ランアウト 後編
ホワイトアウト、ブラックアウト、ランアウト。
ようやく完結です。
ランアウト 後編
彼女の寝息を確かめてから俺は自分の携帯を開いた。時間を確認する。20時なら、まだ電話をしても失礼な時間ではないだろう。
ルイの目尻に涙の跡が残っている。やっぱり泣いていたのだと思うと切なくなった。
こたつの上に置きっぱなしにしてあった彼女の携帯電話を手に取って、電話帳を見た。ルイの許可は取ってある。
「ルイの携帯、見てもいい?」
俺のも見ていいから、と言う前にルイは即答した。
「どうぞ。好きに見て。ロックもかけてないから。」
無防備というより、隠すべきものがないのだろう。あっさり言って指差した先がこたつの上だった。無造作に敷いた布団の上で彼女は眠っている。俺はその布団から抜け出してこたつへ入った。まだ温かかったのでほっとする。
正直言うと俺は自分の携帯を見られるのは恥ずかしかった。何もやましいことはないのだが、自分の生活の一部を覗かれるような気がして抵抗がある。前に一度勝手に彼女の携帯を覗いてしまった罪悪感もあり、俺も見せないとまずいだろうと思ったのだが、彼女は俺の携帯のことなど気にならないのだろうか。
「こんばんは。…神崎さんですか?成田といいます。今、ちょっといいですか?」
苦手だと思ったルイの友人。今は苦手だなんだと言っている場合じゃない。藁をもつかむ心境だった。
「羽ちゃんの彼氏?僕に連絡してくるなんて、一体何?」
「ちょっと聞きたいことがありまして。」
女子にしては珍しい、独特の低い声を聞きながら、俺はルイが熟睡していることを確認した。
「別に敬語つかわなくていいよ。君の方が年上だろう?成田さん。」
翌日の昼時、ルイの友人、神崎凛は俺の急な呼び出しにもかかわらず応じてくれた。駅前のファーストフードの二階席でコーヒーを飲んでいた彼女は俺に向かいの席をすすめる。
「ハイ、これ。羽ちゃんの親父さんの会社のパンフ。こっちはインドネシアの出先機関の資料。親父さんはジャカルタの支店長だ。」
隣りの椅子に置いたでかいバッグからファイルを出して俺に手渡す。
余りの仕事の速さに、俺は言葉を無くした。
「何呆けてる?時間が無いんだろ。パスポートは持ってるのか?」
「いや…。」
「それじゃ渡航はすぐには無理だな。」
「…そのようだな。でも、ありがとう、神崎さん、昨日の今日だっていうのにこんなに調べてもらって…。」
俺は心から感謝した。昨夜の電話連絡からすぐに彼女は動いてくれたのだろう。
国際経済学部だと言うルイの友人なら、何かわかるんじゃないかと思って頼んでおいたことが、あっという間に調べられていた。
「僕も心配していた。最近羽ちゃんは元気が無かったんでね。…折角内定取ったってあんなに喜んでたのに、変だと思っていたんだ。連絡を貰ってすぐに探したんだが、役に立つといいな。」
すすめられた椅子に座ることさえ忘れて、俺は手渡されたファイルを眺める。全て英文で書かれたパンフレットと資料は、俺に取ってはかなりの強敵だ。工学部の俺に取って語学は難物だった。
「…羽ちゃんに頼んで電話かけた方が早いんじゃないか?」
「それじゃ、ルイに知られてしまう。俺に迷惑かけたってあいつまた自分を責めちまうだろ。…ルイの親父さん側から言ってもらう方が絶対にいいんだ。」
神崎凛は長い髪を軽く片手で梳いた後に頬杖をつく。俺は促されて、ようやく席に着いた。
「まわりくどいな。君が一言『行くな』と言えば済むことだろう。羽ちゃんは君にベタ惚れなんだから、喜んで言う事を聞くだろうに。」
「親父さんとの板ばさみでまた悩むだろう。…ルイは、いつも人の事ばかり気にしていて自分の事は最後になる。」
「その結果が…今の状態、と。確かに羽田ルイはそういうタイプだな。他人の尻拭いをして損をする子だ。しっかりしているように見えるんだが、だからこそ周囲の人間が気がつかない。」
「そう、そうなんだ。周囲が思っているよりずっとルイは神経を使っている。」
「じゃあ、君が親父さんに頼み込むつもりなのか。羽ちゃんを日本に残すよう説得してくれと。実質ただの学生で彼氏に過ぎない君が頼んだところで、親父さんが納得するかな。」
