五話 城の中のこと
あの馬鹿兎、横っ面に蹄の痕つけてぎたんぎたんにしてやる! と鼻息荒いフォンをなんとか押し止めた千鶴は、二人が消えた先を見つめて深々と溜め息をついた。
心配そうに顔を寄せたフォンを抱き締めて、その暖かな頬を撫でる。
「フォン、私、とんでもない所に来ちゃったかもしれないね。もふもふが当分フォンだけなんて……干からびる」
「そう仰らないで下さいー。精一杯ご奉仕させて頂きますからー」
「うえっ!?」
本人にとっては一大事の状況に、分かりやすく呆れ顔をしたフォンに縋ってさめざめと泣く真似をする千鶴。
そこに後ろから突然かかった、随分間延びした声に彼女は大きく肩を跳ねさせた。
振り返ったすぐ後ろ、焦点が合わない程近くで細められた銀色の瞳に、千鶴は思い切り仰け反って悲鳴を上げる。
「ああ、すいませんー。昼のうちは、どうもよく見えなくてー」
「い、いえ。すいません……?」
びっくりさせてしまいましたー、と頭を掻くぽやんとした柔らかい声の主は、縞模様の猫だ。
白いシャツに赤のスカーフ、赤いマントと、後は羽帽子でも被せれば長靴をはいた猫になれそうな出で立ち。
猫だというのに垂れた細い目に、額のまろ眉が合わさって、随分気の抜ける顔だ。
「朔と申しますー。獣人族を代表しまして、貴女のお世話をさせて頂きますー。なんなりとお申し付けくださいー。ねずみも捕りますよー」
元から笑っている口元が、余計緩んでふみゃふみゃとのんびりした声を紡ぐのを、千鶴はぽかんと見つめた。
マントと同じ赤茶の長めの毛が、のっそりしたその動きに合わせて風にそよぐ。
しばらく突然現れた二足歩行の猫と無言でにらめっこをしていた千鶴たったが、その背中をしょうがないわね、と呆れたフォンにつつかれ、ようやく意識を取り戻した。
「あの、お世話、ですか」
「はいー。本当はわたし、姫君のお世話なんてお受けできるような者ではないのですけどー。鳥なら捕れますけどねー」
「姫君……ええと、私そんな偉いものじゃないので……。千鶴と呼んで下さい」
「はい。千鶴さまー。良いお名前ですー。しかし、お呼びしたのはこちらだというのに、こんなお迎えになってしまってごめんなさいー……」
「貴方が謝る事なんてないですから! あああヒゲを萎れさせないで下さい……!」
わたわたと両手を振って、ぺこりと頭を下げた猫、朔に焦る千鶴だったが、朔は悲しそうにしょんぼりと丸い眉を下げる。
その表情に、少しだけ先程の兎のせいで荒れていた心がやわらいだ。まじまじ見るとどうも脱力する顔の朔に、小さく笑いが漏れる。
ちょっとへちゃむくれたその顔が、可愛らしくてしょうがない。
「むしろ、こちらこそ色々とごめんなさい。よろしくお願いします」
「もちろんですー。えへへー。千鶴さま、良い方ですー」
「お近づきの印にって言うのも可笑しいんですけど、あの、その、握手していいです……?」
「あっ、千鶴さまー、私の肉球狙ってますねー。どうぞー」
気が抜けたせいで、いつもの調子を取り戻し始めた千鶴は、わきわきと両手を動かして朔に迫った。
きゃー、と欠片も困っていない悲鳴を上げて、朔もそれに乗る。
千鶴を気遣ってくれいている様子が端々から受け取れる朔の優しさに、千鶴はその肉球を堪能しながらほっと肩の力を抜いた。
これならやっていけそうかも、と、これからの生活に前向きになろうとした千鶴。しかし、その耳にフォンの低い鳴き声が飛び込んだことで、その場の空気はまた冷たいものへと戻ることになった。
「いつまでじゃれているつもりだ」
「あわわ、申し訳ありませんー。千鶴さまー。参りましょうー」
「うわ!?」
がぽり、と重い蹄の音をたてて、千鶴たちの間を裂くようにきつい声がかかる。
一瞬後、朔との間に差し込まれたのは、がっしりとした馬の脚。そこから視線を上げていくと、冷たく細められた赤い瞳と目があった。
呆れたようにこちらを見下ろしているのは、半人半馬のケンタウロス。
