八話 次の朝のこと
「それでは張り切って参りましょうー!」
「朔さん朝から元気ね……」
豪華な廊下の真ん中で、びしりと指を突き出して仁王立ちする朔に、千鶴は軽い笑いを漏らす。
憂さ晴らしのように真夜中近くまで撫でまわし揉み倒し、仰向けのまま幸せそうに千鶴の部屋のソファを占領してよだれを垂らすところまで好き勝手した朔は、前回よりも更に気合が入ったのか、起きた途端から元気極まりない。
心なし毛並みすらつやつやと輝いてるような気がするその姿に、千鶴も満足そうに頷いた。
「さあ、千鶴さまのお部屋で寝てしまう大失態の挽回のためにもー、昨日はゆっくり見られなかった分もー、今日はじっくりとっくり、隅から隅までご案内致しますよー。最上階以外は」
「はいはい。よろしくね。見事な行倒れぶりでむしろ微笑ましかったけど」
「後生ですから見なかった事にしてください千鶴さまー」
朝起きて、軟体動物のようなとんでもない寝相で伸びている朔を起こしながら、これからここで一体どうすればいいのかと頭を抱えていた千鶴への答えは案外早く出た。
千鶴の部屋と同じ三階の少し奥、昨日の宴とは別の大広間で一人きりの食事になった朝食の席。長い机の端に一人だけは少し寂しいが、ご機嫌な朔に甲斐甲斐しく世話を焼かれるのにほんのり照れる。
宴の料理とは違い、目玉焼きにサラダ、パンとスープというシンプルで見覚えのある朝食が並んだことに、千鶴はほっと胸を撫で下ろした。
獣人は好まないらしい野菜のサラダは、それでも花弁のように並べられたそれぞれが瑞々しく、こんもりと山のような形をした白いパンは焼き立てで、割るとほくほくと香ばしい湯気が立ち上る。
半熟に焼かれた目玉焼きは、現代でもラルキアでも見た事が無い程大きな黄身がでん、と中心にある豪快なもので、口に入れると濃厚な卵の味が広がった。
ミルクベースの優しいスープは、隠し味なのかほんのり果物の香りがする。さっぱりとした口当たりが心地よくて、思わずため息が漏れた。
きらきらと目を輝かせる千鶴を、嬉しそうに見つめる朔。穏やかな朝の風景はしかし、颯爽と扉を開けて入ってきた、相変わらず機嫌の悪い花霞によって中断される。
一部の隙も無くびしりと整った格好の花霞は、パンを片手にぽかんとこちらを見る千鶴を一睨みすると、顎を反らして王からの伝言を告げた。
「星跨ぎ様におきましては、本日もご機嫌麗しいようで何よりでございます。獣人族と共にならば、早速ですが、この敷地内のどこでも出歩いて構わないと先程王が仰せでございました。なにか必要なものなどございましたら、常識の範囲内でどうぞなんなりと」
「はあ。それは、どうもありがとうございま」
「ただし! 王の執務室やお部屋のある最上階には、一歩たりとも近付かないようお願いいたします! いいですね!」
「……は、ハイ」
挨拶すら最後まで言わせてもらえないあまりの剣幕に目が泳ぐ千鶴を置いてけぼりに、花霞は言うだけ言ってそのもひもひ動く白い鼻を鳴らすと、すたすたと部屋を出て行ってしまった。
「王様の執務室と部屋って、この上の四階にあったんだ……?」
「ええ。はい、まあその。本当ならば千鶴さまも最上階である四階にお部屋を持つべきなのですがー。この三階は本来、外からのお客さまが時々お使いになるだけですしー……」
「別にそこは気にしてないから良いんだけどさ。元からそんなとこ入る気無いしね。一応直々に許可も出たみたいだし、朔、案内お願いしてもいいかな」
「もちろんですともー! 朝食が終わりましたら、早速参りましょうー」
その後は誰かに乱入される事も無く、和気藹々と朝食を済ませた二人は、のんびり二度目の城内散策に乗り出す。
貴族たちは千鶴が起きだす前に帰り、城の重役たちは今頃仕事に追われているのだろう。
時々鳥の声が響く王宮の廊下は、朝日に照らされて穏やかに静まり返っていた。
「昨日は気付かなかったけど、ガラスにまで模様あるんだ」
「はいー。このガラスと窓枠は、二枚で一対になっているんですー。両開きの窓を閉じて、こうして陽に照らすと、反対の壁に絵が浮かぶ仕組みですー。ぐるっと廊下の向こうには、月の光で絵の浮かぶ窓がありますよー」
「はー。凝ってるねぇ。この柱の模様は?」
「それはとある姫の恋物語を描いたものでして――」
この日のために沢山予習をしたのだという朔に、あれこれと質問しながらゆっくりと廊下を進む。
一階にあった置物よりも更に豪華さと繊細さを増した絵画や彫刻に、いっそ美術館にでも来たような気分だ。
誰の趣味なのか、やたらとメルヘンで乙女チックな題材ばかりのその空間に圧倒されて、すごいなぁ、と千鶴は夢見心地でため息をつく。
しかし、そんなぼんやり頭の彼女は、ぐるりと一周階を周った階段の上で、現実に引き戻されることになった。
