四話 嫁いだ日のこと
リデンの一の郭、騎士団駐屯地には、カラフルな頭の中に一人、真っ黒いしっぽ頭が混じっている。
「チズ! アン副長が呼んでるよ」
「今日も良い毛並みだねえへへへへ……」
「おーい、チズ? とんでもない顔になってるとこ悪いけど、せめてこっち向きな」
兵舎の入り口にだらんと伸びた猟犬の腹をわさわさ撫で回しながら、しっぽ頭を跳ねさせて千鶴は渋々だらしない顔を上げた。
「執務室にいるから、早く行ってやんな。全く、あんたの動物好きは本当に病気だね」
「そんな、姐さん照れる!」
「ひとかけらも誉めてないよ……。その毛まみれの顔と服、ちゃんと叩いてから行きなよ」
腰に手を当てた馴染みの女騎士が、呆れた顔でひらひら手を振って歩いていく。
遠ざかるその背中を見送って、千鶴は体中についた毛をはたき落としにかかった。
まだ撫でられ足りないのか、足元の犬がぐいぐいと自分の膝裏に頭をぶつけて遊ぶのを、千鶴はうっとりと眺めて幸せを噛みしめる。
「呼ばれているみたいだから、また後でね」
千鶴の知る犬より随分大きく、巨大な狼のようないかつい顔をした猟犬は、名残惜しげに尻尾を一振りすると、聞き分けよく兵舎から離れていった。
それを眺めるついでに辺りを見回せば、そこかしこから兵士の掛け声とともに動物たちの声が聞こえる。
千鶴の方を見て口だけで鳴く親猫の尻尾にじゃれつく、大型犬サイズの子猫。頭上を掠めて飛んでいく、片手に到底乗らない巨大な鷹。
日陰にとぐろを巻いた大蛇が千鶴を認めて舌を出し、厩から顔を出した馬たちが足を踏み鳴らす。
千鶴の知る動物達よりもだいぶサイズが大きい者が多いが、人懐こさはなんら変わらない。可愛らしい仕草に自然とにやける顔をなんとか引き締めて、千鶴は兵舎の中へ足を向けた。
ドレス姿で千鶴が大立ち回りを繰り広げたあの日から、もうずいぶん経つ。
最初は遠巻きにされていた千鶴も、ほんのり抜けたその性格と、ちょこまかとよく働く姿が認められてか、しばらくすればその輪の中にすんなりと馴染んでいた。
駐屯地中の動物に名前をつけて、暇さえあればその毛玉や鱗にうずもれて、幸せそうにあちこち撫でまわしている千鶴の姿は、今ではここのちょっとした名物だ。
「アン様、お帰りなさい。どうしました?」
「アンでいい。……チズ、そろそろこのやり取りにも飽きたんだが、いつになったら兄と呼んでくれるんだい?」
「はは……それはまた追々……。ご用件は?」
「そろそろ素直になってくれてもいいのに……。まあいい。要件だが、王陛下がまた近況を聞かせに来てほしいと仰っていてな」
執務室で待っていたアントラは、迎え入れた千鶴をほんのり拗ねた声色でからかう。最近大きな仕事が入っていたのか、彼の姿を見るのは久しぶりだ。
義理の妹になってからかなり経つのに、未だに兄と呼べないのは、その美青年ぶりにここ数年で余計磨きがかかったせいだろうか。
誤魔化すように笑った千鶴は、アントラの言葉にこくりと頷く。そういえば、アントラについて王に報告を兼ねた世間話を頼まれるのも、久々のことだ。
「ここの所、ごたごたが多くてな。話したい事が沢山あると仰っていた」
「ああ、もしかして、お隣のソラントとの話し合いの事ですか」
「知っていたか。駐屯地ともなると噂の広まりも早いな……。その通り。なんとかここ二年で、親書のやりとりまでこぎつけたが、どうやら話がその先に進んだらしい。おかげで私まで引っ張り回されて大変だよ」
「進展があったなら、良かったじゃないですか」
「……そう、だな。さて、今から向かっても構わないかい?」
「今日は確か午後からお休みですので、平気です。あ、でも、流石にちょっと着替えてきますね。こんな姿では流石に陛下にお会いできません」
「また猟犬にじゃれついていたね? 程々にしないと、そのうち着られる服が無くなるよ? 待ってるのは構わない。門の前にいるから、着替えておいで」