機嫌悪そうに前足で土を蹴り、両手を組んで自分を見下ろしている神話の中の生物に、千鶴はだらしなく口を開けて固まった。
青い軍服を几帳面に着こなしたその顔は、義理の兄、アントラにも負けず劣らずの美人ぶり。その上それを支えているのが、ため息が出る程美しい馬体とあって、いっそ千鶴はその冷ややかな視線も気にならないほど釘付けになっていた。
しかし、そんな事とは知らないケンタウロスは、何も答えない千鶴に一際強く地面を蹴りつけて眦を吊り上げる。
「愚図の上、我が同胞にこのような仕打ち。やはり人間とは相容れぬ。朔、あまりそいつに近寄るな」
「え……?」
「このまま蹴り飛ばしてお帰り願いたいものだが、そうもいかぬ。早く歩け。王をお待たせするなど言語道断だ」
凍えた声で踵を返したケンタウロスの視線の先には、千鶴の荷物を背に乗せたフォンがいた。
どうやらその荷物と、身体に付けられた馬具が気に入らないらしい。
フォン本人はじろじろと眺められることが嫌だったのか、伸ばされたケンタウロスの手から嫌そうに距離を取る。
見るんじゃないわよとばかりに千鶴の影に顔を隠し、八つ当たりに鼻息で彼女の髪をぐしゃぐしゃにするフォンに、思わず苦笑が漏れた。
ぎろりとひとつ千鶴を睨みつけたケンタウロスは、数歩トンネルの方へと戻ると、その壁についた巨大なハンドルを軽々と片手で下へ降ろす。
トンネルの中から聞いた歯車の音はここから来ていたのか、と、千鶴は地響きを立てて閉じていく柵を見て瞬きをした。
そんな千鶴に、わざと見せつけるようにその怪力を示したケンタウロスは、そっぽを向いたまま二人を追い立てて足早に歩き出す。
「近衛隊隊長の白羽さまですー……。とても、お優しい方なんですが……その」
「ああ……融通は利かなそうで……」
遠くに見える城へと続く、花の咲き誇る道を一塊になって歩きながら、じりじりと睨みつけられて縮こまる千鶴に朔が耳打ちをする。
聴こえているぞとばかりに頭の上にある細長い耳を振るケンタウロスの騎士を、千鶴は恐る恐る振り返った。
フォンへの気遣いといい、朔へかけた言葉といい、きっと良い人なんだろうとは思うが、生憎千鶴にその優しさは欠片も向かないらしい。
むしろ、視線で穴があけられるなら、千鶴はそれこそハチの巣になりそうだった。
「前途多難、ってところかな」
おろおろとこちらを伺う朔に悪いと思いつつも、がくりと首を項垂れて、千鶴は思わず小さくため息をついた。
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「朔、お前はそれの案内を。私はこちらの方をお連れする」
突き刺さる白羽からの視線と、なんとか場を和ませようとした朔の涙ぐましいから回った元気のよさに、いっそ千鶴の胃が痛みだした頃。
ようやく巨大な城の門に辿り着いて、気疲れから肩で息をする千鶴を顎で指した白羽は、その表情を一変させてフォンに向き直った。
どんな女性もこの微笑ならいちころ間違いなしの、とろける様な完璧な笑顔。芸術品じみた白羽の美貌によって、威力は三割増しだ。
「ああ、フォンは一緒には入れないか……お願いします。フォン、また後で顔出すから、大人しくしててね」
数歩進むたびにちくちく呟かれる嫌味からのこの手のひら返しに、そろそろ千鶴も苛立ちを通り越してため息しか出ない。
とりあえず、脳内でその爽やかな微笑みに目つぶしをしかける妄想だけはしておいた。
けれど、笑顔を真正面にしても、フォンは千鶴と同じかそれ以上に機嫌が悪い。そんなフォンの頬をひとつ撫でると、千鶴は少ない荷物を背から下ろし、その口元に取り付けられた手綱を解いた。
おろおろ自分を窺っている朔のためにも、流石にここで一悶着起こすわけにはいかない。
引き攣る千鶴の顔を鼻で笑った白羽は、貴族の令嬢をダンスに誘うように、前足を折ってフォンを招く。
キザったらしい仕草だが、顔が良いだけに嫌味なくらいに様になるその様子に、千鶴は眉間に寄せていた皺を少しだけ薄くした。
