一話 始まりの日のこと
佐白千鶴が馬一頭だけをお供に、お先真っ暗な顔に見送られて嫁入りをする羽目になった発端。
それは、だいたい3年程前まで遡る。
*****
数年前から住んでいるアパートの階段へ一歩踏み出した。それだけなのに、唐突に千鶴の目の前の景色は見慣れた住宅街とコンクリートの道から、レンガ造りのお屋敷と豪華な門が立ち並ぶ石畳の大通りに変わっていた。
驚きが先に立ちすぎて固まった彼女の前を、蹄の音も高らかに四頭立ての豪華な馬車が行き交う。夕暮れ時、この馬車達も帰宅ラッシュの一種だろうか。
混乱した千鶴の思考を読んだ訳ではないだろうが、そんな中の一台が急に彼女の目の前で動きを止める。
ふっと暗くなった視界に顔を上げた千鶴の視線の先には、馬車から顔を出した美女がいた。
夕陽にきらきら反射する蜂蜜色の長い髪。細められた目は綺麗な青色だ。自分と同じ性別にはとんと見えない美人ぶりに、思わずほんのり頬を赤らめた千鶴は、その真っ赤な唇がにい、と不穏な弧を描いたところで我に返る。
慌てて顔を引き締めようとした彼女を遮るように、女性の唇から鈴のような声が漏れた。
「あらまあ、貴女素敵ね」
「……へ? あの」
一人なにかを納得するように二、三度頷いた女性が、そっと窓から手を出す。なんの仕草か分からない千鶴のかわりに動いたのは、今まで微動だにせず成り行きを見守っていた御者だった。
「失礼。お手をどうぞ」
「は、いえあの、え?」
「お手を」
豪華な刺繍をいくつも施したファンタジックな乗馬服の御者が、お手本のような愛想笑いで颯爽と馬車のドアを開いて言う。
「あの……」
「お上がり下さい」
「……はい」
お前に拒否権なんぞどこにも無いんだ分かってるな?という御者の無言の圧力と、さっきから頭の斜め上辺りに突き刺さる女性の視線に、千鶴は自分の状況も分からないまま、半ば諦めた半笑いでその手を取った。
間近で見た女性は見上げているときよりもいっそう美しく、いかにも何かを企んでいる含み笑いすら神々しい。その眩しい姿に、この人になら騙されてもいいかも、と千鶴が駄目男のような事を考えていたのは、ここだけの話だ。
そのままあれよあれよと馬車で連れて来られたのが、立ち並ぶ屋敷の中でも一際大きな邸宅だった。
どこまでも爽やかに微笑む御者に見送られて馬車を降りた女性は、千鶴を引き摺るようにして屋敷に飛び込み、それからついさっき執事が乱入するまで、延々とどこからか大量に持ち出したドレスを千鶴に持たせてああでもないこうでもないと一人はしゃいでいる。
「奥様、犬や猫では無いのです! どこの者とも知れないこんな子供、一体どこから拾っていらしたのですか!」
「相変わらず煩いわねぇ。良いじゃない。それよりレースの白い手袋探してちょうだい。そういえば貴女お名前はなんて言ったかしら?」
「え、はあ、佐白千鶴です……」
「チズル? 不思議な響きだけど、綺麗な名前ねぇ」
途方に暮れている千鶴を指差して、しびれを切らせた執事が叫んでも、彼女はどこ吹く風とこちらを向きもしない。どこか音程の取れない声で、チズ、チズと嬉しそうに名前を繰り返してはドレスの山を増やしている。
むしろ、押し付けられた布の重みで足元がおぼつかない千鶴の方がよっぽどその怒声に怯えていた。じわじわ青ざめ始めた千鶴の顔に気付いてか、執事は女性の手からドレスをふんだくる。
「奥様! ロアラ様! いい加減になさって下さい!」
「やだ、邪魔しないでちょうだいよう。可愛らしい子なのになんでダメなのよ。ほら見てこの黒い髪、服によく映えるわぁ。でも、貴方が持ってる明るい色の方もいいわね。ねえ、どっちがいいかしら?」
「ロアラ様!」
いい加減疲れてきたらしい、執事の掠れた悲鳴もなんのその。にこにことドレス片手にはしゃぐ女性に、千鶴はぼんやりと視線を投げたまま立ち尽くす。
「あの、ここ、どこですかね……」
ぽろりと漏れたお約束通りの独り言は、自分が思っているよりも随分頼りなかった。
もういっそここで幼稚園児並みに泣き出してやれば、この意味の分からない状況から抜け出せるのか……。
