琲足りえるのさ。既にジャマイカ産ブルーマウンテンという古代の宝石は形而上に昇ってしまった。であれば我々は、こだわりによって空想に肉体を与える他にない。それが…」
「この店」
「そしてあのマスターという訳さ。確かに今から君のところへやってくる珈琲はブルーマウンテン“風”の何かに他ならない。しかしながらそれをブルーマウンテン足りえる珈琲に変えるのはドアに付いたベルであり、軋む木目の床であり、ウインクをするマスターであり、君の心に他ならない」
「そんなもんですかね」
タイミング良く、珈琲が運ばれて来る。マスターはカップを計介の目の前に一度置き、カップをわざわざくるりと回転させて取手の位置を調節すると、「お砂糖は入れず、ミルクをほんの少しだけ」と言って去って行った。
ライブラリにアクセスし、「ブルーマウンテン」の項を引くと、視界の端にテキストボックスが展開される。
≪ブルーマウンテン≫
ジャマイカに存在したブルーマウンテン山脈の、標高800~1,200mという限られた地域で栽培されていた珈琲豆のブランド。大変に香り高く、繊細な味わいが特徴。他の豆とブレンドされることも多かった。西暦1936年に初めて輸入される。当時は大変高価であった。新暦26年現在:ロスト。
カップを持ち上げて香りを嗅ぐと、確かに豊かで奥深い香りが鼻腔を刺激するような気がした。マスターのアドバイスは一旦無視して、ブラックのまま一口啜る。まずは酸味。そして後から深いコクがやって来た。良く再現されている、と思う。軽く口に含んでから飲み込むと、温かい溜息が出た。
「それを人はホッとする、と言うのさ。だから付いた名前が、ホットコーヒー」
日比谷を無視してカップを置き、今度はミルクをほんの少しだけ垂らして、スプーンで混ぜる。ミルクは最後の足掻きとばかりに溶けきることを最後まで拒んだ。しかし人間の前に万物は無力だ。自然の前に無力であった人間の時代は、とうの昔に終わったのだ。
「今更その飲み物の正体を調べようとするのは野暮ってもんだぜ、計介」
「一々そんなことしませんよ。実際美味いですし、この際何でも良いんです」
そう返してから顔を上げて、計介は改めて日比谷を正面から見た。
日比谷丈二。45歳。資産家。第二次世界大戦時に兵器の開発と運用によって莫大な財を
築いた日比谷一族の現頭首。いかにも高価そうなグレーのスーツを着ているがネクタイはしておらず、無造作に開かれたシャツの襟元にはグリーンとシルバーの柄が入った上等そうなスカーフが巻かれている。
頭髪にはいくらか白髪が混ざっているが、上品に切りそろえられているためにその存在は自然であり、必要に応じてそこに生えています、というような雰囲気さえある。
オーダースーツと下らないジョークを好むこの男は、アクセサを選定する為の“委員会:メンバーズ”の一員であり、かつアクセサ候補者を推薦する資産家連中のまとめ役でもある。実際、計介をアクセサに推薦したのも、必要な資金を全て提供したのも、承認のための面倒なあれこれの根回しを素早く正確に行ったのも、計介に最新型のALEXUSを贈ったのも、この日比谷なのである。
AIの普及とベーシックインカムによって労働の価値が著しく低下し、国民の所得がほぼ均一化された現代においては、資産家の存在は極めて異質である。新生日本国の国民は、「公務員」、「一般人」、そして「資産家」の3種類に分けられる、と言って差し支えないであろう。日比谷は資産家中の資産家であり、国家に対しても一定以上の発言権のある大人物である。
そんな大物が下町の喫茶店にいること自体が極めて非日常的な光景なのであるが、それが日比谷という人間なのであり、全てを見通す力を得た計介をもってしても、その実体は計り知れないところがある程度には変わり者なのである。
日比谷は優雅に足を組み、これまたレトロなパイプ型の電子煙草を咥えながら、スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出して机の上に置いた。
「実は探して欲しい女の子が居てね」
日比谷はそう言ってスマホに手を添え、計介の前まで丁寧に滑らせた。
今日はおかしなことが続くな、と計介は思った。
東都においては野良猫が見つかるなんてことも通常有り得なければ、国民が失踪し所在が分からなくなるということも起こりえない。
しかしながら、日比谷が「探して欲しい」と言うのであれば、その少女とやらは確かに現在行方不明ということなのであろう。そしてその捜索には警察では不足であるか、もしくは秘密裡に行う“事情”があるということだ。
計介は目の前に差し出されたスマホを手に取り、画面に写っている少女を見ようとした。
「…からかっているんですか?」
計介の問いに、日比谷は首を振って答える。
画面には、美しく手入れをされた庭園が写っているだけであった。
「手がかりは“何も残されていない”んだよ」
「それでも探し出せと?」
「それが可能なのは、人工アカシックレコードのオリジナルを持つ君だけだ」
そう言って日比谷は、両手で「お手上げ」のポーズを取る。
「で、誰なんですか?ここに写っていたはずの少女は」
「それはね」と、日比谷はわざわざテーブルに両肘をつき、あえて両手を組み、はじめから決まっていたかのように右手の人差し指を天に向け、こう続けた。
「この国で一番偉い爺さんの、とっても可愛い一人娘さ」
それはたまげた、と思いながら、計介は珈琲を啜った。
ミルクが溶けたはずの珈琲は、もう何の味もしなかった。
「まあ気楽にやってよ。猫探しと一緒だからさ、探偵さん」
「僕は探偵じゃないし、東都に猫はいませんよ」
そう言って日比谷を見ると、彼は一片の笑みもなく、真っ直ぐに計介を見つめ返していた。