十四話 はじめのいっぽ
「あんまり奥に行かねぇようになぁ。棘のある植物もあっからよ」
「は……ハイ……」
「相変わらずちょっと不気味ですぅ……」
大きな布袋をいくつか担いだ紅雷と、籠を持った朔にくっついて農園に辿り着いた千鶴は、一人その広々とした空間を眺めて返事に詰まっていた。
ブラシを作るにはスライムボールがいる。作りたいと言い出したのは自分だからと、ボール取りに同行したことを、千鶴は早くも後悔している。
いくつかに区切られた区画に種類ごとに植物が植えられ、可愛らしいネームプレートと柵で囲われているのは千鶴のよく知る家庭菜園と似ていた。
しかし、その柵の中にあるのは千鶴の頭より三つほど高い、どぎつい色の「何か」だ。
ねじくれた幹に、うねうねと蠢く枝と葉っぱ。目がちかちかするような赤や紫の大きな実を垂れ下がらせて、謎の生き物じみた植物たちは太陽にわさわさと体を揺らしている。
千鶴に気付いて慣れた様子というより、何かを悟ったようなアルカイックスマイルを浮かべて一礼する獣人たちに、大人しく実をもがれたり枝を剪定されている辺り、危険は無いらしい。ただ、もがれる時に妙に体をくねらせていたり、ぶるぶる震えるだけで。
「これ、私が食べてたヤツ……?」
「朔は申しましたよー。ちょっとゲテモノだってー」
「ちょっとかなぁ……これ」
蔓の先に吸盤がついたキュウリっぽいものに恐る恐る手を伸ばしながら、千鶴は料理人とここの職員に謝りたくなった。
モンスターとは別の方向から、徐々に精神がやられていきそうだ。
「おーい! スライムがいんのはこの先だ! 早く来ねぇと置いてくぞー」
「あっ! すみません!」
少し先で手を振る紅雷に呼ばれ、慌ててその後を追う。フルカラーの菜園の先には、一面に花が咲く花壇が広がっていた。
わさわさしている植物の音が若干気になるが、淡く美しい花の色と甘い香りに、千鶴はほっと肩の力を抜く。その眼前に、ぬっとまるっこいゼリーのようなものが差し出された。
「ほいスライム。これはちっせぇから、もうちょい大きいやつを叩けよ」
「うわ!? あ、ハイ……」
「千鶴さまー! こっちにいっぱいいますよー」
ぷるぷる小刻みに震える水まんじゅうのようなそれをぽいっと千鶴の両手に押し付けて、紅雷は他のスライムを探しにのしのし歩いていく。
両手にスライムでしばらく固まった千鶴は、そろそろとそれを地面に下ろすと、ぷにぷにとつついてみた。ひんやりつるりとしていて、少し強めに指でつつくとむにゅんと形を変える。
特に何かするでもなく、大人しくつつかれるままになっているあたり、本当に害の無い生き物らしい。
立ち上がって朔が呼んでいる方へ行けば、そこかしこに両手で抱えるくらいのスライムがぷよぷよとのんびり花を食んでいた。
花を自分の体でもぎ取って、体内に取り込んで溶かしているらしい。朔が軽くその体を叩くと、ぷるぷる震えた後に、片手に乗るくらいのスライムボールを吐き出す。吐き出した後の本体は、さっきよりも一回り小さくなっていた。
「定期的にこうやってボールを吐き出させて小さくしないと、食害を起こす以外は特になんにもしませんからー」
「そのままにしとくと大きくなり続けるの?」
「はいー。雑食性なので、手当たり次第に食べ続けるんですよねー」
「……それ、ほがらかに言ってていいもんじゃないと思うなぁ」
下手したら人も食われるってことじゃないの?
