第9話 ひまりサラマンダー⑨
華彩火鞠は異形である。
悲しき女子高生、燃える頭、見えない顔。そして恋する乙女。なんて、様々な属性がつく彼女ではあるが、すでにそのどれもを諦めたような、そんな女である。
僕はその女に協力して、彼女の、華彩の失恋を手伝うこととなっていた。とはいっても僕がやることは恋のキューピッドではない。いうなれば消防士。彼女の炎を消すことだった。
せめて、せめてもの願い。何もかもを諦めた彼女の最後の願い。譲れない想い。例え、フラれるのであっても、失恋であっても、自分のまま告白したい。顔を見せて、ちゃんと、相手に伝わるように。
こんな異形としての自分ではなく。
人間として、告白できるように。
そして人間として失恋できるように。
だからこれは恋物語であって、破滅へと向かう失恋物語でもあるのだった。
しかし、まあ、僕が任されている部分というのは彼女の顔の炎を消すことであり、その後に彼女が告白しようがフラれようが僕には関係のないことなのである。
なんて。
あいつに協力すると言っておいて無関係を装うというのもおかしい話だ。言ってしまえば僕は異形を見捨てることができない。見捨てる、見捨てないというとなんだかとても大仰なことをしているようであるが、単純に困った人を見捨てることができないというだけである。
とても人間ができているように見えるだろう。
ここは異形が出来ているというべきか。
でもそんないいものじゃない。
これは呪いだ。
一種の呪いなのだ。
いや、今はその話は置いておこう。僕のつまらない過去を漁って、つまらない話をするよりも、今は華彩のことを考えよう。そんな関係ではあるものの、僕は協力すると言ってしまっているわけだからそれなりの責任があるのだ。
期待に応えられるかどうかは別として、真面目に考えなければならないという義務がある。
さて、華彩の顔の炎。サラマンダーの炎はどうやったら消せるのだろう。それを真剣に考える必要がある。華彩の話では確か、中学生の頃から唐突に噴き出した、と話していたっけ。
…。
僕には1つだけ、これだけ考えて1つだけ、所謂回答というものがあった。それが正解かどうかはまた別の話になるが。しかし、答え合わせをしてみないことには間違っているかどうかも分からないのである。
ああ、本当に。
本当になんて嫌な役回り。
それでも、なんだか僕らしい役回りだ。
もう終わらせよう。この相談役という役回りももう終わらせるのだ。
華彩、お前はそろそろ現実を見るべきだ。
現実を見て。
この恋を終わらせるのだ。
だが、ちょっと待ってほしい。華彩の恋を終わらせる前に終わりそうなものがある。先に終わってしまう、それこそ悲しい現実がある。
華彩が現実を見る前に、僕が現実を見なければならない。
そう、終わりそうなものとは、僕の人生だった。
「…」
教室に入る扉の前で立ち止まる。
いつも別に学校に行きたいと思っているわけではない。それはもうできれば休みたいと思っているし、行かなくていいのならきっとこうして学校に来ることもないだろう。
だから行きたくないという気持ちは最初からあった。今に始まったことではない。
それでも、いまが一番学校に行きたくない、この教室に入りたくないのである。理由は簡単だ。クラスメイトの胸を揉んだからである。
仙道結。
クラスの中心人物。
五陵花の友人。
きっと五陵花以外にも友人がいて、僕のことを言いふらしていることだろう。言いふらすというか、通報というか。そして残念なことに僕はその言い訳すら許されないのだ。なぜなら、あの行為は偶然なんかではなく、故意によるものであるし、ラッキースケベなどではなく、胸を揉もうとして揉んだのだから。
さて、どうしたものだろう。
誰だって自分の罪を清算される瞬間というのは耐えがたいものである。お前は今、この罪を犯したせいでこんな目にあっていると思わされることになるのだ。そんなの、言われなくてもわかっているというのに。
しかし参った。昨日のうちに五陵花に相談しておくべきだったか。