「まあ、フォンは大歓迎されてるみたいだし、ここは悠々自適に暮らせるいいところかもしれないねぇ……。それだけはここに来て、よかったかも」
「確かに、この御嬢さんだけが来るのだったら、どんなに良かったことか」
小さく漏れた千鶴の声に、反応した白羽がここぞとばかりにきつい言葉を投げる。
冷ややかな視線とその暴言に、とうとうフォンの堪忍袋の緒が切れた。
「な、何をなさる!?」
「うわ、ちょっとフォン!? やめなさい!」
唐突に風を切ったのは、重い蹄の音。
前足を片方折って頭を下げた白羽の脳天に、凄まじい勢いでフォンの前足が振り下ろされていた。
間一髪で飛び退いた白羽を庇うように、千鶴は泡を吹く勢いで嘶くフォンの前に立ちふさがる。
元々フォンは駐屯地でも、並ぶ者のいない暴れ馬の代名詞だ。どう見ても目が「死ね優男!」と訴えている恐ろしい形相のフォンに、千鶴の方が焦りに目を見開いた。
金色の鬣を振り乱し、着々と白羽の顔面を後ろ脚で蹴り飛ばす動作に入っている彼女がこれ以上本気を出したら、大惨事では済まないかもしれない。
「すごーい。白羽さまが押されてらっしゃるー」
「朔さん今そこ感心するところじゃない! ああもうフォン! 頼むから落ち着いて! 来て早々私をお尋ね者にしないでー!」
このケンタウロスさんお偉いさんだから! と、この顔見たら110番! のフレーズと一緒に貼り出される自分の顔写真を想像して、千鶴は悲鳴を上げた。
どうにか宥めようとフォンの胸にしがみ付く千鶴には、生憎馬語は分からない。けれど、間に入った彼女を押しのけて、フォンが必死で何かを言い募っているのは分かった。
飛び掛かるのは思いとどまったらしく、それでも苛々とその場で足踏みを始めたフォンからそっと離れると、危うくとんでもない大惨事の被害者になる所だった白羽が、呆然とフォンを見つめているのが目に入った。
驚きに歪んだ顔がフォンの言葉に何度か自分の方を見る。その度、頑なだった雰囲気が戸惑いに変わり、白羽は最初の剣呑さを徐々に消していった。
そんな様子を間近で観察する羽目になった千鶴は、一体フォンは何を言っているのかと段々不安になってくる。
「…………そんな事がこの人間に……? そこまで言うのなら……しばらくは……」
そのうち話がまとまったのか、渋々顔を背けた白羽はバツが悪そうに尻尾を一振りすると、門に背を向けて歩き出した。
「え、なに、何言ったのフォン」
状況が飲み込めずに、何故かやりきった顔をしたフォンと白羽を交互に見つめる千鶴。
そんな千鶴にはなにも教える気がないのか、フォンは早く行けとばかりにその背中を鼻づらで強く押すと、自分は優雅な足取りで白羽の後に続いた。
「なんなのあの暴君……」
「千鶴さま、慕われておいでなんですねー。凄いですー」
「朔さん今の会話? もどき分かったんです?」
「わたしに敬語なんてお使いにならなくて良いですよー」
「いやだから今注目してほしいのはそこと違う……! ああもう後にしよう後に」
にこにことどこかずれた朔の言葉に脱力して、千鶴は深々とため息をつくとその顔を正面の扉へ向ける。
どうも朔には話す気がないらしいが、そのうちなんとか聞き出してやる、と、ひとまず彼女はその話を置いておくことにした。いつまでもここで立ち往生している訳にはいかない。
白羽の態度の変化から見て、フォンは恐らく何か、千鶴にとって良いきっかけになるような事を言ってくれたのだろうか。
「千鶴さまー、参りますよー」
「なんにしろ、私も頑張らないとかな」
その彼女の応援に応えようと、千鶴は一つ大きく息を吸うと朔の後に続いた。
一歩足を踏み入れた城内に、千鶴はぽかんと口を開けて思わず声を上げる。
継ぎ目の分からないくらいに磨き上げられた漆黒の石に、金色で月の文様が刻まれた床。そこに吹き抜けの天井いっぱいにつくられたステンドグラスが七色の光を落としている。
正面にある巨大な階段と、左右に伸びる回廊には、柱や手すりにびっしりと細かな彫刻が施されていた。
