第20話 ゆめのサキュバス⑧
死にたかったけれど死ねなかった。
虐待といってもたくさんあるけれど、私が受けていたのは死ぬほどのものではなかったのだ。死にたくなるほどのものではあったけれど、死ぬほどのものではなかった。だからこそ、死ぬほどのことを永遠に、ずっと、何回も何回も何度も何度も何度も何度も受け続けてきた。
「ちょっとあんまヤらないでよね。もう初潮来てたらどうするのよ」
「知らねえよ。出来ても堕ろせばいいだろうが」
これが親同士の会話であると誰が信じられるだろうか。
しかし、私にとってはこれが普通で、他の家族のことはわからなかった。きっとみんなもこんなものなんだろうと思ってきた。みんなは学校というものに行くと聞いたことがある。学校に行って、殴られた傷とかいろいろ諸々バレないのだろうか。
うちの親はいつもこのことは誰にも言わないで、なんて言っているけれど。まあ、そもそも言う相手もいないのだからあまり関係ない。
逃げようと思えば逃げられた?
違う。
逃げるなんてそもそも思いつかなかった。
私は河上瑞穂。そう名前の付けられた道具でしかなかったのだから。
朝から殴られて、犯されて、それで昼には何もない。ただ、ぼーっとしてるだけ。今、自分が何歳かもよくわからないまま。栄養不足の体は年齢より、小さい。御飯も食べずにただひたすら時間が経過していく。
そして、夜。
父親と母親が走って私に駆け寄ってきた。ああ、そうか、今日はこの日か。私はその光景をぼーっと見ている。父と母は泣いていた。
「ごめんね、ごめんね…違うの…私は本当は…あなたを愛して…」
「すまない…すまない…俺はなんてことを…実の娘に…許してくれ…瑞穂…」
もう、壊れていたんだと思う。
父と母が薬を服用していたことは知っている。精神が、壊れて、もう2度と戻らなくて、流しているこの涙も、きっと、でも本物で。だからこそ、私はずっと愛してもらっていると思っていたのだ。
お父さんとお母さんが心配だから、私はずっとここにいようなんて、そんなふうに思っていた。
あの日までは。
サキュバスの異形と、出会う日までは。
『それ、普通じゃないと思う』
急に、声が聞こえた。
夢?幻?幻聴?殴られた耳がついにおかしくなった?そういう理由の方がまだ現実的であったが、私はまだ小学生。そんなつまらない現実よりも、空想を選んだ。
妖精さん?
私はそう語りかけた記憶がある。
声は少し困ったように笑いながら『ははは…そんな可愛いものじゃないよ』と言う。『私はサキュバスの異形。異形って知ってる?』知らない。私の部屋、テレビないから。有名人?『そっか…ううんと、ある意味?ほんとは実体があるものなんだけど、私は特殊で、姿がないんだ』幽霊?『似てるけど、違う。いや、でもほとんど幽霊みたいなものか』
取り憑いて。
呪いのように死に至らしめる。
私はあまりよくその説明の意味がわからなかったけれど、サキュバスの異形は人から生命力や寿命を吸い取るらしい。その際に今の姿が見えない状態では無理で、だから人間に取り憑く。取り憑いて、他の人間から生命力を奪って、そして、死に至らせる。
それがサキュバスの異形。
自分で手を汚さない、最低最悪の異形。そう、自分で説明していた。
『私の声が聞こえるってことは、波長がとても合うんだね』
「私の寿命、食べる?」
『食べない食べない。私たちは確かに相性のいい相手の生命力を奪うけど、波長の合う人間の生命力は奪わない。うーんと、例えるなら相性のいい相手は美味しそうな食べ物なんだけど、波長の合う人間は友人?的な?取り憑くなら後者。後者に取り憑いて前者を食べる、って感じかな』
「ふうん。じゃあ、お父さんとお母さんの寿命を食べに来たの?」
『ううん、それも別に。というか私、寿命食べたこと一回しかないし』
「一回?それって生まれて一回しか食事してないってこと?」
『うん…。そうだよ。サキュバスの異形って、最初は自分のこともよくわからないんだ。ぷかぷか浮いた存在。それだけ。でもそのうちお腹がすいて、おいしそうな生命力を見るとぱくりと食べちゃう。食べちゃって、気付いたらその人が死んでた。それでようやく気付くの。自分がサキュバスの異形だって』
じゃあ、サキュバスの異形は、人を殺して初めて自分のことをわかる、ということなのだろうか。
それはまた、なんとも、悲しい話だ。
