妹はなんでも知っている
ねぇ、あの話聞いた……?
あの話……?
知らないの? この学校、私たちの一個上の先輩の代に魔女がいるんだって!
魔女って、馬鹿じゃないの? 子供じゃあるまい
いやいや、本当だって、見たって人居たもん!
見たって……で、その魔女様は何をするのさ?
魔法でね、記憶の改竄をするんだって!
それ、見たところで何されたかわかるもんじゃないだろ……どっからそんなふざけた情報仕入れたんだよ……
えっ……あれ……どこだっけ……?
***
僕には妹が居る。
妹、なんて一言で勿体無い。一つ年下の高校一年生。その歳の平均以下の身長、それに伴った膨らみのかけらもない胸元、すべすべの肌、艶々の黒髪ロング、大きな瞳と触ると弾力がありそうなほっぺに口元。オマケにその小さな顔を覆ってしまいそうな大きなレンズの黒縁眼鏡と来ている。 我ながら上出来の妹だ。もう完璧すぎて間違いを起こさなければ失礼ではないかと思うぐらい完璧だ。
そんな妹と、朝食を共にするなんて、至福の極みだろう。朝起きて布団を出る憂鬱よりも妹を早く見たいという欲が勝る。朝が苦手な人々が経験する葛藤を、妹が見たいという欲だけで経験せずにすんでいるあたり、この妹は本物だと知らされる。はぁ、本当に素晴らしい妹よ。
「お兄ちゃん? さっきからじーっと見つめて、ご飯食べにくいよ……」
「あぁ、ごめんごめん。気にせず食べてくれ我が妹よ……」
「気持ち悪いよ……早くご飯食べなって……」
弱々しくしかし、キッと、睨みつけてくる妹だが、それもまた良い。罵られてもからかい甲斐がある。ですませることが可能だ。
にやける口元を誤魔化すためにパンを口に押し込む。やー、妹を見ながら食べるパンは今日も美味い。
「お兄ちゃん! 早く! 学校遅れちゃうよ!!」
「そう慌てるな、我が妹よ。急いだ所で、何も良いことはないぞ」
「お兄ちゃんがご飯食べるのが遅いのが悪いんでしょう! なんでパン一枚食べるのに十分もかけてるの」
確かにそれは僕が悪い……妹を眺めて居たらパンを食べるのを忘れてしまっていたのだから。
「それに、我が妹よ。とか、ちょっと偉ぶった態度とかなんか気持ち悪いよ……」
「気持ち悪いとは失礼な! これは妹に対しての愛情だ!」
「だからそれが気持ち悪いんだって……体がぞわぞわ〜ってするから……それに、友達とかには普通に話してるくせに……」
「うっ……いや、しらん、そんなことは断じてない」
「気持ち悪い……」
「その程度で屈するお兄ちゃんではないぞ?」
「キモい」
「ごめんなさい、やめます……」
「はぁ……これで何回目かな……次そんな態度とったらお兄ちゃんキモいが口癖になるからね」
それだけは本当にやめていただきたい……普段は乱れた言葉遣いなんかしない妹がキモいとか言ったら品に関わる上に、普通に傷つく。普段言われないから本当に泣くぞそれ……
「そんな暗い顔しないで……っというか、早く行かなきゃ本当に遅刻しちゃうから!」
おっと、そうだった。こんなことをしている場合ではない。小走りで玄関を出て行く妹に続いて、僕も家を出る。さて、今日も妹と楽しい登校の始まりだ。
「じゃあね、お兄ちゃんまた放課後にね」
手をヒラヒラと降って教室に向かって行く妹をしっかり見届けてから僕も自分の教室へと向かう。なぜ学年で階が別れているのだろうか。どこの学校もそうだが、可愛い妹が居る僕にはこれは障害でしかない。授業合間の休みも、お昼休みも、わざわざ降りて下級生の中を掻き分けて妹を見なければならないではないか……そんなことはしないけどね?
もしそんなことして、あそこの兄はやばいとなってしまえば妹がいじめられてしまう可能性が出てくる。それだけは避けなければいけない。眺めたい欲はある。しかし、妹を第一に考えるのならそれだけはしてはならない。
だが、妹のことを考えると不安でしょうがない。あんなに可愛い妹なのだ。変な虫がくっつかなきゃ良いが……
「おはよう!」
妹のことを考えながら教室に入るなり、挨拶が飛んでくる。それと同時に肩のところにドンッという衝撃が。
「痛い、そんなに勢いよく挨拶しなくてもわかってるから、安心してくれ……」
「おはよう!」
「あと、耳元で元気よくされるのはうるさいからやめてくれると嬉しいんだけど……」
「おはよう!」
「三回目とか流石に耳を疑うから…挨拶に命をかけることないと思うぞ……」
「おはよう……」
「大丈夫、ちゃんと聞こえてるから…僕はそんなに難聴じゃない……って、元気なくなってるけど、どうしたの……?」
「挨拶……」
「えっ、あー……おはよう」
挨拶を返すと、満足したように離れて行く友達。朝から挨拶をするだけで疲れることはまずない。もうこれは妹でも見て癒さ――ってここは学校だ。仕方ない。今日の疲れは帰ってからじっくり癒すとしよう。
「朝から騒がしいわね、櫻、女の子みたいな名前なんだから、名前に似合わないのは顔だけにして」
と思っていたのに、さらにストレスを与えてくるやつがきたか……今からでも妹のところに逃げてやろうか……
「朝一から失礼すぎるだろ……騒いでたのは僕じゃない。それに、名前をつけたのは親なんだから文句は親に言ってくれ……」
「それは違うわよ? あなただってやりようによっては女の子になれるじゃない?」
「女装はしないぞ……?」
「女装、というか、心から女の子になれば、あなたの主観的に女装ではなくなるわね。それを正装として、なおかつ女の子らしく振る舞えば、たとえ見た目がひどくてもあなた自身は女の子の心が持てるはずよ」
「朝から意味がわからないな、知恵……というか、よくそんなに次々と言葉が出てくるな……」
「あなたを見てると嫌でも出てきてしまうのよ、それで、なるの? 女の子に」
「ならないぞ……それに今からやっても偽りだろ……?」
「そうね……じゃあ、物理的になっちゃいましょうか」
「物理的?」
「去勢」
どうして妹以外の女子はこうも物騒なのか……こいつに至っては朝から物騒なことを言ってくる…笑顔で指をチョキにして去勢とか言ってくる女子高校生って何なの? 今時普通なの?
「ねぇ、櫻」
「何だよ……」
「私の品が疑われるじゃない、何言わせてるのよ」
「知らねぇよ!」
朝から教室でとんでもない茶番を繰り広げてしまった。しかし、僕のクラスでは知恵と櫻は夫婦漫才みたいで面白いね〜と、評判が良かったりするらしい。
――訂正したいことがいくつかある。まず夫婦漫才ではない。みたい、とついているがそもそも夫婦と呼ばれることが不愉快だ。僕と知恵はそんなに仲がいいわけではない。知恵が一方的に僕を罵倒してくるだけで僕は基本的には何もしていない。そもそも、僕はこんな凶悪な女子には興味がない。妹みたいに優しくて可愛い子がいい。そうつまり妹がいいのだ。巨悪な女子にくれてやる愛情なんか一つもない……人間の情けで一つはあるかもしれない……一応、その、まぁ……幼馴染? だしな…?
