2節 頬は限りなく赤に近い桃色
2節 頬は限りなく赤に近い桃色
1ヶ月ぶりの制服。
姿見の前で細部まで点検し、おかしな所がないことを確認する。
別におかしな所があっても構わないのだけれど、なんとなくきちんとした格好で登校したくなるのが新学期というものだ。
学校指定の鞄の中にはタブレットとスマートフォン、それと新しい上履き。
忘れ物なんてしたくてもできないくらい持ち物は少ないのだけれど、それでもきちんと確認してから鞄の口を閉じる。
最後にまた姿見の前で軽く髪を整えて、スカートの裾を2回だけ払って部屋を出る。階段を下りてリビングに入り、「カーテン全開、換気1時間」とだけ声を掛けてから玄関へ。
出しっぱなしのスニーカーをシューズボックスに仕舞って、代わりにローファーを引っ張り出す。靴はいつも右足から履く。左足から履いたことは一度もない。どうしてだろう。
ドアを開けて玄関を出ると、門の外で絵里が待っていた。
「おはよう」
そう声をかけると、絵里はクルッと振り返って「あたしは誰でしょう!」と言った。
勢いよく反転したせいで髪が顔じゅうに掛かってしまっていて、全く表情が読めない。
「あはは~!」と言って笑っているので、きっと笑顔なのだろう。
私が門の所にたどり着くまで、絵里は前髪オバケみたいな状態のままで待っている。口ずさんでいるのは何の音楽だろう。シンキングタイム?
良く分からないけれど、私が門を開けて外に出たタイミングで、「正解はぁ~!」と言って両手で髪を全部上に持ち上げて束ねた。
「たまねぎオバケでしたぁ~!あはは~!」
やっと顔が見られた。
私は絵里の顔が好きだ。
色素が薄くて明るい髪。
柔らかくて意志の強い眉。
大きくてキラキラとした目。
短くて愛らしいまつ毛。
小さくて上品な鼻。
表情豊かに動く頬。
いつも笑っている口元。
たまねぎオバケというよりも、たまねぎの妖精みたいだ。
小さな妖精が自分のことを「オバケだ」と言い張っているようで可笑しくて、つい笑ってしまう。
「お!今日はウケた~!やったね~!」
「だって可愛いんだもん」
「な、なにぃ~!?」
目を見開いて驚く絵里は、心底ショックを受けたというような顔で私を見つめる。
「あ、ごめんね、ウソウソ。すごく面白かったよ、たまねぎの妖精さん」
「オバケだよー!たまねぎオバケぇ~!」
「もー!」と言いながら、絵里は鞄をブンブン振り回して、ハンマー投げの要領で円を描きながら滑らかに移動していく。器用だなぁ。
「だいたい、いつも一花はぁ~」なんて文句を言いながらクルクルと移動していく絵里の後ろを歩きながら、私も真似してみようかと一瞬考える。
でもやらない。
絵里は小さくて可愛いから突飛な行動も許されるのだ。
私は絵里に比べて背も高いし、可愛くない。
大人しくしていた方が損のない人生を送れるだろう、という所で自分の言動選択を正当化しておくことにする。
学校までは歩いて15分くらい。お互い特別の用事がない限りは、いつも絵里がうちまで朝迎えに来てくれて、一緒に登校している。迎えに来てくれて、とはいっても、単に絵里の通学路の途中にうちがあるだけなので必要以上に恩を感じる必要もないのだけれど、それでも毎朝一緒に登校してくれるような友だちが居る私は幸せ者なのだろう。私はどう好意的に見積もっても社交的なタイプではないし、積極性にも欠ける。
それなのに絵里はそんな私を慕ってくれて、高校入学以来ずっと友だちでいてくれている。私の何がお気に召して友だちになってくれたのか、聞いてみたいような気もするけれど、なんだか怒られそうだから聞くに聞けないでいる。
新学期初日の通学路にはまだ少し日差しの強さが残っているけれど、通学の時間帯はかなり過ごしやすくなってきたようだった。それでも絵里なんかは半袖をさらに二回折って短くしている。
住宅街を抜けて大通りに出る手前で、絵里は回るのをピタッと止めて、何事もなかったみたいな顔をして並んで歩き始めた。
