side-悪魔城にて-2
涼しい風が窓辺から流れ込み、薄い布で作られた白いカーテンがふんわりと浮き上がり波打つ。
優しいその風がベッドで眠っていた少女の髪を揺らし、弄んでいく。肌をくすぐるその感触で意識が浮上し、彼女は伏せていた瞼を開け、体を起こした。栗色の肩にかかるくらいの長さしかない髪の毛が首筋からパラパラと前に流れる。陽光を背に受け暖かさを感じながら少女は目元を眠たそうに軽くこすったあと何度か瞬きを繰り返すと、室内を見渡した。
悪魔がいない。
それが解ると体の向きを変えて両足を床に下し、ベッドの端に手を置いて体重を預けながらゆっくりとした動作で立ち上がる。同時に右のほうにある窓辺から風が吹いてきて、少女の意識はそちらに向いた。途端眩しい陽光が目を刺し、光を遮るために無意識に手が動いて額の前で翳した。
「わぁ……眩しい……今日もいい天気だなぁ……」
そう呟いて数秒眺めていたがずっとそうもしていられない。
すぐ飽きがきて、少女は再度室内に視線を走らせた。
耳を澄ましてみるが物音ひとつ聞こえてこなかった。
少女は素足のままで音を立てないよう気を付けながら床を歩いて行き、正面の扉に向かう。その前に立つと、何か聞こえやしないかと耳を扉に当てて、そばだてる。
が、やはり聞こえない。
耳に入る音と言えば、背後で窓辺から入ってくる風が揺らすカーテンのそれくらいだ。
期待はしていないが一応確認のためにドアノブに手を伸ばして掴むと、引いてみた。が、やはりビクともしない。
「だよねー……」
そして視線は、ベッドの側にある浴室へと通じる扉へ向かう。
「とりあえず顔洗おっと……」
そう呟いた少女は浴室へと姿を消した。
お盆に乗せた朝食を持って、ガッチは少女の部屋に訪れた。扉の前に立つと服の中にぶら下げている部屋の鍵を取り出して、鍵穴に差し込み回す。
すると、小さな音が立った。
鍵を服の中へ戻すとガッチはノックもせずに扉を開け中へ入ると、後ろ手で扉を閉めてノブを強く押しながら右に二度回す。すると、カチリと小さい音が鳴った。
鍵をかけたのだ。
ガッチは室内をざっと見渡した後、視線を浴室へ向けた。小さな音が聞こえたのだ。
状況を把握すると窓辺へ寄って行き、側に置いてある棚の上に朝食を乗せたお盆を置く。
あとは、あの少女が戻るのを待つだけ。
そこで、は、と気が付いた。
―――名前、知らないな……。
ガチャ、と扉を開けるような音が耳に届き、ガッチの思考は断たれ、意識が自然にそちらへ流れた。浴室の方に視線を向けると、彼女はガッチの丸い襟ぐりのシャツに追加で渡した多少余裕をとってある黒いズボンを穿いて立っていた。
自分ではそんなにピッチリもズボズボに余裕があるわけでもないのだが、彼女が穿くとズボズボなようだ。今にもずれ落ちそうだった。
―――服も用意しないとなぁ……でもこいつ置いて買い物はなぁ……。アンナにでも頼むか?
