十七話 廊下でのこと
書き方試行錯誤中です。書き溜めが無いので投稿遅いままで申し訳ないです。
「うん……抜け毛の時期は過ぎてるみたいだし、あとは、ゴムブラシ……じゃないスライムブラシはあんまりやると毛や皮膚を痛めることがあるって注意書を入れたらいいかと。コームの使い方はむしろ美容師さんの方が分かってると思うし」
「はいっ! 分かりました!」
「千鶴様ー! すりっかぁの改善品が出来ましたー!」
「えっ、もう!? 流石早いなー」
黒獅子の王に呼び出されても、千鶴の日々は特に変わらない。
花霞の口撃に苦笑いしつつ朝食をとり、花霞のジト目に撫でテクで対抗しつつ勉強をして、花霞のきいきい声に見送られてフォンの小屋を掃除してから職人たちのところへ遊びに行く。
正直日々の七割が花霞だ。あれから王は千鶴を完全に野放しのまま、以前にも増して忙殺されているのか声もかからず、大臣や貴族達も沈黙を保っている。
一度、ちらりと廊下を歩く王を見かけたが、惨劇の舞台だった毛並みはどうやら改善したようで、豊かなもふもふに戻っていたから特に千鶴に文句は無い。
それよりも、あやふやな素人の案をしっかりと汲み取って品物を形にしてくれた職人達と、顔を突き合わせて打ち合わせや微調整をする方が遥かに忙しいのだ。
花霞は王妃に相応しくないときいきい怒るし、実は自分でも最早ただの職人見習いだろコレと思っている。
だが、そもそも名ばかり貴族の名義だけ王族で本来ごく一般市民の千鶴は、別に本気で王の妃になろうとは思っていなかった。
夢見がちな思春期をとうに過ぎた彼女は、御伽噺のように村娘が王子様と結ばれるなんてあり得ないと思っている。
彼女はもふもふをもふもふすることが出来ればそれでいいし、海外でそんなことがあったような気がすると思い出しても、所詮遠い海の向こう、今となっては世界すら越えた先の話だった。
「よーし! じゃあスライムグリップの調子確認のためにもいっちょやりますかねー。仕事終わった人から隣の倉庫でいいですか? 紅雷さん」
「わう? おお、いいぞー。ただしお前ぇら仕事終わらせてからにしろよ! おい! コラ! 終わらせてからっつってんだろうが!」
「ガラスの冷却待ちです!」
「機材が修理中なので!」
「今日は非番です!」
「ぶっちゃけ仕事が終わってないの職人頭だけです!」
「嘘だろオイ!!」
いつかのように巨大な布袋をかついだ朔をお供に、にこやかに新作のスリッカーブラシを掲げた千鶴のもとへわっと室内の犬猫が殺到する。
物凄くいい笑顔で自分の足元をすり抜けていく部下に、流れるように絶望に叩き落された紅雷だけが一人そのいかつい顔を絶望に染めていた。
歓声をあげながら自分の手や足に絡み付いて、早く早くと笑うもふもふの大群に千鶴の表情筋はぐずぐずになっている。
職人や下働きたちはもう誰も彼女を遠巻きにすることはなく、むしろ他の目が無ければあちらから声をかけて寄って来てくれるようになった。
「じゃあ紅雷さんは置いといて先行きますね!」
「扱いが雑!?」
今なら私、死んでも悔いは無い。出来ればむしろ今すぐもふもふの海に溺れて死にたい。
嘆く紅雷もなんのその。もっふもふにされている千鶴は、わりと本気でそんなことを考えていた。
もふもふの海で溺死はできなかったが、思う様犬猫の毛並みとその柔らかい体を堪能した千鶴は、つやっつやのてかてかで廊下を歩いている。
お茶の用意をしてくるという朔に、ほんの少しだからそこで待っていろと厨房横の部屋で給仕のぶち犬を差し出されたが、どうせ部屋はすぐそこだとその場にいた数人をまとめて再起不能にしてから出てきた所だ。
