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三話 居場所が出来た日のこと

「働きたい?」

「はい。チズル嬢の望みは、職を持つことだと」


 頭上で交わされる低い声のやり取りを、千鶴は固まったまま微動だにせず聞く。

 会社の面接でも、こんな微妙な雰囲気にはならなかったはず。そんな事をつらつら考えながら、笑顔のなりそこないの様な実に何とも言えない顔で、千鶴は一段高い場所にいる王に視線を合わせた。


「珍しい。私が小さい頃見た星跨ぎは、王宮での何不自由ない暮らしを要求したというのに。人によっては星跨ぎを幸福の象徴と捉えて、積極的に傅く者もいるから仕方がないとはいえ……それはそうと、笑ってもいいんだぞ、サジロ嬢」

「……っいえ」


 アントラがここに来るまで再三言ったように、薄い紫の髪に少し白いものが混じる壮年の王は、その場を和ませるような柔らかな雰囲気の持ち主だった。

 高圧的どころか、縁側で猫と日向ぼっこでもしていればさぞ似合いそうな雰囲気。

 本物の王様なんてテレビの中のものだった千鶴は、安心から両手を上げて喜びたかった。

 けれど、彼女は困ったように目を細めて自分を見下ろす王の、ほんのり赤い額を視界に入れないようにするのに必死になっている。

 なにやら星跨ぎが若干ラッキーアイテム扱いされていることも、この際もうどうでもいい。


「無茶を言わないで下さい。元はと言えば王陛下、貴方が扉の前でうろうろしているからですよ」

「声が聞こえて、ちょっと気になったんだ……」


 二人並んだ鎧の兵士に見送られて門をくぐり、どこまでも続く長い廊下を過ぎた先。

 きりりと表情を改めたアントラが名乗り、静かに開けられた大きな扉は、ものの見事にふらふらとすぐ傍に寄ってきていた王の額にぶち当たった。

 幸い勢いのあるものではなかったが、ただでさえ緊張でどうにかなりそうだった千鶴にとっては不意打ちも甚だしい。

 あまりに綺麗に当たりに行った王のせいで、心臓が口から出るところだった。いろんな意味で。


 千鶴は心の中で、花でも飛びそうなぽんやりとした雰囲気の王に地団駄を踏む。

 バツが悪そうに赤い額をさすりながら、王はそんな何とも言えない妙な顔の彼女に微笑んだ。


「それがサジロ嬢の願いなら、喜んで叶えよう。ラルキアは君の味方だ。この世界で幸せに暮らしてくれることが、ここに来てくれた君に私たちができる最大限の礼。困る事があればなんでも言うと良い」

「あ、ありがとうございます……!」


 深く穏やかな声に、千鶴は慌てて勢いよく頭を下げる。その姿に目を細め、王は膝の上で緩く腕を組んだ。

 千鶴が下げていた頭を元の位置に戻すと、困ったような表情はそのままに、すっと王の瞳の色が変わる。瞳だけを切り取れば、その雰囲気は獲物を狙う猛禽のように鋭かった。


「かわりに、と言ってはいけないが、星跨ぎの力――君のその知識を、私達に貸してくれると助かる」

「……はい。お役に立てるかは分かりませんが、出来る限りは」


 王の言葉に、やはり来たか、と千鶴は詰めていた息を吐き出し、いっそ胸を撫で下ろした。

 いくら一部で幸運のお守りじみた認識をされているらしいとはいえ、恐らく国中で一番安全なこの王宮で保護の上、望みはなんでも言え、なんていうとんでもない待遇に、なんの見返りも無い筈が無い。


 異なる世界から来た星跨ぎ。それはそのまま、異なる技術、異なる文化を取り込むまたとないチャンスだ。

 たとえそれが千鶴の様なただの一般人でも、利用価値は十分にある。

 いつ来るかも分からない偶然の産物を、手厚く保護する法までつくって受け入れるのも、その為に他ならない。


 打算的? 否、そうではない。いくら柔和な顔をしていても、彼は一国を背負う王だ。


 世の中ギブ&テイクだと、千鶴は王の瞳を見返す。何も知らされず無条件に受け入れられ、後からとんでもない代金を支払うよりもずっといい。


「君がとても聡明な女性で、私はいっそ胸が痛いよ。……ありがとう」

「いいえ。私はそんな」


 困ったような王の微笑みに、千鶴は同じように眉を下げて答えた。


「私も、こんな事をあけすけに頼むのは、いくら星跨ぎとはいえ良い事ではないとは思うのだけどね」

「そんな、お気遣いありがとうございます。アン様」


 ぼそりと斜め後ろからアントラの声がかかる。視線を流せば、こちらの様子をほんのり申し訳なさそうな人の好い顔で窺っている男二人が目に入り、本当に良い国に来た、と千鶴は小さく微笑んだ。