朝一で疲れを感じながら席に着く、一息つくのになぜこんなに苦労したのか…早く学校終わらないかな……
まだ学校が始まってもいないのに、小学生みたいなことを考える。朝のHRが始まるちょうどの時間に担任がやってきた。あぁ、ようやく学校が始まる。
四時間目の授業を終わらせるチャイムが学校に鳴り響く。授業合間のチャイムでも、このチャイムだけは別格だ。五十分という短い時間だが、それでもありがたいものだ。いっときでも授業を忘れて友達と話す。というのは中々良いものだ。
「おーい、櫻〜」
弁当を持って待ち構えていると、奴が来た。朝から挨拶に命をかけた友達、真だ。
「櫻〜、昼飯食べよ〜」
「わかってるからこうやって待ってるんだよ……」
「さすが櫻! 良い友達は違うなぁ……」
「遠い目をしながらそんなことを言うな……変に闇を感じるだろ……」
「まぁ、昔のことはさておいて、さっさと食べようぜ!」
もうこいつ闇抱えてるの確定したじゃん……今までそんなこと言ったことなかったのに……いきなりすぎてびっくりするわ……
「そんなことよりもさ、櫻、最近お前なんか悩んでない?」
「最近?」
「んー、なんかそんな風に見えて……なんかあった?」
自分自身で悩んでいることはほとんどないが……身に覚えがあるとすれば……
「妹、が気になるかなぁ……」
「妹!? というか、お前、妹なんかいたっけ……?」
「馬鹿野郎、あの極上、超絶完璧な妹を知らないのかお前は……っと言いたい所だけど、話したことなかったな……」
しまった、ボロが出た……あんなにかわいい妹を知られたくがないために普段は口にしないのに……それどころか妹を凄い褒めてしまったこれは、会わせてくれとか言われないことを祈ろう。
「お前に妹が居たのかしらなか……」
「会わせないぞ」
「まだ何も言ってないぞ……」
「会わせないぞ」
「……」
「会わせないぞ」
不確定要素は確実に摘みたい。相手が何を言おうと、どんな態度を取ろうと僕は妹を誰かに会わせる気はない。 相手が折れるまで会わせないというつもりだが、真の様子がおかしい。
「シスコンなのはわかったし、兄妹の話なら俺は何も言わない……というか、妹なんかどうでもいい……」
「何、僕の妹がどうでも良いだと……それは聞き捨てならないな……」
それに僕はシスコンではない。そちらも共に聞き捨てならない。この昼休みの時間、全てを使って妹の可愛さ、美しさ、素晴らしさを説明するしかないか?
「まてまてまて、落ち着け……俺は年下に興味がないから……という意味だ……」
「そうなら先に言ってくれ……」
言わせる隙も与えなかっただろ、と言わんばかりの視線を向けられる。自覚があるので申し訳ないと思いつつ誤魔化すために卵焼きを口にする。
「そうだ、最近有名なあの話何だけど、櫻、知ってるか?」
あの話? いや、どの話だよ……卵焼きを咀嚼しながら心の中でツッコミを入れる。あの、その、で話が通じるならこんなにたくさん言葉はいらないぞ、友よ……
黙って白米に箸を運ぶと真は奇妙なことを口にした。
「ほら、あの魔女の話」
は? 何?
「魔女?」
口元を隠しながら真に視線を向ける、彼はいたって真剣な表情で、嘘をついているようには見えない。
「最近、出た話なんだけどな、この学校の、しかも俺たちと同じ学年にいるらしいぞ」
なんだそれ……
「魔女って、子供じゃあるまい…居ないぞそんなの……しかも僕たちと同期だろ? どんな若い魔女だよ……」
「俺もよくわからないんだよなぁ……でも、割と有名な話だぞ…見たって奴もいるらしいし……」
「どこから出た話だよ……それに見たって…何かされたのか?」
「どこから出た話かは全く……」
彼はそう言って視線を落とす。
「特には何もされてないらしい」
何もされない……じゃあなんでこんな話が出てるんだよ……
「いや、どんな噂話だよ……何もなさすぎて逆に怖いぞ、その噂……」
「まぁ、あくまで噂話だしな……詳しい奴はもっと知ってると思うけど……」
「こんなふわふわした噂話に詳しいとかあるのかよ……何かされるわけでもない……」
魔女と呼ばれ、そんな噂が立つにはなにかしらの理由があるはずだ。それがなんだ、こんな話じゃよくある都市伝説や七不思議と全く同じじゃないか。
本当に噂話というのはしょうもない。 これ以上興味のない話を聞くのも耐え難いので一気に弁当を食べ進める。
「あー、でも、その魔女は一つだけ魔法が使えるんだっけ!」
「なんだそれ……」
興味ない、とあしらったつもりだが、彼はそんな僕をよそに、独り言、それも確認するかのように呟いた。
「確か、記憶の改竄? だったかな」
***
「ねぇ、櫻」
本日最後の授業を知らせるチャイムが鳴った。開放感から大きく伸びをして、HRが終わったらすぐ帰宅できるように身支度をしていると知恵に声をかけられる。
「何だ?」
「こうして声をかけてあげてるのに、何だとは本当に失礼ね。生け捕りにして太平洋にでも沈めてあげようかしら?」
「たったの三文字だけで何でそこまで貶めることができるんだ、お前は……発想力が豊かか?」
「あなたを見ていると嫌でも……ってこれ朝も言ったわね」
「言ったな?」
「同じことを説明させないで、櫻のくせに生意気よ?」
「お前はいつからガキ大将になったんだよ……で、何の用? 話が全く前に進まない」
「そうね、こんな茶番に付き合えるほど、私の心は広くないし」
「要件を早く言えよ!」
この女は……なぜこうも人を罵倒することに長けているのか。一言返したら三倍の罵倒を返すのがこいつの常識なのだろうか? と言うか本当に話が進まない。
「随分な命令口調ね、まぁいいわ。私の心の広さに免じて許してあげる」
何でこの数秒で矛盾が生まれてるんだよ……突っ込みたいが、そうしてしまうと話が前に進まないどころか、売り言葉に買い言葉で結局話の本質があやふやになって終わってしまうため、ここは我慢する。
「この後、特別な用事がないのなら私と一緒に帰ってくれないかしら?」
「お前がそんなことを言うなんて珍しいな……何かあったのか?」