足元をへにょへにょと移動するスライムに視線を落として千鶴は冷や汗をかいた。それをしないためのボール集めだろうが、巨大なスライムが押し寄せてくる様はちょっと想像したくない。
そうならない為にも、と千鶴も朔から籠を受け取って、そこらを這いずるスライムの頭をぺしぺしと叩いた。面白いようにぽんぽん溜まるボールを籠に入れ、新しいスライムを捜して花の中を歩き回る。
「千鶴さまー、私向こうの方にいってみますけどー、一緒に行かれますかー?」
「ううん。私あっちの方見てくるー」
「あまり離れないようにして下さいねー」
広い花畑は、周りを柵で囲まれている上、城にも近く危険性は低い。それを知っている朔は、千鶴の言葉にひとつ頷くと、上機嫌でスライムを探しに歩いていった。どうもスライムを叩く感触が気に入ったらしい。
一人になった千鶴は、背の高いひまわりのような花が咲いた一角に向かう。天然の迷路のようになった空間は、上から降る花びらと、爽やかな香りで千鶴を包み込んだ。
「綺麗だなぁ……ふぶっ!?」
きょろきょろ上を向いて歩いていた千鶴は、唐突に顔面を柔らかいものに包まれて変な悲鳴を上げる。鼻を押さえて見上げてみれば、それは千鶴より大きく成長したスライムだった。
まるまっちい体から溢れる甘い香り、頭に花びらを乗せてぽゆぽゆ揺れる姿はなんとも癒し系だったが、千鶴の顔は引き攣っている。
食われる。のったりと震えるそれに対して、千鶴は悲鳴すら上げられずに固まった。
ぽゆんぽゆんと左右に体を揺らすスライムは、千鶴が見えているのかいないのか、特に何をするでもなくその場でぷるぷる震えている。しばらく硬直したままだった千鶴は、スライムが動かないのを確認してほっと小さく潜めていた息を吐いた。
震えるだけのスライムは、そこら辺をうろついている小スライムとは違い、頭の上にちょこんと王冠のようなものを乗せて、体は淡い赤色をしている。心なしか下のほうに水玉模様のような柄まで入って、どこかゴージャスだ。
「嬢ちゃんー? おーい! そろそろ一旦帰るぞぉ」
「え!? あっ! はーい!」
じいっと大スライムと睨みあっていた千鶴は、背後からかけられた紅雷の声に慌ててその場を離れようとする。しかし、それは足首に絡んだ紐のようなもので遮られてしまった。
紐にしては柔らかく、弾力があってほのかに温かい。地面はただの土のはずなのに、そんなものに絡みつかれた千鶴は、ぎぎぎ、と油の差されていない機械のような緩慢さで視線をそちらに流した。
「ひえっ……!?」
案の定、足首に絡み付いているのは、あの巨大なスライムから伸びた彼の体の一部。一瞬でざあっと真っ青になった千鶴だが、特にそのままばっかりスライムの頭が開いてご馳走にされる雰囲気は無い。ただただ静かにもにもにと足首に絡み付いて震える様は、どことなく構って欲しい子犬のようにも見えた。
向こうのほうで自分を呼んでいる朔と紅雷の声を聞きながら、千鶴は恐る恐る大スライムの方に足を向ける。力が入っているわけでもないスライムの触手はするりと解けて、千鶴の手の辺りをふらふらと彷徨った。
山のように大きな体にそっと触れると、他のスライムより弾力があって、それでいてベルベットのようにすべらかな感触が手のひらに伝わる。
極上のクッションよりも素晴らしい触り心地に、思わず千鶴は恐怖も忘れてその体に思い切り抱きついた。
「おーい嬢ちゃんどこに……!? お前さん、度胸あるなぁ……」
「きゃー! きゃー!? 千鶴さまが! 千鶴さまが食べられちゃうー!!」
「うう……くやしい、ちょうきもちい……」
籠と袋いっぱいにスライムボールを収穫した紅雷と朔が千鶴を探しに迷路を進んだ先。ようやく発見した仮の王妃は、べったりと大スライムに半分埋まりこんで、至福の表情でその体に頬を摺り寄せていた。
わあわあと悲鳴を上げる朔にもふんにゃり締りのない顔をするだけで、当のスライムも千鶴が無意識に体を撫で、絶妙な力加減で揉み解すのが気持ちいいのか、ゆらゆらと楽しげに触手を揺らしている。
「ちったぁ落ち着け朔。こいつはただのスライムキングだぜ。ここいらのスライムどもの元締めだ。体がでっけぇだけで悪さなんかしねぇし、人も食わない」
「でもでもー! 千鶴さま、半分埋まってますー!! こらー! 千鶴さまとりこんじゃだめえぇぇ!!」