ラルキアの王宮のように派手な色合いでないおかげで、余計にその技術の高さがよく分かる。
獣人の国らしく動植物のモチーフが多い飾りは、ひとつひとつが悶絶するほど愛くるしい。階段の手すりにちょこんと乗った猫の像を眺めるだけでも、千鶴は一日暇を潰せるだろう。
「凄い……綺麗」
「ソラント国最高峰の職人たちが腕を振るった王宮ですー。お嫌でなければ、お部屋までちょっと遠回りして色々お見せしますよー」
「是非!」
褒められたことを自分の事のように喜んでいる朔が、にこにこと千鶴の手を引いた。
まるきり観光客のようなノリで興奮気味にそれに頷いた千鶴は、その後、寄り道を心底後悔することになる。
「こちらが、千鶴さまのお部屋になりますー。お疲れ様でしたー……」
「うん。ありがとう……朔も、お疲れ様……」
城の中心から少し外れた三階つきあたり。へろへろと最初より余計声に力の無くなった朔が、今まで通ってきた部屋より随分こぢんまりとした扉を開いて笑った。
そのなんとも言えない困り顔に、千鶴は部屋の中を見回して同じような顔をする。
ロアラの屋敷の一室よりも、格段に広い部屋。しかし、室内にはどんよりと重たい空気が溜まっていた。
白磁のティーセットが置かれたなんの装飾も無い木のテーブルと、同じ色の小さな椅子が二脚。古びた色合いのソファがひとつ。隅に置かれたベッドの天蓋と、床に敷かれた無地の絨毯は少し色がくすんでいる。
今まで見てきたような装飾の類はほとんどなく、微かに鼻をくすぐるのは埃の匂いだ。
「本来、こちらは妃のお部屋ではその、ないんですがー……」
「やっぱり? とりあえずの体裁は守るってところなのかな。そんな体裁いいからもっと狭い部屋でもいいのに」
「千鶴さま変わってらっしゃいますねー」
「そうかなぁ。元が貴族じゃないし、広い部屋って落ち着かなくて」
奥の壁いっぱいにつくられた大きな窓を開けて、中の空気を入れ替えながら千鶴は苦笑する。
その笑顔に色々と思い出したのか、お茶の用意をしていた朔はぺたんと耳を伏せた。
入口の先へと続く長い廊下を進む千鶴と朔が鉢合わせたのは、あちこちからの視線だった。
部屋の中、廊下の隅、階段の途中。
好奇や嫌悪、奇異も全て入り混じって、不躾なそれが千鶴を射抜いた。
ちらちら視界に入る沢山の豪華な衣装とその視線のうっとおしさを前に、流石の千鶴も悠長に朔の説明を聞いてる余裕は無い。
結局そそくさと寄り道を切り上げてこの部屋まで逃げてきたが、視線と押し殺した嫌な気配は最後まで纏わりついて、千鶴も朔も疲れ果ててしまっていた。
「朔さん、なんだったのあのきらきらした軍団」
「多分、花霞さまが今夜の宴にご招待された貴族の皆様だとー……」
「はなか? 誰それ」
「お迎えの時にいらした、兎族のあのお方ですー」
「ああ、あのつんけんした人そんな名前なの? 可愛い顔してとんでもないねあの腹黒。夜からの宴にこんな早くからいてもしょうがないのに、絶対こうなるように仕向けたんだろうなぁ……」
窓からの柔らかい風にひとつ伸びをして、千鶴は呆れたように朔を振り返る。笑顔に失敗しておかしな顔をした朔に、千鶴は肩を竦めて並んだ椅子の片方に腰かけた。
「あの兎はいつか、頭のてっぺんからカーペットコロコロするやつ転がして、嫌って程ぶうぶう泣かせてやるとして」
「千鶴さまー、飄々としてますけど実は割と怒ってらっしゃいますー?」
「それで朔さん、なんで獣人と人間ってこんなに仲悪いのか、教えてくれる?」
「え、あのー、その、やっぱり言わないと、ダメでしょうかー……?」
しょぼんと髭を垂らした朔に、テーブルに肘をついた千鶴はにこ、と優しい微笑みを向ける。
城の前で落ち込んだ時の慌てぶりとは違うその態度に、嫌な予感でも感じたのか、距離を取ろうとした朔の肉球を掴んだ千鶴は、満面の笑顔。
「教えてくれたらご褒美あげるから。ね?」
実は静かに我慢の限界が来ていたらしい、いっそ菩薩の様に穏やかな表情の千鶴に、死んだかもしれない、と朔は半泣きで首を縦に振った。