「特に何もないけれど、何? 何かなくちゃ一緒に帰ることも許されないの、私たち?」
「妙な言い方をするなよ……」
「で、どっちなの? 帰るの? 帰らないの?」
ここで僕は口ごもってしまう。本音は妹と帰りたい。というか、一刻も早く妹に会いたい。癒されたい。こんなストレスの溜まる凶悪な女とは帰りたくなかったが、ここで妹と帰りたいから無理なんて言ってしまったら、この女のことだ、この世の言葉とは思えない罵詈雑言が飛んできて、挙げ句の果てに妹まで巻き添えをくらうだろう。こいつに罵詈雑言を飛ばされる妹なんて見たくはない。しかし、妹とは帰りたい――
暫く考えた上で、僕は知恵と帰る苦渋の決断をした。帰ったらお兄ちゃんを褒めてくれ、妹よ……
HRが終わった後、妹に先に帰ってくれと連絡をして知恵のところに向かった。
「早いのね、櫻」
「まぁ、早く身支度を済ませたからな」
「待たせない男は櫻以外、きっとモテるわよ」
「それ、結局僕はモテないじゃん……」
まぁ、妹が居るから良いんだけどな……
「まぁ、櫻のモテ話なんて死ぬほど興味ないから。とりあえず行きましょう」
本当に、この女は息を吐くように罵倒してくるな……
やっぱり妹と帰ればよかった、そんな後悔とともにため息を吐き、僕たちは教室を後にする。
教室を出る時、やっぱりあの二人、仲が良いんだねとか聞こえたが、それに返す余力も残っていない。靴を履き替えて校門に向かっていると。僕はとんでもない失敗に気がついてしまう。僕と知恵の家は近い。つまり。妹と知恵の家も近い。つまり同じ方向に帰るわけだから、妹と鉢合わせてしまう可能性だってある。それだけは避けたいのに、しまった……と、僕の思考を読み取ったかのように、妹から連絡が来た。どうやら駅の方に買い物に行くらしい。きっとこれは僕の置かれている状況を理解しての思いやりだ。流石、我が妹よ、愛していると言っても過言ではない。
安心して帰路につくが、僕の喜びを打ち砕くのが知恵という女だ。最初はたわいもない話をしていたのに。なぜか僕への罵倒が始まった。そこからは売り言葉に買い言葉である。疲れを見せると、知恵が「櫻の先祖はアノマロカリス」とか近からず遠からず何とも言えないような事を言って罵って来たため適当に相槌を打って返す。勿論肯定はしていない。すごいね。と一言。僕自身意味がわからない。
知恵も「海は生命の母」とか、どこかの宗教勧誘みたいな事を言っていて疲れている様子だった。なら最初から罵倒なんかするなよ……
本当に訳がわからない、だが、それが僕たちの距離感でもあるのかもしれない。一定の距離が保たれているからこそ成り立っている幼馴染だと僕は勝手に思っている。
「そうだ知恵、お前知ってるか?」
「何をかしら?」
ふと思い出したように知恵にアレを聞いてみることにした。いつもの知恵なら、「主語がないわ。小学校からやり直して来なさい」とか言うはずなのに。流石の知恵も罵倒し疲れているからかそれ以上は何も言ってこない。
「学校に魔女がいるんだって」
真と話題になった話を知恵に投げかけてみた。別に真相に迫りたいから、とか、真相に興味があるから。とかではない。知恵も聞いたことあるか? ぐらいの。本当にただの話題提起。
「くだらない話はやめてちょうだい」
だが、知恵は目つきを鋭くし、冷たく吐き捨て、それ以上、口を開くことはなかった。知恵のことだ。多分、聞き飽きたとかそうゆう領域だろう。
地雷を踏んでしまったと、少し申し訳なくなるがそこまで毛嫌いをする話だろうか? そんな事を考えていると僕の家にたどり着いた。
「じゃあまた明日、学校でな」
「えぇ、また明日」
そんな当たり前の挨拶を交わし、家に入ろうとすると。ちょうど母親が帰って来た。
「おかえり、櫻」
「ただいま、母さん」
というか、母親も帰ってきたのだから、おかえりを言うべきだろうか?
「こんにちは、櫻のお母さん」
そんな思考を割って、知恵が母親に挨拶をする。僕以外の人にはそんな柔らかくなりやがって…
「えっ、あぁ、こんにちは」
母もぎこちない挨拶を返す。いや、幼馴染にどんだけぎこちないんだよ……人見知りにも程がある……
「じゃあ、また明日ね、櫻」
改めて挨拶をして一礼をする知恵。もう本当に、普段から物腰柔らかく居てくれると僕はとても嬉しいぞ……妹には負けるがな。
「あんた、やるわねぇ〜」
家の中に入り荷物を降ろすと母親はいきなりおばさんくさいセリフを口にした。
「何が?」
「あんなに可愛くて礼儀正しい彼女なんか、いつの間にゲットしたのよ?」
「何であんな奴と付き合わなきゃいけないんだよ……それに、ただの幼馴染だろ」
ここで、違和感に気がついた。なんで母さんは知恵を知らないんだ……? 小さい時からずっと一緒だっただろ……? 何回もあって、あんな風に礼儀正しく振舞ってて……? うちに遊びにきたりもした……はず……?
母さんも違和感に、圧倒的な間違いに気がついて、笑いながら、その間違いを正すように僕にこう言った。
「馬鹿ねぇ。あんたに幼馴染なんかいないじゃない」
***
部屋に戻ってベットに身を投げてからどれだけ経ったのか。
あの言葉が頭にこびりついて離れない。母さんが知恵を知らない。そんな馬鹿な……幼稚園からずっと一緒だっただろ……確かに最近、知恵と母親は顔を合わせてはいない。最後にあったのは小学校の入学式だったと記憶している。母親はそれから仕事で忙しくなり、あらゆるイベントに顔を出さなかった。昔の面影はなく、確かに美人にはなっている。それで間違えるならまだわかる。
だが、幼馴染なんかいない。この言葉がどうにも引っかかる。母さんは知恵を知っているはずだ。昔はあっているのだから。それとも、幼馴染という認識が、母親とはズレているのなら筋は通る。僕と知恵の友好関係だけで、母親間での友好関係はない。これでも筋は通る。
僕の母親は、あらゆるイベントに顔を出さなかったんだ、ママ友なんかいない、だから知恵の母親とも交友関係はない。挨拶してくる櫻の女の子友達がいる。こうゆう認識ならば全ての辻褄が通る。
しかし、そんな奇跡みたいのような認識のズレが起きるのだろうか……?