「さ、朔! ちょっと手伝ってほしいの……!」
「にゃー? ごめんなさいー。今見ての通り千鶴さまのご案内中ですのでー、別の方に頼んで頂けませんかー?」
「あの、あの、でも」
次は二階を、と階段を降りようとした二人に後ろから声がかかる。
振り返れば随分離れた廊下の角から、顔だけ半分出した小柄な白猫が、おろおろと朔を手招いてた。
知り合いなのか、落ち着かない様子のその白猫を気にしつつも、千鶴を放っておけないと首を振った朔に千鶴は苦笑してその肩を叩く。
「なんだか急用みたいだし、行っといでよ。私はそこの階段の犬とか猫とかの像見て待ってるからさ」
「ですけどー……」
「迷子になる年でもないし、間違えて像の腕もいだりしないから!」
「あの、わたしが心配してるのはそこじゃあないんですがー……」
「暴れたりもしないから! 行っておいでよ。困ってるよ?」
「……すみません。すぐに戻りますのでー」
急かす千鶴に負けて、心配そうにちらちらとこちらを振り返りながら白猫の後に続く朔を手を振って見送る。
ぺたんと寝ていた耳を起こし、何故かやたらほっとしている白猫の様子が気になりながら、千鶴は一人、赤い絨毯が敷かれた大きな階段をゆっくりと降り始めた。
「誰も見てないからいいか」
中ほどの踊り場まで来たところで、よっこいせ、とおっさんのような掛け声とともに階段の隅に腰かける。
デスクワークばかりで鈍った体に、この広々とした城内はなかなか辛い。 野山を駆け巡る野生児だった子供の頃ならいくらでも動き回れただろうが、流石にこの年でその元気は千鶴には無かった。
遠くの方から微かに聞こえる話声と、いくつか開けられた窓から入る風。
「平和だー……」
のほほんと頬杖をついてそんな独り言を呟いた千鶴の耳に、盛大な破壊音が飛び込んだのは、その瞬間だ。
ぼこん! と唐突に後頭部を襲った痛みに、蛙が潰れたような悲鳴を上げた千鶴は、階段の上を振り返ってもう一度ぎゃん! と声を上げる。
階段の一番上から転がり落ちて来るのは、赤くて丸い大量の実。
その後ろを追いかけてくるのは、酒を入れるのに使うような大きな木の樽だ。
予想もしなかったまさかの不意打ちに、飛び上がるように立ち上がった千鶴は、慌てて手すりにしがみ付いてその波を避ける。
「ぎゃあああ! 樽! 樽が!」
巨大な樽が迫ってくるのが怖くてなりふり構わず大声を上げた千鶴だったが、幸い階段が広かったおかげで、被害は最初の実一つで済みそうだった。
けれど、これでもかと落ちてくる実に混じって、縞模様の黒犬が滑り落ちてきたために、千鶴は危うく手すりから滑り落ちて尻もちをつきそうになる。
密集した実の上に仰向けで転がり、コントのような見事な階段落ちを披露して消えていく凛々しい顔の犬を、ひたすら無言で見送るというシュールな数秒間。
そのすぐ後に階下で壁にでもぶち当たったのか、大きな音と一緒にか細い鳴き声が上がった事で我に返った千鶴は、慌てて階段を駆け下りた。
「うわー……見事な大惨事」
駆け降りた階段の下は、大量の赤い実と半分壊れかけの樽に、逆さに転がって目を回している黒犬が乗っかったとんでもない事になっている。
恐らく自分への嫌がらせにとやったのだろうが、犯人の方がよっぽど被害が大きい辺り、もはや怒るより笑いが込み上げた。
とりあえず意識を失った黒犬を、怪我が無いかの確認がてら毛並を堪能するためにぺたぺたと触り、巨大な樽を起こして中に散らばった実の中でも通行の邪魔になりそうなものを放り込む。
「残りは起きたら自分で片付けて頂戴ね。あと、次はもうちょっと、運ぶサイズと自分の足元の確保を考えた方がいいと思うぞー……」
頭のてっぺんにたんこぶをこしらえて伸びた黒犬に、とりあえずそんな気の抜けた声援をかけてから、千鶴は何事も無かったかのように三階へと踵を返した。
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「朔! ちょっと来てくれ!」
「だーかーらー!」
「そう怒らない怒らない。行ってらっしゃいって」
階段の一件からすぐ後、わたしでなくてもいい用事でした、とご機嫌斜めの朔と合流してから何度目かの呼び出しに、千鶴はまたかと笑う。
いい加減それが何を意味しているか、なんとなく理解しだした朔が地団駄を踏むのを耳の辺りをくすぐる事で宥める。
じろりとこちらをジト目で睨む朔の背を、階段の下から顔を出したぶち猫に向かってそっと押し出した。
二度目は廊下いっぱいにぺかぺかになるまで塗られたワックスで、自分が立ち上がれなくなって半泣きの青い鳥の少年。
三度目は物陰から必死に怖い顔をしようとして、出来ずに潰れ饅頭になった犬猫集団からの熱烈な視線。
なんだかんだと朔と引き離されるたび、あの手この手で嫌がらせをしようと頑張る使用人たちに、逆に千鶴はほんわかと癒されていた。