いや、どうだろう。あいつの家に行ってお前の親友の胸を揉んでしまったのだがどうすればいい、と相談するのはあまりにも、さすがの僕もおかしいと思うわけだ。
あの時ははやく蛇縄と話すためにした仕方のない行動ではある。傍から見れば僕が100%悪いのだろうと思う。僕は恐らく7:3で仙道が悪いことになると思っているのだが。法廷では勝てる。しかしそもそも法廷にあがるということ自体が世間体的には気になってしまうのだ。
友達のいない僕でも。
天涯孤独ではないのだから。
それこそ夢乃のために、僕は真っ当に生きなければならない。
夢乃のためにおっぱいの1つや2つで終わってしまうわけにはいかないのだった。
納得はいかない。納得はいかないが、穏便に済ませるためだ。謝ることとしよう。
仙道も教室の中で自分の胸の話はされたくないだろうから、どこかに呼び出して謝ることとしよう。また、ハードルが高い。
胸を揉んでしまい申し訳ありませんでした。
これしかない。
いや、待て。僕如きに女心なんてわかるべくもないがしかし、おっぱいを揉まれて謝られるというのも女性的にはどうなのだろうか。謝罪されるようなおっぱいだったのか、と思ってしまうのではなかろうか。それはまずい。火に油という事態だけは避けなくてはならない。
お前のおっぱいの揉み心地はとてもよく、勇気がもらえたが、揉んでしまったことに対しては謝ろう。すまなかった。と、これでいくべきだ。
危なかった。危うくさらに仙道を怒らせてしまうところだった。
シミュレーションも済んだことだし、と僕は教室のドアに手をかけた。スライド式のそれを横に動かそうとして、ぴたりと動きが止まる。
「そういえばあの顔が燃えてる人、今日いないね」
「あーね、体調不良?まあ、なんか見た目怖いし、ありがたいけど」
後ろを通り過ぎた生徒の会話。
顔が燃えてる人。
僕が知る限りだと1人しかいないが。華彩火鞠。ある意味僕に仙道の胸を揉ませた女である。華彩はあんな見た目ではあるが、負けず嫌いのため、登校は常に続けていた。今更心ない言葉等で不登校になるような女ではない、ないと思う。
もう少しで朝のホームルームが始まるとはいえ、まだ登校時間ではある。この後現れる可能性だって十分にあるはずだ。
しかし僕はそのまま自分の教室を離れ、華彩の所属するクラスの教室へと歩き始めていた。心配とは少し違う。ただ、なんとなく、自分が今教室に入らなくていい理由を探していただけだ。
同じ文系クラスということもあり、僕の教室からそう離れていないところに華彩のクラスはあった。まだ朝の喧騒に包まれているのか席を立っている人間が多い。
近くの席の友人と話したり、黒板前に立って集まっていたり、やっていることは様々ではあるが、要するに順風満帆な学校生活をおくっているのだろうことが分かる。
そして、そんな喧騒の中でも、誰も近寄らない、本人がいないにも関わらずぽつんとまるで孤島のようにこの世界から切り離されている一番窓際の一番後ろの席があった。
一瞬で分かる。
あそこが華彩の席なのだ。
別に孤立していることに対しては何も思わない。僕だってクラスではあんな感じだ。ただ、本人がいないにも関わらず人が近くに全くいないというのは、まるで恐れられているような。
事実、そうなのだろう。
顔の燃えている女など、怖いし、恐ろしい。華彩の前の席の人は燃やされるのではないかと気が気じゃないはずだ。異形とは、異形というイメージはきっとそんな感じなのだから。
それをどうこう言うつもりは全くない。
人の考えを正すなんてたいそうなことはできないし、その考えを『正す』というのもまた傲慢だ。正しいのはみんなの方かもしれないし、僕が間違っているのかもしれない。
でも、だからこそ、僕の行動にとやかく言われる筋合いもないはずだ。
僕は踵を返す。
何があったのかはわからない。わからない、が、気になった。それこそ僕が気にすることではないのかもしれないが。なんとなく、あいつの席を、孤立した席を見てしまったせいだろうか。今華彩が登校していないことに激しく不安を覚えていたのだ。
嫌な予感がする。