痛いところをついてくる。
問題はそこだった。俺が突然ルイの親父さんに連絡を入れて説得を頼んだところでどこまで本気にしてくれるだろう。
何しろ俺はルイより年上でもまだ学生の身の上だ。
結婚する約束をしたわけでもない。
社会人にさえなっていない俺が一体どの面を下げてルイの親父さんに頼めるというのか。
「…だから、現地まで行って頼んだほうが誠意があるかと思って、場所を調べてもらったんだけど。…パスポート申請にそんなにかかるとは知らなかったからな。」
「ほっといたら本当に羽ちゃんは内定を蹴っちまうだろうしな。」
嘆息した彼女は残ったコーヒーを全部飲み干し、紙カップをくしゃっと手で潰した。
「僕は君たちに干渉するつもりは全く無いが、それでも言わせてもらえるかな。」
「…何が?」
「相思相愛なのはよくわかるが、もう少しお互いに対話をしたほうがいい。君も、羽ちゃんも他人行儀に思える。」
「他人行儀…。」
「好きな気持ちがあるのなら、それが尽きるまでお互いに正直にぶつけ合ったらどうなんだ。長く付き合いたいと思っているのなら、な。今みたいな状態では持たないぞ。」
「神崎さん。」
「…凛でいいよ。姓で呼ばれるのは気持ち悪いんだ。じゃ、僕はこれで大学に戻る。これから樹とランチなんで。」
「そうか、忙しいところ悪かった。どうもありがとう、…凛。」
席を立った彼女は上着と鞄を手にさっさと階段を降りていってしまった。後ろ手で軽く手を振って。
年下の女子大生に言いたい放題言われたのに、不思議に腹が立たない。
それは、彼女が冷静に自分達の事を分析していると思ったからなのか。俺の頼みごとを快く引き受けてくれたからなのか。理由はよくわからないけれども、何故か、呆然とするだけだった。ルイが、どうしてあんな変わった娘と親しいのか、なんとなく理解できたような気がする。
・・・確かに、対話は足りないのかもしれない。
ルイは俺にいまだに遠慮して言えないことも多いだろうし、俺は少々短気だから、思っていることと違うことを口に出したりする。
・・・好きな気持ちがあるのなら、それが尽きるまでぶつけること。好きなのだから、それで壊れるはずが無いのだ。
勇気を振り絞って、俺は携帯電話の番号を入力した。
ジャカルタとの時差は二時間。親父さんは会社にいるはずだ。
英語に全く自信のない俺は、彼女が置いていったファイルの紙に、拙い英文を手書きして、国際電話の準備をする。
市役所からの帰り道に、俺はルイにメールした。今夜会いに行っていいかどうかを尋ねる短い文に、直ぐに返事が来る。
「…たまには、ケーキでも買っていってみようかな。」
しかし、ケーキ屋でバイトしている彼女を訪ねるのにケーキを買うのはどうも気が引ける。
いつも飯を食わせてもらっているのだから、たまには何か土産でも買って行きたい。
だが、何を買っていいのかわからない。
・・・案外、俺はルイの事を知らないんだな。
一年以上もつきあっているのに、ルイの親父さんが海外赴任だったというのも最近知った。好物一つ挙げられない。
ふと、駅前通りのショッピングセンターへ足を向ける。最近出来たばかりの大型店舗で、百貨店のようになんでも置いているのだ。
お袋がこの間嬉しそうに話していたのはここのことだろう。
派手な装飾を施した入り口から入ると、化粧品やら装飾品やらの店舗が並ぶ。圧倒的に女性客が多くて、それだけでも少し逃げたくなった。女性がいやなのではなく、男でしかも俺のような無骨な奴がいる場所でない気がしていたたまれないのだ。
俺が行く店と言ったらスポーツ洋品店かアウトドアショップ、それにホームセンターくらい。後コンビニだろうか。自分とはかけ離れた世界な気がしてしまい、やっぱり店をでようかと踵を返したとき、見覚えのある姿が見えた。茶色の髪で、綺麗に化粧した横顔は確か、ルイの友人の一人だったと思う。
こっちに気付いて、彼女の方が近寄ってきた。俺も一応手を挙げて挨拶をする。
「成田さんじゃないですか。…買い物?」
「あ、ああ、まあ。」
