幕間 とある女騎士の朝
夜明けと共に夜警の兵士が鳴らす鐘の軽やかな音が駐屯地に響いていた。
ぞろぞろ寮から顔を出す眠たげな兵士たちと、それぞれ挨拶を交わしながら朝食前の訓練に向かう。
この一の郭の駐屯地に居ついて、女騎士達のまとめ役を始めてから随分経ったけれど、この空気が柔らかくてのんびりした朝の様子は昔から気に入っていた。
「すいませんどいて下さいー!」
「うわあチズル!?」
「またかよお前!」
そんなゆるい空気を切り裂いたのは、どこか間抜けた高い悲鳴。
この駐屯地の副団長、アントラが連れてきたチズルという名の少女。彼女がこの駐屯地に来てから一月たったけれど、それからというもの毎朝の平和なひとときが酷く騒がしい。
大騒ぎしながら慌てて道をあける兵士たちの間を縫うように、道の端でタオルを握った私の方へ近付いて来るのは巨大な犬の群れだった。
地響きを立てながら駆け抜ける犬たちの後を、汗だくのチズルが追いかけている。
「はー……はー……きつい……!」
「また逃げられたの? 相変わらずからかわれてるねぇ」
「あとっ、あの一軍だけで……っおしまいなんですー!」
「どうもあいつらだけは生意気でいけねぇなぁ」
「おーおー、朝から汗だくになってまあ。副団長がまた泣くぞ」
「そこいらで転はないようにするんだよ。なんならフォンで追いかけな」
「はい姐さん! でも、私が捕まえなきゃ意味が無いんです。多分なんとかなると思うので」
猛スピードで逃げていく犬たちに、とうとうついて行けなくなったチズ。その頭にタオルを被せてからかい混じりの呆れ声をかければ、周りの男たちもわいわいと会話に加わった。
星跨ぎだからなのか、それとも元々のこの子の性質なのか。
さっぱり分からないけど、年下の兵士の肩にも届かない小さな体と、いまいち年の分からない幼めの顔立ちに、妙に座った度胸のギャップがどうも庇護欲をそそるらしく、最初は遠巻きにしていた兵士たちも、最近はちょくちょくこうしてチズに声をかける。
私自身も、「姐さん、姐さん」と後ろをちょこちょこついて来て、話しかけると嬉しそうに笑うチズの事をそれなりに気に入っていた。
「そうかい。気を付けてね」
「はい! 姐さんも、皆さんも、訓練頑張って下さい!」
裏表の無い笑顔を向けられると、まるで妹でもできたようで、微笑ましいと思わず緩みそうになる口元を慌てて引き締める。
弱いものが嫌いな厳つい連中すら、その身に似合わない男前さと、素直で小動物じみた動きに癒されるとかで、まるで孫でも見るような顔でタオルに埋もれるチズを見守っていた。正直気持ち悪いこいつらと、一緒にされたら困る。
辺りからかかる声に顎を伝う汗を拭ってにこにこと答えた彼女は、律儀に一礼してその場を走り去る。。その右手に握られているのは、大きなブラシだ。
一の郭の駐屯地には、騎士団中の動物達が集められている。
兵士の乗る馬から巨大な角の牛や鹿、長い牙を持つ猟犬に、伝令用の鷹、巨大な猫や蛇。
危険な任務に連れて行かれる者も多いせいで、そんな彼らは普通の動物達よりも更に体格がよく、気性が荒い者が多い。
動物好きで世話が得意なあの子にも、絆されやすい兵士より、よっぽどシビアに力の強い者しか認めない動物達はなかなか慣れないでいた。
「いつもはちょっと不満そうでもやらせてやってるのに、あいつらどうしたんだい?」
「ああ、今日は狩りの日でしょう? あいつら、今日が初めてなんですよ。どうも興奮してるらしくて」
兵士たちが朝の訓練を終えるまでに、その日最初の任務に向かう動物達の小屋の掃除と、毛並みを整え餌を与えるのがあの子の仕事。
けれど、彼らの中には力の弱いチズルに世話を焼かれるのが気に入らないのか、こうして時々あの子の手から逃げ出すやつらがいた。
今逃げ出している犬の群れは、子犬から成犬になったばかりの若い雄たちで、他の犬よりあの子の事を馬鹿にしている。
元の世界にいたよりも、はるかに頭がいいとあの子が言う動物達は、確かにほとんどこちらの言葉が分かっていた。
だからこそ、きちんと時間になれば帰って来るために、普段ならあの子も仕方ないと戻ってくるまで放っておくことも多い。
