道程7 こいつ、隙あらば失神してんな
目を覚ますとあばら家の天井が目に映ります。
ここはどこかしら?
おもむろに起き上がろうとすると背中に痛みが走り、私は顔をしかめました。
どうやらミナリさんは私を引きずって逃げたようです。
この痛みは彼女の苦労の証。神に感謝いたします。
なんとか立ち上がり、私は埃だらけの家から外に出ます。
追っ手がせまっていないか気にはなりますが、それ以上にミナリさんの姿がない事に不安を感じたのです。
外に出ると全身を包むような熱気と、鼻を刺すような臭気に立ち止まります。
よく知った匂いでした。
私はこの腐ったような匂いの中で、泥をすすりながら生きてきたのでございます。
見知ったスラム街を歩きます。
私は顔を隠しながら歩きました。魔法使い誕生の鐘の音は世界に轟きます。厳かに鳴るかと思っていた鐘の音は、とてもけたたましくスラム街にも響きました。私の顔を覚えているものもあるかもしれない。そんなふうに不安に思ったのでございます。
しかしそれは杞憂でした。
スラムで生きる最底辺の住人は、他人に対して興味を抱くのは、その人物が金を持っているかどうかだけです。
誰一人振り向きません。
私はあてどもなく歩きました。
あの角を曲がれば私の家に辿り着く。
はやる気持ちを抑えて角に差し掛かると、不意に少女が飛び出してきました。
カビの生えたパンを咥えぶつかってきた彼女は、尻餅をつく私に舌を出しながら手を差し出します。
「てへっ! ごめんね。大丈夫かな?」
「あ、そういうのは結構ですので」
ポカンとする彼女を残し私は歩き出します。
世界は出会いにあふれている。
童貞を失った私に、やっと出会いが降り注いだのでございます。
それももはや遅すぎるというもの。
私は出会いも欲しておらず、それどころか少女の手を見ただけで悪寒が走ったのでございます。
触れるともれなく吐瀉物を彼女の顔面に噴射したことでしょう。
「だ、誰か助けて!」
「ふへへへ。いいじゃねぇか。酒に付き合ってくれらだけでいいんだから」
酔っ払いに絡まれている美女が私に助けを求めます。
私の懐に駆け寄り、抱きつこうとした瞬間、私は身をよじり避けます。
「はい。そういうのも結構ですので」
マタドールばりの華麗なステップで美女を避けると、「あら素敵。冷たい男も嫌いじゃないわ」と声をあげる彼女を尻目に、私は歩き出しました。
心が虚無で満ちています。おかしな言葉ですが、ドーナツに穴が空いていると感じるか、ドーナツには穴があると思うかという思考の差です。
穴
「ああああああああああああッ!」
フラッシュバックのように地獄の日々が脳内再生されます。
私はデコボコの砂利道に膝をおり頭を抱えました。私の頭がデコボコならいいのにと思いました。そうすれば路面とかっちり合わさり、テトなんとかのように私は消え去りたい。
「何してんねん」
顔を上げるとミナリさんが呆れた様子で立っていました。心なしか顔色がすぐれません。
「今日の収穫や」
そう言いながら硬貨の入った皮袋をもてあそびます。
「スってきたのですか?」
別に咎めているわけではありません。しかし私の言葉にミナリさんは気恥ずかしそうに眉を寄せます。
そして眉間に浮かぶ汗を拭うと、
「しゃ、しゃあないやんけ。ウチらみたいなもん、には、金を稼ぐ術なんてあら、へん。どうせ労働にあずかってもな、お国さんにな、ほとんど持ってかれるんや、から」と息も絶え絶えに言いました。
ほな帰るでと背を向けたミナリは、私の目の前でスローモーションのように倒れます。
慌てて駆け寄ると「逃げる時にしくじってな」と苦悶の表情で笑いました。
彼女の背中から血が滲んでいます。一箇所ではなく、数カ所も。恐る恐る上着をめくると、どうやら矢で受けた傷のようでした。
深く、そして致命的な箇所。
脳裏に首を引き裂かれた魔族の少年が浮かびます。
それと同時に呪詛を私に投げかける、見知らぬ一万もの魔族が言います。
『その女もお前のせいで死ぬ』
『お前は悪魔だ』
と。
私はこみ上げる逆流物を堪え、ミナリさんを担ぐと元来た道を走りました。
粗末なベッドに寝かし傷を見ると、どんどんと血が溢れ出します。
私は手頃な布を見つけるとめいいっぱい傷口を抑えるのですが、赤い命の雫は止めようもなく。
「何泣いてんねん」
ミナリさんが乾いた声で笑いました。
私は涙を流しておりました。涙は私のこけた頬をつたい、顎から滴り、彼女の背中に落ちていました。
「……どうして」
やっと言葉が出ます。
「どうして俺を助けたんだ」
「やっと口調が戻ってら。そっちの方がええで」
にゃははと笑うと、ミナリは血を吐き出した。傷は内臓にまで達している。応急処置では対応できない。
「待ってろ! 今セラを呼びに行く」
俺の命を差し出せば、ミナリを助けてくれるかもしれない。その一縷の望みに賭けるしか手はなかった。
「もう、ええて」
ミナリは振り返ろうとした俺の手を掴む。
「あんな女に助けられとうない」
スラムからミナリを見出したのはセラだと言う。
猫耳族は聴覚と敵意に敏感だ。瘴気の中でも活動可能で、索敵にはもってこいの存在だと言える。
セラはわざとミナリに金品をスらせて高額の賠償を要求した。それを助けたのがワーズワースという。全て茶番だ。
理解した時には遅かった。
「ウチはカナリアや。猛毒をいち早く吸い込み、一番に死ぬ役目や」
索敵をミナリはそう表現した。
そしてその役目も終わり、彼女は放り出されたのだ。
殺されなかっただけマシや、と彼女は言った。
「せやからな、あんな奴らに助けられとうない。それに本当はウチは死んでてもおかしないねん」
ミナリは歯を食いしばりながら仰向けになり、俺と目を合わす。
「もっとウチが幼い時にな、あんたに助けられてん」
案外スラムも悪いところやあらへんなと思ったよ。そう言ってミナリは俺の頬を手のひらで包む。
「食うもんに困った時にな、ほんま死にかけてん。そん時な、あんたがパンを投げてくれたんや。覚えてへんやろ? でもウチは忘れへんよ」
そんなことがあっただろうか。あったとしてもただの気まぐれだ。その時に懐が潤っていただけだ。
「ウチは耳がええやろ? 聞こえてん、あんたの心臓の音。笑かすで。セックスセックス言うてんのに、セラにビビってたやろ?」
無理をして笑う。しかし直後に激しく咳き込むと、激しく吐血した。
俺の顔に生暖かい血が飛散する。
「ミナリ!」
「ごめんなぁ、ほんま。ウチがあと10歳歳行ってたらなぁ」
それが最後の言葉だった。
頬に添えられた手のひらが、力を失い落ちる。
「ミナリ! 死ぬな!」
俺は初めて神に祈った。
もっと力が欲しい。
彼女を救う力が。
その時、何度も聞いた無機質な声が脳内に響く。
『リビドー全放出確認。愛の充填を完了しました。今より賢者モードに移行します』