蟻の巣
貴文が玄関の戸を引くと、既にたくさんの靴が並んでいる。もう皆先に着いているんだなと思う。
今日は八月十三日、お盆である。お盆には散り散りになった家族が予定を合わせて集まることになっている。東京で一人暮らしをする貴文と、新潟市内に暮らす弟夫婦、それから親戚一家が家にやってくる。
貴文には兄弟が二人いる。兄の純一と弟の和博。男三人兄弟、貴文はその次男に当たる。
兄の純一は家を継ぐために父母と実家暮らしをしている。結婚して八年、既に子供が三人もいる。子供は血筋なのか、三人が三人とも男の子で、貴文達と同じ男の三人兄弟である。長男が七歳、次男が五歳、末弟が二歳、まだまだ可愛い盛りではあるが、同時にやんちゃも盛りであって、ドタドタと家中走り回ってばかりいる。ケンカも多い。長男に泣かされるのはいつも次男だが、その泣き声がいつもどこかでしているような状態である。
「父さん、母さん、ただいま」
貴文は玄関を上がって居間に入り、父と母に挨拶をする。予想通り、居間には家族中が肩を並べて座っている。兄夫婦も弟夫婦もいる。親戚の一家もだ。
「おかえり。大分遅かったな。もう夕方だぞ」
父が穏やかに笑って言う。
「指定席の予約が遅れちゃってさ、もうこの時間しか空いてなかったんだよ」
「指定席って、新幹線の?」兄の純一が聞く。
「そう」
「ほら、お父さん、貴文が帰ってきたんだから、早く飲み物でも用意してあげて」
そう言うのは母。
「ああ、すまんすまん。貴文、まあその辺に座ってなさい。アイスコーヒーでいいか?」
父がのそりと立ち上がる。
「飲み物? あ、うん、それで構わないよ」
「分かった。少し待っていなさい」
そう言って部屋を出て行く。背が低く、痩せて肉付きの薄い父の背中は見るからに物悲しい。昔からヒョロヒョロに痩せていた人だったが、老いが表れてきたのか、ここ数年でさらに小さく縮んで感じられるようになった。俺が今年で三十五になるんだもんなぁ、と貴文は肩骨の浮き出た父の背中を見て思う。
「貴文、それ何?」
母が聞いてくる。視線の先は貴文の持つ紙袋にある。もちろん東京帰りのお土産だ。
「水羊羹。東京駅に売ってたから買ってきたんだよ。甘いもの好きだろ? 母さん」
「あらそう。いいわねぇ、水羊羹。大好きよ、私」
母は嬉しそうに笑顔を浮かべてそう言うと、台所の方に向き直り「ほら、お父さん! 貴文が水羊羹を買ってきてくれたって! 早く冷蔵庫に入れてあげて!」と大声を上げる。
「ああいいよ、俺が持っていくから」
「そんな、いいのに。お父さんに任せておきなさいよ」
「いいって」
貴文は部屋を出て父のいる台所へと向かう。
父はアイスコーヒーに牛乳を入れていた。水羊羹の入った紙袋と交換に、淹れたばかりのアイスコーヒーが手渡される。
「牛乳、入れといたぞ」
「うん。どうも」
父は貴文の好みを知っている。いや、貴文だけではない、家族全員の好みを知っているのである。貴文はコーヒーにミルクは入れるが砂糖は入れない。母はミルクも砂糖も入れない。そういうことを。
父は弱い。体が小さく非力で痩せ細っているだけでなく、気性についても弱い部分を持っている。物腰が柔らかく、鷹揚といえば鷹揚とも呼べるのだが、それでは済まされないくらいに人に対して弱い。母や目上の者に対して謙り、しかも貴文達実の息子に対してすら、どこか遠慮を含んでいる。
貴文は父が真剣に怒るところを見たことがない。父だって人間だ、はらわたが煮えくり返ることだってあるだろうに、父がその姿を見せたことは過去に一度もないのである。叱られてきた、それも極めて冷静に叱られてきたという印象だけが、貴文にはある。
父はどうしてああも弱いのだろうか? 以前貴文はそう考えたことがあるが、結局血筋だろうということ以外、めぼしい理由は思い当たらなかった。父の父、つまり貴文の祖父に当たる人も気の弱い人だったという。ただ祖父は貴文が小学校低学年の頃に他界してしまっていて、そのため貴文はあまり祖父のことを憶えていないのだが。
