十二話 昼の来客のこと
がちゃがちゃと使ったバケツとブラシを壁に戻しながら、千鶴は小さくため息をつく。
その小さな声に、後ろで盛大な物音がした。
「……あの、ね、その……取って食わないから……」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさいぃー!」
「ひ、妃殿下、申し訳ありません! よく言い聞かせておきますから……!」
「いやあの、だから、取って食わないって」
がしゃーん! と床一面に小物をぶちまけて震えがっているのは、白黒牛模様の猫。頭の先から尻尾の先までまん丸に膨らんだ姿で、床にぺったりと張り付いている。
隣で股の間に尻尾を丸め込んで、千鶴にお慈悲を……! と両手を組むのは、灰色の長い毛と垂れた耳の犬だ。
「あいつまた粗相を……!」
「大変だ、もう六度目だぞ……!」
周りでは、ひそひそと数人の他の獣達が物陰に寄り添って怯えている。
いい加減見慣れてきたこの惨状に、千鶴はがっくりと頭を下げた。
ここにいるのは、元々この厩舎を管理していた獣達。一緒に仕事をするように、と白羽に言われてから早幾日。延々とこんな状態が続いている。
とりあえず「人間」というだけで怖いのか、獣達はほとんど千鶴に姿を見せない。
ただ、気にはなるのか遠巻きに観察されている視線だけは、仕事中ひしひしと感じていた。
中でもこの牛模様の猫は、他より小柄で臆病だからなのか、度々こうして千鶴の前でどじを踏む。
(なんか微笑ましい、とか、言ってたらいけないかなぁ、これ)
大きな金色の瞳いっぱいに涙を溜めて、ぷるぷる震える姿は身悶えするくらい可愛いが、そろそろ本人が可哀相な上、千鶴自身もこの扱いにうんざりしていた。
新しい家に来たばかりの子猫を見るような気持ちで、慣れるまで待とうかとも思っていたが、もう我慢の限界だ。
そのもふもふになった体を思う存分撫で回したい。とうとう泣き出したそのぺとぺとの鼻をつついて遊びたい。
おろおろしているわんこだって、ひっくり返してとことんブラッシングしてやりたい……!
「ああもう! ほらそんな冷たい床にいつまでも引っ付いてたら駄目! せっかくの毛が汚れる! 隣のわんこも!」
「ひい!?」
「ひいい妃殿下がご乱心したー!」
「やっかましい! ほら牛柄こっちおいで! 泣かないの男でしょうあんた!」
もふもふが目の前に吊るされた状態で、千鶴が止まる訳がない。これでもよく持った方だ。
がしい! と牛柄の首根っこを引っつかむと、涙で汚れた顔を丁寧に拭き、汚れてしまった両手を取って汚れを払う。
突然の千鶴の行動に、厩舎の中はにわかに大混乱だ。
いきなり伸びた手に捕まって硬直した牛柄と、中途半端に両手を突き出した格好で止まった犬。
周りではぎゃーぎゃーと他の獣たちが走り回り、手がつけられない。
「うわー、牛柄ちゃん毛並みさいこうぐふ!?」
「ぎゃー! 今度はフォン様がご乱心だー!」
そんな混乱を止めたのは、小部屋から足を伸ばしたフォンの蹄の一撃だった。
ごん、と千鶴の頬の辺りを前足で抉ったフォンは、落ち着きなさいよ、とでも言うように呆れたため息を一つ吐く。
呻いてべたんと床に押し倒される形になった千鶴は、そこでようやく自分のしでかした惨劇を思い出す。
「ご……ごめん……」
「ひ、ひひひ妃殿下、おは、お放しくださ……!」
「あ、ごめん大丈夫? 痛いところない? ちょっと欲求不満が溜まってて……びっくりさせちゃったね」
なるべくゆっくりと、意識して少し高い声で牛柄に声を掛ける。
ぽろぽろ涙がこぼれる瞳と目が合ったところで、ゆっくりゆっくり瞬きを繰り返して、その体を床に下ろした。
しん、と静まり返った厩舎の中、行儀悪く床に正座した千鶴は、隣で固まったままの犬に少しだけ視線を投げる。
途端びくっと肩を揺らした犬に、悪いことをしたとちょっと落ち込む。
「あの、ね、別に私、皆さんをどうこうしたいとか、襲って食うぞとか、思ってないの。ただ、せめて同じところにいるくらいは、許して欲しいな、と思って……。いや、突然突撃したし、説得力ないとは思うんだけど……」