「すまないな。しかし、生憎と城仕えは足りているし、城下にどこか良い場所はあっただろうか……」

「そちらは私にひとつあてがあります。一の郭の駐屯地が人手不足にあえいでおりますので」


 思案顔の王に、成り行きを見守っていたアントラが千鶴の後ろから進み出る。その言葉に王も納得したのか、少しだけ眉の寄った顔でぽんと手を叩いた。


「そうか、あそこは今の時期、毎日戦場だったな。しかし、サジロ嬢に任せるには少々荷が重いような気もするが」

「……今は一人でも多く手が欲しい所なのです。チズ嬢、こんな事を貴族の、しかも女性に頼んではいけないとは思うのだが……。騎士団駐屯地で働いてはくれないか?」

「私は拾って頂いただけで貴族ではありませんし……。アン様に紹介して頂けるなら、むしろ有難いくらいです。ええと、雑用をすれば良いんでしょうか? 生憎、武器はちょっと」


 またも飛び出した耳慣れない単語に、千鶴は有難いが、と引け腰でアントラを伺う。戦えと言われても困る! と全身で訴える千鶴に、彼は微笑んで緩く首を振った。


「違う違う。駐屯地にいる、動物達の世話を頼みたいんだ。今年は一段と数が多くてね。どう……やって――くれそうだね」

「やります! 是非やらせて下さい! お願いします!」


 アントラの口から「動物」の単語が漏れた瞬間、千鶴の目の色ががらりと変わる。

 両手の拳を握りしめ、キラキラと目を輝かせて即答する千鶴。ずずいとアントラのすぐ近くまで寄せた顔は、興奮でほんのりと赤色に染まっている。

 あまりの千鶴の変わり様に、気圧されたアントラの足が一歩後ろへ下がった。


「チズ嬢のそんな溌剌とした顔、屋敷からここまでで初めて見るんだが……」


 夢にまで見そうだった、念願の動物との触れ合いが、待ち焦がれたもふもふが。今まさに手の届くところにある。

 ここが王宮で無ければ、千鶴は両手を振り上げて叫んでいただろう。

 動物に負けたとほんのり落ち込んだアントラが拗ねているのにも、うっとりと半分我を忘れた千鶴は気付かない。

 堪えきれずに吹き出した王は、にこにこと柔らかな微笑みで千鶴を見つめた。


「随分円満に職場が決まったようで何よりだ。時折、王宮にも顔を出すといい」

「はい! 王陛下、本当にありがとうございます!」


 ついさっきより余程元気な返事に、そわそわと落ち着きない動き。今にも部屋を飛び出しそうな千鶴に気付いてか、王が声を上げて笑う。

 その楽しげな笑い声と、嬉しそうな千鶴を横目に、本格的に拗ねたアントラが釘を刺すように王を半目で見つめた。


「陛下、次回のご報告の際は、出来る限り玉座の上でお待ち下さい。是非」

「私に八つ当たりをするんじゃない。しかし、年甲斐もなくはしゃいで悪かった。私にも遠縁とはいえ姪ができると思ったらつい。私には息子しかいないからな」

「あの、どうぞ千鶴と呼んで下さい! ……って、姪? 私がですか?」

「母上が王陛下のいとこだからな。カトレア家の養子の君も、王家の仲間入りということになる。最初に母上から聞いて……なかったんだな」

「カトレア卿らしい。彼女の事だ。チズル嬢を驚かせようと黙っていたんだろう。気の毒に」


 あの人は全く、とのほほんと会話する男二人を前に、千鶴は眩暈を堪えるように額に手を当てる。

 道理でアントラと王が随分と気安い雰囲気で話しているはずだ。すんなりここまでこうして通されたのも、その効力あっての事だろう。

 自分がよくある物語の王道をひた走っていることが、改めてほんのり怖いと千鶴は表情を強張らせる。


「確実に……ここまでの分落とされる時が来る気がする……!」


 さっきまでの興奮はもはや遥か彼方。想像の向こうで悪戯大成功! と親指立ててウインクするロアラの幻を見ながら、千鶴は迫りくる嫌な予感に身を震わせた。