鞄を背負ったまま、逆走。向かうは玄関。階段をおりる。たまに生徒が振り返った。大方忘れ物でもしたのだろうと思っているはず。玄関までたどり着くと自分の下駄箱の前で靴を履き替えて外へ出た。
校門では生活指導の先生が登校する生徒に挨拶をしていた。もう始まるギリギリのため、「急げ!」という声が聞こえる。
少し面倒だ。僕は校門に向かうのではなく、横道に逸れて駐輪場へと移動した。自転車登校が許されているこの学校ならではの施設ではあったが、用があったのはここではない。さらにその奥。一応柵で区切られているものの、背丈の低い柵であるため、簡単に乗り越えられる抜け道だ。
この学校のまわりには草原が広がっている。田舎、とも都会とも呼べぬ中途半端さではあるが、それが今回はありがたい。膝ぐらいまで伸びている草は僕の姿をあの教師から隠すのに好都合である。
完璧だ。
しゃがんで移動しよう。と、柵を乗り越えた時だった。
「何をしているのかしら」
「…」
登校中の華彩と目があった。
なんでいるんだ。いや、それは華彩のセリフなのかもしれないが。
「遅い登校だな、華彩」
草に隠れながら話す僕。滑稽である。
「ええ、別に登校時間にこだわりがあるわけではないし、こういう日もあるわよ。それで、あなたは何をやっているのかしら。忍者ごっこ?」
お前が心配で様子を見に行こうとしていた、なんて口が裂けても言えなかった。
なんだか不安を感じてしまっていたが、そもそも休みであったとしても体調不良の可能性が高いはずであるし、僕がわざわざ見に行く必要なんてこれっぽっちもなかったわけだ。
あいつのあのクラスを見て、あいつがいなくてもまるで普通かのように回っているクラスを見て、華彩が消えてしまったのではないかと不安になった、だなんて。
まだ忍者ごっこの方が恥ずかしくないというものだ。
だから僕はこう答えた。
「当たらずも遠からず、だ」
誤魔化すような答え。華彩は「ふうん」と興味があるのかないのかわからないような返事をしてこちらを一瞥した後、すたすたと学校に向かって歩いていくのだった。
ちょっと待て。
「なによ」
「もっと僕に言葉はないのか」
無言で去られると不安になるのだが。
「いえ、1人で楽しそうだったから邪魔するのもどうかと思って」
完全に馬鹿にされていた。
というより呆れられていた。
「確かに楽しい、楽しいがその楽しさをお前にわけてやってもいい」
「遠慮するわ」
一言。
そういってまた華彩はこの場から去ろうとした。
「華彩、本当に今日のこの登校の遅さは偶然か?」
適当に。
ただ、このまま登校前に遊んでいた男だと思われないために、言い訳の時間をもらうために適当に言った言葉だった。
しかし、華彩はそのセリフに少しだけ言い淀んだ様子を見せながら、何かを言おうとして口を開き、そして結局は何も言わなかった。
言えなかった。
学校のチャイムが鳴ったからだ。どこか他人事のように感じているが、これで僕と華彩の遅刻は確定したのである。まあ、僕は最初からサボるつもりであったのだが。
「全く、どこの誰せいだかわからないけれど、まさか学校をサボることになるなんて」
「確信犯だろ」
本当に遅刻をしたくなければ僕の言葉等無視して学校へ向かえばよかったのだ。そうしなかったのは華彩にも少しだけ学校をサボりたいというような気持ちがあったということなのだろう。というか遅刻=サボらなければならないというわけではない。このまま遅刻してでも登校はできるはずだった。
今日も今日とて顔が燃えているため、どんな表情をしているのか分からないが、きっと悪戯をした子どものような顔をしているに違いない。
どちらにせよ、今の恰好、制服のままでは色々とまずい。「あ、やばいわね」とらしからぬ感想を浮かべた華彩の目線の先にはこちらに向かおうとしている生活指導の教師が。
「言ったろ。お前にも楽しさをわけてやるって」
「してやったり顔がこれ以上なく不快だけれど、他に手はないわね」
結局華彩も草原の草に紛れ、隠れるようにしてその場を移動することとなった。