考えれば考えるほど、意味がわからない。どんなにたどり着いてもやはり直接母親に聞いてみるしかないか……
「ただいまー!」
ちょうどそこで妹が帰ってきた。ベットから飛び起き、全力で妹の所へ向かう。
「あっ、お兄ちゃん、ただい」
「知恵を、知恵を知ってるよな!」
「い、いきなり何……」
「答えてくれ!」
「ちょっと……お兄ちゃん痛い……」
その言葉で我にかえる。目の前には苦痛に顔を歪ませる妹がいる。無意識のうちに、妹の肩を力強く掴んでいた。僕としたことが、いくら必至とはいえど、これは最低だ……
「ごめん……」
「どうかしたの……」
うつむく僕に優しく声をかけ覗き込んでくる妹。 その優しさが、今は何故だか辛い。妹を見ないため瞼を閉じ、ふぅと一息ついて再度、妹に問いかける。
「お前は……知恵を知ってるよな……?」
「何、いきなり? ――知恵さんって、お兄ちゃんの幼馴染だよね?」
幼馴染……その言葉を聞いて、安堵した。極度の緊張から解かれたせいか、足から力が抜け、その場に尻餅をついてしまう。
「ちょっと、どうしたの?」
慌てて妹が僕の横に座る。こんなに優しい妹がいると、本当に安心する……
「本当にお前が妹で良かったよ……」
そんな言葉を呟き、廊下に倒れこむ。母さんとは……やっぱり認識が違ったんだ……そう思えると、本当に安心した。
「お兄ちゃん、本当に大丈夫? 何があったの?」
「あぁ、実はな……」
先ほどの経緯を、倒れながら妹に説明すると、妹はクスクスと笑いながらこう言った。
「お母さんも困った人だねぇ、ちゃんとイベント事に行かないからそうゆうズレが起きるんだよ……」
「同感だ……まぁ、良かった、本当に、杞憂に終わって……」
「本当だね……まぁ、お母さんと認識のズレなんて良く起こることだから、よかったら私に聞いてよ。答えられる範囲なら答えるからね!」
そう言って力こぶを作って、頼っていいよとアピールする妹。しかし、か細い腕に力強い筋肉などついていないので、今にも折れそうな細い腕が見える。もう本当に可愛い……
「でも、なんでそんな事考えたのお兄ちゃん? まさか、あの噂話聞いたから……とか?」
可愛い笑顔を見せからかうように言う妹。あの噂話……ということは、妹は魔女の話を知っている。ということだろうか? まぁ、真の奴が気になることをボソッと言うからそれがずっと気になっていた――やはり妹はなんでもお見通しだな。
「もしかして当たった? 単なる噂話だよ〜」
「だよな、でも、こうタイミングが良いと、もしかしてって思っちゃうんだよ」
「なんとなくわかるかも。あっ!」
何か思いついたように、ふっふっふー、と不敵な笑みを浮かべ。
「もしかしたら、もうすでに記憶を改竄された後だったりして……ね?」
そんな不吉なことを妹は耳元で囁いた。悪い気はしないが。こればかりは許せない。
「妹よ、流石のお兄ちゃんも、今は変なこと言うと怒るぞ?」
「ごめんなさい……」
妹が言う冗談なんか、今回が初めてではない。今までに何度かあったことだし、それに怒る僕でもかった。でも、今回のは見過ごせない……
だって、その可能性は無いと言い切れない。
今持っているこの記憶は――すでに書き換えられているのかもしれないのだから。
冴えない気分で夕食を済ませ、リビングで妹と今流行りのアイドルが出るバラエティ番組を見ていた。でも、内容なんて全く頭に入って来ない。最後に妹が言ったあの一言が冗談だとわかっていても頭から離れないのだ。面白おかしく笑う芸能人を見て気を逸らそうとしてもどうしても頭の中にちらついてしまう。全く、とんでもないことをしてくれたものだ。こうゆう時、一番気を紛らわせて、考えていたことなんかどうでも良くさせる方法は一つ。可愛い妹と楽しい話をすることだ。無邪気に笑う笑顔でも見て癒されよう。幸い、妹もテレビを熱心に見ているわけではないし。むしろ、あまり面白くないためかちょっと飽き気味な感じも表情から読み取れる。そんな微妙な顔をする妹も可愛いので良しとするが。
「なんか、この番組そんなに面白くないな」
「そうだね……でも、他に面白そんな番組もやってないし……」
そう言って、キープしていたリモコンでチャンネルを切り替え、様々な番組のタイトルを吟味していく妹。
「ドキュメンタリーにニュース……後はクイズ番組とさっきのやつか……」
メジャーなテレビ局のチャンネルを次々見ていくが、どうやら妹の気にいる番組はなかったようだ。テレビ番組一つ一つを吟味する妹の姿もなかなか絵になるな。しかも、面白そうなのがないから、ちょっとふてくされてるその表情がたまらない。
「お兄ちゃんは、何か見たい番組ないの?」
「あぁ、特には」
強いて言うなら、もっとお前を見ていたい。こんなことを言ったら、怒られて部屋に戻ってしまうかもしれないので言わないが。
「なんかつまんないのー」
座っていたソファによりかかるようにして足を投げ出す妹。退屈、と言った様子が尖らせた口やら、だらっと垂れた腕から見てとれる。確かに、僕も妹を見る、ということをしなければ退屈に身を弄ぶ結果になっていただろう。
ゆっくりできる時間だからこそ、何かしら面白いことをしたい、そんな気持ちはよくわかる。ふむ、となるとどんな話題で話すのが楽しめるだろうか……
そこで、妹が最後に選んだチャンネルの番組が『魔法』というワードを出した。もしも、魔法が使えたら何をするか。という内容で、街頭インタビューをして、挙がった結果から芸能人が面白おかしく話す、という内容だ。ある男性はお金持ちになりたいと。別の男性はモテたい、彼女が欲しいと言った。小さな子供は将来の夢を叶えると語り。若い女性は永遠の美しさを求め。年寄りのおじいさんおばあさんは孫や家族の幸せを祈ると言った。
そして、僕たちと同い年だと思われる、制服を着た女性はこう言った。好きな人の近くに、ずっと居られますように。
「魔法ねぇ……」
そんなものはこの世には存在しないと思っている。だから、単に噂話の記憶の改竄とか、そんなふざけた話はありえない。だけど今日は、嫌な体験をした。実際は母親とのズレで済んでいた。だが、違う。もっと言葉にできないようなもの嫌なものがあった。自分と他者の記憶の辻褄が合わない。どこかがおかしい、何かが変わっている。そんな気持ち。
――しまった、考えないようにするために妹との会話に臨んだのに、結局一周してきてしまった……
はぁ、っとため息を吐き、右手で頭を掻き毟る。気になってしょうがないが、それに、妹のおかげで考えのズレで済んでいる。もし仮に、本当に記憶の改竄などされていた場合。自分じゃそれがされたなんてわかるわけもない。確かめようがないじゃないか。
「あり得ないから、大丈夫だよ?」
何かを優しく諭すように、妹に声をかけられた。どうやら、僕がさっきのことが気になっているのに気がついたらしい。妹を見ると、優しく笑っている。
「さっきは変なこと言っちゃったけど、魔女なんていないし、魔法なんてあるわけないよ」
だから、大丈夫だよ。そう言って笑いかけてくれる妹は、まさに僕の救いだった。妹がそう言うだけで、なぜか安心できる。僕が妹においている信頼は、もしかしたら親よりも厚いかもしれない。
そうだな、と頷くと。妹は嬉しそうに、えへへと笑った。そういえば、妹はあの噂話をどこまで言っているのだろうか。この際だから聞いてみよう。
「お前はさ、あの噂話どこまで知ってる?」
「魔女の話? んー、記憶が改竄できる魔法が使えるってことしか知らないかな……」
「やっぱり、それぐらいしか知らないよな……」
「なんかふわふわしすぎてて、よく分からないんだよね……ごめんね、新しいこと教えてあげられなくて」
「いや、僕こそごめん、こんな突拍子も無い事聞いて」
「ううん、大丈夫だよ。――あと、あんまり気にしすぎちゃ駄目だよ?」
「あぁ、ありがとう」
妹と雑談をした後、シャワーを浴びて部屋に戻りベットへ大の字に倒れこんだ。程よい弾力に意識を失いそうになる。このまま、睡魔に負けて眠るのも悪くはないであろう。学校から出された課題もないし。このまま起きている理由もない。たまには、こうやって寝るのもありだろう。そして、フラッシュバックするのは…魔女の話。噂話をされた。「この学校の、しかも俺たちの代に魔女がいるらしいぞ」」 「記憶が改竄できる魔法が使えるってことしか知らないかな……」
まて、何か……おかしい……ような……。
そこで、急に瞼が重くなる。変に気を張ったせいか、それとも、これ以上変なことを考えるなと体が警告したからか。僕の意識はそのまま遠のいていった。
***
「お兄ちゃん! 起きて! 遅刻しちゃうよ!」
意識がはっきり戻ると、体を思いっきり揺らされていた。全開に開けれたカーテンから光が差し込み、とても眩しい。というか、もう学校に行く時間なのか……
「ありがとう、妹よ」
兄を起こすために努力をしてくれた妹に感謝をし、立ち上がる。んーっと、大きく伸びをしてからリビングに向かい、朝食を摂る。
「お兄ちゃん、いくら起こしても全然起きないんだよ!」
後ろについてきた妹が、キッチンにいる母親に愚痴を投げる。妹に起こされるなんて初めてだ……そもそも、寝坊をしたことすら初めてかもしれない。いつもは妹が一刻も早く見たくて、もっと早く起きるのに……変わったこともあるものだな。人間、睡魔には勝てないというのだろうか?