血筋……。血筋ならば、その血は俺にも流れているのだなと思い、貴文はいつも暗鬱とした気分になる。父のようにはなりたくない。母の言いなりになって、自らの人生を食いつぶしてきた父のようには……。だが兄弟達は皆小さい。皆、気の弱いところがある。純一に至っては母と同じような気の強い女の人を嫁に迎えている。兄弟皆似たり寄ったりだ。そう考えると貴文は、この血の定めからは逃れられないのかと思い、いつも暗い気持ちに沈むのである。
一方で母は強い。祖母の生きていた頃は違ったという話だが、祖母が死んで以来、強権的にこの家族を支配してきた。貴文は口やかましくない母を知らない。祖母は貴文が生まれて直ぐの頃に死んでいるのだ。
母は父を小間使いのように扱う。昔からだ。甘い物が好きで、小腹が空くとすぐに父を呼び寄せ、お菓子やらアイスやらを持って来させるのである。そしてムシャムシャと夢中で食べる。おかげで母は異常なレベルで肥え太り、呼吸をするのも苦しそうにしている有様だ。フゥー、フゥー、と息を吐き、唸る。動くのが辛いからなのか、座ったまま、あるいは寝転んだままでほとんど動こうともしない。挙げ句、何かあると脂肪で膨れた喉から野太い声を出し、あれやこれやと指示やら文句やらを言うのである。どう贔屓目に見ても醜い女だとしか思えないのだ。
だからでもある。貴文は母のことが嫌いだった。何より母は父を奴隷のように扱ってきた。それが貴文が母を嫌う最たる理由だ。
父は昨年ガンになった。胃ガンである。ガンは病気の進行度合いによってステージ1からステージ4までに分類される。ステージ1はガン発生のほんの初期、手術で取り除けば大体の人が助かるレベルにある。が、反対にステージ4はまず大体が死ぬ。俗に言う末期ガンと言われるのも、このステージに当たるガンを言うのである。
父の胃ガンはステージ2だった。ステージ2の、それもかなり初期で、ステージ1とほとんど大差ないと医師からは診断されていた。
父は入院し、その二週間後には腹にメスが入れられた。胃の半分が切除され、腹は針で縫い合わされた。五年後の生存確率は七十五パーセント。父はまだ元気に生きている。再発の兆候も、今のところない。
だが、父はなぜガンになったか? 父は今年で六十二だから、確かに歳は歳だ。が、酒は時々飲む程度で、飲んでも少量、タバコもやってはこなかった。菜食中心で暴食に走ることもない。中学生みたいにヒョロリと痩せているから、メタボリックシンドロームとも縁遠い。なのに、なぜか?
苦労してきたからだ。我慢してきたからだ。そう思わずにはいられない。
父は必死に耐えてきたのだろう。母のあの声、あの姿、あの言い様に本当に長い間耐えてきた。自分の気の弱さ、母の気の強さを考えれば、家庭の平和に必要なのは自身の忍耐と従順な態度だ。自分までもが相手に対して攻撃的になれば、家庭の不和は避けられないはずだ。そう考えて父は不満をふさぎ込め、歯を食いしばって我慢を重ねてきたのだろう。
しかし、父の我慢は何のためであったか? それは自分達のためだ。自分達子供の情緒の安定のためなのだ。そう考えると貴文は憐れに思えてきてしまうのだ、父のことが。
ガンは心身を酷使してきた人に出やすいという。父はガンに侵されねばならない程に苦労を重ねてきた。その一生は、どんなだったろう。あの醜い母と暮らしてこなければならなかった一生を、父はどう思っているのだろう。あの女でなかったらと、思ったこともあったのではないか? あの女とは違う、もっと別の人と一緒になっていたらと空想し、その空想に慰められ絶望させられた瞬間も、過去に幾度となくあったのではないか? あの女でなかったら、そしたら自分の人生もまた違ったものであったろうにと、嘆きに暮れた日もあったのではないか?
