第8話 ひまりサラマンダー⑧
次の日、放課後、僕は蛇縄梔子に会いに行った。
淡々としているように見えるが、その足は重く、まるで海の底を歩いているような気分である。息苦しく、汗をかき、吐きそうになりながらも前へと進む。
蛇縄に会うことが怖いのではない。
蛇縄と会うことによって『あの事』を思い出してしまうのが怖いのだ。僕にとって蛇縄はその過去の象徴であるのだから。
しかし、それは僕だけではなく、蛇縄もそうなのだろう。蛇縄も僕のことは過去の象徴だと思っているはずだ。だから、この息苦しさはきっと僕だけのものではない。
僕は文系クラスであるため、理系クラスである蛇縄のクラスとは真反対の位置になる。廊下を歩いていかなくてはならない。はやく、はやく終わらせよう。終わらせて、この重圧から解き放たれたい。
なぜ、華彩のためにここまでしているのか、自分でもよくわからなかった。わからなかったが、ああ、もしかしたら、友達のいない僕は誰かにああして頼りにされることを少しばかり喜んでいるのかもしれない。
「ちょ、ちょっと!なにその汗…?体育の後…?なわけないよねあたしと同じクラスなんだし」
僕がどんよりと歩いているところに話しかけてくる人物が1人。可愛らしい顔立ち。今日も染めた髪の毛をポニーテールにしている。スカート丈は短く、制服もところどころ着崩している。しかし、大人びた印象はなく、間違いなく実年齢よりも若く見られるような容姿。
仙道結。
五陵花の友人である。
「仙道か…」
「なにその反応!あたしが心配してんのにありえないんですケド」
どうやら僕の尋常ならざる様子を見て心配して声をかけてくれたらしい。クラスの中心人物とかあまり気にしたことはなかったが、こいつは間違いなくその1人なのだろう。
いろいろと立場的に悲しい僕に対してもこうして公然と接してくる。そしてそれを見て、まわりの人間は「ああ仙道さんって優しい」なんて思うのである。
なんて。
まあ、五陵花ならともかく、こいつなら僕如きと話しても評価が下がるようなことはあるまい。
しかし、本当のことを言うわけにもいかない。それこそ異形が関わってくる話だ。こいつには、仙道には絶対に話せない。
「心配してくれるのか仙道…」
「うわ!きしょい!汗だくで寄るな!」
「…」
心配とは…。
「ちょっと待ってて。ええと…」
帰宅するところだったのだろうか。背負っていた鞄に手をつっこみ何かを探している。あれでもないこれでもないと言いながら。鞄ってそんなに色々入っているものなのだろうか。僕なんかは教科書と文房具ぐらいしか入れていないのだが。
「あった、はい」
ふしゅっ。と何かをかけられる。霧吹き…というかこれはファブリーズ…?人にかけるものなのかファブリーズ…。ちょっと臭い衣類みたいな扱いをされて落ち込む僕。しかし、仙道はいいことをしたと思っているのか満面の笑みである。「よし、これで完璧!」と掃除した部屋のような評価を僕にくだすのであった。
しかし、僕も伊達に仏と呼ばれているわけではない。
こいつのどんな失礼な対応にも優しく対応してやろう。
僕も同じように笑う。
「ありがとう仙道。これで僕はお前と同じ匂いになれた、というわけだな」
「は…?」
かたまる仙道。
「いや、だってそうだろう?そのファブリーズはお前が使っているもの。ということはお前の制服とかにもかけられているものということになる。だからきっと今、僕とお前は同じ匂いになったわけだ」
「な、な、な…何言ってんの!!ち、違うし!そ、それはあまりにもあんたが汗だくで…」
顔を赤くしてわちゃわちゃと手を動かす仙道。
僕は勢いよく息を吐いた。そしてファブリーズを吹きかけられた箇所を鼻にあて、思いっきり息を、吸い込む。スーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!!!!
「ハアァアアアアアア…!!!!! これが…仙道の匂いかあ…!」
「ば、ばかーーーーーーーーーーーーーー!!!! や、やめ、やめてってば!!!」
「ハハハハハハハハ!」
逃げる僕と追いかけまわす仙道。
かなり目立ってはいるはずだが、放課後という混沌とした時間のせいで僕たちを気にかける人物は誰もいない。いや、なぜ目撃者を気にする犯罪者の思考になっている…?
