ランアウト 中編
ホワイトアウト、ブラックアウトの続編、その2、となってしまいました。
お気に召していただけたら嬉しいです。
ランアウト 中編
どうしてそんなことになるんだ、と怒鳴りたい言葉を飲み込んだ。
子供じゃあるまいし、今だって一人で暮らしているのに、なんで今更親父となんか暮らさなくちゃならないんだ。
ルイの丸い肩を掴んで強く揺すろうとした俺を抑えたのは、その後、ルイの溢した言葉だった。
「…離婚、するんだって、さ。」
少しも可笑しくなんか無いのに笑うルイ。その表情が怖いくらいに絶望に満ちていた。笑っているのに、泣いている。
「お母さんとお父さん、離婚するんだって…。弟はまだ小さいからお母さんが引き取って、私はもう未成年じゃないから保護する必要は無いけど、…だからこそなんの負担も無くお父さんの所へいけるんで。」
「なんだよそれ…。」
「お父さんずっと一人だったの。…もう、10年以上も海外で暮らしてて、帰省するのは年に一回か二回くらいだった。正直言ってお父さんとの思い出も殆ど無い。どこかへ遊びに連れて行ってもらった記憶も、一緒に遊んだ思い出も…。」
そんな親父ならいなくても同じだ。
一体どんな義理があって一人前になった娘が親父と一緒にくらさなくちゃ行けないんだ。まさか介護が必要だとでも言うのか。
「折角貰った内定を蹴ってまで、インドネシアまでいかなくちゃいけねぇのかよ?」
俯いた彼女は小さく頷いた。
俺は、ルイの両肩を解放してやった。思い切り掴んだから痛かったのだろう、自分の手で軽く肩をさする彼女の動作がそれを物語る。
「…そう、なの、か。…じゃあ、しょうがねぇよな。」
出来るだけ抑えた声で俺は呟いた。本当は喉から吠えてしまいそうなほど感情が昂ぶっていたけれど、俺は全神経を集中してその怒りを制御した。抑えなかったら、暴れだしてしまうような気さえしたから。
「俺、帰るわ。」
「…肇くん!待ってよ。…夕御飯食べていくんじゃなかったの?」
こたつで転寝するその直前まで、俺はそんな甘い夢を見ていたのだ。こんなふうに、雪山から戻って来た俺を温かく迎えてくれるルイがずっとこのままここにいてくれる。そんな自分勝手な都合で彼女はずっと傍にいてくれるものだとばかり思い込んでいた。
そう、願っているのは、思っていたのは、俺だけだったのだと知って、裏切られたような気持ちでいっぱいだった。
「お袋が心配してるだろうから、帰る。悪かったな、急に寄ったりして。」
「…怒ったの、肇くん。」
「別に、怒らない…っていうか、俺に怒る権利なんかないし。」
口先だけなのは明らかだった。普段よりトーンの低い俺の声に怒りが滲んでいる。それに気がつかないようなルイじゃなかった。
「どうしてそんなこと言うの?」
「事実だろ。ルイの家庭の事情に俺が首を突っ込むわけにはいかねぇよ。…じゃあな。」
とにかくそれ以上その場にいられない。
怒りで馬鹿なことを口走ってしまいそうだった。怒ること事態がお門違いだとわかっているのに、その怒りをルイにぶつけるわけにはいかない。
俺は上着をはおると振り返らずにルイの部屋を後にした。駐車場の愛車まで走っていく。
何かを言いたそうな彼女を取り残して。
二、三年位前から、母に恋人が出来たことに感づいてはいたのだ。
小六の弟も来春は中学生になる。そして、自分は成人して社会人になるのだ。ある意味、子育てのターニングポイントに立ったと思えたのだろう。13年もの間、家庭に戻ってこなかった父親を見限って他の人を頼っても仕方が無い。
「貴方も二十歳だし、そろそろハッキリさせてもいいんじゃないかと思ったよ。」
「でも、敏也は?まだ小学生だよ?」
「中学生になるのよ。もう赤ちゃんじゃないんだし、貴方以上に父親の記憶なんかないんだから、どうってことないわよ。」
「どうしても離婚、するんだ…。」
「彼が父親らしいことなんかしてくれたことなかったでしょ。…滞りなく収入があったことだけは感謝してるけど、ずっと母子家庭みたいなもんだったじゃない。いいかげんお互いに自由になりたいわ。」
ルイの母はそう言って離婚届の書類を見せてくれた。