****************




 リデンの街は、五代前の王の時代に作られた三重の壁に囲まれている。

田畑やそれを耕す人々が暮らす一の郭、様々な店が立ち並び、商人達の活気に溢れた二の郭、そして、王宮を中心に貴族の館が立ち並ぶ三の郭。


「人が多いのは二の郭だが、騎士団の規模では、一番外側で土地が広い、一の郭の駐屯地が最大なんだ。新兵の訓練所でもあるから、年中いつでも騒がしい。敷地だけはいくらでもある上に、リデンを出ての任務の場合ここから調達すれば早いものだから、騎士団中の動物が集められている。正直、新兵の世話だけでも手が回らないというのに、今年は子供が多くてどうしようもなくてね……」

「それは……実に楽しそうなことで」

「ああ。毎日笑いが止まらないよ。全く」

 

 はしゃぐ千鶴の勢いに押され、王宮を後にした二人はそのまま街の一番外側、一の郭の駐屯地に足を向けていた。

 ラルキア王国の国章、野薔薇が絡む太陽が彫られた巨大な石の門の前で、アントラに先導されて馬車を降りた後、随分歩いているが駐屯地の中心はまだ見えない。

 毎日の苦労を思い出して、ため息混じりに撫でつけた髪をかき回すアントラは、千鶴の言葉を皮肉と取ったようだった。

 けれど、千鶴は本心から羨ましい限りだと、爛々と光る眼で近付いて来る沢山の建物を見つめ続ける。

 興奮で赤くなった千鶴の頬に、アントラは不思議なものを見る目で隣の彼女を見下ろした。


「普通、女性は生き物を好かないと思っていたんだが。母上もそんなに得意ではないし」

「貴族のご令嬢なら、そういう方も多いんでしょうけど、私はむしろ、いないと生きていけません」

「動物、そんなに好きかい?」

「できれば、お花を摘みに行くとき以外一緒にいたいです」

「……君の愛の深さは分かったけど、女の子がそういうはしたない事真顔で言わない」


 何の臆面も無くきりりと言い放った千鶴に、アントラはちょっとだけ引きつった顔をする。

 彼女本人は、門から続く柵に囲まれた広場の遠くの方で、のんびりと草をはむ馬のシルエットを見つけたためにほとんど聞いていなかった。

 



 通り過ぎてもしばらくうっとりとその影を見ていた千鶴だったが、流石に立ち並ぶ建物がすぐ近くまで迫った頃には、居心地悪そうにその視線を地面に向ける。

 休憩時間に当たったのか、わらわらと外に出てきた兵士たちの不審げな視線に思い切り晒されたからだ。

 はしゃぎ過ぎて、紫のドレスのまま来てしまった事が死ぬほど悔やまれる。じろじろと無遠慮な視線たちは、どう見ても歓迎しているようには見えなかった。


「うわあ……」

「気の荒い者も多いが、皆気のいい奴らだ。大丈夫」


 思わず漏れた声に、アントラが千鶴の肩をそっと叩く。千鶴たちを取り巻く兵士達は、線の細い少年から筋骨隆々のいかにもな男たちに加え、数は少ないながら女性も混じっていた。


「アントラ副長、お帰りなさい!」

「副団長! お早いお帰りで!」


 誰もが、アントラに笑顔で挨拶をしては、隣に居る千鶴を不思議そうな顔で見つめる。

 薄々偉いんだろうとは思っていたが、副団長なんてとんでもないエリートらしいアントラが、急に連れてきたのが場違いなドレスの女。どう考えても歓迎される要素が無い。

 中には魔力がある者も混じっているのか、ひそひそと交わされる言葉の中に、星跨ぎの単語も含まれていた。

 そろそろ千鶴が珍獣扱いまっしぐらな眼差しに耐えきれなくなってきた頃、アントラが彼女の肩に手を置いて周りを見回す。


「皆、聞いてくれ。今日から動物たちの世話役として新しく配属される、カトレア卿チズル=サジロだ。気付いている者もいるだろうが、彼女は「星跨ぎ」。今年兵となった者達と同じように、共にここでの常識も学びたいそうだ。よろしく頼むぞ」