千鶴は、心の中で手に持ったドレスを床に叩きつける妄想をする。現実ではどうやっても出来そうになかった。
「なによぉ。そんなに怒られるいわれなんか無いわ。だってこの子、「星跨ぎ」ちゃんよ?」
飄々と執事の言葉を流していた女性は、音が出そうなウインクとともにまた千鶴の知らない言葉を紡ぐ。途端、疲れた顔から驚きに目を見開いた執事は、まじまじと千鶴を見つめて固まった。
「……あの、こんな小娘で良いのでしたらドレスは後で存分にお付き合いしますので、ひとまずその、状況を把握させては頂けませんかね……?」
頼みの綱だった執事が脱落してしまったために、千鶴は疲れの滲んだ声を上げる。
これで聞いてもらえなかったら、本当に幼児がえりでも起こせばいいんだろうか。
幸い執事が呆れたっぷりの千鶴の声で我に返ったおかげで、二十をとうに越えた女が豪華な絨毯の床に丸まって駄々をこねる事態にはならなかった。
これでもかと文句を言う女性を、どこからか呼ばれた他の使用人らしき数人と一緒に、服の山から引き剥がした執事は、最初よりもだいぶくたびれた様子で一人がけのソファに埋もれた千鶴にカップを差し出す。
おずおずとそれを受け取る千鶴に、間に置かれたローテーブルの向こう側から声がかかった。
「有体に言えば、別の世界ってやつよね。たまたま隣同士になった貴女の世界から、こちらへぽんっと壁を跨いでしまったの。数十年から数百年に一人かしら? ごくたまにいる程度ね。歴史書にも名前が挙がるし、見かけたら王都で保護する法が定められているのよ」
一人頷きながら優雅にカップを傾ける女性の名は、カトレア卿ロアラ。
千鶴から見れば異世界、この世界で最大の大陸を治める、ラルキア王国――ここはその王都、リデンだ。
ロアラは位の高い貴族達がこぞって住むこの通りの中でも、富も名声も随一の大貴族らしい。
「はあ……そうなんですか」
同性として羨ましい限りのプロポーションに似合わず、随分幼いその顔を見つめて、千鶴は吐息の様な返事を返した。驚くべきところが多すぎて、止まった思考が動き出さない。
心配そうにちらちらこちらを窺っている執事の視線が、ほんの少し嬉しかった。
「異なる世界っていうのは、全て同じ空間にあってね。絶えず浮き沈みを繰り返しているの。普段はその差で高い壁ができてるけど、たまに二つの世界が並んじゃうと、その壁が塀くらいか、下手をすると階段の段差程度になっちゃう事があるのね。普通はそれでもそう簡単に越えないものなんだけど……。たまに跨いじゃう子がいるのよねぇ」
「それで「星跨ぎ」ですか……」
「そう。「何も無い空間で躓いて転ぶ」って事あるでしょ? あれ、その壁に引っかかってる事も多いのよ」
女だてらに大貴族と言われるだけあるのか、淡々と説明するロアラの視線は理知的で、口調は淀みない。わざとなのか、笑いを含ませる言い方で、分かった?と首をかしげるその顔から、千鶴は手に持つカップに視線を移す。
濃い赤色の上に立ち上る湯気からは、嗅いだことの無い強い花の香りがした。
「そう……ですか」
どこかほっとする優しい香りだというのに、千鶴の眉間には深い皺が寄る。複雑そうなその顔に、形の良い眉を歪めてロアラが渋い顔をした。
「一応、こっちでは常識なのだけど……。貴女も薄々気付いているかしら? 壁が揃わなければ行き来はできない。つまり、「星跨ぎ」のほとんどは、帰る事ができないの」
こればかりは運に任せるしかない、と言い辛そうに語尾を震わせたロアラに、案の定か、と千鶴は何も答えずにカップに口をつけた。
「どうして、私が」
無意識に漏れたのは、困惑の言葉だ。特別な力が元々あっただとか、事故で命を落としただとか、少しでもきっかけと言える出来事があれば、納得も出来たかもしれないのに。
無言になってしまった千鶴に、ロアラはめいっぱいの想いをこめて悲しげに眼を瞑る。
「安心していいわ。言ったでしょう? 保護する法があるって」
「は……はい?」
「今日から貴女はカトレア卿ロアラの娘。新しい世界、楽しまなきゃ損よ! よろしくね!」
再びその瞳が開かれたとき、そこに映った光は悪戯を思い付いた子供のようだった。