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「クレハさん、お話があります」
金曜の夜、仕事から帰ってきて玄関を開けたら、目の前でヤツが正座して待ち構えていた。そんなヤツの横を素通りし、キッチンの流しにカバンから出した弁当箱を投げ入れる。ヤツが調子に乗るのを防ぐために間違っても味の感想なんて言ってやらないが、しかし今日のランチも中々だった。ヤツが掃除夫兼料理番として我が家に棲みついて、もうそろそろ二ヶ月になる。
「自分、今まで生きてきて一番ってくらい真剣に考えたんスけど」
「死んでるじゃん」
「茶化さないで聞いてください」
労働手当として買ってきた安酒が不味かったとでも言うのかと思いきや、ガサゴソとゴミ袋を引きずりながら廊下を這って追い付いてきたヤツが、私の行く手を塞いだ。
「ソウさんに会いに行きましょう」
「……はぁ?」
「なんかやっぱダメだと思うんですよ、こういうのって。双子の弟さんが寝たきりで病院にいるのに、二年近くも会いに行ってないなんて、不自然ですよ。お母さんがどうとかじゃなくて、クレハさん自身の為にソウさんに会いに行くべきじゃないかと……」
「余計なお世話」
「そ、それは確かにそうかも知れませんけど、でも自分、クレハさんのことが心配なんです。クレハさん、ソウさんが来てくれるのを、ノックの音をずっと待ってるんでしょう?」
「なんのことやら。ってか、そもそも器無しに心配されるほど落ちぶれてないから」
「ごまかしてもダメですよ。二ヶ月も一緒に暮らしていたら誰だってわかります。笑いながらテレビ観てても、メシ食ってても、寝てる時ですら、クレハさんはいつもどこか一点神経を尖らせていて、息を潜めるようにして耳を澄ませてて……。クレハさん、知ってますか? クレハさんって寝てる時に玄関にヒトの気配が近づくと、十秒くらい息を止めるんですよ? 自分、アレを初めて見た時、クレハさんが過労で心臓発作でも起こしたのかと思ってすっげえビビったんですから」
「おまえは夜中に何をしているのか思えば、ひとの寝顔を覗き込んでいたのか、この変態死霊めが」
「ち、違いますよ! そうじゃなくて、クレハさんを見てると、なんだか張り詰めた細い糸を見てるみたいで、俺、怖いんですよ! いつか、クレハさんっていう糸がぷっつり切れちゃうんじゃないかって……」
「ふざけるのもいい加減にしろ」
久々に完璧に頭に来た。セールで買った塩の大袋を掴み、投げつけてやろうと頭上に振りかざす。しかしヤツは生意気にも上目遣いに私を睨み、怯えて蒼ざめているクセに後に引こうとはしない。
「ダメなんですよ! いつまでも、ただ待っているだけじゃダメなんです! 上手く言えないんスけど、いつまでも待っているだけじゃ何も変わらなくって、それじゃあクレハさんはダメなんですッ」
「な……ッ」
なにワケわかんないこと言ってんだ馬鹿野郎と怒鳴ろうとした刹那、思考が停止した。
私を正面から睨む両目に透明な雫が湧き上がり、それが血の気の無い頬を伝わり、床に落ちた。唖然としている私を前に、ポタポタと雫は落ち続け、床を濡らす。
ふと思う。あの雫は、生きている者のそれのように温かいのだろうか。
蒼もよく泣いた。
子供の頃から本や漫画、映画、更にはちょっとしたドキュメンタリーを観ていても、登場人物(またはそのペット)が死ぬ度にポロポロと透明な雫を零した。赤の他人、それも殆どが架空の人間の事情によくそこまで感情移入できるものだと感心する反面、もしや蒼の反応が普通で、そんな風に他人の悲しみに強く同調出来ない私は共感性を欠くサイコパスなのではないかと少し心配になった。けれども蒼はあっさりと首を横に振った。
「違うよ。僕は別にこの子のために悲しんでいるわけじゃない。僕が泣いているのは、罪悪感みたいなものなんだ。僕にはクレハちゃんがいるのに、この子にはいない。僕はたとえ自分が死んでも、クレハちゃんがいる限り、この子みたいに家族を失って独りぼっちになったりはしない。そのことに心のどこかでホッとしている自分がいて、それを醜いと思う自分がいて、それでもやっぱり僕は僕で良かったと、この子に対して優越感すらおぼえてしまう。僕はそんな自分が嫌なんだ」
クレハちゃんはこんな事は考えないんだろうね、と言われて、私は正直に頷いた。
