九話 再会の日のこと
「朔ぅー。朔ー」
「なんれすかぁー……」
数日後。今日も今日とて千鶴の部屋からは、盛大な喉鳴りの音が扉を飛び越して聞こえている。
前と少し違うのは、そこに千鶴の不機嫌な唸り声が増えている事だろうか。
ベッドの上に寝転んだ朔の毛を丁寧に梳いてやりながら、膝丈のシンプルなワンピースが乱れるのも気にせずに、千鶴はじたばたと朔の頭が乗った足を動かして朔が眠るのを邪魔していた。
「千鶴さま、ひざ、がくがくするのやめてくださ、あいた」
「だって朔、こんなに言ってるのに朔が聞いてくれないからだよ。別にそんなに難しい事頼んでないよ?」
「難しいというよりー、むしろ本来してはいけないことですようー」
「いいじゃないー。ちょっとくらい働かせてくれても」
「いけませんってー……」
とうとう膝から落とされた頭を摩って、朔はむっすりと鼻の頭に皺を寄せる。ここ二日ほど、千鶴は朔のご機嫌を取ってはこうして仕事の催促をしていた。
最初はのらりくらりとかわしていた朔も、そろそろ限界だと小さくため息をつく。肩を落とした付き人に、それでも千鶴はブラシを片手に縋った。
「別に、そう難しい事させろって事じゃなくて、ちょっとでいいからさ……。もうお世話されるの申し訳ないし、実を言うと凄い暇だし」
「そう仰られてもー……。第一最初はお姫様みたいーって喜んでらしたじゃあないですかー」
「三日で飽きた」
「にゃんとまあ」
もうやだーとベッドの上で子供のように駄々をこねる千鶴に、朔はぺたんとヒゲをたらして考えこむ。
千鶴のここ数日のスケジュールは、三度の食事と朔とのおやつ、午後に設けられた花霞とのマナーレッスンの数時間以外は、ほぼなにもすることが無い日々だ。
「花霞さんとのここの常識とか、マナーとかやってるあれもさ、最近いっそ刺激的で楽しくなってきちゃって。二分に一回くらい嫌味挟まるんだよー。最近ネタ切れ起こさないように変化球まで絡めてくるんだー」
「順調によく分からない耐性をおつけになってらっしゃいますねー……」
城内も歩き回れる所は全て回ってしまい、残っているのは最上階だけ。朔の話も、ブラッシングの時間も、潰せるのはほんのひと時だ。
服を貴族が着る高級なものに変えても、いくら立ち振る舞いが洗練されてきても、千鶴の本質は日の出から日の入りまで動物たちを追いかけ、屈強な兵士達と大騒ぎしていたあの頃と変わらない。
そんな千鶴にとって、今の生活は息苦しくて仕方なかった。
けれど、唯一千鶴の傍にいる朔には、当たり前だがそれをどうにかできる力はない。いよいよどうしようもない状況に、朔は頬の辺りを片手で擦る。
落ち着きないその仕草に、ばたばたと布団を蹴っていた千鶴もしゅんと頭を下げた。
「本当はさ、こう、一応だけど上にふんぞり返ってなきゃいけない立場なのは分かってるんだけどね。元々そんな大それた身分じゃないし、なにより性に合わないんだよねぇ。こんなこと言うと、花霞さんから「自覚が無い」って呆れられるけどさ」
「千鶴さま……」
「朔たちが困るような表では、頑張ってちゃんとそれっぽく振舞うようにするから、ね? ちょっとだけでいいの」
「うーん……なんとか聞いてだけはみますがー……あ」
お願い! と両手を合わせる千鶴に、思い出したように朔が顔を上げる。
なにかあるのかと顔を綻ばせた千鶴の手を取った朔は、閃いたとばかりに垂れた目をくりくりと丸くして笑った。
「いきなりはいどうぞーとは、わたしには言えませんが、気晴らしになりそうな事ならひとつございましたよー」
「え? どこ行くの」
立ち上がらせた千鶴に朔が差し出すのは、襟首に刺繍が入ったシャツに、濃い色の膝丈のズボン。そして、無骨で傷の目立つブーツ。
仮にも妃であるからと、クローゼットに仕舞い込まれていたその服に首を傾げた千鶴だったが、もしかして、と思い当たった事に目を輝かせた。
「フォンさまの厩舎も、無論「この城の敷地内」ですものー、行けない訳がなかったんですよねー」
「そうだったー! なんで気付かなかったんだろ? ありがとうー!」
俄然元気になった千鶴に満面の笑みで両手を振られ、朔も嬉しそうにごろごろと喉を鳴らす。最後に降ろしていた髪を項の辺りでひとまとめにした千鶴は、きらきらと目を輝かせて扉を開いた。
*************
「いだだだだだ! フォン! 痛い痛い痛い! ごめ、ごめんってばー!」
「にゃあああ千鶴さまー! 千鶴さまー!」
意気揚々と乗り込んだ厩舎で、入った早々千鶴を待っていたのはフォンからの手痛い歓迎だった。
どうしてもっと早く来なかったの!? と怒り心頭の彼女は、笑顔で両手を広げて向かってきた千鶴の頭を、情け容赦なく本気で噛んでいる。
頭の皮ごと持って行かれそうになっている半泣きの千鶴に、体中の毛を逆立てた朔が、割って入る事も出来ずに少し離れた所で悲鳴を上げた。