「もう良いの?」
「ん…、まあね~」
絵里の顔を見ると、頬は限りなく赤に近い桃色に染まっていた。それは回転運動による体温の上昇のせいではないんだろうな、と思った。
「島野くんもこの時間だもんね、いつも」
「さ、さあ!?何のことかなぁ~!?」
島野礼市くん。
私や絵里と同じクラスで、野球部でも頑張っている男の子。
絵里は去年の夏からずっと島野くんに片想い中なのだ。
筋金入りの野球ファンである絵里に言わせれば、島野くんのインコース直球を逆方向にスタンドインさせる技術は天才的らしい。私には話の半分も分からないけれど、要するに「超カッコイイ!!」らしい。
その島野くんが、朝練のない日にはこの時間にこの大通りを通って登校して来るのだ。
今日は始業式。もちろん朝練はない。
「ところであたし、髪型大丈夫!?回り過ぎた!?」
急に思い出したように絵里が尋ねる。巨大な宇宙船が地球に攻めて来たかのような慌てふためきようだ。でもそのおかげで、絵里の髪は何となく収まるべきところに収まっていった。そもそもが自然と器用で幸運なのだ。
「ちょっと待って、」
絵里の左頬に張り付いた一束の髪を、本来あるべき場所へ戻してあげた。
「はい、これでオッケー。大丈夫だと思うよ」
「かな?」
「うん」
「ねえ一花、今日転校生来るかも」
絵里の話題はいつもコロコロと変わる。
「転校生?」
「うん、あたし委員会の用事で夏の間もちらほら学校行ってたんだけど、知らない制服着た男子が山縣先生と話してるとこ、見ちゃったんだよね~」
「めずらしいね、転校生なんて。はじめてじゃない?」
「だよだよ。そもそも家が変わったり学校が変わったりなんて、普通しないもんね?」
「だよね」
「うーん、謎の転校生…!」なんて言いながら名探偵的ポーズで眉間に皺を寄せる絵里の名前を、後方から呼ぶ声がする。
絵里の顔が一気に“女子”になる。
頬はより赤みを増し、目の輝きは夏の星空のよう。
一度深呼吸してから振り返った絵里の頬を、短髪で背の高い男子の右手がブニュッと挟んだ。
「よう。相変わらず仲良いなお前ら」
お待ちかねの島野くんの思いがけない行動に、絵里は目をパチクリさせながら固まっている。
「おはよう島野君。元気そうだね」
絵里の代わりに私が声をかける。
「おう、美園はもうちょっと肉食った方が良いぞ」
「どうして?」
「どうしてってお前、肉が一番ウマイだろ」と言う島野くんだが、その視線はずっと絵里に向けられたままだ。
「今日も可愛いでしょ、絵里は」
私がそう尋ねると、島野君は絵里の頬から一度右手を離して、今度は両手で絵里の耳を引っ張ったり、頬を摘まんでクルクルと円を描いてみたり、親指で眉をなぞってみたりしながら、「そうだなぁ~」とつぶやいた。
「俺が知る限りじゃあ、宇宙で一番可愛いな!前田は!」
ストレートだなぁ、島野くんは。直球に強い男は、どうやら発言も直球勝負みたいだ。絵里なんかはもう針で刺したら破裂するんじゃないかというくらいに、顔も目もパンパンにして茹っている。
島野君は最後に絵里の頭をクシャクシャっと撫でてから、「ま、腕立て伏せじゃあ負けないけどな!」とだけ言い残して去って行った。
私には特別に見えないのだけれど、絵里には島野くんだけが輝いて見えているみたいだった。そんなことってあるのかな。
恋をするとどうなるのか、私にはまだ分からないけれど、恋をしている絵里は嬉しそうだったり、恥ずかしそうだったり、楽しそうだったり、苦しそうだったりで、なんだか毎日とっても忙しそう。
いつか私にも分かる日が来るのかな。忙しいのは得意じゃないのだけれど。
ちょっとまだ分からないけれど、今はとりあえず、腰から砕け落ちて地面にへたり込んでいる絵里を引っ張り起こして、何とかして学校までたどり着かなくては。
でも夏の残り香が微かに混じった温かい風では、絵里の頬から熱を追い出すことはできないみたいだった。