「やぁねぇ、起きれないなんて、いつものことじゃない」
キッチンで母親と妹が楽しげに話している。
そんな話を聞きながら、用意された朝食のパンを頬張る。僕の朝はいつもパンだ。ご飯の方が好きだがパン朝はパンの方が手軽で食べやすくていい。
――じゃない
「母さん、今なんて言った……?」
今の母親の発言は明らかにおかしい。 僕の記憶の中では、一度たりともしたことがない。なのに、母さんは「いつも」と言った。それじゃあまるで、僕が毎日寝坊している様じゃないか……。
「僕は妹が出来てから寝坊なんかしたことないよ……」
間違いはちゃんとたださねばならない。それはさすがに妹に失礼じゃないか。こんなに可愛い妹がいるんだから、早く起きれないわけないだろう。全く、嘘をつくのも大概にしてほしいものだな。
そんな愚痴を、口に含んだパンと一緒に、牛乳で流し込む。今日は妹と一緒に朝食が摂れなかったが……まぁ、一緒に登校できるから良しとしよう。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
家を出た時、妹が口にした言葉がそれだった。僕を心配している様子だが、何かあっただろうか……?
「何か変なところがあるか?」
「なんか、顔色ちょっと悪いよ……?」
「あぁ、多分それはお前と朝食を食べられなかったからだろうな。ほら、日常で当たり前にこなしている事が欠けると体調悪くなるって言うし、きっとそれだな」
「そんなの聞いた事ないし、そうだとしたら余計に心配だよ……」
「そうだな、だからずっと一緒に居てくれよ? ――なんだ、その微妙な顔は?」
「……もし、私が修学旅行とかで家にいない日があったらどうするの……?」
「着いて行く」
「えっ?」
「着いて行く」
「普通に駄目だよ……」
「いやだ、着いて行く」
「お兄ちゃん……」
「安心しろ、旅先で不幸が起こっても必ずお兄ちゃんが助けてやるからな? だから、なんでそんな微妙な顔をするんだよ……」
「あのね、お兄ちゃん……」
はぁ、っと深くため息をついた妹から呆れた、といった表情が見える。これはきっと、安堵からきたため息と照れ隠しに違いな……
「お兄ちゃん、キモ――」
「わかった、着いていかないからそれ以上は言うな。そして、そんな汚い言葉遣いはしちゃ駄目だぞ?」
「わかってる、遣うのはお兄ちゃんが暴走したときだけだから……」
酷い話だ。僕は暴走なんかしていないし。妹を心配して、修学旅行に着いて行っちゃいました〜、とか普通の話であろう?
「せっかくあたらしいキャッシュケース買ったのに、無駄になっちゃったな……」
「ほ、本気でつきて来るつもりだったんだね……」
「何を当たり前のことを言っているんだ?」
もう、ため息を吐き、顔に手を当て、左右に首を振るこの妹には、『この兄は、本当に駄目だ』そんな心の言葉がぴったり当てはまるであろう。
***
妹と別れると、今日も一日、学校が始まるのだと知らされる。もうこの時点で思うことは、妹に会いたい。だ。妹思いも最近加速し始めてしまったな……
そんな気分で憂鬱になりながら。教室に入る。
「おはよう櫻!」
ドンッ、という衝撃が首元に走る。またか……というか、首が痛い……
「真……」
わかってはいた。わかってはいたが、こいつはいつもどこから湧いてくるんだ? 毎回毎回、教室に入ると決まってこれだ。
「おはよう櫻!」
「わかった、挨拶は返すから。その前に謝ろうか? 痛いぞ?」
「すまん……」
「良し、おはよう」
「おぉ! おはよう!」
笑顔で挨拶を返すと、真は満足げに自分の席に戻っていく。
なぜ挨拶だけでこんなに全開なのか。あれか? 闇を抱えた時に何かあったのか? トラウマの払拭のために頑張ってるのか? 今度聞いてみようかな……
「櫻、おはよう」
「おぉ、知恵。おはよう」
「突然で悪いんだけど、今日も一緒に帰ってもらえないかしら?」
「いきなりすぎる……まだ学校来たばっかりだよ……」
「良いじゃない。こういうのは、早い方が良いでしょう?」
「だから早すぎるんだよ! 昨日と同じ時間でも何も問題なかっただろ……」
「そう? 昨日は口ごもってたから何か用事があるのかと思って……だから早いうち聞いた方がいいと思ったのに……ごめんなさい、私たち幼馴染なのに、変な気を遣ってしまったのね……」
「なんでそうゆう時だけ謙虚なんだよ……やめてくれ、僕を良心を痛めつけるのは……」
もうこの女、僕を傷つけることしか考えてないな? 絶対わざとだろこれ……
「まぁ、良いわ。で、帰ってくれるの?」
「構わないが、珍しいな。お前が二日連続で一緒に帰ろうなんて言ってくるの」
「……別に良いでしょう? じゃあ、また放課後にね」
その時、僕は目を疑った。
今、笑った……?
