第10話 ひまりサラマンダー⑩
私は1人だ。
いつだっただろうか。そんな意識が、当たり前になってしまったのは。
小学生の頃までは普通だったように思える。どこにでもいる、普通の、小学生だったはずだ。誰もが経験するようなことを経験して育ってきたような人間だった、その頃は。
小さい頃から家族に可愛い可愛いと言われて育てられてきた。少しだけ、正直言うとかなり、それは気恥ずかしかったけれど、しかし、私のことを考えてくれているのだなと思ったら、嬉しかった。
だから、そんな顔をしないでほしい。
私を見て、悲しそうな、申し訳なさそうな顔をしないでほしい。
中学生になってから、気付くとみんなの私を見る目が変わっていた。クラスメイトも友人も、親戚も、家族も、みんなみんな私を今までとは違った目で見ている。
誰も悪くないの。
いえ、強いて言えば私が悪いの。
私が、人間じゃなかったから。
私が、異形だったから。
そんな私も人並みに恋愛をしていた。小学生の頃に一目惚れした相手。活発で、まっすぐな男の子。
なぜ、気付かなかったのだろう。みんなの私を見る目が変わったのに、彼だけは変わらないなんて、王子様を夢見る女の子のような夢見がちなことをなぜ思ってしまったのだろう。
『…化け物』
とても傷ついた、と思う。
もうわからなかった。化け物と言われ、怖がられ、感覚がマヒしていたのかもしれない。そこでようやく、気付いてしまった。私は1人だって。私はみんなとは違うんだって。お母さんとお父さんがどれだけ私を人間として育ててくれても、私は人間ではないんだって。
本を読みたいのなら読んでもいいと言われた。
部屋を好きなように飾ってもいいと言われた。
家族みんなで一緒に寝ようと、そう言われた。
そして私は全てを断ったのだ。その油断で、少しでもあるかもしれない引火の可能性を無視するわけにはいかない。私の炎で全てが台無しになることだけは避けなければいけないと思っていた。
この炎で傷つけることだけは、絶対にしてはいけないと思っていた。
その代わり。
ああ、許してほしい。
みんなと一緒に過ごすことを。友達になってくれなくてもいい。私を避けてもいい。罵ってもいい。だから、同じ教室でみんなと同じことをして、クラスの一員として、過ごしたい。そんな願いを、いまもなお持ち続けていることを許してほしい。
本来であればこんな危ない頭で、登校なんてしない方がいいに決まっているのに。
怖がらせてごめんなさい。驚かせてごめんなさい。気持ち悪くてごめんなさい。危なくてごめんなさい。人間じゃなくてごめんなさい。異形で、ごめんなさい。
私のことを嫌ってもいい。
でも私は、みんなのことを、今もずっと好きでした。
こんな未練がましい私だから、執着心の強い私だから、今もその初恋が忘れられなくて追い続けてしまうのだ。叶うはずのない夢を。ずっと。
他人を巻き込んで、自分1人で考えることを放棄して。なりふり構わないで。そこまでしてしまうほどに私は追い込まれていたのだろうか。自分の恋心に。
私の炎に。
本当はずっと気付いていた。でも自分で指摘するのは、気付いてしまったと認めるのはあまりにも重かった。もう人間として恋することなんてできないと気付いてしまうのは辛かった。
ごめんなさい、大海原くん。
あなたを傷つけてしまったばかりだけど、こんな役目を押し付けてごめんなさい。でも、あなたなら、なんて思ってしまったの。あの図書館で、私を見ても逃げずにむしろ私の心配をしてくれる人なんて今まで家族以外1人たりともいなかったのだから。
きっともう、答え合わせの時間だ。私が目を逸らし続けてきたことに、目を向ける時間だ。
私の恋を終わらせる時だ。
〇
「兄ちゃんまさかサボったの!?」
空気を読んでくれ…。
華彩を連れて歩き始めて数分。華彩宅から目的地へ行こうとしている途中。華彩宅から近くの公園に僕の妹である夢乃がいた。