なにやら隣の厨房からは必殺技っぽい大声と剣を交わすような金属音と何かが暴れる騒音が聞こえていたから、多分朔が戻ってくるまではしばらくかかる。
「必殺! 零距離肉球一本背負い! とか言ってたけど何を背負ったんだろ……」
首をかしげながら貰ったクッキーの最後の一つを口に放り込む。
分厚い絨毯のおかげほとんど音のしないだだっ広い廊下の角を曲がろうとした時、前方で急に声がした。
「陛下! 何卒きちんとお考え下さい!」
「……後で目を通す」
「陛下のお考えに間違いが無いのは分かってますが、お願いですから本当に見て下さいね! 絶対ですよ!」
「分かったと言うに」
ひょこっとほんの少しだけ覗き込んでみると、獅子王の前でなにやら分厚い書類を抱え込んだ月刀がわあわあ言っている。
書類の束を押し付けられた王は、したしたと尻尾を激しく揺らしながら尚も言い募ろうとしている月刀に向かって手を振った。
王と並ぶと大人と子供ほども差のある月刀は、いい加減な対応にむっとしたのか鼻に皺を寄せている。
けれど、王の行く先を遮ろうとは思わないのか、とてつもなく渋々といった様子で道を開けた。
「ついでにこの階からお早くお戻りになられた方がいいと思いますが」
「……ああ」
低い唸り声と一緒に投げた言葉もほとんど流されるように適当な返事をされて、月刀の尻尾がしょんと垂れる。
気味が悪いくらい接触してこないくせに、たまに遠くからあからさまにヒソヒソしながら笑われていた千鶴としては、その珍しくも可哀想な姿にちょっと溜飲が下がる思いだ。
王大好きらしい月刀は、そのまましょんぼりと髭と肩をしおらせて千鶴とは逆の方向に帰っていく。
珍しいもん見たな、とそれを影から見送っていた彼女は、そのせいで自分の上に大きな影がかかっていることに気付くのが遅れた。
「妃よ」
「萎れ犬かわいうわああぁああい!?」
「静かに」
「ハイ」
低く響く美声に反射的にびょんと跳ねた千鶴は、そのまま数歩後ろに着地して思い切り背筋を伸ばす。
威圧感たっぷりの黒い軍服姿の王は、そんな千鶴にほんの少し首を傾げると、あろうことかのしのしとすぐ目の前まで移動してきた。
(なんだどうした急にでかいもふもふあああ近い! ライオンが近い!)
呼吸すら感じられそうな間近に迫るでかいライオンに、嬉しいやら冷や汗が出るやらで千鶴の顔面は忙しい。
目を白黒させる千鶴だったが、迫ってきた王がそのまま動かないことに気付いておそるおそるその顔を見上げる。
じいっとこちらを見ている凄まじい目力に一歩下がると、王も一歩距離をつめてきた。
千鶴が逃げる。王が寄る。下がる。詰めて来る。
なんだこの妙なダンス。
「あの、ええと、陛下、なにかご用ですか……?」
シュールな光景に変に冷静になった千鶴は、緊張しつつも立ち止まって王を見上げる。すると、こっちを見ている瞳がほんの少しだけ、うろうろとさ迷っているような気がした。
癖になっているせいで普段猫にするようにゆっくりゆっくりと瞬きを繰り返していると、何かを決心したのか王が重たい口を開く。
「手紙が届いている」
「へっ? 手紙?」
「受け取れ」
視線をこちらへ向けたまま、王は懐から上等そうな布の袋を取り出した。
同じように顔面を凝視した体勢で受け取って初めて視線をそちらへやると、袋には見覚えのある野薔薇が絡む太陽の刺繍が施されている。
ラルキア王国の紋章が燦然と輝く袋に、思わずばっと王の顔を見上げると、ひとつ静かに頷かれた。開けろということらしい。
「あれ、これ、レターセット……?」
中に入っていたのは、上品で可愛らしいレターセットだった。