***
「さーくら! って元気ないな……」
四時間目が終わって間もなくしたら真がやって来た。僕は、大きなあくびをして真を迎える。今日の四時間目の授業は僕の嫌いな数学だ。連なる数式から目を伏せるようにしていたら、いつの間にか居眠りをしてしまったのだ。
「お前は本当、数学が嫌いだよな」
「仕方ないだろ、何をどう勉強してもわからないんだから」
数学、というのに、数字だけではなくアルファベットを使うのが、もはや意味がわからない。求めてもしょうがない答えを、必死に解かなきゃいけない意味もわからない。なんでxだのyだのを求めなきゃいけないのか。もうこれは永遠の謎だろうな。
「まぁ、俺は数学嫌いじゃないけどな」
「体育が好きそうな奴が何言ってるんだよ。似合わないぞ」
「この間のテスト、十位以内だったぞ?」
「わかった、今日から僕は一人で昼食を済ませることにする」
見掛け倒し人間はいることは知っていたが、人は見かけによらないを目の当たりにすると結構ショックが大きいものだ。ましてや、こんな身近にいて、なおかつそれが勉強嫌いだと思っていた奴だ。もうこれは嫌味としか思えない。
「それだけは勘弁してくれ……もう……便所飯はごめんだ……」
「お前どんな過去過ごして来たんだよ……そんな重い話されたら冗談でも辛いわ……」
もう真の前で突き放すような二度と取らないようにしよう。悪いやつではない、というか、普通に友達だし……
「まぁ、気にしないでくれ」
「気になってしょうがないわ……」
「やめてくれよ、そんな面白い話じゃないし。それより、さっさと飯食おうぜ」
うーん、不謹慎だが、めちゃくちゃ気になる……駄目だ、こいつは勝手に弁当食べ始めてるし……もうこれ以上は踏み込めないか。
「そういえばさ、あの魔女の話」
しばらく談笑した後、真が思い出したかのようにそれを口にした。
「またか……」
「それがさ、凄いんだぜ? みんな同じことしか知らないんだ」
「いや、そうだろうな。噂話なんだし」
「噂話だから凄いんだよ! 噂ってのは尾ひれがついてなんぼだろ?」
「あー。確かに、十人に聞いたら十人が違うこと言ってもおかしくはないな」
「だろ? でも、部活の先輩も後輩も同じことしか知らないんだぜ? こんなこと、普通はないだろ?」
「確かにな、でも、聞いた話が同じだけであって、まだ尾ひれが着く前の可能性もある。お前だって、最近出た噂なんだけどって言ってただろ」
「んー、確かにそうだけど、でも、もし全員が同じ話をしてるんだとしたら面白くないか? 集団催眠みたいで」
「そこは噂に習って記憶改竄って言った方が面白味があるぞ、真」
そうだな、っと言って真は弁当の中身を掻き込んでいく。それと同時に、昼休み終了の予鈴を知らせるチャイムが鳴った。しまった、まだ弁当を食べ終わっていない。せっかく作ってもらった弁当を残すのは僕のポリシーに反する。僕も慌てて、真のように残りを掻き込んだ。
五時間目の授業が終わった。今日は五時間目で終わりなので朝の約束を守るため、知恵の側に行く。事前に妹には連絡をしたし。妹も気を利かせて、遠回りをして帰ると言ってくれたので安心して帰れる。というか、本当にできた妹すぎる。帰ったら頭を撫でて褒めてやろう。――決して頭を撫でたいわけではない。
「櫻、今日も早いのね」
「早く身支度を済ませてるんだよ、昨日も言っただろ?」
「そうね、待たせない男は櫻以外モテると、昨日も言ったわね」
「それはお前が言ったんだよ……」
「そうだったわね。まぁ、どうでも良いから。帰りましょうか」
言われるがままに教室を出る。今日も一緒に帰るんだね。誰かが言ったが今日も否定する気に離れなかった。
靴を履き替え、いつもの帰り道を歩く。知恵と一緒に帰ることは何度かあったが、二日連続で一緒に帰るのはこれが初めてだ。いつもは妹と一緒に帰っているのだから。本当に珍しい。
「ねぇ、櫻。櫻は私の幼馴染よね?」
「いきなりなんだよ……一応そうだな?」
「そうよね、なら良かったわ」
「おい、本当にどうした……なんかいつもと違って気持ち悪いぞ……」
「失礼ね、私はいつもこんな感じよ? ただ、かなり櫻に当たりが強いだけじゃない。」
「もうその、かなりって言葉が確信犯なんだよ……」
「別に良いじゃないの!」
「何で逆ギレしてくるんだよ!」
知恵は本当によくわからない。下手したら真以上に何を考えてるのかもわからない。こいつ、本当に僕を貶したい一心で動いてるんじゃないだろうな……?
「そう、私は櫻を貶したいだけよ?」
「心の中まで忠実に読んでくるな……」
「そうゆう顔をしたあなたが悪いのよ。悔い改めなさい」
「はいはい、わかりましたよ」
結局、なんでも僕が悪くなっちゃうんだよな……折れる僕も僕か……
「そういえば、昨日の話なんだけど」
「昨日の話?」
「ほら……話したじゃない……」
なんの話だろうか? もしかして、僕が聞いたけどくだらない話はやめろと言われた魔女の噂話だろうか?
「祖先はアノマロカリスって話」
「そっちかよ……」
「冗談よ、魔女の話」
「なんなんだよ……というか、昨日は嫌がっていたじゃないか」
「櫻もその話をしてくるとは思っていなかったのよ」
「僕だって、こんな話に興味はないぞ? ただ、真の奴が凄い楽しそうに話してたからさ」
「そうだったのね。てっきり魔女探しでもやるのかと思ったわ」
「やらないよ、なんの得になるんだよ、そんなことして……」
「そうね、でも、改めて考えてみると馬鹿な話よね、魔女なんて」
「そうだな、ましてや僕たちと同じ学年とか、笑えるよな」
「そうなの?」
「らしいぞ? 」
「とんだ天才も居たものね……私にも教えてくれないかしら」
そう言って知恵はクスリと笑った。朝ほどではないが、こいつは笑うと結構可愛いかもしれない。まぁ、妹の方が可愛いがな?
「僕も、魔法とか使ってみたいかな」
「櫻は馬鹿だから、覚えられないわよ」
ちょっとでも可愛いと思った僕が馬鹿だった……
そんなくだらない話をしていると家に着いた。昨日みたいに、また明日と告げると、櫻もそれに返し、帰っていった。玄関を潜り、家の中に入る――
――知恵との会話……なにかおかしい……何か引っかかる……噂話……魔女がいる……「そうなの?」
あいつ、何で全員が知ってることを知らないんだ――
***
眠るわけでもないのに、部屋のベッドで横になっていた。することがなくて暇だから。なんて理由ではない。何をするにもやる気が起きない。勉強や、ゲーム、スマートフォンだっていじる気にならない。モヤモヤした。全員が知っていることを知恵は知らない。それだけのはずなのに、それだけで終わらない気がした。実は『同じ学年』が噂の尾ひれとなる部分じゃないのかと考えた。その尾ひれが着く前に知恵は噂話を聞いたのではないかと言う予測も建てた。だが、納得はできない。実は知らなくて、話を合わせただけという可能性も視野に入れた。それも納得ができない。知恵の性格からしてそんなことはありえないはずだ……
一番ありえないことも考えた。知恵が噂話を流した張本人だということ。こんなくだらないことを知恵はしない。それをして、知恵に何の得があるのか?