いつものように髪型をお団子にして、パンダみたいなシルエット。スカートを履くことの多い夢乃だが、今日はジャージだった。そういえば朝に課外授業だかで外に出るとかって話をしていたな…。まさか華彩宅の近くだったなんて思わなかったけれど。
どうやら公園での風景スケッチ、それが授業の内容みたいだ。そんな授業はどこへやら僕と華彩の元へとことことやってきてそしてこの様である。説教。いや、僕と華彩の間に流れる重苦しい雰囲気でよくもまあ、説教ができるものだ。
「大体兄ちゃんはいつもどこか不真面目というか、もう受験生なのに勉強全然してないし、挙句の果てに授業サボるし。今までもこんなことあったけど、もうしないって言ってたのに。夢乃と約束したのに。そもそも兄ちゃんはいっつも…」
叱り方が母親に似てきたなあ…。
そんな場違いな感想を抱いているとまた別の子がとことことこちらに歩いてきた。活発そうな少年である。夢乃と同い年ぐらい、小学6年生と考えるとクラスメイトの1人か。同じようにスケッチをしていたみたいで手には画用紙が握られていた。
僕のことをじっと見つめている。小学生らしい顔。小さい身長。もとから子供は嫌いではない、むしろ好きである僕は優しくその少年の目線に合わせるためしゃがんだ。確か、こうすると警戒心がなくなるのだったっけ。夢乃の友人であるならばそれこそ夢乃が僕の隣を死んだような顔で歩いている華彩に対して気を遣ったように僕も気を遣わなくては。
正直こんなことをしている場合ではないのだが、僕には夢乃の事情も大切なのだった。
兄の威厳を保ちつつ、優しくならなければ。少年は何か話したそうにしている。僕は目で先を促した。優しく笑いかける。そして緊張している面持ちで口を開いた。
「ゆ、夢乃に何してるんですか…。その…いじめてるなら警察、呼びますけど…」
「あ?」
なんだこのガキは。
「佐野くん、大丈夫だよ。夢乃の兄ちゃんだから」
「え、お兄さん?」
いや、お前の兄ではない。
というか人の妹のことを何呼び捨てにしてくれてるんだこのクソガキ。
「あの、佐野祐介っていいます…。すみません、夢乃がいじめられてると思っちゃって…先生も知らない人には気を付けろって言ってたので…つい…。あ、その俺は夢乃の友人です、まだ」
まだ?
気のせいか?空耳か?僕にはまだ友人だが、そのうちゆくゆくは…みたいな言い方に聞こえたのだが。
夢乃は「もー」と可愛らしく呆れていた。
「同じクラスの友達の佐野くん。佐野くんすっごい足がはやいんだよ。かけっこでいっつも一位とっててすごいかっこいいの」
なにこの小学生の足のはやいやつはモテるみたいな理論。じゃあ、お前らが一番かっこいいと思っている有名人はウサイン・ボルトなんだな。二度とジャニーズの話はするなよ。
僕はそんな小学生全体に対する半ばヤケクソみたいなことを考えているとその佐野とやらが照れたようにこう言った。
「いやあ、俺クラスで一番足はやくて、学年でやったリレーでも一位だったんですよね。かなり足の速さには自信があります」
「じゃあ今から僕と勝負するか?お前のその小学生の歩幅と僕の歩幅で全力疾走してどちらが勝つかなんて火を見るよりも明らかではあると思うが」
大人げないなんて単語、僕は知らない。
なぜ、相手が子供だと手を抜かなければならないのだ。それこそ、ある種の差別であるだろう。僕のスタンスとして異形と人間を差別しないというのがある。それと同じで僕は大人と小学生も差別しないと決めているのだ。特に生意気な男子小学生には。
だから同様の立場に立って発言しよう。僕の思考をしようがないから小学生レベルまで下げてやろう。やれやれ、全く子供の相手というのは大変だ。
「佐野くん、先生に怒られちゃうよ。今はスケッチの時間なんだし。それに兄ちゃんもサボってないではやく学校に戻らないと」