確か、宮原樹。ルイと同じバイト先の女の子だった。流行の服を身に付けブランドバッグを手に歩く様子はまさに今時の女子大生。ルイの友人達の中では垢抜けているほうだろう。
「羽ちゃんに卒業祝でもプレゼントするんですか?」
おう、その手があったか。
ルイの親父さんの事で頭がいっぱいで、そう言うことまで思い至らなかった。
「そうなんだ。…でも、俺こういうのわからなくて。女の子が何を欲しがるのかさっぱり。」
「あはは。羽ちゃんは割と花より団子タイプだしねー。…で?予算はどのくらいなんです?」
うぉ、いきなり核心を突く質問だ。
「いや、あんまり金持ってないから、高いモンは…。」
「…そうですか。羽ちゃんが買おうとしてたモノ教えてあげようと思ったのにな。」
「買えるかどうかはともかく、教えてください。」
俺は素直にそう言った。女の子の欲しがるものは、やっぱり女の子が一番知っているのだ。
彼女は俺を右奥の雑貨屋へ引っ張って行った。どこにでもあるチェーン店の雑貨屋だが、この店舗は割りと規模が大きい。
「これですよ。綺麗でしょ。」
狭い店舗の奥に無理矢理置いたような小さなショーケース。多くない数のアクセサリーがその中にこじんまりと並んでいる。ケースの外に並んでいるアクセサリーと違って、貴金属を含んでいるのだろう。
そのケースの中央に手の形をしたマネキンがあり、その人差し指から無造作にぶら下がっているアクセサリーを指差していた。
地味で細いチェーンに、三本の輪が知恵の輪のように絡み合っている。
「あれがね、揺らすとシャリンシャリン、っていい音がするんですよ。それで羽ちゃん気に入ったんだけど、買わなかったんだよね。…なんでだっけ、スキーに行くお金がどうとか言ってて。」
そう言われて、軽く良心の呵責を覚える。
「あの三本のリングはね、指輪にも出来るんです。そこがまたいいんですよ。はずしてもいいし、つけたままでもいい。お買い得だから買えばって言ったんだけどね。」
値段を見て、溜息を付いた。
買って買えないことはないが、今の手持ちでは無理だ。
バイトで疲れ切った成田肇がこたつで転寝をしていた。だらしない寝顔が可愛い。
あんなに怒っていたのに、またルイの部屋へ来てくれたことがうれしかった。彼がわかってくれたのかどうかはわからないけれど、まだ会いに来てくれる気持ちがある。
自分が海外赴任している父親の元へ行くことに怒ってくれていたのも、嬉しかった。少なくとも、自分がいなくなるのは嫌だと思われているのだ。それだけでも嬉しかった。
・・・私がいなくなったら寂しいって思ってくれるんだな。
「お父さん?」
父からの国際電話は、大概夜にかかってくる。驚いて、思わず目を見開いた。ちらちらと、寝息を立てている肇を見る。
「どうして?」
あれほど一緒に暮らしてくれ、と頼んだのに。急に掌を返したようにもういい、と言い出した。
「就職先も決まっているとは知らなかった。早くそう言ってくれればよかったのに。」
「…え?」
おかしかった。内定を貰ったことはちゃんと伝えておいたはずだ。それでもそれを断ってインドネシアに来てくれと言い出したのは父の方だったのではないか。
父は、どことなく何かを諦めたような声音に思えた。元々、ものをいう時に強く相手に言うような人ではなかったけれど。
「じゃ、行かなくていいの…?」
「ああ。ちゃんと日本で自立しなさい。暇を見て私に会いに来てくれればそれでいい。」
なんだか拍子抜けだった。それを超えて逆に腹が立ってくる。
あれだけルイに来てくれと頭を下げたのに。突然、その張本人がその気を変えるなんて。
「だって、新居も用意して、そっちに滞在できるように会社の方にも手続きしたんでしょう、今更そんなので、いいの?」
「ルイ。…お前の立場も考えず同居を頼んだ私が悪かったんだ。もうお前は子供じゃないんだからな。」
前回父が帰国したときと随分と風向きが違う。
一体、父に何があったのだろう、逆に心配になってしまった。
「何かあったの、お父さん。」
「お前の就職先から連絡が来たんだ。驚いたよ、お前はそんなにも必要とされているんだと知ってね。」