「そりゃ不味いね。今日だけは失敗があっちゃならないよ。王陛下が猟に行くのに、猟犬がいませんなんて言えるかい」
「なにより、早いとこ終わらせて犬たちを戻さないと、困るのはチズルですからねぇ」
私の言葉に、隣の部下が笑いをかみ殺す。そういえば、チズはあまり狩りが好きではなかったか。
数日前から隣国の王子の一行がラルキアに視察に訪れている。今日はその一行を交えて、王宮の近くの狩場へ狩りに出かける日だ。
ラルキアの、というより、この世界のと言った方がチズには分かりやすいらしいが、ここでの食肉は、もっぱらモンスターを倒して得られている。
まるでお話の中の話みたいです、なんてのんびりした感想を漏らしていたチズルの顔が引きつるくらい、そいつらは凶暴だ。
ついでにきちんと加工をしないと、近寄るのも辛い程臭くて食えたもんじゃない。
国民の安全を守るのと一緒に、自分の力と名誉を試せるために、騎士や貴族も好んで出かけているが、一般の人間はあまり近寄りたくないだろう。
「この間、アン副長に連れられて見に行ったようだけど、あれでどうも懲りたね」
「いやぁ。チズルの事をいたくお気に入りの猫に、とれたてぴちぴちを鼻先に持ってこられちまったらしくて」
「そりゃあ……災難だったね」
「褒めてほしいだけだからって、慌てて引っぺがそうとした兵士止めて笑顔で受け取る辺り、あいつの根性も見上げたもんだと思いますがね」
解体と運搬を担う動物たちは、人間の数倍汚れて帰って来る。それを洗い清め、もとの姿に戻すのもチズの仕事だ。
時間がたつと落ちにくくなる臭いの事を考えれば、尚更遅刻は許されない。
できれば手伝ってやりたいところだけど、そうも言っていられない。仕方なく、部下と一緒に自分の訓練場に足を向けた。
策があるような事を言っていたけれど、あの様子じゃあ、追いつくのは当分無理そうだ。それなのに、あの子は一体どうするつもりなんだろうか。
*********
ぜいぜいと上がる息を整えて、千鶴は前を走る犬を睨みつける。
視線の先で、どう見ても笑っている口角の上がった顔の犬たちがちらちら後ろを見ては、からかうように左右に跳ねていた。
いかにも遊んでいますと全身で訴える犬にほんのり眉を寄せながら、千鶴は気付かれないように辺りを見回す。
「そろそろ、いい、かな……っ!」
あちこち走り回り、いつしか場所は使われていない倉庫が立ち並ぶ、駐屯地の外れになっていた。千鶴の方はばてばてだが、からかって遊んでいる彼らの方は、今まさに興奮最高潮。
がうがうと何事か吠えて、嬉しそうに尻尾を立てた姿はそれだけ見れば微笑ましかったが、追いかけている方はたまったものではない。
陽の具合から見ても、そろそろ連れ帰らないと遅刻してしまう。
左右に並ぶ倉庫がもうそろそろ途切れ、駐屯地の一番端に差し掛かろうとした時、若干覚束なくなってきた足に力をこめて、千鶴は温めていた作戦を実行することにした。
「きゃー! こないでー!」
ほんのり棒読みのセリフと共に、突然千鶴が踵をかえす。元来た道を大声を上げながら逆走する千鶴に、驚いた犬たちが慌てて立ち止まった。
今まで自分たちを追いかけていた人間がいきなり逃げ出した事に戸惑いつつ、犬たちはうずうずする本能に任せてそのへろへろの後ろ姿を猛然と追いかけ始める。
「アホでたすかった……! きゃー!」
犬は追われれば逃げる習性と一緒に、逃げられれば追う習性を持っている。小さい頃にしこたま追いかけられてそれを身を持って知っている千鶴は、あえてその本能を利用して、彼らを捕まえようと考えていた。
散々追いかけまわして思い切り興奮させた状態なら、いくら頭のいいここの犬たちも、本能に任せてついて来るのではないかと思ってやってみたが、こうも上手くいくとは思わなかった。
ちらりと後ろを振り返れば、群れのリーダーの赤茶の犬が嬉しそうに近付いてきている。
どうも若いせいか少々お馬鹿なこの群れのリーダーは、抜きん出て体格がいい代わりに、単純さもピカイチだった。