「夢乃、悪いな。男には譲れない勝負をしなければならない時が人生に1度あるんだ。これだけは譲れないというものが。そしてそれは今なんだよ。僕にとっては今なんだ。止めないでくれ。そして心配しないでくれ。お前の兄ちゃんが一番かっこいいってところを見せてやる」
僕は落ちていた木の棒でスタートラインとゴールライン、そしてそれぞれが走るコースの線を引く。がりがりと地面に跡を残す感覚。ふと何か視線が気になってそちらの方を向くと華彩が僕をゴミを見るかのような目で見ていた、気がする。炎でわからないが。お前人のことそんな目で見れるほどメンタルが回復したのかよ。いや、お前のことを忘れているわけではない。数秒で終わる。お前に勝利をプレゼントしてやるよ、華彩。
大体コースは100mもないぐらいだろうか。確かに僕は運動が得意なわけではないけれど、これぐらいなら一気に走れるだろうと思う。
位置について。佐野とやらが僕の方をちらちら見ている。どうやら本気で走っていいのかどうか、本気で走ってしまえば自分が勝ってしまい、僕に嫌われてしまうんじゃないだろうかと心配なのだろう。
甘い。
甘すぎる。
勝負に好き嫌いなんて持ち込むべきではない。なぜ、対戦相手に嫌われないように振る舞わなければならないのか。むしろ嫌われてなんぼというものである。
だから、申し訳ないが佐野くん。君は今日で僕のことを嫌いになるだろう。君のその唯一の取柄を、僕が奪ってしまうのだから。
戸惑いながら夢乃がスタートラインに立つ。掛け声をお願いした。単純に夢乃の掛け声を聞きたかったというのがあるが、中立な立場というのも理由の1つだ。
そもそも華彩はあんな感じだし、頼めるのが夢乃しかいないということでもある。
「よーいどんっ」
夢乃の可愛らしい掛け声と共に僕と佐野くんがスタートする。僕は本気で走りつつも、相手の様子をちらりと見た。後ろにはいなかった。え。前を向く。佐野くんは僕の前を走っていた。
あ、足はや…。
だが、言っただろう。甘い。甘すぎる、と。スタートラインとゴールライン、そしてこのコースの線を引いたのは誰だと思っている。そう、佐野くんのコースには先ほど少し大き目の石を置いておいた。コースから脱線するかもしくは一度ストップしなくてはならないぐらいの大きさの石を。
そのタイムロスが僕に勝利をもたらす。
勝負はすでに、始まっていたのだ。
「ほっ」
佐野くんはそんな掛け声と共にその大きな石をジャンプして乗り越えた。いや、なんで咄嗟にそんな反応ができる。おかしいだろ反射神経。
そのまま佐野くんがゴール。僕はその少し後にゴールした。
「…」
空気が地獄だった。
しかし地獄にしたのは僕なのである。佐野くんはなんと声をかけてよいやら迷っているみたいだ。
「はーっ…はーっ…はーっ…」
僕は話せるレベルではなかった。
久々の全力疾走で体が悲鳴をあげている。そして息も荒いままで今は空気を吸うことすら満足にできない。佐野くんは飄々としていた。どんな体力だ。
「ひ、卑怯だ…ず、ずるをしただろ…さ、さっき夢乃の掛け声の少し前にスタートしてた…!そうだ…フライングだ…!今の試合は無効だ…!」
話せるようになって最初に絞り出したセリフがこれだった。
「え、佐野くん兄ちゃんと同時にスタートしてたけど。というか兄ちゃんより遅かったよ。なんか気を遣ってるのかあえて遅くしてるみたいな感じだった」
「お、お前…お前は兄ちゃんの味方じゃないのか…?少し前まで僕のお嫁さんになりたいとか言ってたお前が…?」
「な、何年も前でしょ! 恥ずかしいこと言わないでもう…」
滅茶苦茶だった。
そんな混沌とした中、佐野くんがついに口を開く。
「お兄さんすげえ速かったです…その…手加減してくれなかったら負けてたのは俺でした…ありがとうございます…」
お、大人…。