わからない、わからないわからない。いくら考えても、納得のいく答えは出てこない。知恵が知らなかった、ということを突き止めて何になるのかもわからない。
「くそ!」
こみ上げる苛立ちから、ベットに拳を叩きつける。どうでもいいことのはずなのに、頭からこびりついて離れない。何でこんなことを必死で考えているのか、自分でもわからないくらい不思議だ。なぜ噂話でここまで惑わされなければいけないのか。
「記憶の……改竄……」
物騒な話だ。その魔法にかけられた本人はそれに気がつくことすら許されない。今、自分が持っている記憶が偽物かもしれないと思うと怖くてしょうがない。たかが噂話だろう。ありえない、ありえないだろ……
「ただいまー」
魔法なんてない魔法なんてない魔法なんてない魔法なんてない魔法なんてない魔法なんてない。
「あれ、お兄ちゃん、帰ってるの〜?」
魔女なんかいない魔女なんかいない魔女なんかいない魔女なんかいない魔女なんかいない魔女なんかいない。
「お兄ちゃん? 部屋にいるの?」
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな。
「入るよ〜」
「来るな!」
気がつけば怒鳴っていた。見えなに何かを怖がって怒鳴っていた……目の前には、驚いた様子でこちらを見ている妹がいる。僕は何をしていた……
「お、お兄ちゃん!」
気がつけば泣いていた。どうしようもなく涙が溢れた。見えない何かに怯え、泣いていた。
「ちょっと、どうしたの!?」
駆寄る妹など気にせず、その場に崩れて泣いた。自分でももう訳がわからない。怖い。助けてほしい。助けを乞うようにひたすら泣いた。
泣き続けて、泣き止んだのはそれから数十分後……だったと思う。気がつけば、妹が背中をさすってくれていた。
「ごめん……」
兄として、恥ずかしいところを見せてしまった。この歳にして、妹の目の前で号泣するなど情けない。しかも、泣くようなことでもない。
「大丈夫だよ、……何かあったの?」
「ちょっとな……」
なぜ泣いたか、話すのは恥ずかしかった。本当に深い理由はない。子どもみたいな理由で泣いたのだから。だが、泣く前に起こったことを話した。噂話のこと、知恵のこと。妹は黙って聞いてくれた。そして、全てを話した後、微笑みながら言った。
「お兄ちゃん、昔からオカルト系本当に苦手だね。一回気になったら、それが本当にどうでも良くなるまで気になっちゃって……昔と全然変わってないね!」
僕が、本気でオカルトを嫌いだということを知っている。昔、心霊特番を見てしまい、怖くなって妹に泣きついたことが何度とあった。
「奇跡的に、色々なことが重なると不安になっちゃうんだよね〜」
「そうだな……もう本気で信じちゃうぞこれ……」
「大丈夫だって、噂話なんだから。それに……」
いきなり、肩に軽い何かが乗っかった。それが妹の腕だと判断するのに数十秒かかる。ふわりと髪が揺れていて、とてもいい匂いが近くでする。
――背中に小さな手で力がギュッと込められた。
妹に、抱きしめられている。
「もしね、もし、魔女に記憶を書き換えられちゃっても、私はお兄ちゃんを忘れないから、大丈夫だよ」
あぁ、この妹は……安堵と、嬉しさとそれらで溢れそうな涙を抑えながら。
「僕も忘れない、絶対にお前だけは……何があっても忘れない……」
僕は一つ、妹に誓いを立てた――
その後は、何を考えるわけでもなく、時間がくるままに、夕食や風呂を済ませた。自室に戻り、ベットに横になった。特にやることもないので、今日もこのまま眠りにつくだろう。変に考えて怖い思いをすることはないし。今日もいい眠りにつけるはずだ。妹に、あんな励まし方をされたら、余計なことを考える暇なんかない。そういえば、妹にお礼を言ってなかった。次の休みにケーキでも買ってこよう。次の休みの用事を決めながら、僕は誘われる様に眠りについた。
***
コンコンと部屋の扉がノックされる音で目が覚めた。時刻を見ると、自分がいつも起きる時間より早い。
「お兄ちゃん、入るよ〜」
やってきた妹はすでに制服に身を包んでいて、学校に行く支度が終わっているようだ。というか、制服姿の妹が起こしに来てくれるなんて、なんていい朝だろう。昨日はできなかったが、その幸せを認識する。
「あっ、今日は起きてるんだね、昨日みたいに寝坊されたら困ったけど、大丈夫ならよかった」
「昨日のはたまたまだ。でもこれからも不安だから毎日起こしに来てくれても構わないぞ」
起こされる、一緒に朝食を摂る、登校する。完璧すぎないか? 学校のある日は、是非とも流れで学校に行きたい。
「お兄ちゃんは自分で起きれるでしょ……ほら、早くご飯食べに行こう?」
「そうか……」
自分で起きれることをこんなにも悔やんだことはない。こうなったら毎日寝坊でもして起こしてもらおうか? そんなことを考えた。
「全部声に出てるよ、お兄ちゃん……」
なんだと……なら、もうこの手は使えない……このまま食い下がることも可能だが、朝一からキモい発言が飛んでくるのは正直耐え難い。名案を一つ駄目にしてしまい、残念な気持ちでベットから起き上がった。週一回で試してみようと思ったのは内緒だ。
朝食を済ませて身支度をし、妹と学校に向かう。やっぱり、妹と一緒に何かできるのは幸せだ。もう、妹が一人いるだけでなんでこんなに幸せになれるのか。
「お兄ちゃん? どうしたの、そんなに私の顔ばかり見て……」
「なんでもない、ただ、当たり前のことに幸せを噛み締めていただけだ」
「意味がわからないんだけど……」
「別にいいさ、僕がそう感じているだけだから」
妹がいて、一緒に何かをする。――当たり前のことが当たり前にできるのは幸せだ。
「おはよう、櫻。兄妹揃って本当に仲がいいのね?」
この平穏な時間を台無しにする刺々しい声が聞こえる。もうこんな話し方をする奴は一人しか知らない。
「あっ、知恵さん。おはようございます」
「あぁ……おはよう、知恵」
「――妹に先に挨拶させる兄は最低よ」
「数十秒の差だろ……? お前の判定厳しすぎないか?」
「この世界はその数十秒で決着がつくのよ? 甘えないで」
「出来るサラリーマンみたいなことを言うなよ……」
妹との登校を邪魔された挙句、こんなにも貶められる朝は最低の朝と言っても過言ではないだろう。今までにない体験なので、ちょっと腹立たしい。
「まぁ、いいわ。それで、櫻。何時もより登校が早いみたいだけど、どうかしたの?」
「いつもより早い?」
「時間を見ていないのね……呆れたわ……」
「お兄ちゃん、これ……」
フォローする様に妹がスマートフォンの画面を見せてくる。そこに出た時間は、僕たちがいつも家を出るよりも数十分早い時間を表していた。
「私が何時もより早く起こしちゃったから……ごめんなさい……」
「妹に罪を着せるなんて本当に最低よ櫻」
「違う! と言うかお前も謝らなくて良いんだよ、なんの問題もない」
妹との登校に邪魔が入ったぐらいだろうか? しかし、それを言ったら修羅場なのでここは我慢する。
「そもそも、自分で起きれない櫻が悪いんでしょう? 最低よ櫻」
「僕はいつもちゃんと起きてるぞ? 昨日はたまたま寝坊しただけだ」
「寝坊するなんて最低よ櫻」
「たまたまだって……」
「言い訳するなんて最低よ櫻」
「お前最低って言いたいだけだろ!」
こいつといると本当に疲れる。まだ朝だぞ? 学校なんか着いてすらないぞ? はぁ、全く……クスクスと笑う妹を横に、僕は今日一発目のため息をついた。
学校について、妹と別れ、知恵と一緒に教室に向かう。いつもは喧騒があるのに今日は早いせいか閑散としていた。
「朝早い学校も、なかなか面白いな」
「私にはこれが当たり前だから、なんとも思わないわよ」
教室に入ると、数人がいた。スマートフォンをいじっていたり、読書をしていたり。朝早いとこんなに人が居ないんだな。
知恵と別れて、自分の席に着く。別に別れずに、そのまま話してれば良いが。最近は話すことも減ってきている。昔はもっといっぱい、色々なことを話した気がするが……思い出せない。話さなくなったのは……年頃の気恥ずかしさからだろうか?