「ひゃっ!」
突然少女の声が聞こえて、ガッチは視線を少女が着ていた服から顔に移動する。
目が合った途端、彼女の顔に一瞬恐怖が走ったのを、ガッチは確かに見た。
イラっとする。
ガッチの表情もそれによって強張り、それがさらに少女の恐怖を煽るのだが、気づかない。
腹が立ったガッチは大股で歩き一気に彼女との距離を縮めると、怖がって体をびくっと震わせた彼女の腕を掴むと引っ張るように手を引いてベッドへ無理矢理座らせる。
ドスン、と音が立つと同時にベッドが揺れた。
「朝食だ」
冷ややかな視線で吐き捨てるように言い、ガッチは廊下と面している方の扉の近くにおいてある椅子へ向かうと、ドスン、と腰を落とした。胸で腕を組み、瞳をとじる。
それを見ていた少女は、ほっとする反面何故か腹が立ち、釈然としない気分に陥る。
―――あんなに朝から怒ることないのに……。
棚の上に置かれている朝食が乗ったお盆を取り、座っている膝の上に丁寧に置くと、小さいパンを小さく千切りながら口へ運び、何も入っていないスープを少しずつスプーンで掬って飲んでいく。それとは別に赤い液体が入ったカップが付いており、恐る恐る飲んでみると花茶だった。
花を乾燥させて粉にし、水や湯で溶いて蜂蜜で甘くして飲むのがだいたいの主流だ。
優しい香りが鼻孔をくすぐり、甘味が口の中に広がってほっと一息つく。
「なぁあんた」
突然近くから声が聞こえて少女は驚いて体を大きく震わせた。
途端、飲みかけの花茶が指から外れてしまい、あっ、と思った時には既に遅く、腹と太腿にかかり床にカン、と軽やかな音を立てて落ちていて、床に赤い液体が散っていた。
白いシャツは赤く染みが出来ており、濡れている部分が肌に吸い付いている。
咄嗟にベッドから降りて体を屈ませ、床に転がっているカップを取ろうと手を伸ばした時。
ゴン! と良い音が響き、その瞬間口から「あいた!」という言葉が漏れていた。
無意識に両手をぶつかった頭に当てて視線を向けると、正面に自分と同じく体を屈めて、頭を片手で押さえているガッチと視線がまともにぶつかる。
近距離でガッチの瞳を見た少女はただ、慌てて身を引いた。
それを、ガッチは恐れから身をのけぞらせたのかと思った。
腹が立った。
「あっ!」
勢いよく視界が転じ、少女は咄嗟に目を瞑った。
ドスン、と何かにぶつかって背中に衝撃がくるが、痛くはなかった。恐る恐る伏せていた瞼を開けると、至近距離にガッチの顔があった。
―――え、えっ!? なになになに!? なにこれ近いよ!? どうして!?
その瞬間、恐怖より恥ずかしさの方が上回り、少女の顔は見るからに真っ赤に染まった。同時に静かだった心臓がドクンと跳ね上がり今までにない速さで連動し始め、聞こえてしまうのではないかと真剣に不安になった。そんな恥ずかしさと不安からガッチを押しのけようと思い、手に力を入れたところで全く動かず、両手首がガッチの大きいそれによってベッドに抑えつけられていることを知る。
突然のことでパニックに陥り、とにかく何とかしようと力一杯両手に力を入れて起き上ろうと試みるが、ビクともしない。
本当の意味で、恐怖を覚えた。
このひとが本気を出せば、自分は敵わない。
そう、思い知った。
途端、体が小刻みに震え出し、じんわりと涙が溢れて来て瞳が潤んだ。
視界が悪くなり、眼のふちという名の堤防を越えそうになる。
自分に対して恐怖しか抱いておらず、体を小刻みに震わせてまでいる少女。吸い込まれそうな鮮やかな緑色の瞳が今は涙で曇り、それが今にも溢れ出てしまいそうだった。
突如、胸が息をするのも苦しくなり、締め付けられる。
無意識に、ガッチは下唇を噛んだ。
「……くそっ」
その言葉を聞いた瞬間、少女は目を見開いてガッチを見つめた。
そして急に、手首が軽くなったことに気づく。
目を瞠っているままの少女の双眸に、離れていく逞しそうな大きな手と、去ろうとする背中が映った。
それも視界から消え、代わりに床を歩いている足音と、気配だけが伝わる。
やがて、そのどちらとも扉を開閉する音と共に、消えた。
一人だけ残された少女は、ゆっくりとした動作で体を起こした。
ベッドに押し付けられていた影響で背中へ流れていた髪が、起きた反動でパラパラと前へ落ちる。そろりと手首を胸の前まで持ってきて見てみると、赤くなっていた。
少し、ひりひりする。
腿の上に、トン、と両手を下す。
けれどもまたすぐ右手を胸元に持ってきて、ぎゅ、と服の裾を掴んだ。その影響で服に皴が寄るが、気づかない。
動揺していた。
落ち着かない。
心臓が、ドクドクと鳴っている。
―――ドクドクするのは、怖かったから?
先刻の、ガッチの表情が脳裏に甦る。
とても、苦しそうな顔をしていた。
今にも泣いてしまいそうな。
―――それとも、罪悪感から?
俯いていた顔を上げると、小鳥の囀りが耳に届いた。
視線が、無意識に窓の外へ向けられる。
そして少女は、目を伏せた。