「いやだから、とりこまねーって」
「うへへ……朔もこっちおいでよぉ……きもちいよ~」
「嬢ちゃん、完全に目的忘れてるな……」
今にもよだれを垂らしそうな千鶴は、呆れた紅雷の声で慌てて顔を上げた。リズミカルに触手を振るスライムキングからは、いい香りのスライムボールがぽこぽこ吐き出されている。他のスライムとは違って、彼はボールを出しても縮まないらしい。
名残惜しげにキングから体を離し、鼻水まみれで泣く朔に代わりのように抱きつかれながら千鶴はキングのボールを拾って歩く。戯れのように延びてくる触手を握って握手するように上下に振ってやれば、キングは満足気にぷるぷると体を震わせた。
「また来るね、キングさん」
「キングに懐かれたんなら、ボールの心配はしなくて良さそうだけどよぉ。お前さん、ほんとになんでも手懐けるなぁ」
「それだけがとりえですから」
「ううう、千鶴さまー、まるのみされなくてよかったですううう」
「だから、のまねーって」
まだぴすぴす鼻を鳴らす朔をひっつけて、籠と袋を一手に担いだ紅雷に急かされて千鶴は花の迷路を抜け出す。後ろでは、名残惜しげにぷよぷよとキングとスライムたちが触手を振って彼らを見送っていた。
「なにはともあれ、工房に帰ったらこれで早速作ってみなきゃならねぇな。スライムブラシ」
「はい!」
朔の鼻水を拭ってやる千鶴の小さな体を見て、紅雷はひとつ苦笑を漏らす。獣人に飽き足らず、害が無いとはいえモンスターまで手懐け始めたこの少女は、一体どこを目指しているのだろうか。
見ていて飽きない妙な魅力を持った彼女に、紅雷はこれからが楽しみだとにんまり笑うのだった。
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幾度かの実験と試作品を経て完成したスライムブラシ第一号は、その作成に関わった獣人全員の予想をはるかに越える出来になった。
「いやー。よく取れた」
「千鶴さま、動かないでくださいー。あちこち毛が、へぶしゅ!」
「だははは! とんでもねぇもんが出来ちまったなぁ!」
頭の先から足の先まで色とりどりの毛にまみれ、それでも一仕事終えて実に満足そうな千鶴の目の前には、腰辺りまである毛玉の山が出来ている。
ガラス工房の横、使われていなかった倉庫を適当に片付けただだっ広い空間には、そこいらじゅうに獣人が転がっていた。
それだけ見ればなにかの事件現場のようだったが、横たわった彼らの表情は、一様にでろでろにとろけ、中にはよだれまで垂らして寝ている者すらいる。
「紅雷さんも、どうぞー」
「おっ? 俺もいいのかい? んじゃまぁ遠慮なく」
千鶴の体についた毛を取ろうとくしゃみを連発している朔にハンカチを渡しながら、千鶴は目の前に置いた椅子に紅雷を促した。ばたばたと太い尻尾を揺らしながら席についた紅雷は、絶妙な力加減で入ってくるスライムブラシの感触に無意識に毛を逆立てる。
この上ない幸福に緩んだ表情で床に転がる獣人たちは、全て千鶴のブラシテクに陥落した屍たちだ。はじめはブラシの出来を確かめるために、休憩に入っていた主任をちょっと借りるだけ、という話だったのに。
ちょうど換毛期にでも当たったのか、軽く撫でるだけでしこたまとれる毛玉に、千鶴の理性がすっ飛んだ結果、手当たり次第に手の空いた犬猫たちを次々この倉庫に引きずりこみ、今、誰もいない工房に驚いて飛び込んできた紅雷がめでたく最後の犠牲者だ。
「紅雷さんの毛はしっかりしていてつやつやですね。あっでも所々焦げてる」
「火の側にいる事が多いからなぁ。あー……こりゃすげぇ。極楽だねぇ」
「お痒いところ、ございませんかー?」
後頭部から耳の後ろ、首の長い毛を解すように、弾力のある突起が肌を撫でていく。手のひらに収まるくらいの、先の尖ったいぼが無数についた形は、どうやって見てもブラシには到底見えなかったが、使われてみるとその便利さがよく分かった。
手のひら全体で広い範囲を一気に梳かすことができる上、互い違いに作られたいぼに毛がよく絡む。肌に触れると少しだけしなる硬さの突起は、むにむにと感じたことのない不思議な刺激で心地よく肌を圧してくれた。
「嬢ちゃんがやたらと固さにこだわって駄目出ししてた訳がようやっと分かったわ……。こりゃいいや」