本当に忍者ごっこをする羽目になるとは。人生何が起こるかわからないというのもあながち間違ってはいないのかもしれない。
校舎を出て、まわりの草原に身を隠しながら歩いていく。草原と炎という組み合わせはなかなかにスリリングではあるが、しかし、この程度華彩は乗り越えることだろう。長年のコントロール技術。本人はそのせいで今の状況を作り出してしまったと思っているみたいであるが、ご両親のその教育は間違っていなかったのだろうと思う。
炎をコントロールして、誰も傷つけない。
きっとそれは何よりも優先されるものなのだ。
華彩のご両親は華彩のことを一番に考えた結果、まわりの人間のことを考えた、というべきか。誰かを傷つけてしまえば、華彩が傷つく。だからまわりの人間を傷つけないことを考えた。
異形の身ではない、人間の僕が言うのも烏滸がましいが、それは正しいのだろうと思う。
特にこいつは、こう見えて、ああ見えて、意外と繊細で優しいやつなのだから。自己犠牲さえも厭わない、そんなやつなのだ。
「あ、しまったわ」
「は?」
唐突な華彩からの言葉。
僕は後ろを振り向いた。
華彩のまわりにあった草が、一本だけ燃えている。華彩の顔から炎が燃え移ったのか。冷静に思考しているがこれはまずい。このままではここらへん一帯が火事になってしまうことだってある。
サラマンダーの炎は、執着心が強いのだ。
僕は慌てて手を伸ばし、その草を思いっきり掴んだ。ジュウという何かが焼けるような音がする。しばらくして手を離すと草に燃え移った炎は消えていた。
「危なかった…もう学校からは大分離れたし、歩道の方に移動して立って歩こう」
「…手を見せなさい」
立ち上がった華彩は有無を言わせぬ口調でそう言った。
渋々僕は手を差し出す。手の平の一部分が赤く、腫れていた。それだけではない、黒くなっているのは焦げだろうか。火傷…なのだと思う。サラマンダーの炎は、確かに華彩の恋心のように、熱く、執拗に僕の手を焼いていた。
「別にこれぐらい何ともない。それにお前のせいでもない」
「無理があるわね。私の炎が原因で怪我をしたというのに、それを私のせいではないというのは」
「でも、あの草を掴んだのは僕の意思だ」
「…時々、忘れそうになるわ。人間って燃えるとこうして怪我をして、火傷をして…とても脆いものなのよね。本当…嫌になる」
華彩はそう言いながら手を、自分の頭の炎に突っ込んだ。ばちばちと弾ける音。そしてさっきとは比べものにならない何かが焼ける音が聞こえる。
僕は慌てて駆け寄ろうとするも、しかし、華彩の目が僕の動きを止めた。
少しして炎から引き抜いた自分の手を見て、華彩は黙り込んでいた。火傷も何もない。綺麗なままの手。まるで何もなかったかのようにそのままな手を見続けている。
「この頭が頭だから…どうしても他の部分はまだ人間なんじゃないかって思うことがあるの。でも、違うのよね。私はもう、全てが、どうしようもなく、異形なの」
そういうと華彩は僕の手を掴んで歩き出した。
「ちょ、華彩」
「私の家に行くわよ。治療をしなきゃ」
「いや、こんなの唾つけとけば治るって」
僕はこれから授業をいつも通りにしているクラスメイトのことを考えながら優雅に昼寝をするところなのだ。こんな小さな怪我で時間を奪われるわけにはいかない。
「私の炎をなめているわね。それ、またそこから燃えだすわよ。燃えて、いずれあなたの全身を包み、そして、死ぬまでそれを繰り返す」
「…」
恐怖で言葉が出ないとはこのことだった。
「…マジ?」
「さあ、どうかしらね。大人しく治療をうけた方がいいと思うけど」
嘘だ…きっと嘘だろうが、それを否定することもできないのだった。
異形にはまだまだ謎が多い。僕の知らないことだってきっと無限にある。だから、異形の放出する炎が、普通ではない可能性だって十分あるのだった。
「大海原くん」
「それ、最近慣れてきてしまってる」
僕の名前などではないのだが、呼ばれ過ぎてもう普通に反応できるようになってしまった。数少ない交友関係、と呼んでもいいのかはわからないが、話し相手のうち華彩と仙道が僕をそう呼ぶのだ。