「ぬ、脱げ!今すぐ脱げ!」
「なっ…!お前、バカ!」
僕の制服を脱がせようとする仙道。
お前は僕が露出狂の変質者になってもいいというのか!?
「あんたの制服をドブで濯ぐ…!」
「イカれてるのかお前は!!」
どう考えてもイカれてるのは僕であったが、そんなことを気にする余裕はない。制服なんて何着も持っているものではない。ドブで濯がれたら僕は明日何を着て登校すればいい。というかそれは濯ぐとは言わない。汚しているだけだ。
「あんたの存在感なら裸で登校してもバレないでしょ…!」
「バレるわ馬鹿者!!」
あまりの照れと恥ずかしさで頭が壊れているみたいだ。
ちょっとからかうつもりがまさかこんなことになるとは…。てっきり男慣れとかしているのだと思っていた…多少の照れはあってももっと「ふふふ」みたいに妖艶に笑うものだとばかり…。
「お、男慣れなんてしてないし!というかそもそも!仮に男慣れしてても気持ち悪い!」
正論だった。
反論なんて1つもない。
制服を脱がせようとする仙道と抵抗する僕という構図ではあるものの、僕がただの悪漢であることに間違いはなかった。
「くっ!!こいつ意外と力強…!…お、大声出すぞ!いいのか!」
今、大声を出したら敗訴するのは僕である。
しかし制服が台無しになるのと比べたら…比べたらどっちが重いんだ!?
「あんたこそいいの、このこといろちゃんに言っちゃうよ」
え…。五陵花に…?
さすがの五陵花といえど、あののほほんとした大食いといえど僕のことを軽蔑するだろうか。「うしくん気持ち悪い」なんて淡々といつものように僕に言うのだろうか。
それは…。
「それはちょっと聴きたい…!」
人として終わっていた。
しかし、だからこそ失うものは何もないと言える。僕は獣。理性のない獣なのである。法は獣を裁くことはできない。倫理観がない、獣に法なんて無意味だからだ。
僕は水が流れる様な、流水の如き手つきで仙道の胸を揉んだ。
「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
少女のような声をあげる仙道。
チッ、余計な声あげやがって。まわりを見ると少し注目を集めてしまっている。これはまずい。というかそもそもこんなことをしている場合ではない。はやくしないと蛇縄が帰路についてしまう。
仙道は驚きながらぱくぱくと口を動かしていた。夏祭りの時に五陵花が屋台で釣り上げた金魚を思い出した。最初は育て方がわからなかったが、とても大きくなるまで成長したんだよな。五陵花が餌のやりすぎでそうなっただけであるが。
もう仙道の手は離れている。というかそれどころではなくなっている。
「御免!」
僕はその場から駆けだした。
さながら忍者の如く。今までの足取りが嘘のような俊敏さだった。というか、俊敏に動かなくては最悪捕まってしまう。いや、これ警察沙汰にはならないよね…?男子高校生あるあるみたいなので片づけられるよねこれ…?