自分の体を見下ろして、恥ずかしそうに首を傾げた千鶴は、優しく微笑んだアントラに背を向ける。
その後ろ姿を、彼が悲しそうに見つめていたのには、最後まで気が付かなかった。
****************
千鶴が通されたのは、普段使われていた、あの謁見の間ではなかった。
謁見の間より狭く、かわりに高級さと居心地の良さが上がったその部屋は、どうやら王の執務室らしい。
立ち上がれなくなりそうな程沈むソファに腰かけて、千鶴は目の前の王の顔を呆然と見つめていた。
「陛下、今、なんて……?」
「すまない。チズル嬢。君にしか頼めないんだ……」
ついさっき、嬉しそうに自分たちを迎え入れて、他愛も無い話に相槌を打っていた王が、千鶴に向かって深く頭を下げている。
瞬きを繰り返す千鶴に、王はもう一度、低い声で告げた。
「隣国ソラントへ。獣人の王の元へ――嫁いで欲しい」
ラルキアと大陸を二分する、獣人の国、ソラント。遠い昔に高い壁で隔てられたその国と、もう一度国交を結ぶため、王はあらゆる手を尽くしてきた。
獣人達との間に溝ができたのは、彼らが持たない魔力を、恐ろしい未知の能力を、人間が持っていたからだ。
炎や水、空間や時間すら操るような、途方も無い力を多くの人間がまだ持っていた頃。それを恐れて獣人達は壁の向こうへ消えてしまった。
人間達がとうの昔にそんな力を無くした今、二国を隔てるものは無い。幼い頃母に読んでもらった昔話のように、分け隔てなく暮らすことができたなら。
千鶴が来た年。その想いを後押しするように、いつも読まれる素振りすら見られなかった伝書用の鷹に括り付けた親書が、初めて消えた。
二年目。ラルキアからの一方的な親書に、時折月に吠える獅子の国章が押された紙が返されるようになった。
そして三年目。ソラント王のサインが入った、短い親書が鷹の足に括られていた時は、思わず床に座り込みそうになったほどだ。
「あちらの王も、この高い壁を取り払う事に、否やはないようだった。そう、思っていたのだが……」
「一週間前、ソラントから……この親書が届いた」
後ろに控えていたアントラが、千鶴に親書を差し出す。
力強く、流れる様な美しい文字が綴られたそれを見れば、礼儀正しい挨拶の後に、とんでもない文が続いていた。
「和平への足掛かりとして、ラルキア王国王族を、我が妃として迎えたい……?」
「しかも、魔力を欠片も持たない者が望ましいときた。すまない。これは私の落ち度だ。星跨ぎは魔力を持たない。それがこの世界の常識だ。チズル嬢の……幸運の星跨ぎの来訪が、きっと和平の足がかりになってくれるだなんて、ほんの少しでも書かなければ……」
「こんな……こんな、私の妹を生贄に要求するようなことを、よくもぬけぬけと……!」
項垂れ、拳を震わせる男二人を交互に見つめて、千鶴は引きつった顔を親書から離す。
星跨ぎはその身の保護のために、王族として迎えられることは珍しくないという。
だからこそ、獣人の国は千鶴もそうだろうと踏んでこの親書を出した。
そして、その予測はありがたくないことに当たってしまっている。ラルキア王族は王とその息子、そして従妹のロアラと息子のアントラ。年頃で未婚の女といえば――義理の娘、千鶴だけだ。
無意識に、ごくりと千鶴の喉が鳴った。
「チズル嬢、カトレア卿が話せと言うから話したが、この話は無かった事にしようと思っている。国の為などと言って、こんな事を強要出来るはずがない。ソラント王は、我々が思っていたような人物ではないのかもしれん」
「ソラントとの国交は、別の方法を考えることになった。それでも駄目なら、あの扉は閉ざしたままの方がいい。こんな事を平然と言う王が、和平を望んでいるなどとは……」
首を振って言い募る王とアントラは、千鶴の瞳が悲しみではない色をしている事に気付いていない。
