第Ⅰ章 1節 夕暮れ時、ALEXUS LC-25exと額に星を持つ野良猫
第Ⅰ章 新生日本国東都の日常
1節 夕暮れ時、ALEXUS LC-25exと額に星を持つ野良猫
午後4時30分28秒。
東都東部を縦に流れる川沿いの高速道路を、一台の高級車が音もなく駆けている。
車体左側の窓には明かりの燈り始めた街並みが、右側の窓には砕かれた姿見のように煌めく川面が映っていく。
運転席には一人の青年が、大変行儀よく収まっている。
彼の名を、時宮計介という。
計介のようにステアリングを両手で握る人間は現代において極めて稀である。
稀ではあるが、全く居ないという訳ではない。
全く居ないという訳ではないのだから、彼の行動について特別の異論はないはずである。
例え全ての国内自動車にAIが搭載されているにせよ、AIによる完全自動走行が国家からは推奨されているにせよ、時宮計介という一人の人間には行動の自由があり、人生には選択の余地があるのだ。
彼の行動は街中に設置された無数の監視カメラによって記録されている。もちろん監視カメラにもAIが搭載されている。
彼の脳内にはBMIが埋め込まれている。彼の思考は全てBMIによって監視され、保存され、必要に応じて一定の情報が“書物の塔:ライブラリ”に転送される。
それでも彼には思考の自由があり、行動には理由があった。
計介は古いものが好きだ。仕組みが見えるものならなお良い。
この社会においては、仕組みのほとんどは意図的に隠されている。
それはごく一部の者たちによって掌握され、管理され、秘匿され、運用されている。
新生日本国首都・東都。
意味があるようでない名前。
アナログなようでデジタルな名前。
ただの記号に過ぎない名を持つ街を、計介を乗せたALEXUS LC-25ex が駆けていく。100%電気で動くクーペ型のALEXUSには、音という音が存在しない。それでいて最高速度310km/h、0-100km/h 加速2.1秒を叩き出す優れものだ。
車内には、先ほどから微かに口笛が響いていた。
艶めかしく輝くインテリアトリムの表面を弾くように音色がこだまする。その音色に感情はなく、メロディーに整合性は見当たらない。
口笛は、ただの目印のようにそこに存在していた。
僕はここですよ、ここにいますよと、自分ではない誰かにただ知らせるためだけにそこに在った。
超管理社会の中で、時宮計介は常に誰かに監視され、常に全てを監視している。
だからこそ計介は、ステアリングを両手で握るのだ。
両手に触れる上質なレザーの感触だけが、今現在、計介の存在を実感足らしめる唯一の存在だとでも言いたげに。
高速道路を下りると、計介はシフトレバーを左に倒し、アクセルを思い切り踏み込む。
あっという間に300km/hに到達し、右手に見える国営の野球場はまばたきする暇もなく遥か後方へと消え去った。
10…、9…、8…、7…、6…
頭の中でカウントダウンをしながら、200km/hまで落として最初の交差点に進入、再度アクセルを踏み込んで左折すると、今度は80.11m先の交差点を右折する。
夕暮れ時の街並みに、S字を描く黒い残像が流れていく。
5…、4…、3…
301.89m直進しつつ自動走行モードに切り替え、目的地および経由地点を正確に入力する。第三次世界大戦以前においては、タッチパネルによる直接入力や、音声入力が主流だったというのだから驚く。必要な作業が多すぎる上に、正確性に欠ける。今となっては頭で考えるだけで入力が終わるのだから。
2…、1…
120km/hから1.1秒で車は完全に停止する。道路にはタイヤ痕のひとつも残らない。
「はい、時宮です」
奥歯をカチリと合せてからそう発話すると、馴染みの声が頭の中に響いた。
「おいおい、まだ1コール目も鳴り終わってねえぞ!?」
この警部の声は少々響き過ぎる。それでも眼前で唾をまき散らされるよりはいくらかマシだ。マシだが、その声量はおよそ人が我慢できる限界値というものを遥かに超えていた。まるで脳みその中に直接唾をまき散らされているようでウンザリする。
軽い眩暈を覚えながら車を降り、歩きながら会話を続ける。
「対象との接触まで10秒です」
計介の後方で、ALEXUSは音もなく再発進し、そのまま何処かへと走り去る。
「まだ何も言ってねえだろうが!これだからアクセサってやつぁいつも…!」
「接触まで3秒。切りますよ」