とにかく顔を見られるのはまずい。仙道には思いっきり見られているのだが、それでも、まわりの人に見られたら終わりだ。
その勢いのまま、蛇縄のクラスへとたどり着き、思いっきりドアを開けて教室に転がり込む。
その男は、いた。
すでに教室の中にはその男しかいなかった。
蛇のような男。ぼさぼさの髪の毛はしかし、その整った面にとても似合っていた。「へえ」と呟き、にやりと笑っている。まさかこんな形で再び会うことになるとは思わなかったが、挨拶はするべきだろう。
それこそ、僕のことを思い出してもらうために。
「蛇縄…久しぶりだな」
「久しぶり、うしくん」
ああ、憎らしいほどに変わっていない。
この男は今も、今までも、ずっと変わることがなく、ただただ蛇縄梔子であったのだ。きちんと話すのは何年振りだろう。同じ中学、高校に通っていて、姿を見ることさえほとんどなかったように思える。
異形嫌いの。
僕の、幼馴染。
「僕がお前の姿を見たのは確か、デモの時だったよ」
「見てたんだ。高校1年生の時の若気の至りとかってやつだよ。ほら、新しい環境に舞い上がってたのさ。人間社会に異形が入り込むことを、否定する運動。学生運動みたいなもんだって。まあ、ほら、僕らももう受験生であるわけだし、内申とかを気にするだろう?」
人間らしいことを、当たり前のことを言っているが、きっと嘘なのだろう。学生運動だってただ飽きただけに決まっている。
いろんなアプローチをして、いろんなことを試して、ただ、それだけ。自分が楽しめればそれでいい、異形を排他できればそれでいい。そんな人間なのだ、こいつは。
「ああ、そうだ。そういえば、五陵花さんは元気?」
「…」
「そんな怖い顔しないでよ、いやだなあ…」
蛇縄は笑う。
僕は心を落ち着かせる。そう、僕は何も手ぶらでここにきたわけではない。僕は自分の右手を、仙道の胸を揉んだ手を静かに動かす。この手に残る感触。僕にはここに、ある。勇気がもらえる。
「それで、こんな僕に、わざわざ君が話しかけたんだ。何かあるんでしょ?」
「ああ、そうだ。その通りだ。お前に話がある」
僕がここにきた意味。
それは別にこいつと仲良くお話しに来たわけではないのだ。あまり話を長引かせても意味はないし、単刀直入に聞くとしよう。
というか、はやく終わらせないとさっきの仙道騒動で何かしらの追手が来るかもしれない。というかもはやそれが気になって本来の目的である蛇縄とのことはどうでもよくなってきてはいるのだが。
僕は唇をなめて、少し滑りをよくしてから、重い口を開いた。
「蛇縄って彼女いるの?」
恋バナだった。
その時のぽかんとした顔の蛇縄といったら。僕は今回の件に関わったことに対して後悔しかけていた。蛇縄が絡むとわかっていれば尚更。それこそ断っていたかもしれない。協力を。あの炎の異形の協力を、断っていたかもしれない。
しかし、こうしてこいつの驚いた顔を見れたのはプラスである。このために手伝っていたのではないか、と錯覚してしまうほどに気持ちがよかった。
「なるほど」
蛇縄はその数秒後、そう言うのだった。
まさかの恋バナで頭が追いついていないのかもしれない。なるほど、なんて全てがわかったような言葉を口にして誤魔化してはいるが、何も考えられないだろう。
僕はクックックッと笑う。
「また君は異形に肩入れして僕のことが好きな異形に何らかの形で協力することとなったはいいものの、相手が僕ということもありどうしたもんかと頭を悩ませた結果単刀直入に直接僕に恋事情について聞いてしまおう、ということだろう」
全てがわかっていた。
丸わかりである。
なぜ…?今の一言でここまで分析される…?こいつ相手にはもう何も隠し事ができないんじゃないかと思い始める。ぶわっと汗をかくが、なんとか抑えた。平静を装う。
僕はこう言った。
「違うな」
強がりだった。
負け惜しみではあるが、こいつの思い通りになることが許せなかったのだ。
「まあ、いいよ。別に特定の誰かと付き合ったりはしていない」
答えてくれるんだ…。
「それで、それを聞いて君はどうするつもりなの?」
「別にどうもしない。彼女がいないお前をあざ笑いに来た」
「うしくんは彼女いるの?」
「…」
地獄のカウンターパンチだった。
というか、話の流れ的に当然の質問だった。
「いる」
嘘を吐いてしまった。これ以上はまずい。これ以上話が進むと面倒になる。
