プロローグ
「幸せにね、チズ。たまには帰ってきてねぇ」
「はい。奥様」
「やだ、お母様って呼んでちょうだいって言ってるのに」
襟元に刺繍があるだけのシャツ、動きやすさだけを追求した膝丈のズボンに、ところどころ傷の目立つ無骨なブーツ。
そんな出で立ちの千鶴の肩を、人一倍豪華なドレスの女性がばしばし叩いている。
無邪気と自由奔放に無理矢理服を縫い付けたようなこの人に拾われてから、今日まで退屈とも平穏とも無縁の毎日だった。
場違いな程明るいその声を聞き流して周りを見回せば、ここ数年で仲良くなった数少ない知り合い達が暗い顔で並んでいる。
「短い間でしたが、お世話になりました」
もの言いたげな視線には気付かないふりで、千鶴はお決まりの言葉とお辞儀をひとつ、ほとんど意味が無いだろう短く切られた白いベールを被った。
振り返って見つめた先には、暗いトンネルが口を開けている。
荷物を預けた愛馬の手綱を引いて、千鶴はその暗闇に足を踏み入れた。
おめでとうの言葉も、お祝いのご馳走も、こんな日には付き物だろう明るい笑い声も冷やかしの言葉も無い。
薄暗いトンネルを進む彼女の足取りは、それでも随分と弾んでいた。
千鶴が現代日本からいつの間にか、この国に紛れ込んで三年と少し。
晴れやかな門出の雰囲気なんてひとかけらもない見送りを背に、今日、彼女は一人胸躍らせて獣の国へ嫁ぎに行く。