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土曜日の早朝、まだ暗いうちから、ヤツは妙にそわそわと落ち着かない様子で部屋を行ったり来たりしていた。かと思うと見違えるように綺麗になった部屋の窓を拭き直し、客用ベッドのシーツを整え、湯呑みを磨いている。
朝っぱらからウルサイと怒鳴ってやると、ヤツは照れ臭そうに頭を掻いた。
「いやあ自分、実はおばあちゃんっ子なんスよねー。あの、クレハさんって兄弟とかいますか?」
「……いない」
「あ、一人っ子っスか。なるほどー、言われてみればマイペースなところが一人っ子っぽいスよね」
したり顔でヤツが幾度も頷く。
「自分、五人兄弟姉妹の一番上だったんスよ。両親が共働きだったから下の面倒は全部自分がみてて、結構我慢しなきゃいけないこととか多くて。弟妹がバカなことすると怒られるのは俺だし。まぁ兄貴なんだから当たり前っちゃ当たり前なんスけど、でもガキの頃ってそういうのが理不尽に思えてイヤになることってあるじゃないスか。そんな時に、実家のばあちゃんがいつも『ソラタはエライ、ソラタは良い子だ』ってメチャメチャ褒めて可愛がってくれたんスよ。自分がいじけずに真っ直ぐなニンゲンとして立派な成長を遂げたのは、ばあちゃんの無償の愛のお陰じゃないかなぁと。ばあちゃん、俺が高校の時にコロッと死んじゃったんスけど」
「ふうん、つまりおまえはババコンか」
「……クレハさんには無償の愛を注いでくれるヒトがいなかったんスね」
塩のタッパーを掴んでヤツに降り注ごうした刹那、玄関のインターフォンが鳴った。
「もう、おばあちゃんってば、迎えに行くから駅に着いたら電話してって言ったのに。大丈夫? 荷物重かったでしょ?」
小さく丸い肩に背負られた大きな鞄を奪うようにして受け取り、冷えた手を握って家に招き入れる。
「まぁ、おおきに。そんでもちいとも重いことなんてあらへんかったで。クゥちゃんのマンションは駅から近うて、ほんに便利やなぁ。田舎とは大違いや」
近いと言っても、大荷物を背負った小柄な老婆の可動能力では小一時間はかかるだろう。
「もう、手が冷たいじゃん! 風邪引いたらどうするの? ほら、熱いお茶でも淹れるからさ、ちょっと座ってて」
急いで部屋の空調設定を上げていると、ホットカーペットにちょこんと座った祖母が顔をほころばせた。
「大きゅうなっても、クゥちゃんはちいとも変わらへんなぁ。ほんに優しいええ子や」
部屋の隅でカサリとゴミ袋が鳴った。あのゴミ袋、祖母が来る前に廊下に放り出しておこうと思っていたのに、間に合わなかった。ジロリと睨んで黙らせ、茶の支度にかかる。ところでお茶っ葉はどこにあるんだっけ。
「クゥちゃん、あんた従兄弟のケンちゃんやら覚えとぉか?」
「え? ああ、ケン兄ちゃんね。もう何年も会ってないけど、でもさすがに従兄弟を忘れたりしないって。この前結婚したんでしょ?」
「結婚したんはもうだいぶ前やで。もう子供がふたりもおってな、もうすぐ三人目が産まれるところや」
「へぇ、今時にしては珍しく子沢山だねぇ」
祖母の話に適当に相槌を打ちつつ茶葉を探していると、ゴミ袋が部屋の隅から心配気に首を伸ばしてきた。
「……クレハさん、クレハさん。お茶っ葉は右の戸棚の上から二段目っスよ」
別に声を忍ばせなくても祖母には聞こえないというのに、ヤツは祖母の様子を窺いつつ小声であれやこれやと口を出してくる。
「そんでな、先週末やったかな、ケンちゃんがこども連れて遊びにきてな、そしたらその子らぁが蔵が見たい言い出してな」
「あ、その急須は目が荒いから茶漉しが必要で、茶漉しは流しの左側、上から三段目の引き出し……」
「蔵言うても、古いもんばっかりで、なんもええもん入っとらんでって言うたんやけどな、都会の子ぉはやっぱり蔵やら珍しいんやろうなぁ」
「あ! クレハさん! お茶っ葉にいきなり熱湯かけたりしたらダメですって!まずお湯を湯呑みに注いで、それから急須にお茶っ葉入れて、それから湯呑みのお湯を急須に――」
「ウールーサイッ」
思わず怒鳴ってしまった。驚いてぽかんと口を開けている祖母に、慌てて笑って誤魔化す。
「ごめんごめん、台所に蚊がいてね、うるさく纏わりついてくるもんで」
「……都会は冬に蚊がおるんか?」
「あれ? おばあちゃん、知らないの? メスの蚊って人家で冬を越したりするんだよ」
「へえぇ、クゥちゃんはなんでもよう知っとるなぁ。たいしたもんや」
「いえいえそれほどでも……で、ケン兄ちゃんの子がどうしたって?」
「あぁ、そうそれでな、あんまり入りたい入りたい言うで、鍵開けて探検させてやったんや。そしたらな、隅の方からこんなん見つけて来よってなぁ」
大きな鞄の中から、風呂敷に包まれたモノを祖母が大切そうに取り出した。
「ほんまはガラスのケースに入っとったんやけどなぁ。さすがにそんなんよお持ってこられへんかったで、中身だけ連れて来たんや」
「……うわ」
部屋の隅でゴミ袋が息を飲む。
それは、赤い着物の市松人形だった。
「この着物、覚えとぉか? あんたの七五三の着物の端切れで、おばあちゃんが縫うたったんやで。あんたはこんまい時からべっぴんさんで、赤い着物がよう似合うて、ほんまお人形さんみたいやったなぁ」
「……うん、覚えてるよ」
白い肌に黒目勝ちの大きな瞳。親戚の叔母さん達がふざけて着せた赤い着物が似合ったのは、私ではない。
「ほんでな、蔵に入れっぱなしにしてもかわいそうやで、この子はあんたに持っといてもらおうと思ったんやけどな、やっぱりばらばらにしたら、寂しいんとちゃうかと思うてなぁ」
赤い着物の市松人形を見せられた時から、こうなる事は予測していた。
祖母がためらいがちに取り出した青い着物の市松人形と、無言で見つめ合う。
「あんな、お母さん、言うとったで。クゥちゃんは、ソウに会いに来てくれへんて。何べん電話しても、ちいとも返事してくれへんて」
「……仕事が忙しくて」
「そうやろうなぁ。クゥちゃんは、キャリアウーマンなんちゃらいうのんやからなぁ。ええ大学出て、ええ会社でがんばって働いて、女だてらにたいしたもんや」
乾いて荒れた指先が、そっと労わるように青い市松人形の短い髪を撫でる。
「ほんでもなぁ、ソウちゃん、クゥちゃんに会えんと、寂しがってるんやないか思うてなぁ」
「……そんなことないよ」
祖母に悪気などないことは分かっている。だから、声が冷えすぎないように、硬くなりすぎないように、細心の注意を払って口を開く。
「寂しがってるのはお母さんで、蒼は寂しがってなんかいない」
幾ら抑えようとしても、皮肉な笑みに口許が歪む。
「だって、蒼はあそこにはいない」
目が痛いほどに白い壁と、微かな風に揺れる黄ばんだカーテンと、皺ひとつ無いシーツが脳裏を過る。単調な機械音が、唯ひたすらに、果てし無く、永遠に止まった時を刻む。
あそこに、あんなところに、あいつはいない。