第五十六話 健康
「クラスマッチも終わったことだ。メニュー増やすぞ」
まだ増える余地があったんですか、小倉さん。
「今まではドリル(基礎能力向上のためのメニュー)中心だったが、これからは泳ぎ込みに力を入れる」
今までだって十分泳いでたのに……。あれは泳ぎ込みではないのか。
「とりあえずノルマは一日四キロだ。内容も充実させる」
内容も俺にとっては毎日が限界への挑戦だったんですが。そうですか、まだやりますか。
「それでは本日のメニューだ。心してかかるように」
そりゃ真剣に取り組まないと、水死体となって上がりかねませんからね。
「よし、確認したらストレッチを始めろ」
「これからまた量が増えるのか……」
考えるだけで憂鬱だ。
「そうだよねー、やりすぎだよねー」
石井が俺の悲しみに同意した。石井は短距離に関しては、トップクラスの実力を持つ。しかしスタミナが足りないため、後半ばててしまう。そのため、小倉さんに最重要育成予定者に位置づけられている、いわば一番の被害者である。
「僕はー、健康でいられればいいと思ってー、水泳部に入ったのにー」
実力があるのに生かしきれないのはもったいないと思う。しかし本人が望まないのなら、その才能を開花させずにいるのも一つの生き方だろう。だから俺はそこまで石井に泳げとは言わない。俺と同じ量を泳いでくれれば全く問題はないのである。
「そうだな、毎日二キロくらい個人個人で泳げればな」
別に競技水泳である必要はない。
「そうだー、いいことを思いついたー」
「どうした?」
「僕たちで部活を立ち上げるんだよー」
「……は?」
「だからー、競技水泳でない水泳部をー、僕たちで作るんだよー」
「なるほど。でもそんなことできるのか?」
「やってやれないことはないんじゃないかなー」
「そうか。で、部活名は?」
「<健康水泳部>だよー」
その後小倉さんと交渉。
「健康水泳部を作りたいんですけど」
「練習の後にしろ」
交渉失敗。
「ダメだよー、もっとねばらないと―」
「かといって練習後でないと、話は聞いてくれないだろ」
「そうだねー」
「だからとりあえず泳ぎ切ろう」
「わかったー」
そして練習後。
「…………」(疲れきって何も考えられない)
「…………」(ばてて倒れ込んでいる)
「……俺たち何か大切なこと考えてたんじゃなかったっけか……?……ぜー、はー……」
「……気のせいじゃないー……?……はあ、はあ……」
そして健康水泳部創設は見送られたのだった。