「……我々に、嫌がらせをしに来たのでは、無い、のですか……?」
小さく呟かれた犬の言葉に、思わずがばりとそちらを振り返りそうになったのを堪えて、千鶴はじりじりと首を振った。
動物達は素早い動きを嫌う。大きな音も、突然の行動にも弱い。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせて、千鶴は少しだけ視線を外したまま犬に笑った。
「私が来たのは、この後ろのフォンの世話をするため。貴方たちに危害を加えようとか、まして嫌がらせをしようとか、考えたこともないよ。あのね、いつか慣れてくれるかと思って放っておいたんだけど、そうだよね。貴方達とは言葉が通じるんだもん。最初から、ちゃんと話せば良かった」
「あの……」
「私ね、貴方達みたいな子が大好きなの。嘘だと思うなら、朔に聞いてみて。私、出来れば貴方たちとも、朔みたいに仲良くなりたいんだ」
「ほんとう、ですか……?」
床に下ろされた牛柄が、小さく呟く。伏目がちのままそちらを見れば、体の前でぎゅっと手を握った。
ピンクのぷにぷにの肉球が見え隠れするのにちょっとでれっとしつつ、千鶴は力強く頷く。
「私、そんなに怖い?」
「あの、あの、だって、人間は私達を、嫌っているって……。それで、見つかるととても怖い目に合わされるんだって……」
「人はすぐに裏切る生き物だから、信用してはいけないのだと……」
「はは……。結構な言われようで……。でも何日か一緒にいたけど、私裏切るも何も、なにもしてないよ。いや、その、さっきの暴走はごめんね、怖かったでしょう」
「厨房担当の従兄弟に聞いたんですが、その……、食事係に礼を言ったって、本当ですか?」
「厨房? ああ! もしかしてぶち模様の子? うん。なんでかいつも私の給仕してもらっちゃってるから、お疲れ様ー、ありがとう、とは言うけど……」
灰色の犬に答えると、柱の影から犬や猫達が少しずつこちらに寄ってくる。
ようやく膨れ上がった毛が落ち着いた牛柄が、おずおずと千鶴の側に座った。
「妃殿下、あの、いつも失敗ばかりで、僕のこと、煩いと思われていませんか……?」
「なんで? 君、いつもフォンの馬具、綺麗に磨いてくれるでしょう? 灰色くんも、厩舎の周りの掃除、気がついたらしてるよね」
「え……見ておられたのですか?」
「え? 他の子が何してるかも見てたけど……? みんなほんとによく働くよねぇ。フォンも最近機嫌いいし、ありがとう」
君は草むしり、貴方は床掃除、馬具磨きに餌やり。間違ってもそのふあふあな尻尾を追いかけててたまたま見ていましたとは言わないが、自分の仕事を指差して言い当てられ、ひとつひとつに礼を言う千鶴に、周りの獣達は顔を見合わせて驚く。
人は恐ろしい生き物で、更に王妃として来たなんて、遠い世界どころか別世界の生き物のように思っていたのに。
目の前で床に座ったまま、フォンに頭を食まれるのも気にしないで自分達に笑う彼女は、到底怖いものには見えない。
苦手な真正面からの視線をさり気なく外して、声も動作もゆっくりと、自分達を気遣って静かにしてくれている。
「あの、あの妃殿下」
「やだな、千鶴でいいよ」
「千鶴さま……」
元々彼らは無邪気で好奇心が強い。怖くないと分かって、獣達は千鶴という生き物、「人間」に、うずうずと興味が沸いてきていた。
なんとなく空気が柔らかくなった事を悟った千鶴は、喜びをかみ締めながら、ゆっくりと牛柄の前に膝を着く。
「貴方の名前も、教えてくれる? 遅くなっちゃったけど、自己紹介しよう」
「っはい!」
明るく返事をしてくれた牛柄に、ほっと胸を撫で下ろしながら、千鶴は頭の片隅で彼に言われた事を繰り返す。
(すぐに裏切る、かー……)
じりじり近寄ってくる犬猫をちっちっと呼びつつ、千鶴はこれからの事を思ってへにゃりと眉を下げた。
ハートフルな獣達との交流の第一歩を繰り広げていたら、昼の鐘で現実に呼び戻された。