その行為が人を殺すとは思わず、殺してしまってから、今の行為が人を殺すものなのだと気付く。
最初の1人は死を免れない。
必ず人を殺す異形。
『本当は施設に入ろうかとも思ってたけど、たぶん施設ってより監獄に入れられちゃいそうだし。このまま生命力も食べずに餓死しようかな~って考えてたらあなたに出会ったの。ねえ、ここから出たくない?』
「ここから?」
『うん、家から』
「どうして?」
『この家が異常だから』
「異常?」
『うん。普通親は子を殴らないし』
「え、でも殴らないと、どうやって愛を伝えるの?」
そう答えた時のサキュバスの顔は忘れられない。顔は見えていないんだけど、雰囲気が明らかに変わった。そんな気がした。
『許せない…』
そう小さく呟いていた。
それから毎日、サキュバスの異形は私のところに訪れた。他愛のない話をすることがほとんどだったけれど、毎回のように外に出ない?と誘ってくる。私はそのたびに「うーん」と曖昧な返答をするのだった。
だって、外に出るってどういうことなのか、私にはよくわからないんだ。
私にはお母さんとお父さんしかいなかったのだから。
しかし、ある日。
『ならさ、学校とか興味ない?』
「学校?」
それは少しだけ興味がある。
話はよく聞くけど私は行ったことがなかったから。
『そうそう。私の力なら入学なんてすすいのすい。嫌ならすぐやめればいいし、家に戻ってもいい。ってほんとに子供を誘う悪い大人みたいだけど…私もこれでも子供だから…』
「うーん、わかった。学校には行ってみたい」
『本当!?』
サキュバスの異形は喜んでいたように思える。
それよりも私が気になっていたのはサキュバスの寿命だった。生命力を吸わない夢乃はもうしばらく何も食べていない。そのためには人間の体を使う必要があるのだが、それもしない。サキュバスが憑依して悪さをすると全ての評判は憑依された人に返ってくる。
それが許せないなんて話していた。
その瞬間だった。ばん!と乱暴に開けられたドア。私の部屋に入ってきたのは父親と母親だった。今日は2人とも泣いている。ああ、またあの日か。なんて思っていたけれど。
2人の手には包丁が握られていた。
「ああ、ああ。可哀想に瑞穂。幻覚を見てるの?虚空と話して、何をしてるの?可哀想に…ごめんね…ごめんね…私たちのせいで…」
「せめて、俺達の手で…殺して…」
初めて。
その時初めて、私は恐怖を覚えた。明確な殺意。泣きながら迫る大人。尖った先。ああ、そういえば、私は殴られたことはあっても刺されたことはまだなかったな。
私も人間だった。
道具なんかじゃなくて、弱い人間だったから、刃物が怖い。刃物を持つ人間が怖い。殺されるかもしれないと思うと体の震えが止まらない。
死にたくない。私は、死にたくなかったんだ。
刃物が、刃先が迫る中。
私は叫ぶ。
「私はここから逃げ出したい! このゴミみたいな家から、逃げ出したい! それと、これが一番の理由。話し相手であるあなたがいなくなるのは、困る。友達を助けたい。だから」
憑依して!
ふと、声を聞いた気がした。
『眠れ』
声と同時にばたりと父親と母親が倒れる。
私は安心して、その場にへたり込んでしまった。
『夢を見てもらってるの。娘なんていない、そんな悲しい夢を』
サキュバスの異形は、本当に悲しそうにそう言った。私に憑依をして。
現実改変で娘がいないものだと思い込ませた後、私とサキュバスの異形もとい夢乃は入所する施設を探しているところだった。何かないか。小さな子供でも預かってくれるようなところ。
その時だった。
夢乃が彼の姿を見つけたのは。
でも、夢乃は何も言わなくて、そのまま私の居場所を探して、見つけてくれた。生活院。異形を収容する施設だが、人間も預かってくれるらしい。孤児院みたいなものだろうか。
夢乃はあの時のことを私には話さない。
波長が合ってるんだから私にだって伝わってるのに。
「ねえ」
生活院での生活に慣れた時のことだった。
入所する際も夢乃が夢を見せて難なく入所ができた。色々な審査とかもあるんだろうけど、そのあたりはしっかり飛ばさずに全て受けた。
そんなある夜の日。
「夢乃、あの人のこと好きなんでしょ。というか一目惚れなんでしょ」
『な、なにが?』
「焦ってる」
『うう…別に…』
「隠さなくてもいいよ、わかっちゃうし」
『瑞穂…すごい元気になったよね…』
「話を誤魔化さない」
夢乃が小さくため息を吐く。