署名も捺印も済んでいるその書類は、役所に提出すればいいだけになっている。
・・・本物の婚姻届の前に離婚届を見ることになるなんて。
両親が離婚することを知ったのは夏休みだった。
けれどもうすうすわかっていたし、ショックではあったけれど、今更自分の生活にそれほど支障の出るものでもなかった。来春には自立する自分には余り関係の無いことだ、と思い込もうとして必死で就職活動していた。
ルイには、肇がいる。大好きな彼がいれば、それだけでいい。
彼の傍で生活できたらいい、と思っていたので、受ける会社は全部大学の傍か、今の下宿先から通える所を狙っていた。東京に出ることも考えたけれど、とてもじゃないが通勤圏内ではなかった。だから企業も限られていて、中々決まらなかった。
ようやく内定がとれた先月、報告がてら実家に帰ったら、父が戻ってきていたのだ。
もう、帰国しても自宅に泊まることさえしなくなってしまった父。
穏やかで、優しい父親だったと思う。年に何度かしか会えなかったけれど、帰国したときはいつも穏やかで優しかった。特に何かをしてもらった、という覚えは無い。家のことは全て母に任せていた父は、帰省してもどことなく居心地が悪そうでルイの方が気を使ったしまったような気がする。誕生日にはカードとお小遣いが届いたけれど、父とバースデイケーキを囲んだことは無い。
そんな父がルイに頭を下げて自分と一緒に来て欲しいと言ったのだった。
二十歳を過ぎて社会人になるルイには、親権を争う必要もないから本人の意思次第、ということになるのだが、父は娘に同居を頼んできたのである。
13年間、何もしてやれなかったから、少しでも一緒にいたい。
ルイは女の子だし、いずれ年頃になれば結婚してしまうだろう。だから、嫁に行ってしまうまでの数年間だけでもいいから、と。
出来れば弟の敏也も引き取りたいけれど、おそらくそれは母が許さない。
勿論母は、ルイにも行かなくていい、と言っている。ルイには彼氏がいて、地元に就職する準備を進めていることを知っているからだ。父はそこまでの事情を知らない。父に取ってのルイは、まだ幼いままの娘なのだ。
ルイには、父親の気持ちがわかる気がした。
父はただ寂しいのだろう。長年外国で働いて家族を養ってきたというのに、ここにきて離婚を持ち出され、本当の意味で一人になるのが怖いのだ。今までは一人でくらしていも、帰国すれば家族がいるという思いだけを支えにやってこれたのだと思う。
そう思うと、娘に頭を下げてまでついてきて欲しいと懇願する父の気持ちを無下には出来なかった。
余りにも父が哀れに思えて、簡単に断ることが出来なかったのだ。
答えを先延ばしにするうちに、父がパスポートの手続き書類や引越しの費用などを送りつけてきた。手紙や電話で連絡が来る。
気付くと、もうインドネシアへ渡航することになっていたのだった。
「あっと言う間に離婚されたから…お父さんも学習したんだろうね。手回しがよかったな…。」
肇が帰ってしまった後、ルイは洗い物の続きをしようと小さなキッチンに立つ。
・・・どうしても、いやだって言えなかった。
彼が怒ってしまうのも無理も無いことだとわかっている。肇は、ルイのそういうところが嫌いなのだと言っていた。
『自分で勝手に考えて結論を俺に押し付けるところ』
だが今回は、自分で決めたというより父親に流されてしまった、という方が正しい。きちんと自分の意思を通せなかった自分が悪いのだが。肇にもそう言われてしまうだろう。
けれども将来を誓ったわけでもない。肇はまだ学生だ。彼のために日本に留まる、などと言って重荷となるのもいやだった。だから相談することも躊躇ってしまったのだ。
翌日、何事も無かったかのような文面でメールを出したルイは、バイト先で返信を受け取った。レジ係の自分はこっそり携帯を覗いて、小さく溜息を付いた。その様子を見て、包装をしていた友人の樹が声をかける。
「彼氏から?」
「うん。…よかった。とりあえず、無視はされなかったから。」
「喧嘩でもしたの?ひょっとして昨夜あたしたちが帰った後にやらかしちゃった?」