次の瞬間、前方の細い路地から小柄ながらも俊敏な肉体を持つ黒い影が飛び出してきた。
対象までの距離は30.5263m。
計介は左手首に巻かれたアンティークの腕時計に素早く右手を伸ばし、文字盤の両サイドに位置する突起部分を左右同時に押す。
次の瞬間、全ての音が消失し、世界が静止した。
*
「では、後のことはよろしくお願いしますね」
そう言って立ち去ろうとする計介をそのまま逃がす柴咲警部ではない。
「ちょっと待て!捕獲時の状況だけでも報告して行かんかっ!!」
そう言って肩を掴もうとする柴咲に肩を掴まれる計介ではない。既に柴咲の腕が伸びる限界から50.3470cm離れた位置に移動している。
腕を伸ばした先に何も掴むものが無かった柴咲は、そのまま手の平を目一杯広げて、瞬間的に「待て!」のポーズに切り替えた。転んでも只では起きぬ柴咲なのである。
「まぁまぁ先輩、良いじゃないですかもう。猫ちゃんは無事だったんですし」
柴咲の隣に立つ若い刑事が、腕に抱いた茶色い猫の頭を器用に撫でながら先輩警部を諌める。若刑事の髪はボサボサで、スーツはヨレヨレ、口元にはヨダレの跡がついている。
「宝島ぁ!!キサマが遅れて来なかったらこんなことにはならなかったんだよこの馬鹿タレ!!!!」
ゲンコツを受けた衝撃で、猫は宝島刑事の腕の中からピョンと空中に跳ね、一度地面に着地してから今度は計介の腕に飛び込んできた。しゃがみ込んだ宝島は、恨めしそうな顔で計介を見上げる。
「時宮く~ん、やめてよねぇ、先輩の手柄ぁ横取りするのは~」
「時宮くんのせいで殴られちゃったじゃんかぁ~」とはお門違いも甚だしい。
案の定、2発目のゲンコツを食らった宝島は、「先輩なんか嫌いだぁ~!」とかなんとか叫びながらどこかへ走り去って行く。
柴咲は右手の熱を冷ますように空中でヒラヒラとやりながら、左手で電子煙草の電源を入れ、一度大きく吸い込んでから空に向かって大量の煙を吐き出した。
「…今回の件は他言無用だぞ、時宮ぁ。東都に野良猫が居たなんてこたぁ、絶対に知られる訳にはいかねえ」
「別に誰にも言いませんよ」
計介は柴咲を見ずに、猫を撫でながら答える。水晶玉のような眼が計介を見つめ返す。瞳の中心をどこまでも続いていく奥行を辿っていくと、段々とそれが生き物であるという現実感が薄れていく。まるで作り物のようだ、と計介は思う。本物の猫を見るのは初めてだった。思っていたよりも生きていて、考えていたよりも非現実的な生き物だった。
「そんなことより、目撃者は良いんですか?放っておいて」
「んなこたぁこれからだよ。それにこっちの仕事はその猫を捕獲して、管理課に連れていく所までだ。その後のこたぁ知りゃあしねえよ」
「気にならないんですか?この猫がどこから来たのか」
「お前はまだガキだからそういうこと良く分かんねえだろうけどよ、何にも気にしねえのが大人として生きていく秘訣よ。出世できねえぞ?何かに気が付く奴ぁ」
「そんなもんですか」
「そんなもんだよ。まあお前みたいなエリート様には釈迦に説法かもしれんがなぁ!」
そう言って笑いながら、柴咲警部は煙を吐き出す。夕日に照らされた彼女の長い髪は漆黒でありながら色とりどりに輝き、口元の赤いルージュが「への字」に歪む。
「喋り方、何とかした方が良いですよ。せっかく美人なのに」
計介がそう言いながら猫を手渡すと、柴咲警部は「にゃんにゃ~ん!」と言いながら受け取り、大事そうに胸元に抱き寄せた。そしてひとしきり猫に頬ずりすると、
「お前はもっと年上に対する敬意ってやつを覚えろ!今に痛い目ぇ見るからなぁ!お前みたいに世の中ナメ切ったガキはなぁ!」
と言って、電子煙草を持った方の手で器用に天を指差した。シーンをミュートすれば、「うちの猫ちゃんが世界で一番可愛いです」と主張している女性に見えなくもない。
「左様ですか」と言って立ち去る計介の背中を見送るのは、3つの視線。
ひとつは三十路に迫った女性警部の美しき瞳が多少の親しみを込めて。
ひとつは本来居るはずのない野良猫の無機質な水晶体が不思議そうに。
ひとつはこの街を監視する大量のカメラの内の一台が、感情もなく。
「時宮ぁ!お前、またちょっと老けたなぁ!」
計介は振り返らず、右手を少しだけ挙げて応える。
計介の姿が見えなくなると、柴咲は改めて猫を両手で抱き起こし、その生物の顔をまじまじと見つめた。
「よし、お前の名前は“はまち”にしよう」
そう言って額の星にキスをしたが、世界は何も変わらなかった。