「よろしくお願い致します!」

 

 勢いよく頭を下げた千鶴に、周りからざわめきと一緒に視線が突き刺さる。そこに含まれる棘に、千鶴は早速、落ちる時が来た……! と青ざめて小刻みに震えていた。



 

「副団長、この地図、世界地図ですか?」

「チズ嬢、そう固くならなくても……。そうだ。中心の大きな大陸がラルキア。王国だけの詳しい地図もあるが、見るか?」

「いえ、それはまた今度。この地図、左半分が塗りつぶされてるのは、どういう事でしょう」


 詳しい話は後日に、とアントラが解散を言い渡したため、兵士たちは一斉に敬礼をして持ち場へ戻っていった。

 今頃、怒涛の勢いで千鶴の話が駐屯地内を駆け巡っているだろう。

 考えただけで眩暈がしそうな事態を振り払い、千鶴はアントラの執務室の机に広げられた地図を指さした。

 少し黄ばんだ紙に、赤茶のインクで大小様々な大陸や島が描かれた詳細な地図。飾り文字で装飾され、海に良く分からない生き物がいる辺り、まるで芸術作品のようだ。

 しかし、ラルキアの国章が描かれた反対側、左半分が全てべったりと黒く塗りつぶされているために、その可愛らしさとは裏腹に随分異様な雰囲気だった。

 真っ黒の部分を指さした千鶴に、アントラはこくりと一つ頷く。


「ラルキアのあるこの大陸は、ずっと昔からもう一つの国が半分を治めていた。ソラント――我々人間とは異なる、獣人達が住む国だ」

「獣人……」

「二足で歩く獣、と言えばいいか? 我々よりも力が強く、そのかわりに魔力を持たない。魔法の類ではないものが発展しているらしいが、詳細は分からないな。随分昔に国交を絶って、両国の間には高い壁が造られているんだ。このすぐ近くに一の郭の城壁とその壁が一体になっている所があるが、そこにある扉は随分長い間、開かれていない」

「ずっと、閉じたままなんですか」

「ああ。しかし、姿は違っても同じ言語を話し、同じ大陸に住む者同士。文献を読む限り、知能を持たない化け物でも、野蛮な侵略者でもない。なんとか和平を結べないかと前王の時代から手を尽くしているんだが、なかなか難しいようでな。いつになる事やら」

「随分複雑なんですね……」


 塗りつぶされた地図を撫でて、千鶴は小さくため息を吐く。同じ人間同士でも、一度途切れたものを結び直すのは一苦労だ。まして種族が違っては、簡単な事ではないのだろう。

 獣人などという、千鶴にとってよだれでも垂れそうな単語にはしゃぐ間もなく、千鶴はがっくりと項垂れた。

 あわよくば獣人もふもふできたらな、なんて反射的に考えてしまったが、それはどうやら叶いそうにない。


「しかし、今代の王陛下なら、きっと希望を見出してくれると私は信じているよ」

「はい。早くこの地図が完成すると良いですね」


 二人で顔を見合わせ、爽やかに笑いあったところに、室内にノックの音が飛び込んだ。

 短く許可を出したアントラの声に、ひょこりと扉から顔を出したのは、少し年嵩の兵士だ。


「副団長、二番隊の隊長が相談したいことがあるって言ってますが」

「ああ、今行く。チズ嬢、すまないが少し席を外すよ」

「お気になさらず。いってらっしゃいませ」


 心配そうに後ろを振り返りながら部屋を出て行ったアントラを、一体彼は自分を何歳だと思っているのかと苦笑しながら、小さく手を振って見送る。


 その苦笑はすぐに、アントラがいなくなっても扉を開けたまま待っている兵士に向けた半笑にとって代わった。

 

「御嬢さん、ちょっとお時間、よろしいですかね?」

「はい。今行きます」


 そら来た! と、腹をくくった千鶴は、無駄に男前に気合を入れて兵士の元へ駆け寄った。





**********





 連れて来られたのは、柵に囲まれた馬場だ。

 随分と小さなその中に、にやにやと嫌な笑いを浮かべた兵士が千鶴を放り込む。


「麗しき副団長殿に色目使って、お貴族の娘さんがこんな所に何の用だい?」

「星跨ぎだかなんだか知らないが、こんなおちびさんにここで仕事ができるのかねぇ」


 柵の周りを取り巻くのは、どこぞのチンピラのような柄の悪い連中。他者を貶めることだけを楽しみにするような輩だ。

 他の駐屯地から泣きつかれ、アントラが直々に根性を叩き直すためにこの一の郭に来させたばかりで、本来なら千鶴には近寄らせないはずが、アントラを引き離した隙に日々の鬱憤を晴らそうとしたらしい。