「へえ、誰?」
「お前に言ってもわからないよ、お前が知らない人だ」
「てっきり五陵花さんかと思ったけど…」
しまった。五陵花はこいつの知ってる人だ。五陵花の名前を借りようと思ったが、これではもう使えない。華彩…いや、華彩はまずい。なんで蛇縄のことが好きな人と付き合っていることになるのだ。どういう人間関係だそれは。それは絶対にダメ…。夢乃…さすがにやばい。年齢的にも関係的にも。
蛇縄は笑う。こいつ楽しんでるな…。
「教えてよ、名前」
「嫌だ」
「教えてくれたら、そうだな、君に協力してあげる」
「仙道結だ」
ごめん仙道。でももうおっぱい揉んじゃったし付き合ってるようなものだよね。僕のつまらない意地で巻き込んでしまった仙道にはもう頭が上がらないが、しかし、こいつは答えられない僕、困っている僕を楽しんでいるのであってこうやって答えてしまえば途端に興味を失う。
基本的には自分の楽しみのために動いているような人間なのだ。
予想通り蛇縄は「ふうん」と言った後僕に質問をすることはなかった。鞄を持って立ち上がる。
「帰るのか」
「うん、久々に話せて面白かったよ。まだ何か話があるの?」
「いいや、もうお前と話すことなんてないよ」
僕はとりあえず冷や汗を拭う。色々とやってしまった感があるが、致し方ない。必要な犠牲だったとして諦めよう。
しかし、これで蛇縄の有益な情報を得られた。もし仮に彼女なんてものがいたとしたらその彼女まで色々カバーしなければ華彩は泥棒猫になってしまう。人間関係がこじれるのはごめんだ。それが、華彩に向けられるのだとしたら。
あの優しい異形に、何も悪くない、ただの異形に向けられるのなら。
本来であれば彼女がいないという情報は華彩に伝えるべきプラスの情報ではあるものの、変に希望を持たせてもアレだし。言わないでおこう。
さらに蛇縄に協力してもらう権利まで得た。これは大きい。それこそ華彩のために使えそうな権利だ。収穫はあった。
すると蛇縄は最後に喜ぶ僕に向かってこう言うのだった。
「帰りにその仙道さんとやらに挨拶しに行ってみるよ。どんな理由でうしくんと付き合ったのか気になるし。ああ、君に協力するという約束は守るから安心して。それじゃあ、また会えたら」
教室のドアを開け、廊下に出ようとする。
僕はその蛇縄の肩をがっしりと掴んだ。
「うしくん?」
「まだ話は終わっていないぞ」
「え、でもさっきもう話すことはないって」
「言葉のあやだ」
無理があった。無理があったが、それでもやらねばならなかった。
精神的に参っている中、胸を揉まれ、挙句の果てに勝手に彼女にされているだなんて仙道が知ったらそれこそ自殺にまで追い込んでしまうかもしれない。
僕は命を、救わなくてはならないのだ。
なんとか、仙道が帰宅するまで時間を稼ぎたいところである。そもそも仙道は帰宅するのだろうか…血眼になって僕を探している可能性も否定できない。
だが、このまま蛇縄を帰すわけにはいかない。
「蛇縄、協力だ。仙道結のことを詮索するのはやめろ」
「…了解。約束だもんね」
華彩ごめん。
もう約束の権利使っちゃった…。権利を得るためにした嘘で権利を使用してしまうというコントのような事態に僕は思わず黙り込んでしまう。
蛇縄との会話で得たものが…消えていく…。
蛇縄は本当にそのまま帰っていった。約束は守る男だろうから、仙道に及ぶことはまずないだろう。前向きに考えなければならない。あのまま蛇縄を帰すよりかは被害が小さくなったと思うべきだ。
もはや自己暗示だった。
こうやって考えていないと膝から崩れ落ちてしまいそう。
静かに扉を開く。廊下に顔を出して左右を確認。仙道はどうやらいないみたいである。仙道だけではない、ほとんどの人間がもう校内にいなかった。
「ふう…」
少し落ち着く。
もうそんな時間になっていたのか。校庭で部活をしている人の声が聞こえる。響いている。野球部だろうか。結構校庭からは離れているはずなのだがここまで声が聞こえてきた。
さて、と。
そろそろ、現実を見る時間だ。
炎の異形。サラマンダーの異形。人間であることを諦め、恋を諦めた女子高生。常に燃え続ける炎のような女。その燃え上がる炎を鎮火するために、現実を見よう。
華彩火鞠。
消そう。
消してみせよう。
お前の炎を。
お前の恋を。
よろしくお願いします。