「噛んでもいいからもうちょっと緩く……本当にまだらハゲになっちゃうよフォンー」
気が済むまでそのままにしようと諦め、じんわり滲んだ涙で霞んだ視界で、千鶴はフォンがいる厩舎を見渡す。
どうやら牡馬と牝馬が分けられているらしい厩舎内の小部屋は、入口に跳ね上げ式の柵がついている所だけは千鶴の知っているものと同じでも、その豪華さは段違いだ。
広々としたスペースに、美しい陶器でできた餌入れ。それぞれ専用らしい沢山のブラシがずらりと壁に並び、足元に敷かれているのは丁寧に刻まれた藁だ。空調管理までしているのか、外よりずっと過ごし易い。
小部屋の奥に付けられた大きな扉から、自由に出入りできるらしい専用の馬場まで見え、千鶴は思わず頭を齧るフォンを見上げた。
「いっそ私よりいい生活してんじゃないのフォンさん……」
「千鶴さまー! 大丈夫ですかー」
「ああうん。平気。そろそろよだれでべとべとになりそうだけど」
痛みも忘れて真顔になった千鶴に、そんなことないわよとばかりに鼻を鳴らしたフォンが口を離す。
途端に駆け寄ってくる朔を宥めながら、高い位置にあるフォンの顔を撫でた。
ごめんなさい、と小声で呟いた千鶴の頬に、フォンは自分のそれを摺り寄せて小さく鳴く。心配してたのよ、と諭すような優しい仕草に、千鶴はぎゅっとその首に抱きついた。
ひとしきりフォンの暖かさに触れた千鶴は、礼も込めてその鬣を丁寧に梳く。
ついでとばかりに首筋を撫で、逞しい胸元を揉んでやると、気持ちよさそうにフォンの目が細められた。
「機嫌直った? しかし本当に綺麗なところだね。手入れも行き届いてるし、なによりこんなにお仲間いるんだ……。てっきりいないのかと」
「ここにいるのは陛下や城の重役さまたちがー、式典や遠征の際にお乗りになる馬の皆さんですー」
「エリート中のエリートか……そんな中にしれっと混じってるなんてまたあんたとんでもないねぇフォンさん」
「フォンさまはとてもお美しいですからー。式典用の華やかな馬具もお似合いになられるでしょうねー」
わしわしと撫でる手を止めずに辺りを見回せば、周りの小部屋から興味津々の牝馬たちが顔を出している。
ラルキアで見たより更に一回り大きく、毛色は様々でも鬣と足先が白い特徴的な柄をした彼女たちは、くりくりと賢そうな目で千鶴を見ていた。
「良かったねフォン、でもフォンならきっと似合うと思うよ。美人だもの」
朔の褒め言葉に正直な子は好きよ、とでも言っているのか、上機嫌で朔の方を向いたフォンに笑い、千鶴はその場を離れる。
おずおずと一番近くにいた牝馬の前に立つと、その瞳がこちらを観察するように細められた。
(こりゃ、えらい気位が高そうだ)
まじまじ見つめられて居心地が悪くなりつつ、千鶴はその目が嫌そうに顰められない事に小さく首を傾げる。
小さな疑問を抱きつつ、千鶴は律儀にぺこりとお辞儀をして目の前の牝馬に話しかけた。
「は、初めまして、千鶴です。あそこで朔にからんでるフォンの友人です。怪しいものじゃないので、これから仲良くして下さい。ついでにそのさっきからさらさらしてる鬣を触らせて下さい」
「千鶴さまー、後半から欲望が駄々漏れですよー。お気を付け下さいー。わたしいつも近寄ると怒られてしまうんですー」
どうやらフォンに気に入られたのか、もそもそと頭の毛を食まれている朔が脱力気味に何か言っているが、千鶴は真剣な顔で牝馬を見つめ続ける。
波打つ金色の毛をもつフォンに劣らず、大切にされているらしい彼女たちはとても美人だ。
「そりゃここの皆さんは超エリートだし、プライドが高い、もとい誇り高いんだよ。こう、誠意をもって接すれば大丈夫……。足の筋肉が綺麗だなぁ……」
「千鶴さま、それ誠意じゃありませんよ多分ー」
朔の言葉にきりりと答えた千鶴の、これでもかとその美しさを称えるすっ飛んだ思考を読んだ訳ではないだろうが、牝馬は静かにひとつ瞬きをすると、そっと千鶴の手に擦り寄る。
フォンより少しだけ長く固い毛を、にやにやしながら整える千鶴の嬉しそうな顔に、朔とフォンは顔を見合わせてほっと息をついた。
十頭ほどがずらりと並んだ厩舎を、千鶴がにこにこと歩き回る。心なしか馬たちも楽しそうで、会話するように千鶴の声に合わせてあちこちから嘶きが響いた。
「これで少しは、千鶴さまの気が紛れるといいんですがー」
穏やかな喧騒に満ちる厩舎内に、ぽつりと漏らされた朔の声。その声に被るように、厩舎の扉が勢いよく開かれた。
「にゃっ……!」
「星跨ぎ」
「いやー、お姉さん尻尾長いねー! 三つ編みしたら可愛いと思うんだけ……ど……?」
「ようやく来たのか」
腕を組んで、つかつかとしゃがみこんだ千鶴に近寄って声をかけたのは、最初に千鶴を案内したケンタウロスの騎士、白羽だった。
馬のつぶらな瞳って可愛いですよね