 少年兵や女性兵が、遠くの方で慌てて駆け出していくのが見えた。

 止めに入ろうとしてくれている兵士は、腕っ節だけはいいらしい男達に数人がかりで邪魔されている。


 外から投げかけられるのは、どこかで聞いた事のありそうな嫌味ばかりだ。おちびさんの辺りで視線が背の高さより別の所に行っているのは、正直放っておいて欲しい。


「余計なお世話――」


 この状況で泣き崩れてやるほど千鶴はか弱い御嬢さんではない。流石にカチンときて言い返そうとした彼女の耳に、後ろから重い蹄の音が飛び込む。

 嫌な予感に後ろを振り向けば、引き出されてきたのは一頭の馬だった。


 千鶴が、状況も忘れて息を飲む。

 いかにも気性が荒そうなその馬は、大勢に囲まれているのが気に入らないのか、しきりと握られた手綱を振りほどこうと顔を背け、機嫌悪そうに足を踏み鳴らしていた。

 草食獣だと言うのに今にも飛び掛かって来そうなその雰囲気。しかし、千鶴はぼんやりとその姿に見とれている。

 

「美人……!」

 

 思わずといった様子で、千鶴が口元を両手で押さえた。まるで濡れているような艶を帯びた淡い金色の毛に、白い鬣。爛々と光る金色の瞳も、足を踏み鳴らすたびに流れるように動く筋肉も、総てが彫刻のように美しい。

 こんな美人見たことない! ペガサス! ペガサスがいる!

