幕間 とある兄の思い
「妹できたから帰ってらっしゃい」
三年前のあの日。ただ一言、そう書かれた手紙が駐屯地に届いた時の、私の心境を察してほしい。
破天荒で子供がそのまま大きくなったような人で、どうしようもなくどうしようもない。
私の母に対するイメージは、幼い頃からこれに尽きる。
ラルキアの首都。リデンの大貴族、カトレアの家に生まれて早二十数年。物心ついてすぐに父が亡くなってから、その家を切り盛りしてきた母。
「貴族界の狐」の異名を持ち、時に冷淡にすら思える大胆さでカトレア家を更に大きくしていくその手腕は尊敬すらしている。
けれど、流石にこの時ばかりはとうとう頭が沸いたかと、突然荷物をまとめ始めた私に驚く部下の声も無視して家まで飛んで帰る事になった。
数週間ぶりに帰った我が家は、別段変わりも無いように見えた。
しかし、にこにことやたら楽しそうな使用人たちが、廊下を進む私を見つけては口々に言う。
「お帰りなさいませ! 奥様は二階の客室でございますよ」
「アントラ様、早くチズル様にお会いして下さいませ! とってもお可愛らしい方ですから」
「なんでも星跨ぎなんだとか。数日前に奥様がお連れになってらしたんです」
「一体いつの間にそんな話になっていたんだ……」
自分一人蚊帳の外で、一体何が起きているのか。聞けば聞くほど分からなくなっていく状況に、げっそりしながら吐けるだけ息を吐いて、言われた部屋の扉を開いた。
豪華な部屋の中には、何故かきらきらと目を輝かせて奥の扉を見ている母、ロアラと、半分泣きそうな顔で書類に判を押している執事長がいる。
それ自体はわりとよく見る光景だったが、異様に母が嬉しそうな事だけは見て取れた。
「母上、一体何事です?」
「あらアンお帰り! ちょっと待ってね。今とびきりのやつ渡したところだから!」
「とびきりでもなんでも構いませんから、説明をして下さい」
「ほんとにね、すっごく可愛い子なのよー」
「せめてこちらを見て下さい母上」
ばんばんと自分の座るソファを叩いて、視線は扉に固定されたまま。私の質問には答える気が無いらしい母に、つかつかと近寄ってその視線を遮る。
強引に興味をこちらへ向けさせて、さてどこから聞こうか、と身構えた所に出てきたのが、妹――チズルだった。
過去にこの地に「星を跨いで」来た人々は、総じて少年や女性、子供といった、非力な者ばかりだったらしい。
そのかわりのように、彼らはいつも、この世界に新たな変化、新しい時代をもたらしてきたのだと、小さな頃読んだ本には書かれていた。
小柄で見た事の無い顔立ちをした少女。幼い顔に似合わず、少し低めの声と仁王立ちの凛々しい立ち姿がやたら印象的で。
話してみれば礼儀正しいのに表情がくるくるとすぐ変わるのが面白い。確かに、母や使用人が言うように可愛らしい子だ。
身振り手振りを交えて一生懸命話す姿も、時々こちらを見て気まずそうに赤い顔を逸らすのも、微笑ましいというか、見ているとどこか和む。
その後の王への謁見で、意志の強さと思慮深さを垣間見た事で、彼女への元からほとんど無かった不信感は、きれいさっぱり消えていた。
「なんというか、素直で良い子だねぇ。うちの息子とは大違い」
「まるきり子ども扱いしてらっしゃいますけど陛下、あれでチズ嬢、とうに成人しているらしいので、控え目に」
王もそんな姿を気に入ったのか、あるいは以前から言っていたように娘が欲しかった願いが叶ったからなのか、私も驚いたチズ嬢の年齢に目を剥きながらも、懲りずにまた来るようにと散々念を押していたのが少し可笑しい。
本にあるのはやはりおとぎ話で、ここにいるのは小動物を微笑ましく見守っているような気分にさせる、そんな穏やかなただの少女だと思っていた。
「副団長! お連れの嬢ちゃんが馬場で……!」
職が欲しいと言われて連れて行った駐屯地で、暴れ馬を引き摺り倒す荒業を披露している彼女を見るまでは。
まったく、本当にひと時だって目を離していられない。
思わず後ろから抱え込んでしまって、自分でも自分がどうしてこんなに驚いているのがよく分からなかった。
けれど、ふにゃふにゃと嬉しそうに馬を撫でる姿を見て、ああ、しょうがないな、とよく分からないが体の力が抜ける。
そう。しょうがないのだ。この子のことを、可愛らしいと、守りたいと、甘えてほしいと思ってしまったのだから。
それからの三年間、毎日が楽しくて仕方なかった。
ちょこまかとよく働き、大好きだと常々言っていた動物達にも、駐屯地の捻くれた兵士達にもいつも全力で向き合っていた可愛い妹。
いつまでたっても私の顔に慣れないのか、会うたび部下に気持ち悪いと言われるまでめいっぱい甘やかしても照れてばかりだった。
生まれて初めて経験する、穏やかで騒がしい毎日。誰もがその確かな変化を気に入っていたように思う。
そんな日常をもたらした彼女は今、高い高い壁の向こうにいる。
それが運命だとでも言うのか、計ったように獣人の国からもたらされた要求に、彼女は二つ返事でここを離れてしまった。
王から王への国書以外、辿り着くかも分からない隣国。数百年閉ざされたままの扉の向こうで、見送る事も出来なかったチズルはどうしているだろうか。
「副団長! 王陛下がお呼びです」
「ああ。今行こう」
遠くに見える壁から視線を外して、王の待つ謁見の間に足を向ける。歯痒いが、せめてあの子の安全を願い、王に国書を認めてもらう他に、私に出来ることは無いのだ。
国の王族同士、どう考えても、離縁することなどほぼ不可能だろう。理性ではよく分かっている。
それでも、いや、それならばこそ、もっと盛大に送り出してやりたかった。
幸せいっぱいの賑やかな祝いを、溢れるほど受けさせてやりたかった。
いくらチズルが、本当に花嫁として望まれているわけではないからと断ったからといって、それならむしろ無下に出来ないように国を挙げて祝ってやればよかった。
あまりにチズルと母の行動が早すぎて、どうしようもなかったけれど。
せめて、里帰りくらいは許してくれないだろうか。出来ることなら、帰って来てほしい。皆、きっとそう願っている。
このまま壁に隔たれて、二度と会えないなんで耐えられない。
なにより私はあの子にまだ、お兄ちゃんと呼んでもらっていないのだから。
ひとりっこのアン兄さんは、その反動でシスコン街道まっしぐらです。