最近学校でよく話す人物トップ2である。
もう僕の名前は大海原だったんじゃないかと錯覚してしまうほどに。
「私の相談が、恋が終わった時にでも、本当の名前を教えてちょうだい」
「…今じゃ、ダメなのか?」
「ええ、終わるまでは私と大海原くんという関係でいたいの」
「左様で」
僕はちいさく頷いた。
華彩に手を握られ、道を歩く。華彩の家はどうやら学校の近くらしい。僕の家もそこまで遠いわけではないのであとは自分で処置をすると言ったのだが、有無を言わせず連れていかれている状況だ。
なんでも「私の炎のことは私が一番分かっているから」ということらしいが、もはやその炎によって負った火傷ということであれば僕にでも治療ができるのではないか、と思わなくもない。
ただ、今回はお言葉に甘えることにしよう。
なんて、冷静ぶってはいるけれど、女の子の部屋に行くというのはいつぶりだろうか。五陵花の家には近所ということや幼馴染ということもあり、よく行くけれどもそれも高校に入ってからは全くと言っていいほどなくなってしまった。
というか僕が断り続けている。
変に意識、し過ぎなんだろうか。
「華彩、手。手。もう逃げないから」
しばらく歩くとこの時間とはいえマンションや一軒家が立ち並ぶ住宅街、人の目が多くなってきた。華彩が僕の手を握り続けて歩くという行動はなかなかに目立つ。ただでさえこの時間帯に制服で歩いているのだ。補導されては敵わない。
というか単純に恥ずかしい。
華彩はどこか照れたようにばふっと炎を揺らめかせ、「ごめんなさい」と手を離した。そんな反応をされてしまうとまるで僕が悪者のようである。
いつもなら憎まれ口の1つや2つぐらい言いそうなものだが。
「華彩、やっぱりお前、何かあったんじゃ」
「…」
少しだけ言い淀んで、そして。
「そうね。もう少し、いえ、もう数分のところに私の家はあるのだけれど、それまでの間に話しておこうかしら。それこそあなたは私の相談役なのだし」
華彩は小さく息を吐いてから、後を追うこちらの方を見ず、まっすぐと前を見つめて、いつものように淡々と、こう言うのだった。
「コントロールできなくなってきたの、私の炎」
華彩が言うには、先ほどの草に燃え移ってしまったことも本来であればありえないことなのだと言う。
それこそ小さいころから人を傷つけないように育てられてきたのだ。まだ異形がなんたるかわからない中、可能性があれば全ての方法を試して。
だから、自分のこの炎が焼くのは、燃やすのは華彩の顔だけ。他のなにものも燃やさない。華彩が昔から今までずっと守ってきたこと。
華彩とその家族の成果。
それが今の華彩であるはずだったのに。
コントロールができないということは。
その成果が全て、無になったということなのだろうか。
「遅刻しそうになったのもそのせい…嘘だと思った。気のせいだと思ったのよ。ギリギリまで登校しようか悩んで…誰かを傷つけるのが怖くて…」
華彩はそう話しながらもしっかりと一歩一歩と歩いている。
僕はただその様を眺めているしかなかった。
「でも信じたのよ、自分を。みんなを。お母さんやお父さんが自分たちのことを全て投げ捨てて私に教えてくれたことを簡単に信じないなんてことができると思う?」
自分の子どもが異形だとわかってから、本当に両親は大変だったのだろうと思う。それこそ僕なんかでは、一時的な相談役である僕なんかではわからないぐらいに。
華彩を育てるためのお金も稼ぎながら、華彩のために異形について調べて、そして異形専門家の言う通りにコントロール方法を試して…。
そんな方法が、通じなくなったとして。簡単にあの方法は間違っていたんだな、なんて思えるだろうか。家族の頑張りが間違っていただなんて、考えられるだろうか。
「でも、わかったの。さっきの草むらで、私はあなたを傷つけてしまった」
「いや、だからあれは」
「あまりにも口ごたえするとキスで黙らせるわよ」
「…」
さすがに黙らざるを得なかった。
「私はなんと罵られようと、避けられようと、誰も傷つけないことだけはずっと守ってきた。私がみんなと同じ空間で過ごすかわりに、それだけは絶対に守ってきたの」