「ねえ、夢乃。現実改変使いましょ」
『な、なんで?』
「それで彼の彼女になるの」
『さ、さすがにそれは倫理的に…あ、あと夢乃、実体ないし…』
夢乃という名前を付けてあげてから一人称が夢乃になっている。
私はそれを逃さず本人に聞いたことがあったけれど、気に入ってるからなんて言ってたっけ。
「私の体を使えばいいでしょ」
『それはもっとだめ!』
「ダメじゃない。ほら、最初は妹か何かになってさ。私も家族って本当はどんなものか知りたいし」
『その話題を出されると弱いけど…急に知らない人が妹になるって気持ち悪くない?』
「そのための現実改変でしょ」
私がこのとき、ここまで夢乃に対して勧めていたのは、夢乃の恋を応援したいという気持ちだけではなかった。夢乃はほんとうに生命力を吸わない。何もしない。それはすなわち食事をとらないのと同じだ。自分のせいで誰かが死ぬのは許せない。そう思っている彼女は断食状態なのだ。
現実改変でエネルギーを使い続けば、このままだと、存在ごと消えてしまう。
しかし、夢乃が強く生きたいという理由を見つけることができれば。長い間好きな人と一緒にいたいという気持ちがあれば、生命力を吸うかもしれない。
私は知らないどこかの誰かが死ぬより、夢乃が死ぬ方が悲しい。生きていてほしい、私の親友。そのためには人を殺したっていい。そう思ってた。あんな家庭で育ったからこんな思考になるのかな。
「ほら、試し試し。嫌だったらすぐ戻ればいいし。危ない男だったら逃げればいい」
『実害がくるの、瑞穂の体なんだよ』
「それでもいい。私はあなたのことを応援したい」
そうして生活院を抜け出し、あの男のもとで妹として生活し始めた。
結果としてはあたりだったと思う。ちょっとシスコンちっくなところもあったけれど、それでもうちの親より何倍もマシだったし、あたたかい気持ちになれた。こいつになら夢乃を任せてもいい、なんて親みたいなことも思ったぐらいだ。
「夢乃ー! おかえりのチューは!?」
「兄ちゃんきしょい」
夢乃も妹というものに慣れてきたみたいだし、私はこうして家族である様を、普通の家族の光景を見れるだけでよかった。これだけで楽しかったんだ。
でも、夢乃は違ったみたい。
1人でいた時に、泣きながら、私に謝ったことがあった。
「ごめん…ごめんっ…! 瑞穂…! 夢乃…あなたのことを守ろうと…幸せにしたいと思ってたのに…今の、この生活が楽しくて仕方ないよ…! やめたくない…夢乃、兄ちゃんの妹で居続けたい…! 兄ちゃんが好きでたまらないんだよ…!」
『謝らなくていいよ。夢乃も幸せにならなきゃ私は幸せになれない』
それでも、こんなにも好きなのに。夢乃は妹であろうとし続けた。確かに現実改変で彼女になるのは倫理的におかしいかもしれない。ならクラスメイトは?幼馴染は?親友は?だって、妹だと可能性なんて、恋が実る可能性なんて0に近いじゃないか。
最後まで夢乃は私のことを考えてくれていたんだ。
普通の家族を見たい。
なんて、そんなことを言ってしまったばかりに夢乃を縛ってしまったんだ。今でも悔やまれる。夢乃に行動を起こさせるためとはいえ、失敗した。これじゃ夢乃は幸せになれない。
それどころか、まだ生命力を吸わない。
このままじゃ、現実改変が保てなくなるし、夢乃が消えてしまう。
そしてとうとう、夢乃はサキュバスを抑えきれなくなり、あの男に襲い掛かった。
『夢乃! バカ! 起きなさい!』
ああ、なんてことだ。
神様というものはいつも残酷で。だったら私にひどいことをすればいいのに。それなのに。なんで夢乃がこんなめに遭わなければならないのだろう。
夢乃の好きな人は所謂夢乃と相性のいい人間、だったのだ。
夢乃が食べたくて仕方のない、そんなタイプの人間だった。
このままでは夢乃が、彼を殺してしまう。
『ねえ、夢乃。少しだけ、私に任せてほしい』
確かめよう。
強行突破だ。
あの男が、本当に夢乃のことを考えているのか、それを確かめよう。
私がサキュバスになるのだ。サキュバスを演じるのだ。
〇
「デパートの屋上のメリーゴーランド。あなたにとって懐かしいところでしょ?いえ、いいえ、違う。ただ懐かしいという記憶を植え付けられただけ。それでもあなたは、夢乃が好きだと、妹であると言える?」
「あなたは夢乃が人を殺しても、許してあげられるかな?」
よろしくお願いします。