 きらきらと目を輝かせ、千鶴は震える手を握りしめる。その仕草を勘違いしたのか、兵士がにたりと笑って馬の手綱から手を放した。


「そら、手始めにこいつと触れ合わせてやるよ!」


 下卑た笑い声と共に自由にされた馬は、高らかに嘶き、目の前で悶える見知らぬ小娘に、その苛立ちをぶつけようと駆けだす。

 慌てて左右に首を振って近付いて来る馬を避けようにも、隅に追いやられていた千鶴は身動きが取れない。

 まずいと思っても逃げ場を探す時間がないと、千鶴は腹をくくって迫りくる馬体を睨みつけた。


「こんな美人との触れ合いなら、大歓迎だけどね……!」


 目の前まで来た馬は、千鶴が知るより遥かに大きな体をしならせて、高々と前足を掲げる。

 邪魔になるドレスの裾を片手で持ち上げ、千鶴は振り上げられた前足を潜り抜けると、立ち上がった馬の後ろ脚に飛びつくようにして全体重をかけた。

 突然全体重をかけていた両足を掴まれた馬は、悲鳴のような鳴き声を上げてバランスを崩す。

 膝から崩れ落ちるように倒れこんだ馬体は、千鶴の思惑通り、近くに置いてあった飼葉の山に重い音をたてて投げ出された。


「……祖父に、言われたんです。軍馬の調教ははじめが肝心なんだと」


 膝に手をつき、苦しそうに呼吸しながら千鶴はぽつりと呟く。


 生粋のおじいちゃん子だった千鶴は、寝物語がわりに軍人時代の祖父の武勇伝を何度となく聞かされていた。

 匍匐前進の仕方や、ヤドカリの味なんていうどこで役に立つか分からない知識ばかりだったが、その中でもインパクトがありすぎて鮮明に覚えていたのが、軍馬の扱いだ。


――新人を舐めてかかり、前足で踏みつけようとする馬は、そのまま引き摺り倒してどちらが上かを認識させること。


「多分一生使わないと思ってたけど、役に立った……。まさか成功するとは思わなかったけど、じいちゃん本当にありがとう……!」


 気の荒い馬ばかりだから、十分気を付けろよ。とどこまでも真面目に言っていたちょっぴりずれた祖父に、今になって感謝する千鶴だった。


「大丈夫? 手荒な真似してごめん。足とか平気?」


 静まり返る広場を無視して、ぜいぜいと上がった息を整えながら千鶴が優しい声で囁く。

 怪我もないらしい馬の顔が、人間のように驚きに固まっているのが少し面白い。そっとその鼻の前に手を出すと、おずおずと手のひらに温もりが触れた。

 さらりと触れる久しぶりの感触に、千鶴は感極まったようにぷるぷると小さく震える。

 ドレスの裾が汚れるのも忘れてその柔らかさを堪能していると、ふっと手元が暗くなった。不思議に思って振り返る間もなく、千鶴の体は逞しくて温かいものに包まれる。


「何の騒ぎかと思ったら、チズ嬢! どうしてこんな危険な事を!」

「うわわわ! ごめんなさい!」


 びりびりと辺りに響く声を張り上げて、息を乱したアントラが千鶴の体をきつく抱き寄せていた。

 千鶴に嘲りの視線を投げかけていた柄の悪い兵士たちは、アントラと一緒に駆けつけてきたらしい

大勢の兵士達に次々と取り押さえられていく。

突然端正な顔をゼロ距離で拝む羽目になった千鶴は、青くなるやら赤くなるやら、アントラの腕の中でがちがちに固まっていた。しかし、その口元は堪えきれない笑いに歪んでいる。

 立ち上がった馬がそっとその横に立つのを見て、自分でも制御できない感情に震えていたアントラは、自分を落ち着かせるようにひとつため息を吐いて千鶴の小さな体を離した。


「どちらも怪我で済まなかったかもしれないんだぞ……。全く、目を離すんじゃなかった」

「緊急事態だったので……もうしません」

「是非ともそうしてくれ。私の胃が持たない。それと、咄嗟のこととはいえ急に触れてすまなかった。驚いたろう」

「いえ! 無茶なことをした自覚あります。心配してくださったんですよね?」

「当たり前だ! まったく……馬のひと蹴りであばらを折った者も、足を踏み抜かれて騎士団を去った者もいるんだぞ。本当に、こんなことは今回限りだ。いいね?」

「はい!」

 

 騎士団副団長としての厳しい言葉を、千鶴は申し訳なさそうな顔で神妙に聞いている。本人も無茶をした自覚はあるのか、笑顔ではあるがその頬は血の気が引いて白さを増していた。

 安心させるようにその頬と頭をひと撫でしてやると、はにかむように微笑んで元気よく返事をした千鶴は、満面の笑顔で馬に抱き着く。

 そんな姿を見てぐしゃぐしゃと撫でつけた髪を乱すアントラは、周りではらはらと成り行きを見守っている兵士達を静かに見回した。

 満足そうに微笑む千鶴に擦り寄り、嬉しそうに足踏みをしているのは、この駐屯地で一番気性の荒い牝馬だ。

 それを前にして、まさかドレス姿の少女が立ち向かうとは、ここにいる誰も予想していなかっただろう。

 

 実行犯たちのような馬鹿な真似はしないにしても、うっすら戸惑いと不信感が漏れていた視線が、いつの間にか驚きと羨望に塗り替えられている。

 どこまでも実力が物を言う騎士団の中で、千鶴の存在が認められ始めた証拠だった。


「本当に、目の離せない子だ」


 静かに笑ったアントラは、騒ぎの実行犯たちが自分達の行為の悪辣さを思い知るに相応しい罰はなんだろうかと、微笑みの下で思考を巡らせる。

 突然できた妹は、突然だったからこそ、どうにも無下にできない。

 女性の扱いには慣れているつもりだった。なのに、咄嗟に腕に抱き寄せてしまった千鶴が無事だったことに、こんなにもほっとしている。

 

 周りで顔を緩ませて、同じように胸を撫で下ろしている兵士たちも、この調子では多かれ少なかれ、千鶴に甘くなりそうだ。


「アン様ー! 皆さんが自己紹介してくださるってー!」

「ああ! 今行くよ!」


 にこにこ楽しそうな笑顔で、元気よく手を振る無邪気な姿に、アントラも周囲の兵士たちも、釣られる様に笑う。





 アントラの予想は多いに的中して、この日を境にラルキア王国騎士団に、第二の故郷と呼べるほど大切な、千鶴の居場所が出来上がっていった。

大分長くなってしまいました。途中出てきた軍馬の話は、昔祖父から聞いた実話ですが、本当かどうかも定かじゃないので良い子は真似しないで下さいね。

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