少し考えれば罠だと分かりそうなこの作戦。群れの中でもちらほらと不審そうに速度を緩める者がいる中、まんまと乗って元気よく追いかけてきているそのアホの子ぶりに、千鶴は思わず笑ってむせる。
危うく呼吸困難になりかけながら、千鶴は真っ直ぐ走っていた道を勢いよく曲がり、ざりざりと砂を蹴立てて立ち止まると、大きく両手を広げて後ろを向いた。
「ギャイン!?」
「ぐふ! つ……捕まえたー!!」
流石に猟犬らしく急な方向転換にも難なく対応したリーダーだったが、まさかそこで待ちかまえられているとは思わなかったのか、千鶴の思惑どおり、その巨体は広げられた千鶴の腕の中に飛び込む。
パニックを起こして暴れる体を離してなるものかと、彼女はその巨体を足払いで地面に仰向けに転がし、猛然とそこらじゅうを撫でまわしはじめた。
「ほーれよしよしよし!!」
「キャヒン! キャン!」
じたばたもがいていたリーダーも、走り回った疲労と千鶴の絶妙な力加減に、段々動きが鈍くなる。
元々リーダーは、世話をされるのは嫌いでも、痛い程ぐりぐり触るだけの兵士と違って、欲しい所に刺激をくれる千鶴に撫で回されるのは好きだ。
そのせいで、情けない悲鳴を聞きつけた他の犬たちが駆けつける頃には、ぐんにゃりと地面に仰向けで伸び切り、よだれまで垂らしたアホ面を晒して千鶴のされるがままになっていた。
「はしゃぐのはいいけど、ほどほどにしてね」
「ひゃーん……」
遠くで響く朝の訓練終了の鐘を聞きながら、足先をぴくぴくさせているリーダーの鼻先をつついて千鶴は笑う。どうやら、初の狩りに遅刻する大失敗は、免れたようだった。
*********
今日も朝の鐘が鳴って、兵士達で溢れる中庭。固まった体をほぐすように伸びをしたところで、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。
「おはようございます!」
「ああ、おはようチズ。……アンタも」
「ワフ!」
いつも通りの朝の挨拶。少しだけ前と変わったのは、兵士たちの間を縫って走っていた脱走犬が、お行儀よくチズの横でおすわりをしている事だろうか。
あの日、汗だくの毛塗れで戻ってきたチズルが、なんとなく覚束ない足取りの赤茶の犬を先頭にした群れを狩りに送り出してからというもの、ぴたりとこの群れの脱走癖は収まっていた。
代わりに見られるようになったのは、ブラシやタオルを入れたバケツを咥えて、嬉しそうにチズルの後を歩く赤茶の毛並み。
物が多いときは他の犬まで混じって、行儀よく道を行くその光景を始めてみた時は、思わずぽかんと間抜け面をしたくらいだ。
あれだけ馬鹿にしていたチズルに突然懐きだした犬を見て、私は首を傾げる。
「チズ、あんた一体なにしたんだい? こんなに急に手のひら返したみたいにおとなしくなっちまって」
「いやぁ。無い頭で考えた作戦が上手くいったおかげで、ちょっとは認めてもらえたみたいです」
「作戦?」
「今なら引っかからないような、単純な作戦だったんですけどね。冷静になったらちょっと恥ずかしかったらしくて。それと、手伝うとご褒美が貰えるって学習しちゃって」
このバケツ運びも、終わるとしこたま撫でてやらないと拗ねるんです。なんて全く困っていない声ででれでれ嬉しそうなチズの足に、早くしろとばかりに赤茶の頭が擦りつけられる。
力の強いそれに押されながら、チズは手を振って飼育小屋の方へ歩いて行く。周りで見守っている兵士達も、ほんわかと和んだように顔を緩めてそれを見ている。結局何をしたんだか知らないけど、本人たちが楽しそうならそれでいいんだろう。
時々じゃれあいながら小さくなっていく姿を見送って、私は他の兵士と一緒に訓練場に向かうためにそちらに背を向けた。
今日もまた、のんびりした朝が訪れる。
穏やかな一日の始まりは、あの子の朗らかな声が増えた事で、前よりもっと気に入りのひと時になったようだ。
「こらー! バケツに穴開けたら使い物にならないじゃないー!」
「平和だねぇ……」
たとえ、それがほんのり騒がしくても、だ。
逃げ出した犬は、追いかけるのではなくこっちが逃げてやると捕まえやすいようです。我が家のお馬鹿犬には効果テキメンでした…