だが父の人生はもうほとんど尽きてしまった。あと残されているのは余生と呼べる程度の短い時間だけだ。そしてそのわずかな時間でさえも母によって食い尽くされようとしている。そう考えると憐れでならないのだ、父のことが。
「ねぇねぇ、おじちゃん。ほらこれ。見て。すごいでしょ」
そう言って純一の長男が居間にくつろぐ貴文に、プラスチックの容器を見せてくる。小学一年生に上がったばかりの長男が、この夏初めて作った自由研究なのだという。奥行きのわずかな薄いプラスチックの容器には土が八割がた敷き詰められていて、その中では蟻達が事もなげにせわしなく動き回っている。地中には既に縦横に張り巡らされた穴が出来、透明な容器から透けて見えている。見事に完成された蟻の巣が……。
蟻の巣。そうだ、その家は蟻の巣なのだ。一匹の絶対王政を敷く女王蟻が働き蟻達をせっせと働かせ、己のみのうのうと甘い汁を吸って生きている。女王は一歩たりとも動くことなく、運ばれてくる食べ物を次々と口の中に入れ、咀嚼し、ぶくぶくと太ってゆく。働き蟻がどう苦しみ、どう死んでいくかなど一向に気にかけたりはしない……。
蟻の巣なのだ、この家は。
貴文は長男の自由研究を褒めてやりながら、そんなことを考えていた。
「純兄。はいこれ。今回の分」
そう言って貴文は銀行の封筒を純一に渡す。
「すまんな、いつも」
純一がその封筒を受け取る。
「いいんだよ。大体、皆で決めたことじゃないか」
「うん……。すまんな」
封筒には金が入っている。母の糖尿病の治療費だ。
母は五年前から糖尿病を患っている。ただ症状は深刻には出ていない。体のだるさと喉の渇き、眠気が襲うくらいだ。
糖尿病は基本的に完治することのない病気だ。一度発症してしまったら、その先一生付き合っていく必要がある。ごくたまに遺伝疾患的に糖尿病を発症する人もいるが、母はその事例ではない。全て母自身の生活習慣、主に食生活に関する悪癖が招いた結果である。
甘い物ばかりよく食べる。それが病気の根本原因だ。
甘い物ばかり摂るのが病気の原因なのだから、その治療も基本的には食生活の管理が主な治療法となる。毎日決められた量を決められた時間に食べ、暴飲暴食は避ける。間食はしない。それだけだ。
だから、治療費もさほど多くはかからない。月に一度の検診代と薬代だけで、月に五、六千円程度、高いものではない。
とはいえ既に家庭を持ち、子供が三人もいる純一が、この先ずっと一人で母の治療費を負担し続けるのは酷な話である。貴文にも和博にもそれは理解できる。それで二年前、純一に三人目の男の子が生まれた時に、母の治療費を兄弟三人で分け合って出すことが提案された。貴文も和明も同居を理由に、純一一人に費用を負担させるのは心苦しいと感じていたから、この考えには快く応じていた。それ以来半年に一度、実家に帰省した折に半年分を纏めて払うようにしている。貴文が純一に渡した金はそういう金である。
「金額も確認してよ。で、足りないなら言って。ちゃんと出すから」
純一に負い目を感じさせないように努めて明るく言う。
「うん、分かった。サンキューな」
手に持った封筒を軽く上げながら、純一はそう答える。
「いいんだよ。それよりも大変でしょ? 子供も大きくなってきて手がかかるってのに、母さんがああじゃさ」
「まあ……。まあな」
子供達は貴文達の話している後ろで、蟻の巣に見入っている。
「動け。ほらっ、こいつ。もっと動け」
そういって長男がプラスチックの容器を指でカツカツと弾く。横にいる次男がそれを真似し、容器を乱暴に小突く。
「止めろよ。これは俺んだぞ」
「えー、俺だって兄ちゃんの蟻の巣、叩きたいー」
「ダメー。これは俺んだから」
「ずるいー。兄ちゃんばっかずるいー」
「うるさい。チビ」
その内ケンカが始まり、次男の泣き声が聞こえ始める。
「こら、お前達。ケンカばっかりしてないで、静かにしてなさい」
純一が仕方なさそうに子供達の所に行き、ケンカの仲裁に入る。長男は「だって健介が」と自らの正当性を主張し始めるが、次男は何も言わない。じっと長男の手の中にある蟻の巣を睨んだままだ。
貴文はそんな場面を幸福そうだなと思いつつ、その場に立って眺めている。でも、それも今日で見納めになるのかもなとも、同時に考えながら。
貴文は東京で居酒屋を経営している。都内に二店舗、いずれも中野にある。しかし、このところ店はあまりうまくいってない。
