六話 かつてのそれぞれのこと
もとの世界での千鶴の仕事は、至って平凡な事務員だった。小さな会社で、ごくごく普通に伝票に埋もれる日々。
とんでもない頭脳もかっこいい立ち回りもできないそんな彼女が、異世界の騎士団でそれなりに一目置かれていた理由。
それはひとえに、ただ一つの特技があったからだ。
「どうも根が深いと思ってたけど、まあよくある話って言えばそうなのかな。どこにでもいるよねぇ、自分を特別だと思って周りに威張り散らす人」
「ふにゃあ……そうなのれすかぁ……?」
適当にはたいたベッドの上に、赤茶の塊が伸びている。
ぐったりと俯せでシーツに顔を埋めた朔は、呂律の回らない声で千鶴を振り返った。とろんと眠たそうに潤んだ瞳に、千鶴はでれでれとだらしなく緩んだ口元を余計歪ませる。
「話してくれてありがとう。ほらほら、力抜いて。ここがいいんだろー?」
「ひゃああ……ちづるさま、はげしいれすー……」
でれんと体を伸ばして、今にも寝そうな声を上げる朔に、千鶴は勝った! と一人満足そうに小さくガッツポーズを決めた。
普通の動物とも、人間とも違う獣人に通じるか不安だった自分の腕前が、ここでも威力を見せた事が嬉しい。
なによりその柔らかくて暖かい毛の手触りの良さに、そのふさふさの背中に馬乗りになって、千鶴はまた容赦なく朔の体を撫でくり回しはじめた。
千鶴の特技。それは、動物へのスキンシップが上手い事だ。
小さな頃から生き物に囲まれて育った千鶴は、それぞれがどこを触れば喜ぶのかを熟知している。
とんでもない数と種類の動物を相手にしてきた上に、もはや動物の毛並みフェチの域にまで達しつつある彼女にとって、彼らがその身体を無条件に差し出してくれる状況は幸せの極みだ。
自然と研究にも練習にも熱が入った千鶴の腕は玄人裸足の代物で、その効果を見て、あるいは自分の体で知ってしまった友人たちからは「いっそ上手過ぎて引く」と大好評だった。
骨格が人と似ているからと、見よう見まねで覚えた人間用のマッサージまで駆使してほぐされた朔は、マントも帽子も取り払い、腰に巻かれたたっぷりとした布一枚の姿で、もはやどうにでもして状態でぐんにゃりとベッドに沈んでいる。
軍に属しているために、気難しい者が多かった駐屯地の動物達すら、「千鶴が見えるとブラシと敷き布持参で行列をつくる」と言わしめた千鶴の腕前は確かだ。
いっそその道に進めばいいのに。きっとあんたならやっていける、と、いつも言っていた友人を思い出して千鶴は小さく笑う。
会うたび酷い肩こりに悩まされて、マッサージをねだってきたあの友人は、自分が今、獣人相手に同じことをしていると聞いたらなんて言うだろうか。
俯せに伸びた朔の首元に、そっと手を添える。耳の付け根から首筋、肩甲骨の辺りまでをゆっくりと摩ってやると、ごろごろと朔の喉が振動するのが手のひらに伝わった。
そこから背骨を通り、大きく円を描くように腰の辺りから背中全体を静かに揉む。毛に逆らわないように腰を撫で、人間より発達した太腿を片方ずつむにむにと揉んでいけば、朔の喉鳴りは大きくなるばかりだ。
膝裏を握り拳で摩り、足先まで撫でてやる。ぷにぷにの肉球と、くすぐったいのか触るたびに開く足の指をさりげなく堪能してから、千鶴は満足そうにその身体から手を離した。
「はい、おしまい。状況は分かったけど、困ったねぇ」
「にゃあー……。別世界が見えましたー……」
「気に入った? 言ってくれればいつでもやるよ。後でブラッシングもするからブラシ持ってきてね」
「わあ、それは楽しみなようなー、ほんのり怖いようなー……それにしても、申し訳ありませんー」
「やだ、朔が謝る事なんかないよ」
友人との懐かしい思い出を横にやって、千鶴は蕩けた目を瞬かせて謝る朔の上から降りる。そのままベッドにあぐらをかいて、朔の毛を梳いてやりながら視線を外へやった。
今から数百年前。まだ大陸に壁が無く、それぞれが平和に暮らしていた頃。
獣人は人間の持つ「魔力」というものが一体何なのか分からず、人間は人間で姿形の違う獣人に一歩引いていた。
人間達は自分の魔力を使って暮らすのが当たり前だったけれど、獣人達にはそれは得体の知れないものでしかない。
一定の距離を保ちつつ、それでもそれなりに交流を持っていた二つの国は、人間達の「魔力」に、歪みができた事からそのバランスを崩していく。
全ての人間が強い力を持っていた時代から、じわじわと魔力を持たない人間が増え始める時代へ。
力そのものが緩やかに衰退し、それに頼らずに暮らしていくように世界が移り変わる中、獣人達が持つ魔力を使わない道具や技術は随分重宝された。
