1
全ての出逢いはノックの音から始まる。
❀
草木も眠る丑三つ時。コンコン、とノックの音に玄関を開けたら、そこにヤツがいた。
血の気の無い蒼白の肌。赤黒く汚れたシャツ。振り乱された髪の先からポタポタと冷たい雫が滴る。どこかでヘソから下を失くしてきたらしいそいつは、言葉にならない呻き声をあげ、千切れかけた腸のようなモノをずるずると引き摺りながら肘を使って私の足下に這い寄り、ドアの隙間から私の足首を掴もうと手を伸ばしてきた。
「きったない手で気安く触ってんじゃないわよ馬鹿」
履いていたつっかけで思いっ切り手首を踏みつけてやる。グキリという音がして、踵の下で何かが折れる。と、ヒイィィッと情け無い悲鳴を上げて、ヤツは慌てて手を引いた。その癖、ドアの端に肩を当てて閉め出されるのを防ごうとしている。
「す、少しは怖がってくださいよぉ、じゃないと幽霊にも立場ってものが……」
「知るか、ンなもん。せっかく楽しく飲んでるのに邪魔しやがって」
唯一の楽しみである金曜の夜の一人飲み会を邪魔されて、私は機嫌が悪い。しかしコンビニで酒を買った帰り道、電柱の影にうずくまっていたコイツとちらりと目が合ってしまった時から、こんな事になるのではないかとは思っていた。思っていたのに、ろくろく確認もせずに玄関を開けてしまった自分が憎い。酒が入って、警戒心が緩んでいたのだろう。
玄関先に常備している塩の皿を掴み、往生際悪くドアに縋っているヤツの頭にザバーッと振りかけてやる。
「う、うわあぁっ! イタイ! 傷に塩がしみてイタイッ」
涙目でのたうち回るヤツの姿に、加虐心がくすぐられる。台所に走っていき、焼き塩のタッパーを掴んで玄関に駆け戻り、でろりとだらしなくはみ出た腸にもありったけの塩をふる。
「ひどいッ! あんたはなんて非道い人間なんだ! 恨んで祟ってやる!」
「バーカ、あんたみないな半人前の祟りが怖くて生きてられっかっつーの」
「せ、せめて、塩じゃなくて酒を……」
「ふざけるな。幽霊ごときに無駄にする酒はウチにはない」
情け容赦は無用。ヤツを蹴り出すついでに外をチラリと見れば、マンションの廊下はヤツの血と雪の混じった泥でグチャグチャだった。マンションの他の住人に血は見えないだろうが、見えるコッチとしては気分が悪い。
「あんた、出て行く前に廊下の掃除くらいしていきなさいよ。そしたら酒の一杯くらい奢ってやるわよ」
死んだ人間は生きている人間とは比べ物にならないくらい感覚がフリーダムだ。タガの外れたヤツらに常識や約束なんて通用しない。だからコレもちょっと言ってみただけで、掃除の期待なんてこれっぽちもしていなかった。
しかし翌日、マンションの廊下は舐めたように綺麗になっていた。