「スライムは食べる植物によって出すボールの香りも変わるんですよね? お花や香草を食べさせて、いい香りのするブラシなんか作ったら人気出そうですよねぇ」
「そりゃ……いいねぇ……、ふああ」
「紅雷さんも、お疲れでしょう? これの試作にいつもの仕事にスライムボール集めまでやって頂いて……。ありがとうございました」
「わう? 好きでやってた事だしなぁ……むしろ、俺も楽しかった、し……」
「お礼にもなりませんけど、これの生産と販売は全部紅雷さんにお任せしますね」
「わうー……」
首の周りをしっかりと梳かされた後は、ブラシと手のひらを交互に使って肩から背中をぐいぐい指圧される。意識してか、静かで少しかすれた千鶴の声がやたらと眠気を誘った。大あくびしながらむにゃむにゃと千鶴の声に答えていた紅雷も、千鶴の優しい指使いと、スライムブラシの刺激に陥落していびきをかき始める。
すっかり寝入った紅雷からそっと手を離し、千鶴は満足げに微笑んだ。倉庫いっぱいに転がる幸せそうな寝顔の獣人たちに、はふ、とひとつため息が漏れる。その頬は、久しぶりに思う存分もふもふを堪能できた喜びに桜色に染まっていた。
「へぶしゅ! 千鶴さまぁ」
「あっごめんね朔、毛集めてくれたんだ。鼻水垂れてない? 大丈夫?」
「平気ですー。しかし、大量ですねー……」
うず高く積まれていた毛を綺麗に掃除して、大きな布袋に片付け終えた朔が、少々呆れたような声で千鶴に笑う。満足気な主人は、きらきらした瞳で毛まみれのまま嬉しそうに頷いた。
「最後は朔にもしてあげなきゃね。一通り片付けたら部屋に戻ろう? ごはん食べたら厩舎と……あと給仕のぶち犬君たちにも試してもらわなきゃ!」
「千鶴さまー、あんまりやると城の仕事が回らなくなりますー」
「いけね、それは不味いわ。いやもうだってこのブラシ使い勝手がよくて」
興奮気味の千鶴の横を通り過ぎて大きな袋を片付けながら、ここの所少しだけ疲れたような顔をしていた千鶴の表情が元に戻ったことに、朔はほっと胸を撫で下ろす。
ぱったりと止んだ貴族の訪問と、ちくちく地味に突き刺さる花霞や月刀からの視線や言葉に、彼女本人も気がつかないくらい少しずつ千鶴の神経が削られていることを、一番側にいた朔はなんとなく見抜いていた。
城の敷地から出ることを許されていない、飼い殺しに近い状態。元々の千鶴のあっけらかんとした性格のおかげで悲壮感は無いが、気晴らしにと連れてきた工房で彼女の調子が元に戻ったのは素直に嬉しかった。
ついでに、獣人たちのマッサージへの耐性の無さまで分かってしまったのは、はたして良かったのか悪かったのか。
彼女の腕のよさもあるだろうが、自分も含めてただ触っているのとは違う「撫でられる」という行為そのものに、獣人たちは極端に弱い。
なんだかよく分からないが、彼女の温かな手に触れられると、無条件で体から力が抜けてしまうのだ。
ホクホク顔で地面に転がした大きさの違ういくつかのブラシを回収した千鶴は、布袋を担いだ朔をおともに倉庫を出る。
「千鶴さま、さっきさらっと職人頭にブラシの全権委託してませんでしたかー?」
「え? そんな大したことじゃないけど、私には商売なんて分からないし、そもそも売り物になるかも謎だし……。もう、あんだけもふもふできたから私他に何も要らないもん。元々今お金なんていらないしね」
「あー……。無欲というか、千鶴さまらしいですー」
「まあ、ほんのちょっとだけ、あそこは王室御用達の工房だし、これで成功したりしたらいやらし兎やら忠犬大臣さんやらからの視線が収まったりしないかなーとか、考えないでもないけどね」
適当に毛を叩き落としながら、のんびり城までの小道を歩く千鶴は、いたずらっ子のようににししと笑って手の中のブラシを握った。
戯れに頭のてっぺんをわさわさ撫でられて、とろんと体の力が抜けていくのを感じていた朔は、嬉しそうな千鶴を見つめて困ったように元から下がった眉毛を余計垂れさせる。
「それだけで済めばよろしいですけどー……」
ぽつりと呟かれた小さな心配は、数日後、不機嫌な顔をした花霞によってもたらされた、王からの突然の呼び出しによって的中することになる。
長いことお待たせして申し訳ありません。鈍亀ですが、少しずつ先へ進んで行こうと思います。気付けばブックマーク300件越え、本当にありがとうございます。