獣人達の中には元々人間好きの者も多かったために、これからは種族の垣根を越えて、より良い国が出来るだろうと思われていた。
しかし、それを良しとしなかったのが、その時代の王と貴族の一部だ。
強い魔力を持つ最後の人間だった彼らは、その力に縋り、魔力を持たない者を見下していた。
権力の象徴でもあった魔法の力を、獣人の技術で覆されるのが我慢ならないと、王は獣人達を迫害しはじめる。
王都を強固な壁で囲み、ラルキアで暮らしていた獣人達は住処を追われていった。品物の流通も止め、国民には獣人は王を襲おうとした反逆者で、野蛮で危険なものなのだと吹聴する。
力の強いものに、今よりもずっと逆らえなかった時代。そんなはずはないと悲しみながらも、ラルキアの国民はそれを受け入れるしかなかった。
謂れのない罪を被せられ、突然街を追われた獣人達は、はじめはなにかの間違いだと訴えていた。
けれど、いくら違うのだと伝えても、帰って来るのは冷たい視線ばかり。そのうち、疲れ切った彼らは心を閉ざしてしまった。
きっと、彼らは今でも怯えている。信じてもまた裏切られるのだろうと。
「仲良くしてた人たちに急に手のひら反されたら、そりゃ荒れるよね。いらん冤罪までかけられてさ」
「だからこそ、獣人族は人が造った壁にー、更に自分たちで造った壁で二重に封をしたんですー」
「途中でランプが変わったのって、そういう事だったんだ……。こりゃ攻略は難しそうだねぇ。昔のアホも面倒な事してくれて! それで、あの、朔、こんな事聞いていいのか分からないんだけど、その、朔は平気なの?」
随分長かったトンネルの中や、そこから出てのやりとりを思い出して、千鶴は一人気まずそうに首をかしげる。そんな彼女の情けない顔に、朔はふんにゃりと丸い眉を下げた。
「わたしは、家付き猫の一族ですからー。ご先祖様は、みんな人と一緒に暮らしていたのですー」
「家付きっていうと、飼い猫……じゃない、同居人? みたいなものでいいのかな」
「そうですー。元々わたしはこの城の雑用係だったんですが、それでお話が回ってきたんですよー」
「そっか。そりゃ、私も運が良かったのかな」
「昔話として、色々な話が伝わっているんですー。三毛トラ腹毛戦争や、人に言えない所までみっちり肉球事件ですとかー。ぶち猫三十匹アフロヒゲの戦いなんか、一族の中でもそれは大人気でー。……だからこそ、獣人の中で言われている人間の姿が、全部本当だとは思えなかったんですー」
糸のように細めた優しい目で、朔はにこにこと千鶴に言う。
過去の獣人族の中には、人と仲良くなろうと自分から向かって行く者も多かった。家付きの一族は、そんな中でも人の側に長くいた者達の呼び名だ。
長く人と共に暮らしていたせいなのか、他の獣人より体が小さく、穏やかな性格の者が多い。
その力の弱さで昔より数は少なくなってしまったが、それでも他の獣人には無い器用さや、ある種の庇護欲をそそる雰囲気に、今でも彼らは力の強い者たちからマスコットのような扱いで愛されている。
そんな説明をする朔の、相変わらずほんのり間抜けな表情に、確かに顔から穏やかオーラが出てる、と千鶴は小さく吹き出して身体の力を抜いた。
ぐるぐると喉を鳴らしながらベッドから降りた朔は、机の上のティーセットを手に取ると、てきぱきとお茶の用意を始める。
ふわりと漂う花の香りは、ロアラの屋敷でもよく出たあのお茶だ。
「朔のご先祖様は、良い人と暮らしてたんだねぇ」
「はいー。今も、良い方と暮らす予定でおりますよー」
「やだ、恥ずかしい事言わないでよ。お礼はブラッシングくらいしか出ないよ?」
「にゃあー、これ以上されたらわたしどうなっちゃうんでしょう……。その腕前は覚悟を決めて後で堪能させて頂きますが、先に夜の宴の準備に取り掛かりましょうー。わたしがんばりますよー」
腕によりをかけて、と茶目っ気たっぷりにウインクする朔に、千鶴も少しだけ顔を赤くして笑う。その言葉が嬉しくて、どう考えても面倒な事にしかなりそうにない宴とやらも、どうにかしてやる! と千鶴は妙な気合いで両手を握った。
しかし、半分自棄のようなその気合いがいけなかったのか、次の瞬間、のほほんとした空気の部屋に響き渡ったのは、千鶴の情けない腹の虫。
「……ドレスの前に、お昼ごはん、お持ちしますねー」
「ごめん……」
「いえいえ。ちょっとお待ちくださいー」
へにゃりとヒゲを垂れさせて、笑いを堪えた変な顔の朔がテーブルを離れた。顔を赤くした千鶴は、かろうじて片手を振ってその小刻みに震える尻尾を見送る。
「……できれば、ごはんの時に腹毛戦争も聞かせて」
小さくテーブルに突っ伏した顔の隙間からそんな事を漏らす千鶴に、扉を閉める寸前だった朔の喉から妙な音がした。