苦笑顔で頷くルイを心配した樹が傍に寄って来る。客足の途絶えた今なら、少しくらいはおしゃべりをしても許されるからだ。
「どうしたのよ。何が原因?」
「実はね…。」
手短に事情を説明したルイの方を、樹はまじまじと見つめた。
「本気でお父さん所に行くの?羽ちゃん…。」
「行かざるを得ないかな、今の状況じゃ。もう、今更お父さんにムリ、とか言えなくなくなっちゃった。」
「羽ちゃんは優しいからねぇ…。でも、行きたくないんでしょ?」
「お父さんがいやなんじゃないんだ。外国がいやなわけでもない。…ただ、…。」
「彼氏んところにいたい?」
ルイは赤くなった。でも問いには答えずに別のことを言う。
「…そんなこと言ったら、肇くんに迷惑だもん。まるでプレッシャーかけてるみたいじゃない。私は貴方のために日本に残りました、って、なんか重いじゃん。」
再び包装をはじめた樹の手が動き出した。起用に箱を包んでいく手つきに思わず見とれた。
「彼氏、なんだって?」
「今日来てくれるって…さ。」
「そう、よかったじゃん。よく話し合って仲直りしなよ。」
樹に返事をする前に、子供連れのお客が入店した来た。
「いらっしゃいませー。」
また怒りがおさまった訳ではなかった。昨日の今日だ、納得行かない気持ちのまま何日も過ごすのもいやだった。
大学に向かう途中でルイからメールが来た。気楽な挨拶と、今日の夜会わないか、という誘いの文面。昨日のことなど忘れたようだった。それがまた面白くなかったのだが、昨日のままというのも気まずい。話し合っておきたかった。
授業を済ませて、そのまま彼女のアパートへ車を走らせる。
インターホンを鳴らすと、いつものように明るい笑顔の彼女が迎えてくれた。
「こんばんはー。早かったね、肇くん。夕食これから作るんだ、上がって?」
「あ、ああ…。」
毒気が抜かれそうな朗らかさの彼女に面食らう。まるきりいつも通りで、昨夜の事など忘れてしまったかのようだった。
上着を脱いで床に置くと、腰を下ろさずに彼女の傍へ歩み寄る。
「昨日の話、なんだけど…。」
「え、と。その前に夕御飯食べようよ。お腹空いてないの?」
「腹は減ってるけど、それ以上に気になって仕方ないんだよ。インドネシア行くって、マジなのか?」
ルイの表情から急激に明るさが消える。
「行くことに、なっちゃった、て言うか…。そういう風にお膳立てされちゃった、っていうか。」
「なんだよ、それ?ルイが行きたいわけじゃないのか?」
「行きたくないわけじゃないけど…。」
「どっちなんだよ!」
ぐっと両手を掴んで顔を覗き込む。睨むように見つめると、また彼女はうつむいてしまった。
「だって…、お父さんが…。」
「10年以上も離れてた親父さんが、そこまで大切なのかよ。」
自分の将来と引き換えにするほど。
折角苦労して得た内定を蹴るほど大切なのか。俺と一緒にいる生活よりも大切なのか。
「…10年以上も離れてたからこそ、一人にするのは忍びないんじゃない…。お父さん、本当にたった一人になっちゃうんだよ。もう日本に帰る家だってなくなっちゃう。お帰りって迎えてくれる人は誰もいないんだ。そんなの、あんまりだって…。ずっと一人でがんばってきたのにさ…。」
「…ルイ。」
そうだった。
ルイは優しい。時々どうしてそこまで、と思うほどに優しいのだ。
だから、ずっと何もしてくれなかった父親に同情するなんてことが出来るのだ。離婚すると言い出した彼女の母親にはない情の深さは、ルイだからこそあるのだろう。
裏切られた思いで怒っていた頭が冷めていく。
その、脆いとさえ思えるほどの優しい心に俺も惹かれたのだ。
ゆっくりと、彼女を抱きしめる。躊躇いがちに俺の背中に手を伸ばしたルイがしがみつく。
「抱いて下さい。」
泣き出してしまいそうな、くぐもった声。
俺は、彼女の懇願に、言葉ではなく行動で答えた。
立ったまま彼女の服を脱がせていく。
俺の首にしがみつくように両手を絡ませてくるルイ。
優しくて優しくて、自分の思いを言い出せずに。相手の事でいっぱいになってしまうこの娘が、俺はたまらなく好きだった。
予想外に長くなってしまいました。
後編へ続きます。
是非、お付き合いください。