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童貞概論  作者:
7/10

道程7 こいつ、隙あらば失神してんな

 目を覚ますとあばら家の天井が目に映ります。

 ここはどこかしら?


 おもむろに起き上がろうとすると背中に痛みが走り、私は顔をしかめました。

 どうやらミナリさんは私を引きずって逃げたようです。

 この痛みは彼女の苦労の証。神に感謝いたします。


 なんとか立ち上がり、私は埃だらけの家から外に出ます。

 追っ手がせまっていないか気にはなりますが、それ以上にミナリさんの姿がない事に不安を感じたのです。


 外に出ると全身を包むような熱気と、鼻を刺すような臭気に立ち止まります。


 よく知った匂いでした。

 私はこの腐ったような匂いの中で、泥をすすりながら生きてきたのでございます。


 見知ったスラム街を歩きます。

 私は顔を隠しながら歩きました。魔法使い誕生の鐘の音は世界に轟きます。厳かに鳴るかと思っていた鐘の音は、とてもけたたましくスラム街にも響きました。私の顔を覚えているものもあるかもしれない。そんなふうに不安に思ったのでございます。


 しかしそれは杞憂でした。


 スラムで生きる最底辺の住人は、他人に対して興味を抱くのは、その人物が金を持っているかどうかだけです。


 誰一人振り向きません。

 私はあてどもなく歩きました。


 あの角を曲がれば私の家に辿り着く。

 はやる気持ちを抑えて角に差し掛かると、不意に少女が飛び出してきました。

 カビの生えたパンを咥えぶつかってきた彼女は、尻餅をつく私に舌を出しながら手を差し出します。


「てへっ! ごめんね。大丈夫かな?」

「あ、そういうのは結構ですので」


 ポカンとする彼女を残し私は歩き出します。


 世界は出会いにあふれている。

 童貞を失った私に、やっと出会いが降り注いだのでございます。

 それももはや遅すぎるというもの。


 私は出会いも欲しておらず、それどころか少女の手を見ただけで悪寒が走ったのでございます。

 触れるともれなく吐瀉物を彼女の顔面に噴射したことでしょう。


「だ、誰か助けて!」

「ふへへへ。いいじゃねぇか。酒に付き合ってくれらだけでいいんだから」


 酔っ払いに絡まれている美女が私に助けを求めます。

 私の懐に駆け寄り、抱きつこうとした瞬間、私は身をよじり避けます。


「はい。そういうのも結構ですので」


 マタドールばりの華麗なステップで美女を避けると、「あら素敵。冷たい男も嫌いじゃないわ」と声をあげる彼女を尻目に、私は歩き出しました。


 心が虚無で満ちています。おかしな言葉ですが、ドーナツに穴が空いていると感じるか、ドーナツには穴があると思うかという思考の差です。


 穴



「ああああああああああああッ!」


 フラッシュバックのように地獄の日々が脳内再生されます。


 私はデコボコの砂利道に膝をおり頭を抱えました。私の頭がデコボコならいいのにと思いました。そうすれば路面とかっちり合わさり、テトなんとかのように私は消え去りたい。


「何してんねん」


 顔を上げるとミナリさんが呆れた様子で立っていました。心なしか顔色がすぐれません。


「今日の収穫や」


 そう言いながら硬貨の入った皮袋をもてあそびます。


「スってきたのですか?」


 別に咎めているわけではありません。しかし私の言葉にミナリさんは気恥ずかしそうに眉を寄せます。

 そして眉間に浮かぶ汗を拭うと、


「しゃ、しゃあないやんけ。ウチらみたいなもん、には、金を稼ぐ術なんてあら、へん。どうせ労働にあずかってもな、お国さんにな、ほとんど持ってかれるんや、から」と息も絶え絶えに言いました。


 ほな帰るでと背を向けたミナリは、私の目の前でスローモーションのように倒れます。


 慌てて駆け寄ると「逃げる時にしくじってな」と苦悶の表情で笑いました。


 彼女の背中から血が滲んでいます。一箇所ではなく、数カ所も。恐る恐る上着をめくると、どうやら矢で受けた傷のようでした。


 深く、そして致命的な箇所。


 脳裏に首を引き裂かれた魔族の少年が浮かびます。

 それと同時に呪詛を私に投げかける、見知らぬ一万もの魔族が言います。


『その女もお前のせいで死ぬ』

『お前は悪魔だ』


 と。


 私はこみ上げる逆流物を堪え、ミナリさんを担ぐと元来た道を走りました。




 粗末なベッドに寝かし傷を見ると、どんどんと血が溢れ出します。

 私は手頃な布を見つけるとめいいっぱい傷口を抑えるのですが、赤い命の雫は止めようもなく。


「何泣いてんねん」


 ミナリさんが乾いた声で笑いました。

 私は涙を流しておりました。涙は私のこけた頬をつたい、顎から滴り、彼女の背中に落ちていました。


「……どうして」


 やっと言葉が出ます。


「どうして俺を助けたんだ」

「やっと口調が戻ってら。そっちの方がええで」


 にゃははと笑うと、ミナリは血を吐き出した。傷は内臓にまで達している。応急処置では対応できない。


「待ってろ! 今セラを呼びに行く」


 俺の命を差し出せば、ミナリを助けてくれるかもしれない。その一縷の望みに賭けるしか手はなかった。


「もう、ええて」


 ミナリは振り返ろうとした俺の手を掴む。


「あんな女に助けられとうない」


 スラムからミナリを見出したのはセラだと言う。

 猫耳族は聴覚と敵意に敏感だ。瘴気の中でも活動可能で、索敵にはもってこいの存在だと言える。


 セラはわざとミナリに金品をスらせて高額の賠償を要求した。それを助けたのがワーズワースという。全て茶番だ。

 理解した時には遅かった。


「ウチはカナリアや。猛毒をいち早く吸い込み、一番に死ぬ役目や」


 索敵をミナリはそう表現した。

 そしてその役目も終わり、彼女は放り出されたのだ。

 殺されなかっただけマシや、と彼女は言った。


「せやからな、あんな奴らに助けられとうない。それに本当はウチは死んでてもおかしないねん」


 ミナリは歯を食いしばりながら仰向けになり、俺と目を合わす。


「もっとウチが幼い時にな、あんたに助けられてん」


 案外スラムも悪いところやあらへんなと思ったよ。そう言ってミナリは俺の頬を手のひらで包む。


「食うもんに困った時にな、ほんま死にかけてん。そん時な、あんたがパンを投げてくれたんや。覚えてへんやろ? でもウチは忘れへんよ」


 そんなことがあっただろうか。あったとしてもただの気まぐれだ。その時に懐が潤っていただけだ。


「ウチは耳がええやろ? 聞こえてん、あんたの心臓の音。笑かすで。セックスセックス言うてんのに、セラにビビってたやろ?」


 無理をして笑う。しかし直後に激しく咳き込むと、激しく吐血した。

 俺の顔に生暖かい血が飛散する。


「ミナリ!」

「ごめんなぁ、ほんま。ウチがあと10歳歳行ってたらなぁ」


 それが最後の言葉だった。

 頬に添えられた手のひらが、力を失い落ちる。


「ミナリ! 死ぬな!」


 俺は初めて神に祈った。

 もっと力が欲しい。

 彼女を救う力が。


 その時、何度も聞いた無機質な声が脳内に響く。


『リビドー全放出確認。愛の充填を完了しました。今より賢者モードに移行します』






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