深刻な顔で今後を話し合う男二人を後目に、千鶴は親書を握りつぶさないようにする方に忙しかった。突然嫁に行けなんて言われたのには驚いたが、今はそれよりも聞かなければいけない事がある。
「あの、ソラント王って、どんな方なんでしょう」
「獣人というのはやはり……え? ああ、話だけしか聞いた事はないが、ソラントの王は代々獅子だ。国章も、それを模したものだからな。親書の文からしても、思慮深く、慈愛ある善い王だと思っていたのだが……チズル嬢、どうしたんだい?」
「おい、まさか、チズ」
「獅子……ライオン……王陛下、私、行きます。いいえ。行かせて下さい是非!」
困惑気味の王の言葉に、千鶴はとうとう手の中の親書を盛大に握りつぶした。慌てて止めに入ろうとしたアントラも、今度は自分が口を開けて絶句する羽目になった王も置いてけぼりで、千鶴はきらきらと目を輝かせてソファから立ち上がる。
「行きます! 獣人の国!」
病気とすら言われる動物好きの千鶴には、ある夢があった。
「ライオンの肉球、枕にするのが夢だったんです!」
とんでもないことを言い出した彼女の頭上に、数秒後、アントラの鉄拳が落ちた。
いくらアントラに拳骨を食らおうが、王が説得しようが、千鶴の意志は変わらなかった。
なぜか全面的に協力する気満々のロアラを先頭に、あれよあれよと日取りが決まり、荷物が纏められ、親書の到着から二週と経たずに千鶴は一の郭の外、巨大な門の前に立っていた。
「チズ、これで最後だ。……本当に、独りで行っちまうのかい?」
「ありがとう。姐さん。うん。大丈夫。きっとなんとかやっていけるよ」
近場に旅行に行くような、ほんの少しの荷物を馬の背に乗せて、千鶴は眉を下げた女騎士に力強く頷く。
どうせ形だけだからと、ドレスも着ていなければ嫁入り道具も無い。
本当に普段、仕事をしている時と同じ格好の千鶴に、女騎士は何か言いたげに二、三度口を動かしたが、結局、ぽんと肩を叩いて離れていった。
無理矢理にでも一緒に着いて行くと、彼女がずっと怒ってくれていた事を、千鶴は知っている。
それでも、望まれたのは自分一人だと、千鶴は一切の同行を断っていた。
自分が行けば、ほんの少しでもこの国で世話になった人たちに恩返しができる。
自分でも物語のヒロインのような思考をしていると笑ったが、そんな思いもあって、千鶴はロアラの手を借りて、もっと盛大に送り出そうとしてくれたアントラや王を押し止めた。
なにより、自分は本当に花嫁として求められているわけではない。
結婚願望は特に強くはなかったが、それでも人生に一回の晴れ舞台だ。ちゃんと望まれて嫁ぐわけでもないのに、おめでとうと祝われるのもなんだかおかしい気がする。やるならしっかりと、本当に祝われたいと思ったときにしたい。
誰にも言わなかったが、千鶴にもほんの少し、結婚式に憧れる気持ちはあるのだ。
最後まで認めないと荒れるアントラや一の郭でも仲の良かった兵士たちは、千鶴のそんな気持ちを汲んでか、その場から動けないように王の命で式典に駆り出されている。
この場にいるのは、本当に一握りの友人だけだ。
それでも、千鶴には後悔など無い。獣人という存在に、一目でも会ってみたかったから。
「それじゃあ、もう行きます」
「うふふ。幸せにね、チズ」
「はい、奥様」
「良い返事で頼もしいわねぇ。ちゃんとお手紙、書いて頂戴よ!」
いつにも増してテンションの高いロアラに頷き、古い魔法によってひとりでに開いた柵の向こう、丸く切り取られた闇に、千鶴は一人足を踏み入れた。
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「案外、中に入ると明るいね。フォン、足元気を付けてついて来てね」
白いベールを揺らして、千鶴は隣を歩く馬の顔を見上げる。
ぽこぽこと軽い足音を立てている愛馬は、当然だとでも言うようにその大きな顔を千鶴に摺り寄せた。
彼女は、あの最初の日に千鶴が引き摺り倒した牝馬だ。
