プロローグ
「はぁっ、はぁっ……」
身を切られるような寒さの中、月の光だけが照らす薄暗い森の中をひた走るひとりの少女がいた。
吹き出す汗は綺麗な黒髪を肌にまとわりつかせ、高揚した肌に草木によってできた無数の切り傷が痛々しい。木々の根に足を取られそうになるのを必死に耐えながら、その胸に抱きしめた袋を決して放すまいと握り締める。
この少女がこれほど必死に走っているのは、夜の暗闇という不確かな恐怖からではない。もっと明確な恐怖が暗闇の中から迫ってきているからだ。
『グオオオオォォォォォ!!!!!!』
恐怖の咆哮が森に響き渡る。
(さっきより近い、やっぱりボクを追ってきてる!!)
少女の心臓が一瞬跳ね、足が止まりそうになるが必死に前へ前へと進める。
この先には深い渓谷があり、昔使われていた古い吊り橋が架かっている。自分を追いかけてきているであろう、ソイツを支えられるだけの強度はない。
延々と続くと思われた森に一筋の光が見え始めた。
(ここを抜けて橋を渡れば!)
ようやく見えた希望に最後の力を振り絞って森を抜けるとそこは――
「ッ!? そんな!!」
目の前に橋はなく、唯々深い渓谷が底の見えないまっくらな口を開けているだけだった。
少女は驚いて空を見上げる。
(こんなにそれていたなんて……)
目印の星を見つけ、自分が大体どの辺にいるのか当たりを付けるが、そこは橋のある場所とは随分ずれた場所にいることがわかっただけであった。歩き慣れたはずの森の中であっても、追いかけられているという焦りで落ち着く暇もなかった少女は知らず知らずのうちに目的のルートからそれてしまっていたのだ。
悔やんでも後の祭りであり、今はとにかく橋のある方まで逃げなければと気を落ち着かせる。気合を入れ震える足に鞭打つように力を込めた瞬間、森から吹き抜けてきた風が少女を包み込んだ。
「ッ!!」
まるで死神がそっと肩を叩くように、突風が少女を谷へと押し出す。
すでに限界を超えていた足は踏ん張る事ができず体の傾くままに谷底へと誘われ、遂にその小さな身体が底の見えない真っ暗な口へと投げ出されてしまった。
その瞬間、彼女はこの世界がまるで止まっているのかと思うくらいゆっくりな時間の流れを感じた。
走馬灯。
一瞬、この袋に入った薬を待つ人のことが頭をよぎった。
子供の頭ほどの大きさで毒針を持つ羽虫型の魔物、シクイムシの群れが突如として外で遊んでいた子供たちに襲い掛かり、咄嗟に庇い刺された孤児院の院長先生。初めは憮然と立ち上がり村の各所に発生したシクイムシの対処をしていたが、事態が収束した瞬間に突然膝から崩れ落ちた。気力のみで立っていたのか、すでに意識は途切れていた。
解毒薬を手に入れるには森を抜けた街まで往復しなければならない上、前日に村との境にある渓谷に架かる橋が何者かに燃やされ渡れなくなっていた。子供の自分ならば昔使われていた古い吊り橋でも渡れるはずだと、すでに陽が傾きかけていたにもかかわらず危険を承知で駆け出した。
その結果がこれである。
(どうする? この危機を乗り越えるにはどうすれば)
だが、少女はこの期に及んでも冷静に生存への道を模索していた。
薬は手に入ったのだ。親無き自分を育ててくれた恩人の命をここで諦めてなるものかと。
しかし、すでに手の届く位置に掴むものはなく、視界を奪うように切り立った大地に覆われていく。それでも右手に掴んだ袋を離さず、左手をまっすぐ伸ばす。
まるでそうしなければならないように。
(なんでだろう。前にもこんなことあった気がする……そう、こういう時は……こうッ!!)