特に柄もなくシンプルだが、手触りだけでも最高級品に間違いない桜色の便箋と封筒が一揃いと、封蝋用だろう判がひとつ。
ひょいっと判をひっくり返してみると、野薔薇に囲まれた首の長い鳥の柄が掘られていた。
「……このような紋章だったろうか」
「ひゃい!? え、ああ、これ、私にって作って頂いた紋章なんです。一応王族のようなそうでないような気のせいのようなものなので、あったほうがいいだろうと……」
「なにか、意味が?」
「あ、ハイ」
国のはこっち、と布に縫われた紋章を撫でると、初めて王が千鶴の言葉にきちんとした疑問を返す。
ごく自然にかけられた声に、思わず普通に頷いてしまった。
「これ、鶴って鳥なんです。ここにはいないらしいですけど、私の、えーと世界? だと長寿の象徴としておめでたい鳥だと言われてるんです。私、生まれるのが少し早くて、それで両親が健康で長生きできるようにって千鶴の名前をくれたんです。本人達は名前負けしないように千人友達作ってね! なんて言ってましたけど。その話をしたら、国王陛下とロアラ様がこの紋章を作って下さって」
ラルキア王国は外国っぽい名前付けのせいか、名前の文字に特別意味をこめることは無いらしい。
この話をしたときは随分と感心されて、とんとん拍子に紋章の絵柄が決まった。
ちょっぴり元の世界を思い出してしょんぼりした千鶴を、ロアラとアントラが慌ててあれやこれやと慰めてくれたことと、両親の顔を思い出して小さく笑う。沢山の人に心を砕いてもらうのは、少しこそばゆくてとても嬉しい。
「そうか。……王は、王になれば名を捨てる。妃の名は、想いのこもる……美しい、好い名だな」
「え、あ、あり、がとうございます……?」
笑っていた。
あれほどまでに無表情だった王の顔が、見間違いでなければ、うっすらと感情を乗せている。
自分の名前を褒められたことと、王の名前が無いことと、その見たことの無い表情に三重に驚いた千鶴は呆然と頭を下げた。
戸惑っている千鶴に気付いてか、王は数回瞬きをするとくるりと背を向ける。
帰るのかと頭下げたままにしていた千鶴は、その空気がどこどなく迷っているような気配を含んでいるのにふと目を上げた。
なんとも言い出し辛そうにちらちらこちらを見ていた王は、背を向けたままでその太い尾をゆらゆらと揺らす。
「……手紙は、部屋に置いてある。読むか」
「……陛下、肝心の手紙、忘れてたんですか」
「……厚みが、尋常で、なくてな……」
「なんか……すいません……」
そういえば袋にはなにも書かれていない新品のレターセットしか入っていなかった。
目を泳がせる王の言い訳じみた言葉に、千鶴はすとんと体の力を抜く。あんなにも何を考えているのか分からない謎の人物だった王が、ほんの少し、その壁を緩めてくれたらしい。
見れば、垂れ下がった尾はさっきから小さく早く、落ち着かなさや不安を表すように小刻みに揺れている。
柄にも無く、緊張しているのか。この巨大な獅子が。
「来るか?」
「はい!」
なにやらその仕草がちょっと可愛らしくて、常と同じ平坦な声での疑問に千鶴は満面の笑みで答えた。
その返事にひとつ頷いた王は、ちらりと自分の隣を視線で示して歩き出す。
流石に隣にはまだ並べなくて、一歩後ろのような位置で巨体を追いかける千鶴の顔は、ふんにゃりと緩んだままだ。
案外話せる人らしくてよかった、と、微笑む千鶴の目の前で、機嫌よさそうにゆらゆらゆったり尻尾が揺れる。
時折こちらを振り向いて、付いて来ているか確認する王の顔も、ほんのかすかに変わっていた。
(しかし凶悪面だ)
鼻面に皺が寄って、ぞろりと生えた牙がちらつく。
獅子の表情筋では、今まさに何人か殺してきたようなとんでもない顔だったが。