あの後から、千鶴を主と認めたのか、はたまた危なっかしい妹分とでも思っているのか、べったりと傍について離れず、結局千鶴の馬としてここ数年いつも一緒にいるようになっていた。
「この灯り魔法で作ってるのかな? 近付くと勝手につくなんて便利だね」
千鶴の声に同意しているのか、こくこくと首を縦に振る賢い彼女。この嫁入り騒動でも、置いて行こうと思っていた千鶴の考えを読んで、「そんなこと許すとでも思ったの!?」と容赦なく頭を齧ってきた。
まるで面倒見の良い姉のようなフォンの存在は、千鶴の不安を随分和らげてくれる。
和気藹々と会話しながら、二人は寄り添って長い長いトンネルを進んでいった。
「それで、執事さんがね……。あれ……? これ、なんか灯り違う?」
そろそろ長い道のりも半分過ぎただろうかといった頃、ふと首を上に向けた千鶴は、吊るされたランプの形と、その中で燃える炎が今までと違う事に首を傾げる。
よく見知った赤色のそれに、千鶴はいよいよ目指す場所が近付いてきたのかと足を速めた。
しばらく夕焼け色の薄暗い道を歩くと、徐々に白い光が近付いて来る。格子状に遮られたその光の先に、黒い人影が二つ立っていた。
徐々に浮かび上がる、檻の様な柵の向こうを、暗闇に慣れた目を細めて見つめる。
「おやおや。本当にいらっしゃるなどとは。これまた随分みすぼらしい姫君で」
「……はじめまして」
大小二つの影のうち、小さい方から甲高い声がした。いかにも小馬鹿にしたその声色に、ぴくりと眉が引きつるが、ここで怒る訳にもいかず、千鶴は小さく頭を下げた。
予想通り、いや予想以上に歓迎されていない。そもそもこんなすっ飛んだ要求をしてくる時点で、ある程度は予想出来ていたが、それでもどこかで歓迎してくれる事を望んでいたのだろうか。
唇を噛んだ千鶴の顔が、あちらからはよく見えているのか、はん、と鼻で笑う気配とともに、小さい方の影が手を上げる。
どこからか歯車の回る音が響き、千鶴の前にあった鉄格子が開かれた。
苛ついて足踏みをするフォンを宥め、千鶴は明るい外へと歩を進める。ようやく光に慣れた千鶴の目に飛び込んで来たのは、二人の獣人だった。
「本当に徒歩でいらっしゃるとは。人の国というのは、嫁入りが随分質素なのでございますねぇ」
「私が無理を言って、控えて頂いたんです」
小さい方の影、兎の獣人が、思わずといった風に吹き出す。緑の瞳に白い毛並。ぴんと立った耳にもひもひ動く愛くるしい口元を、厭味ったらしい微笑みで彩ったその姿は、可愛いのか生意気なのか微妙なところだ。
しかし、今の千鶴にそれを判断している余裕はない。むしろ、受け答えが満足に出来る程、千鶴は周りが見えていなかった。
「控えて、ねぇ。陛下、如何いたしましょう」
肩を竦めた兎が見上げる方、そこに立っているのは、全身を黒い鎧で固めた、巨大な黒獅子だ。
千鶴より頭二つほど大きなその身体と、磨き上げられた鎧の上にかかる長い鬣。その中心で、なんの色も無くこちらをじっと見つめている金色の瞳と目が合って、千鶴は無意識に少しだけ後ろに足を下げていた。
陛下、ということは、この巨大な獣が花婿らしい。とんでもないのが来ちゃった、とぼんやりと頭の片隅で思いながら、千鶴はぴくりとも動けずにその顔を見上げ続ける。
二本足で立ち、両手が少し人に似ているだけで、顔は獅子そのもの。呆然と立ち尽くす千鶴に、黒獅子は何も言わずに踵を返した。
「来てしまったものは致し方ありません。さあ、どうぞ。姫様」
慇懃無礼に兎が頭を下げ、すたすたと歩きだす。その姿にとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、フォンが一声嘶いた。
容赦なく踏みに行こうとするフォンにようやく我に返った千鶴は、慌てて彼女の手綱を掴む。
振りほどこうと暴れるその首にしがみ付いたまま、千鶴は遠ざかる黒い姿を、じっと見つめ続けいていた。