六年前、貴文は都内に小さな居酒屋を開いた。それまではサラリーマンとして働いていたのだが、過度な長時間労働がたたり、体を壊して会社を辞めていた。それが治った時、サラリーマンはもうこりごりだというので始めたのが居酒屋だった。店の開店資金はかなり掛かったが、サラリーマン時代に貯めた金でどうにか全て賄えていた。貴文は全く高給取りではなかったが、生活費以外は無駄遣いせず、余った金は全て株式投資に回していた。それが成功したのである。株価は元値の三倍近くまで値上がりしていた。その株を売った金で、開店に漕ぎ付けたのだった。
店は中野に開いた。地鶏と新鮮野菜を使った健康志向のメニューが売りの小さな店だ。
が、開店当初、店は全くと言っていいほど流行らなかった。地鶏じゃなくて閑古鳥を扱う店だと言ってアルバイトの子の失笑を買った時もある。
しかし半年が過ぎた頃に、店は急に流行りだした。当時世間では地鶏が注目され始めていて、それを上手に使う粋な店として、あるグルメ雑誌に取り上げられたのがきっかけだった。また健康志向で低カロリーだという点もウケた。
店は急に繁盛し出した。狭い店で五つしかないテーブル席は常に空きがない状態だった。それでも暖簾をくぐって顔を覗かせていく客はたくさんいた。大抵は女性の二、三人の組だったが、満席だと分かると残念そうな顔をして帰って行った。
それでである。集客は見込める。二号店は出せる。貴文はそう確信し、一号店から百メートル程離れた場所に店をオープンした。店が急に流行りだしてから、たった四ヶ月後のことだ。が、二号店が開店した頃には既に雑誌の宣伝効果は薄れていた。クーポンサイトに載せる「雑誌に掲載されました」の文言も、効果は薄くなっていた。ただ地鶏と健康志向のブームはまだ下火になってなかったから、客足が途絶えることはなかった。だが、それでも一時のような爆発的な売上は出せなくなっていた。二店舗ともそれなりに繁盛し、それなりに儲かり、常連も何人かはできた。それで売上は維持できた。
「全く……。男の子ってのはケンカばかりしてくれるんだから困っちゃうよ」
長男と次男のケンカを仲裁し終えた純一が戻って来てそう言った。
「でも、俺達だってそうだったじゃない? 子供の頃はさ」と貴文。
「そうだったか? もうちょっと大人しかったと思うぞ?」
「そんなことないよ。結構酷かったよ、純兄はさ。俺、純兄に栗とかぶつけられたことあるよ」
貴文が少し笑って言う。
「栗? うわっ、酷いな、それ。俺、そんなことしてたか?」
「してたよ、してた。棘が刺さってすごく痛かったよ。よく憶えてる」
そうか、済まなかったなと純一が苦笑気味に言う。
長男はもう居間に戻って、一人でポータブルゲームをしている。次男の姿は見えない。蟻の巣はもう片付けられたようで、元の場所にはもうない。
三年前のことだ。しばらく続いていた好景気が瓦解し、一気に不況の波が日本全土に広がっていったのは。巷の景気は急速に冷え込み、貴文の店からも客足が遠のいていった。メニューの価格帯を高めに設定していたのが災いしたのだ。常連の人も店に顔を出さなくなった。客数の持ち直す月もあったが、年単位で見れば売り上げは悪化の一途を辿っていた。
今年になってからはさらに酷い。地鶏のブームが完全に鎮火したのと、若者の間に酒離れが進んだことによって、売り上げはさらに傾いた。特に四月、五月、六月は三ヶ月連続の赤字で、赤字が三ヶ月続いたことはこれまで前例のないことだった。
まずいな、と貴文は思った。このままではまずい、店が潰れてしまう。
二店舗あることが大きく響いていた。開店当初は一店舗だけだったから、赤字ではあっても資金の目減りはまだ緩やかだった。それが二店舗あることで、一月当たりの赤字幅が格段に膨らむようになったのだ。店が流行った時に溜め込んだ資金も、あっという間に半分を切ってしまった。
貴文は焦った。金がいる。店を出し続けるための金が。
それでだ。外国為替取引に手を出した。本当は以前のように株式投資にしようと思っていたのだが、株では利益が出るまでに相当な時間がかかる。それでは遅すぎた。それで手っ取り早く金が入ってくる外国為替証拠金取引、通称FXに手を出したのである。
「純兄、あのさ」貴文が言う。
「ん? 何だ?」
「あのさ……、俺……」
言葉に詰まる貴文を、純一は何となしに見つめる。が、その先は出てこない。
「お父さん」と、純一の後ろから幼い声がする。純一の次男である。
「ゴキブリを殺すスプレーって、どこにあるの?」
「ゴキブリ? ……ああ、殺虫剤のことか。殺虫剤はねぇ……、ほらっ、ちょっとこっち来な」
そう言って純一は玄関の方に行き、次男がそれに付いていく。
あのさ、純兄。貴文は思う。俺、破産するかもしれないんだ。