・・・そんな馬鹿なことがあるわけないのに。
普通、たかの知れた新入社員一人のためにそこまでする企業などあるはずがない。ルイはそんな重要人物になった覚えはない。
「そんなわけないでしょ。なんか、言えないようなこと?」
「そんなわけない?…じゃあ、お前の相手じゃないのか、昨日国際電話かけてきた男は。」
「はあ?相手?何のこと?」
「成田っていう男が私の職場に電話してきたんだぞ。ろくに英語も喋れないのに、よく私のところまで通じたもんだ。」
「…肇くんがっ!?」
どうやってお父さんの職場を調べたのだろう。
ルイの携帯に乗っているのは父の自宅の電話と住所のみ。そして、家政婦に、家族以外には取り次がないように言ってあるのだ。支店長ともなると何かと面倒なことに巻き込まれるので、そうやって気をつけているらしい。
「やっぱり知ってるんじゃないか。」
「そりゃ、そりゃそうだけど…。どういうことだろ。」
「お前の彼氏なんだろ。ルイの自立の邪魔をするなと説教されたぞ。」
「えええ~っ!」
電話を切って、改めてこたつで寝ている肇を見た。
起こすのはかわいそうだけれど、とにかく聞いて見なければ。揺すろうと手を伸ばした瞬間、その手をつかまれた。
「…今の、親父さん?」
「そ、そうだけど、それより、肇くん、お父さんの会社に電話したって本当?」
彼はもそもそとこたつの中から起き上がり、座り込んでいるルイの方を向いた。
「…本当は、現地まで行ってこようかとおもった。」
「どうして、そんなこと…。」
「だって、お前俺が行くなっていうくらいじゃきかねぇだろ。」
ぐっと言葉に詰まるルイは、思わず身体を強張らせた。
「いやだったか?やっぱ、インドネシアの親父さんとこ、行きたかったのか?…俺が行くなって言っても?」
首を横に振る。
「…ていうか、まだ学生の分際で大きなこといえねぇんだけどさ。」
彼女の手を引いて、膝の上に乗せるように抱きしめた。照れくさくて顔が赤くなっているのがルイにもわかった。
「頼むからさ。もう一年、俺が社会人になるの、待っててくれねぇ?」
「肇くん…。」
「…これからさ、ひょっとしたらルイの気持ちが俺じゃない奴に移るかもしれないし、俺もずっとルイを好きでいられるかっていう保証なんて出来ねぇと思う。だけど、少なくとも今はお前と一緒にいたいし、ずっとそうしていたい気持ちなんだよ。お前の事好きだから、その気持ちが尽きるまでは、今みたいな関係を続けられるように努力したいんだ。」
一息にそれだけ言い切ると、ゆっくり息をついた。
後ろから手を伸ばしてルイの前で軽く組む。背中を覆う肇の体温が温かい。
「私も、ずっとこのままでいたいよ。…本当は一緒にいたいって思う。でもそう言って肇くんを追い詰めるのやだった。私は自分の意思で自分の進路を決めたんだし。たとえその進路を決める材料に、彼氏の傍にいたいっていう不純な動機が入っていたとしても。」
「いいんだよ、そう言って。俺もかまわず言っただろ。…お前が親父さんとこに行くって言っても、俺は阻止する。なんの権利もないくせに、ただの彼氏だって言うだけなのにお前の意思の邪魔をしたんだ。」
「邪魔なんかじゃない…嬉しかった。そこまでしてくれて。」
肇の両腕に顔を埋めるようにしながら、ルイはこっそり笑った。
「じゃあ、お父さんが言ってた就職先が云々って言うのは、なんだったんだろ…。」
いまひとつ父親の言っていた言葉が腑に落ちなくて、ルイはまたも首をひねった。
「そ、それは、だな…。」
ごほん、とわざとらしく咳払いをした肇が、右手でポケットを探った。小さな袋を取り出す。
「いますぐは無理だけど、いずれは永久就職するかもしれないだろ。」
思わずルイが振り返って、肇の顔を見上げた。
「それって…?」
もう一度咳払いをした肇が取り出した袋をルイの目の前で数回、軽く振った。シャリン、シャリン、と綺麗な音がする。
「ちょっと早いけど、卒業祝。今年はもう、山に行くのやめて、ずっと地元でバイトすることにした。」
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