「うん、そこまで歪んだ厨二病的マゾヒズムな発想はさすがにない。ってか、蒼って私より先に死ぬこと前提なんだ?」
蒼は悪びれた様子もなく、うん、と頷きつつ涙を拭った。
「だって僕には死んだヒトはみえないもの。クレハちゃんが先に死んだら、僕は独りぼっちになっちゃうから、それは有り得てはイケナイんだ。それにクレハちゃんは真っ直ぐで曇りがないから、そんなヒトは誰よりも長生きして幸せにならないとダメなんだ」
よくよく考えてみれば、なんて凄まじく自分勝手な言い分だろう。だけど私は知っている。あいつは嘘も衒いもなく、心から私の幸せを願っていた。たとえ自分は死んでも、世界が壊れても、私にだけは生きて幸せになって欲しい。それがあいつの願いだった。
そんな天使のような蒼の笑顔が、あいつの涙が、私は大嫌いだった。
「……あんたさ、なんで泣いてるの?」
「べ、別に泣いてなんかいませんよっ」
小学生男子並みの意地を見せ、ヤツがぐいと顔を拭った。
「変わらなくちゃいけないってさ、私ってそんなに哀れっぽくみえる? あんたに泣いてもらわなくちゃいけないくらい?」
「そ、そうじゃなくて……」
「うん、違うよね。変わらなくちゃいけないのは、私じゃなくて、あんただから」
口籠ったヤツを冷たく見下ろしてやる。
「私の為に泣いているとか言ったら殺す。どんな手を使ってでも、此の世に残っているその切れ端みたいなあんたの存在を抹消する」
なぜだろう。ヤツといると、時々不意に理由の分からない苛立ちが、押し込められた感情が、冷たいマグマとなって身の内から溢れ出そうになる。
「私はわざわざ病院に行く必要は無い。蒼は、それが可能なら、必ず私に会いに来る。私は待っているだけでいい。それが私たちの約束だから。だけどあんたはどうなわけ?」
「どう……って言いますと?」
「あんた、死んでから自分の家族に会いに行った?」
「そ、それは……」
「なんだ、私に向かって蒼に会いに行けとか偉そうに説教するくせに、自分は家族に会いに行ってないんじゃん。なに? 会っても気付いて貰えないのが怖いわけ?」
いつも以上にサディスティックな衝動に駆られて、私はヤツに向かって毒を吐いた。
「でもまぁ気付いて貰っても困るか。ハラワタがはみ出たような、そんな格好じゃあね。事故だか自殺だか知らないけど、他人に迷惑かけて死んだ姿なんて、恥ずかしくって大事な身内に晒せるわけないか」
「そ、そうじゃなくって……ッ」
突如、顔を赤らめてヤツが叫んだ。
「俺だってこんな格好はどうかとは思いましたけど、でもやっぱり成仏する前に一度だけ家族の顔が見たくて、家に帰ったんですよ! でも、なんか結界みたいなのがあって、家に入れなかったんですよ! ウチの家族は誰も霊感とか無いから、自分、一週間くらいずっと玄関をノックしてたんスけど、誰も気付いてくれなくて……誰も『俺の為に』ドアを開けてくれないから、たとえ玄関が開いてヒトが出入りしてても、俺だけは中には入れなかったんですっ」
「……あぁ、ノックって……。そりゃまぁそうなるわな」
ヤツの勢いに毒気を抜かれた私から目を逸らし、ヤツはプイと顔を背けた。
「自分はやることはやったんで。クレハさんと一緒にしないで下さい」
実に生意気な態度だ。それにしても今日は妙に突っ掛かってくる。欲求不満か、それとも最近ハマっている海外ドラマに何かヤツを駆り立てるモノでもあったのだろうか。前々からうっすら気付いていたが、本や映画等の情報媒体に影響されやすいところが、ヤツは少し蒼に似ているのだ。
私は溜息を吐いて立ち上がった。
「わかった。明日は土曜日だから、丁度いいね」
「……え? え?! 丁度いいって……もしかして行く気になったんスか?!」
「面倒だけど、ここまで来たらもう仕方ないから。毒を食らわば……ってヤツ?」
「うわあ、蒼さん、きっと喜びますよ!」
瞳をキラキラさせているヤツに向かって鋭く舌打ちする。
「蒼は関係ない」
「……は?」
「行くってのはね、あんたの実家に行こうって話。ちなみに移動手段は心配しなくていいから」
棚に飾られた紅い着物の市松人形を指差し、にっこりと微笑みかけてやる。
「肘で這うしか移動手段のないあんたに付き合ってたら日が暮れちゃうからね。特別にソレ貸したげる」