FXは失敗した。円安基調で素人でもたやすく儲かる相場展開だったから、初めの内は貴文もその流れに乗って簡単に儲けを出すことができていた。客の誰もいない平日の深夜などに、アルバイトの店員に客を待たせておいて、自分一人奥に引っ込んで十銭、二十銭の為替差益を稼ぐのである。だが、FXを始めてまだ二週間と経っていないある日の夜、わずかな時間で貴文は大金を失うこととなった。
「どうした貴文? そんな所に突っ立って。何か探し物か?」
穏やかな父の声が背後からかかる。
「いや、そういうわけじゃないよ」振り返って貴文が言う。
「なら貴文もこっちに来なさい。もうすぐ晩ご飯だから」
「うん。分かったよ、父さん」
たった二十分間のことだった。その日も貴文は店に客が誰もいないのを理由に、一人店の奥に隠れて相場に加わっていた。するとアルバイトの子がやって来て「困った客が来店したので、ちょっと助けてほしい」と言った。その来店客は使えるはずのクーポンが使えないのはどうしてだと文句を付けていたのである。が、そのクーポンは事前予約を済ませてないと使えないものだった。客と粘り強い交渉が続いた。が、最後には貴文が押し切った。客は悪態を吐いて出て行き、貴文は店の奥へと戻った。その間に事は全て終わっていたのだ。ニュース速報の欄には「市場にパニック売り 米大統領がテロで暗殺とのデマが広がる」と出ていた。
晩ご飯が始まった。家族中が二つのテーブルを囲み、楕円を描く。貴文もその円の中で胡坐をかいて座っている。晩ご飯はそうめんだ。
「貴文。商売の方はどんなだ? うまくいってるか?」
父がそう聞いてくる。軽く笑っている。
「ボチボチだよ」
ざるに大盛りのそうめんに箸を延ばしながら貴文はそう答える。そうめんを取り分けつゆに浸し、音を立てて一気にすすり上げる。
どうなるか分からない。資金はもう底をついた。二号店はなくなる。一号店が閉められるのも、はっきり言ってもう時間の問題だと言っていい。三十五歳。全てを失い、ここからまたやり直すには、少し手遅れのような気もする。もしかしたら、自分はこのまま行方をくらますことに、なるのかもしれない。
父はどう思うだろう。これまで散々母に我慢し、大病を患ってまで家族を支えてきた父は、自分が何も告げず行方をくらましたら、一体どう思うのだろう。ただ単に悲しむだけだろうか? 自分の人生より優先してきた息子が、ただの一言もなしに行方をくらましたら、悔しくは思わないだろうか? 自分の人生は、これまでの我慢は一体何だったのだと、悔しく思うのではないか? しかしそれ以上に、息子の苦しみに気付いてやれず、失踪させてしまう自分の父親としての不甲斐なさに、悔しさと情けなさを感じ、自分の鈍感を悔いてしまうのではないだろうか?
「あら。もう無くなっちゃった。やっぱり百グラムなんて、あっという間ねぇ。でも、もっと食べたいし……。いいわよねぇ、今日くらい。お盆なんだもの。お薬も毎日ちゃんと飲んでるんだし」
母の低い声がする。
「止めときなよ、母さん」純一が言う。
「いいのいいの。大丈夫よ、今日くらい」
この女はいい。この女は気遣ってやるに値にしない人間だ。だが、父はどうなる? 純兄は? 和博は? この家族はどうなる? もし自分が無一文で突然失踪したら、この家族はこの先どうなる? 今のこの平和は、一体どうなってしまうというのだ?
「そうだ」
長男が席を立ち「蟻にもエサをあげてこようっと」と言って、小走りに部屋を出て行く。すぐに部屋のドアが開く音がし、続いて「ええー!」という長男の叫び声が聞こえてくる。
「蟻が死んでる」
長男がプラスチックの容器を抱えて持ってきた。容器には水が一杯に張られ、長男が歩くたびに小さく波を立てている。水面には死んだ蟻達が黒い粒となって浮かび、波の動きに合わせて上下に左右に揺れている。どの蟻も微動だにしない。完全に全滅している。
「どうしたんだよ、それ? なぜ水が入ってる?」
純一が厳しい表情で尋ねる。
「分かんない」長男が泣きそうになる。「でも俺が部屋に入ったら、もうこうなってた」
純一がハッとなる。
「ケンスケ!」次男を睨み付ける。「お前だな、やったのは」
ニヤリと、不敵な笑みが、次男に浮かぶ。
蟻の巣が壊された。蟻の巣が。プラスチックの容器には汚れた水と焦げ茶の土、そして巣の住人たる無数の蟻の死骸が、ゴミのように浮かんでいる。次男。そうだ、次男がやったのだ。
次は、俺だ。俺の番だ。この蟻の巣を壊すのは。
貴文はそう考えながらも、また一掴みそうめんを掬い上げ、そしてつゆに浸してズズズっと引きつるように啜り上げた。