ああ、そうか。
この間、自分で言っていたように、華彩も1人の高校生である。女子高生なのである。だから、寂しくないわけないのだ。花の女子高生。遊び盛り。そんな時期に1人でいるなんて、友人の1人もいないまま過ごすなんて寂しくないわけがないのだ。
だから、せめて、みんなと同じ空間で、同じ教室で過ごすために、彼女は誰も傷つけないようにしてきたのだろう。本当ならば、そんなみんなと同じ空間で過ごすことに罪悪感なんて感じる必要なんかないのに。
異形であるばかりに。
人間ではないばかりに。
華彩は苦しんできた。
考えなくていいことまで考えて。
それでやっと得た日常だったのに。
避けられても、怖がられても、我慢して来たのに。
「無駄だったの…?私がやってきたことはその場しのぎで…結局は誰かを傷つけてしまうようにできているの…?私が異形だから…人間じゃないから…私が…! 私が…唯一、守ってきた大切な約束事、だったのに…もうみんなと一緒になんていられないの…」
どこまでも普通の女の子じゃないか。
友人が欲しくて。
みんなといたくて。
そして、恋をしている。
悲しいぐらいに普通の女の子だ。
燃えているため、どのような顔をしているのかはわからない。泣いている、のだろうか。それでもその炎は泣くことさえ許さないのだろう。涙さえも蒸発させてしまうのだろう。
華彩はそういうと黙り込んだ。しかし歩みはしっかりしている。
しばらく歩くと大きなマンションが見え始めた。ここが、華彩の家なのだろうか。ロビーは大きく休憩用のソファまで置いてある。そこを横切って大きな扉の前へ。
置いてある機械に部屋番号を入力し、ドアが開く。さらにそこからエレベーターで7階へ。エレベーターから降りてすぐのところ。ここが、華彩の部屋か。
華彩が無言で僕に入るよう指示する。首をくいっとされただけで本当に入ってもいいのか恐る恐るであったが、特に文句も言われなかったので靴を脱いで部屋にあがった。
久々の女の子の部屋。
そう、緊張していたはずだった。
「…」
華彩の部屋は、華彩の家族の部屋は耐火シートで包まれていた。物にも基本的にはそのシートがかぶせられている。テレビにも。テーブルにも。本棚にも。薄くて透けて見えるとはいえ、これではテレビも満足に見ることができない。
いや、それよりも。何よりも。
女の子らしい部屋と呼ぶにはあまりにも、あまりにも異質だった。可愛い小物やらぬいぐるみもなく、ただただ生活するための部屋。
そういうイメージだった。
こいつはこんな、普通なこともできず、ずっと、我慢して来たのか。
可愛らしい小物を置きたかっただろう。普通に炎のことなんか気にせずに生活したかっただろう。ゲームセンターでとった景品を飾りたかっただろう。
普通の女子高生ができるようなことをできないというのはどういう気持ちなのだろうか。
それでも生きるために、傷つけないためにこいつは。
僕は異形について少しわかった気になりすぎていたのかもしれない。僕の考えているよりも何倍も事態は深刻のように思えた。
「どうかしら、私の部屋は」
「華彩、病院へいこう」
僕はそう伝える。
「医者に診てもらうってことかしら?無理よ。異形の専門医でもわからなかったの。もう相談済み。そもそも医者に診てもらってなんとかなるなら、最初から本当に最初からそうしていたわよ」
「勘違いするなよ」
まずは安心させてやろう。
ちょっとかっこつけすぎかもしれないが。きっとそれぐらいの方が、華彩は安心するだろう。
僕は相談役なのだから。それぐらい、しなければ。
「治すのは医者じゃない。僕が治してやる」
「大海原くんが?」
小さく頷く。
きっともう縋れるものならばなんにでも縋りたい、そういう気持ちなのかもしれない。僕如きにそんな目を向けるなんて。
そんな大層なものじゃない。
それでも、弱くて頼りない僕だけど、笑ってみせた。
「終わらせてやる。お前の恋も、炎も」
そしてお前に。
笑ってもらうのだ。
よろしくお願いします。