念じた瞬間、左腕の周囲が歪んだかと思うと、いつの間にか不可思議な金属でできた黒い籠手が装着されていた。
この事態を少女はすんなり受け入れると籠手を崖の淵へ向けて狙いを定め、バシュッという音を立て鉛色のロープで籠手と繋がれた棒状の物体を射出。打ち出された物体は先端から四方に開かれ目標地点に命中すると、不思議なことに突き刺さっているわけでもないのに少女をしっかりと大地に繋ぎ留めた。その際、崖面に叩きつけられたが崖下に比べれば安いものだろう。
シュルシュルと巻き上げられ、文字通り死の淵からすくい上げられた少女は、息を整えつつ自分の左腕を見つめる。
「なにこれ? こんなの、知らないはず、なのに……でも、なんだか懐かしい…………ッ!!!!」
危機は去っていなかった。
全身を駆け抜ける悪寒に弾かれるように顔を上げると、百メートル程先に赤黒い毛に覆われ、太い四肢を持つ四足歩行の巨大な魔物が唸り声を上げていた。
「グリム……ベアー……」
グリムベアーは本来ならばもっと山奥に生息するが希に迷い込んでくる個体がおり、その凶暴さ故に町では目撃されれば討伐隊が組まれるほどだ。
おそらく縄張り争いに負けてここまで降りてきたのだろう。右目は潰れ左腕もぎこちない動きをしているが、黒いナイフのような爪をギラつかせ、三メートルを超えるその巨体から発せられる威圧感はこの距離であっても押しつぶされてしまいそうになる。
獲物の匂いを嗅ぎつけ、確実に仕留められる位置まで慎重に近づこうとしたが、相手は想像以上に感が鋭かったようだ。絶対に逃がさないとばかりに、ゆっくりと回り込むように迫ってくる。
(手負いだけど、この距離で橋まで逃げ切るなんて無理。なら……)
極めて簡潔に結論を出すと持っていた薬袋を足元に置き、グリムベアーに対して真っ向から立ち向かった。とうとう気が狂ったのかと、少女自身おかしいと思える感覚であった。
(うん……大丈夫。だってボクは……)
グリムベアーもなにやら変わった雰囲気の少女に若干の警戒をしていたが、ついにしびれを切らして少女へと駆け出した。よほど空腹であったのか、少女の右腕にいつの間にか黒いグローブがはめられていたことや、投げつけられた金属の筒がなんであるかなどの判断を怠った。
次の瞬間、グリムベアーは激しい閃光と音によって視界は焼かれ鼓膜を貫かれた。
思わず身体を丸め、自身に何が起きたのか分からずもがくグリムベアー。
鉄製の筒――スタングレネードを投げた後すぐに地に伏せ、目と耳をギュッと閉じたにもかかわらず未だに目はチカチカするし耳鳴りもやまない。これを無抵抗に受けたグリムベアーの衝撃はどれほどであっただろうか。
グリムベアーが混乱している隙に、少女は伏せた状態のまま目の前に青い半透明なパネルを出現させ、慣れたように指で操作しだした。現在の自分の状態をチェックするとパネルを閉じ、姿勢を整えつついつの間にかその手に握られていた銃を構える。だがそれは、この世界の銃からすればあまりにも異質な《AA‐12》と呼ばれる異界の代物であった。
少女はバイポットに支えられたAA‐12の照準を合わせ引き金を引くと、夜の森に無数の破裂音がこだまする。
フルオートで撃ち込まれるFRAG‐12が着弾と同時に火花を散らしながら炸裂し、三十二発のドラムマガジンがカラになる頃にはグリムベアーはピクリとも動かなくなった。仕留めきれなかった場合を考慮して、肩甲骨から頭へと狙いをつけたが運良く頭部を貫通できたようだ。
しばらくの間は警戒していたが安全を確認した後、大きく息を吐きながらその場に仰向けになる。
「はぁ、はぁ……はあぁぁ、すごかったぁ……」
どう考えても尋常じゃない事の連続だが、少女は意外にも落ち着いていた。まるで、嘗て体験したことがあるような感覚。
(違う。体験したんだ……きっとボクが生まれる前)
そんな奇天烈な思いもどこか自然と受け止められた。
「ボク、生まれ変わっちゃった」
AA‐12
A・A‐12を基にMPS社が改良を加えA・A‐12と名付けられた散弾銃。見た目に反して射撃時の反動が驚く程小さく、フルオートでも制御が容易である。というかフルオートオンリー。ロマン。
FRAG‐12
AA‐12に合わせて新開発された特殊弾薬。いうなれば小型グレネード弾。
弾頭は榴弾や徹甲弾があり、徹甲弾は一センチの鉄板をも貫くほど。ロマン。