僕も同様に余裕の表情で、本当の大人というものを見せつける。
「は、はは…だよなあ…そうだよなあ…いやあ、さすがに小学生相手に本気を出すわけにはいかないからさ…わかってるじゃないか佐野くんとやら…はは…しかもほら、制服だし。動きにくいしこれ。あとベルトもしてるからその分の重さがあるし、普通の服より1キロ…?2キロ…?なんかそれぐらい重い気がする…あとなんか膝が痛いし…手加減するのもなかなか大変なんだよな…あとレース中なんか目にゴミ入って集中できなかった…ごめんごめん。やっぱわかっちゃったか手加減してたの。バレないようにしたつもりだったんだけど…いや、なに別に君をバカにしてたわけではなくて、単純に、世間一般的な考えとして?やっぱ子供相手に本気を出すって難しいんだよね。これ本能なのかなあ、ごめんごめん」
見苦しいとは僕のためにあるような言葉だった。
「またコンディションのいい時に走りましょう」
「いや、もういい。お前とは二度と走らない」
さて、と。
僕にはやることがあるのだった。決して忘れていたわけではない。華彩の方に向き直る。
「…」
人間ってこんな残酷な圧を出せるものなのか。
「夢乃。男にはやらなければならない勝負事がある。それが今なのだ。学校に行きたい気持ちは山々だが、しかし僕には学校より優先しなければならないものがある。だから、僕は学校には戻れない」
「え、でもさっき佐野くんとの勝負がやらなければならない人生で1度の勝負事って」
「気のせいだった。あれは寄り道だ。やらなくてもいい勝負だ。洞窟を捜索してる時に出口を見つけたもののまだ行ってない道の先に宝箱があるんじゃないかと不安になってまた洞窟内に戻るダンジョン攻略のようなものだ。僕はこれからラスボスを倒しに行くんだよ。これからだ」
「…」
そのラスボスは先ほどから圧でプレッシャーをかけてくる。
僕は再び華彩を連れ、夢乃とそのクラスメイトに別れを告げる。じゃあ、また会えたら。なんて蛇縄みたいなことを言いながら。
少しだけ寄り道してしまったが、大したロスではない。むしろこれからのことを考えるといいウォーミングアップになったと思うべきだろう。
「大海原くん、あなたは人を励ます天才ね。自らを貶めることで人に勇気を与えるなんてなかなかできるようなことではないわ」
「…」
嫌味と皮肉のコラボレーションだった。
「まあね」
僕にはそんな嫌味も皮肉も通じないということを覚えておくといい。
それから華彩は一言も話さなくなった。僕も思わず黙ってしまう。僕がいくらどうしようと、事の重さは変わらない。華彩に圧し掛かる重圧は変わらないのだ。
夢乃と会った公園からまたしばらく歩いて、そして制服ぐらいはさすがに着替えればよかったと今更ながらに思う。そんな余裕はなかったのだが。人の目を気にしながら歩いていく。
そして、着いたのは病院である。
といっても大きな病院ではない。それこそまるでただの一軒家のようで、本当にここには人が住んでいる。一階は診療所となっているが、2階3階はただの民家同様人が住んでいるのだ。
「本当に病院…というかこんなところにこんな診療所があったのね」
「ああ、僕がよくお世話になってる人のいる場所だよ」
インターホンとかはない。というより診療所なのだからそのまま中に入る。すると客用の椅子に座って新聞を読んでいる人が1人。
白衣を着てわかりやすい医者アピール。そして首には聴診器。前髪を1つに結っており、おでこを出している。後ろ髪は大体肩ぐらいまであるだろうか。そんな女子小学生のような見た目の女の子。
「やあ、今度は彼女を連れてきたのかい?うしくん」
異形専門医。
異形の専門家。
こんな見た目をしているが、いい年齢である、医者。
木南さんだ。
「なんか、あなたのまわりってこんな人ばかりね」
絶賛誤解されていた。
よろしくお願いします。