「ねぇ、櫻くんってさ、知恵ちゃんとどんな関係なの?」
普段はあまり話さないクラスメイトに声をかけられた。
「一応幼馴染だよ。ただ残念ながら付き合ってたりはしないからね?」
「幼馴染! それでいて付き合ってない! やだこれ、王道ルートじゃん!」
「王道ルート?」
「アニメとかゲームとかだと、最終的には絶対に付き合う王道ルートだよ! うわぁ〜、羨ましい〜」
「作品と現実は違うからね……」
そうだ、付き合うことなんて絶対にない。あんな奴と付き合ったりしたら一時間で別れるどころか、絶対に死んでしまう。
「私もかっこいい幼馴染、欲しかったなぁ……」
そんなことを嘆きながらクラスメイトは席に戻っていった。
そういう理想を抱く人は多分、この世界にはたくさんいるだろう。だが、実際はいたところでそんなに特別な関係になれるわけではない。むしろ、知恵の場合は違う。居たところで疲れるだけだ。可愛い妹がいる方がいいぞ、そんな言葉を彼女の背中に送った。
しばらくすると真がやって来た。
「早いな櫻、おはよう!」
「おはよう」
首にガッと、手をやってこないのはとてもありがたい。早起きは三文の徳というが、これが三文なのだろうか? 流石に安すぎるか……
そして、時間が経つにつれて人がわらわらとやって来て。気がつけば、教室内も教室外もいつも見たいな喧騒で溢れかえっている。
あぁ、今日も始まるんだな――
***
「櫻は、学校ってたのしいか?」
「いきなりだな? ……まぁ、そこそこ楽しいんじゃないか?」
授業は確かに退屈だが、つまらないと吐き捨てる程でもないし。友達と話したりするのは結構楽しい。
「俺も、今は楽しいよ」
「どうした本当に……」
「なんでもない、なんとなく聞いて見ただけ」
「だったらそんな遠い目をするんじゃない……」
「これで、彼女でも居たらなぁ……」
「人の話聞けよ……」
彼女……か、僕には可愛い妹がいるからそんな感情を抱いたことはないな。異性としては見れないが、生まれた時から身内なのだ。もう最高であろう?
「俺さ、結構気になってる人がいるんだよね」
「そうか、良かったな。頑張れ」
「いや、終わらせるなよ……たまにはいいだろ、恋バナ」
「男同士で恋バナとか気持ち悪いだろ……それに、僕にはそんな想いを寄せる相手なんか居ないよ」
「嘘だろ? 知恵ちゃんと付き合ってないのか?」
「なんで僕が知恵と付き合わなきゃいけないんだよ……」
「王道ルートか」
「朝も聞いたぞ……それに王道でもなんでもないぞ」
「そうか? そんな身近にいる異性なんか、気になってしょうがないだろ?」
「ないない。ありえないから」
そう、ありえない。一定の距離を保っているからこうやって仲良くやっているのだから。近くなったらそれこそ終わりだ。幼馴染、みんな理想を抱きすぎて、何か勘違いしてないか?
「お前はわかってないな」
みんな、わかってない。幼馴染なんて、そんなに良いものじゃない。
「そうか? まぁ、お前たちの恋路は邪魔しないから安心してくれ」
「だから違うから……」
これ以上、訂正する元気もなくなってしまった。精一杯否定したところで、幼馴染という肩書きには抗えないのだろうか? 本当に困ったものだ……文句をこぼしながら弁当を口にする。なんだか今日の弁当はそんなに美味しく味わえなかった。
今日は知恵からのお誘いはなく。妹と一緒に帰れると思ったが、どうやら、また駅前に買い物をしにいくらしい。今日は珍しく、一人で帰ることになってしまった。帰路をとぼとぼ歩いていると。前の男子二人が何かのアニメの話をしていた。
「俺さ、あんな幼馴染欲しいな」
「俺も俺も! 幼馴染、いる奴羨ましいよなぁ……」
聞き耳をたてると、幼馴染という単語が聞こえた。みんな、幼馴染に夢を抱きすぎだ。実際にいてみろ。絶対にそうは思わない。同性同士ならまだ親友として楽しいだろう。だが、異性となると絶対に上手くはいかない。ありとあらゆる作品で、幼馴染と主人公が上手くいきすぎてるから、夢を抱くものが多いのだろうか。
幼馴染は良いものじゃないぞ、横を通り過ぎる時、心の中で呟いた。妹の方がいいに決まってる。
***
「ただいま」
しばらくすると家に着いた。誰も居ない家に放った、ただいまはひどく響き渡る。部屋に行って、制服を脱ぎ、部屋着に着替える。明日から土日で休みなので、二日間、この制服を着ることはない。ふーっと息を吐き、ベットに倒れこむ。
幼馴染……ねぇ――
今日は、その単語をたくさん聞いたせいか、頭にその言葉が浮かび上がる。幼馴染って、そんなに良いものなのだろうか?
正直、僕にはわからない。本当に、なんとも思わない。特別に好きなわけでもなく、特別に嫌いなわけでもない。ただ、それだけのはずなのに。なぜか今日は『幼馴染』が気になってしょうがない。
「そうだ、ちょっと見てみるか」
なんとなくで、昔を思い返そうとしてみた。どんなことがあったか、アルバムでもみて振り返ってみようと思ったのだ。
――あぁ、そんなこと、思わなきゃ良かったよ。
押入れを漁って、幼稚園、小中学校、それぞれのアルバムを取り出した。まず手に取ったのは幼稚園。表紙にいる幼い子供達が、今の自分のように成長していると考えると、なんだか微笑ましかった。ペラペラとめくっていくと、お遊戯会や遠足、外で無邪気に遊んでいる子どもたちがいた。その中から、自分と――知恵を探すのは困難だった。
そうだ、組ごとに写真があったはずだ。
そしてそれは、一番後ろのページにあった。
幼い自分を見て、小さすぎるなとか変な感想を抱いた後、知恵を探した。だが、見つからない。写真では、見分けがつかないのかと思って一つ一つ、名前も確認した。たが、知恵、なんで名前はどこにもない……幼稚園から……一緒じゃなかったか……?
ずっと一緒だった気がしたから、そんな記憶違いを起こしたのだろうか……?
小さい時の記憶なんか、曖昧だから仕方ない。そう言い聞かせて、幼稚園のアルバムをしまった。問題は次だ。小学校のアルバム。
このアルバムは開いてすぐに、余計な感情には浸らず、クラスごとの写真ページに向かった。
知らなきゃ良かったことがある。知らぬが仏なんてことわざを、これほどまでに痛感したことはない。なんどもなんども繰り返し探した。中学校のアルバムだって開いて探した。それ以上の追求なんてやめておけば良かった。こんなことしたって、なんの意味もないとわかってはいた。――だけど……その手は止められなかった。
どのアルバムにも、知恵という幼馴染は載っていなかった。