ちょっとだけ歩み寄ってくれた彼らを引かれない程度にもふったりして元気を取り戻した千鶴は、昼食の席でその元気を根元から吸い取られることになる。
「まあ、随分と貧相なお姿! 毛並みも鱗も無いというのは、こうも不気味に見えるものなのですわね!」
「あの、どちらさまで……?」
興奮気味に朔をつれて食堂の扉を開いた千鶴に、いきなりかけられた言葉。
扉の前に仁王立ちしていたのは、美しいドレスに身を包んだユキヒョウだった。
つやつやと日の光で輝く白い毛並みに、長い睫に縁取られた気の強そうなグリーンの瞳。人間の千鶴から見ても、一目で美人と分かる、はっきりとした顔立ち。
千鶴より頭ひとつ小さいのに、胸囲は完全に頭一つ負けている。
「私の事もご存知でないなんて、なんて頭の足りないお方かしら。陛下もこんな人間をお側に置いておかなければならないなんて、なんてお可哀相」
「ユキヒョウ……あ、なんか凄い偉い貴族の……?」
「そうですー。ユキヒョウの御一族は、王陛下を除けばこの国で一番の大貴族ですよぉー」
「次期当主、六花と申しますわ。お見知りおき頂かなくても結構ですけど」
「ち、千鶴です……。うわぁ、つやっつや……」
そっぽを向いたその仕草だけで、しゃらしゃらと音が鳴りそうなほど整えられた毛が上等なドレスの上を流れ落ちた。
今すぐ飛びついてやりたい気持ちをなんとか抑えて、千鶴は小さくユキヒョウの少女――六花に礼をとる。
それに嫌味なほど完璧な返礼をした六花は、じとりと千鶴を上から下まで眺めてやれやれと首を振った。
「千鶴さまー」
「いけね。ええと……どうぞお座り下さい。お食事にしましょう」
「まあまあ、頭の回転も遅いご様子で」
「はいはいソレホドデモナイデスヨー……」
朔に脇腹を突かれて、千鶴は慌てて二人分の食器が用意されたテーブルを指す。
優雅に笑う多分年下の少女に、怒りを通り越して脱力しながら、千鶴はぐったりと席についた。
十中八九、今朝の花霞のご機嫌ぶりはこの少女が来るおかげだったのだろう。
得意げに鼻をひこひこする兎を思い出して、想像の中でだけそのもちもちの尻を思う存分もみ倒しておいた。
食事の席は、普段なら朔と二人、時には給仕の獣まで巻き込んで和やかに過ぎていくのに、今日は背中がもぞもぞするような気がして居心地が悪い。
「ねえ、千鶴様? 貴族に相応しい女性の条件って、何だと思われますこと?」
「私はそういった事には疎いもので……。立ち居振る舞いではないでしょうか」
「あらまあ。貴女も貴族でございましょう? 名ばかりなのでしょうけど」
「はあ……」
微かに食器の擦れる音だけがする食堂に、澄んだ六花の声が響く。
(何が言いたいんだろこの肉食系にゃんこさん……)
心なしか味のしないサラダを口に運びつつ、千鶴はちらりと六花を窺った。
その視線に気付いてか、口元を拭った六花が、うっすらと目を細めて真正面から千鶴を睨み付ける。
瞳孔はまん丸に開き、今にも飛び掛られそうな不穏な様子。
「私、王陛下をお慕いしておりますの」
「は、はい?」
「野蛮で粗野で、美しくもない貴女なんかに、横から盗られるなんて、断固として許されて良いはずがございませんわ」
「あの、六花さま」
「私の名を気安く呼ばないで下さいまし! これは宣戦布告なのです! 早々に尻尾を巻いて、国に帰りたいと泣いて懇願させて差し上げますわ!」
がたん! と席から立ち上がり、鋭い牙を剥き出しにして叫んだ六花に、思わず千鶴は仰け反って固まった。
流石に、大型肉食獣の威嚇は千鶴でも怖い。
怯えの滲んだ千鶴の顔に満足したのか、はん、と一つ鼻を鳴らした六花は、颯爽と食堂を出て行く。
「……どうぞ、楽しみになさっていて下さいましね……?」
不穏な呟きは、小さな声だったというのに、嫌に千鶴の耳に残った。
お待たせしていて申し訳ないです。久々の更新なのにエセシリアスしか無い…。早く明るいパートに戻りたいです。動物の目を見つめるのは喧嘩の合図なのは、有名ですよね。猫の場合、ゆっくりと瞬きをしてあげると、親愛の証になるのだそうです。犬も真正面に立たず、ちょっと外れてしゃがんであげると安心するそうですよ。