「多分花霞さんあたりからやれって言われて、頑張ってみんなで頭ひねったんだよ。ひっかかってあげなきゃ」
「ひっかかってあげなきゃ、じゃありませんー! なんで千鶴さまはさっきから初孫を見るおばあちゃんにみたいな顔してるんですかー! でれでれじゃないですかー!」
「だって可愛いんだもん。ほらほら、なんかほっとかれてぷるぷるしだしてるから行ってあげなって。泣きそうだよあの子」
その反応は間違ってるとじたばた暴れる朔に、だってしかたないじゃない、と緩む口元を押さえる。
本気で嫌われていると言うより、わんこやにゃんこが寄ってたかってわいわいしているようにしか見えない今の状況は、むしろ千鶴にはご褒美だ。
ああかわいいなぁ、と緩んだ顔で呟く千鶴に、朔は額に肉球を押し当てて脱力する。
「千鶴さまのそのマイペースぶりが朔は恐ろしいですー……。もういいです。こうなったら一緒に参りましょうー。一通りご案内は終わりましたし、このまま厨房でお茶菓子でも貰って帰りましょうー」
「へ、あの、朔さん私も一緒に行くの?」
「そうしないと次はどんな大ごとになるかわかりませんからー」
もう何を言っても無駄だと、吹っ切ったように千鶴の手を取って朔が向かった先は、城の一階にある厨房だった。
流石に厨房内に千鶴を連れて行くのはまずいと思ったのか、通されたのは朔たち使用人の使う一室。
「本当はこんな所に連れて来ちゃいけないんだと思いますがー。千鶴さまなら大丈夫なんではと思いますしー」
「うわー、朔さんこの短期間でよく私のこと理解してらっしゃるー」
くれぐれも静かにお待ちくださいね、と釘を刺されて、千鶴ははあいと返事をすると、大人しく木の椅子に腰かけた。
二階から上の豪華さとはかけ離れているが、可愛らしいパッチワークの座布団が敷かれた椅子は、すっぽりと包みこまれるようで座り心地が良い。
「これはこれで素敵。獣人さんって手先が器用な人多いのかな」
小さく掘られた模様を手でなぞっていると、かちゃかちゃと忙しない金属音をさせながら、目の前にカップが差し出された。
うつむいていた顔を上げた先には、がちがちに固まって震える長い毛に覆われた指先。
そこから視線を辿って行くと、どこかで見覚えのある強張った顔と垂れた耳が目に入った。
周りでは、まるで勇者を見るような眼差しで、他の使用人たちがこちらを見守っている。半分生贄を見る目のように見えるのは、多分千鶴の気のせいだ。
「ど、どうぞ……」
「あ、どうも……?」
どこで見たのか思い出せずに、お茶のカップを傾けながら、しげしげと顔を背けたぶち模様を眺める千鶴は、その鼻づらに皺が寄った所でああ! と手を叩く。
「どっかで見たと思ったら、昨日の給仕してくれたぶち犬さん! いやー昨日はありがとう! タイミングよく出て来てくれるから、慣れない食事もなんとかなったよー」
「は、いえ、あの、うわああ」
思わず立ち上がり、その手を取ってぶんぶん降ると、ぶち犬は思い切り引け腰で声を詰まらせた。
ちらりと見える尻尾が完全に股の間に丸まっているのを見て、勢いで動いてしまった千鶴はどうしたものかと乾いた笑いを漏らす。
このまま怖くないアピールで好感度が上がってくれれば、あわよくばこのもさい毛をブラッシングして、あまつさえシャンプーなんかさせてもらえたらな、なんて下心満載では、流石にまずかっただろうか。
引きつった顔でしっとりと肉球に汗をかいたぶち犬、周りで見守るしかない他の使用人。握手した手を離すタイミングを逃してしまった千鶴。
どうしようもない空気を壊してくれたのは、呆れきった朔の声だった。
「ああもう、お静かにお待ちくださいって言いましたのにー」
「えへ。ごめんちょっと心の欲望に従いすぎた」
「千鶴さまは時々本能に忠実すぎますー」
段々容赦のなくなる朔の合いの手に、千鶴は頭を掻いて立ち上がる。
一体どれだけ持ってきたのか、大きなバスケットを抱えた朔は、そんな千鶴にへにゃりと眉を下げて笑った。
「それじゃあ帰ろうか。朔、そのでかいの持つよ」
「ひゃあ、千鶴さま、お一人で持って行かないで下さいー! あ、皆様、失礼致しますー」
「私の方が手が空いてるからいいのいいの。お茶ご馳走様でした。ここの食べ物はみんな美味しくて幸せです。ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げた朔に続いて、千鶴も軽く会釈をして部屋を後にする。
「なんなんだあの人間……」
大きなバスケットをわいわいと二人で持って、仲良く歩いて行くその後ろ姿を、何とも言えない困惑の表情でぶち犬たちが見送っていた。
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