これは恋ではなく、崇拝だった
※本作は恋愛小説ではありません。ある人物の眼差しと、その眼差しが見ていた世界の話です。
勇者ケインは孤児として生まれて、ごく自然と冒険者になった男だった。孤児の将来などというものは、運が良くて神殿勤めや職人への弟子入りで、残りの大半は下働きとしてどこかの店で働くか、冒険者として日銭を稼ぐかであった。
魔王が現れたと人々の噂が巡り始めたある日、夢に光り輝く人影が現れて、厳かに「今日からお前は勇者である」と告げられ、目を覚ましたら手の甲に突然何か印のようなものが現れていた。次の日には、宿に神殿からの使いがやってきて、あっという間に王都の王宮へと招かれた。
そこで、国王陛下から直々に「勇者として魔王を倒す旅に出て欲しい」ということを頼まれ、そこで引き合わされたのが治癒魔法と聖魔法に長け、聖女と呼ばれている王女マリエラと、その護衛騎士ニコラスの二人だった。護衛騎士は、王宮との連絡係も兼ねているという。金銭的な部分は王国が賄うとも言われ、勇者は彼らと共に旅立つこととなったのだった。
勇者は平民出の自分などがこんな高貴な方々と一緒で良いのかと何度も訊いたが、聖女も護衛騎士も、「私にも世界を救う手伝いをさせてほしい」「勇者一人に命を賭けろなどとは国としてとても言えないのだから、どうか気にしないでほしい」と応え、決して勇者を平民呼ばわりはしなかった。
旅の序盤で魔法使いを、途中で盾を持つ戦士と弓使いを加え、先々で魔物を倒しながら、勇者たちの旅は続けられた。
旅の最中、勇者は度々聖女を眺める。旅の途中とあって洗浄魔法で清潔は保っているものの、化粧どころか手入れさえもおぼつかない日々。出発した時には真っさらだった白いローブも外套も、旅の最中に徐々に毛羽立ち、裾や袖口は擦り切れている。亜麻色の長い髪も、今は簡単に細いリボンで首の後ろで束ねているだけだ。しかし、聖女はそれでもなお美しかった。
微笑む口元は咲き掛けの花びらのようにほんのりと赤く、形の良い鼻と、大きくこぼれ落ちそうな空の色を映したような双眸、頬に影を落とす長い睫毛、細い筆で描いたような眉が、すっきりとした輪郭におさまっている。
細い指先はたおやかで、手のひらは柔らかく、治療のためなどで近づくと、微かに甘い良い香りがした。とても自分と同じ、血と肉と骨と臓腑でできているとは思えない。何かもっと美しいものだけで組み立てられた、命の宿る人形か、妖精の類なのではないかと思うことがしばしばあった。
昼の明るい陽射しの下では、前衛で先頭を行く勇者は、後衛で進む聖女をあまりじっくりと眺めることはできなかった。しかし、旅路の夕べ。野営の準備をしている最中など、火の番を頼むと、護衛の騎士と共に火に当たりながら、騎士と何かを話して微笑みを交わしていたり、手慰みに木の枝を手で弄んでいたりと、そういった姿を見ることができて、勇者にとってそれはかけがえのない時間だった。
パチパチと燃える火に照らされて、夜の休む間は解かれている亜麻色の髪が、まるで黄金のように輝いて見える。空色の瞳に炎の赤が映ってキラキラと光る様は、まるで雄大な夕陽の空を眺めているような気持ちになった。血の気の良くなった頬が薔薇色に見えて、微笑む表情が汚れを知らぬ少女のようで、飽きることなく、いくらでも見ていられた。
この美しい人を守るため、この美しい人のいる世界を守るためならば、どれだけ辛くても苦しくても戦い抜こう。勇者は甲斐甲斐しく世話を焼く騎士の、これもまた美しい金髪が、聖女の亜麻色の髪にとてもよく映えるのを満足げに眺める。
護衛の騎士は、聖女である王女を守るために旅を共にしているが、魔法使いや弓矢使いといった後衛全体を護ってくれている。おかげで、勇者と盾を持つ戦士は後衛を気にすることなく戦闘に専念できている。
それだけでなく、騎士は勇者や他のパーティの仲間に対しても礼儀正しく、学の足りない冒険者の自分たちには不向きな交渉事などを一手に引き受けてくれており、王女を聖女として託したことといい、王国側からの誠意としては充分すぎるほどであった。
自己流の剣を振るう勇者に、正規の剣術を教えてくれることもあった。騎士というのは本当に誇り高く、清く正しい生き物なのだなと、勇者は感心することしきりだった。民のことを常に考える、心根までも美しい聖女と似合いだと、つくづく思う。
見た目の美しさだけでなく、尊い方々は内面までも美しい。二人が並ぶ姿を見るのは、勇者にとってまさに眼福であった。
この二人を無事に王国へ返すことも、勇者の誓いの一つである。あの、こんなに困難な旅の最中ですら美しい二人が、元の美しい世界に戻れるように。護られる側の人として、大事にしまわれるのを見届けたい。
そんな気持ちで、夕飯となる獣を捌きながら、勇者は聖女をうっとりと眺めた。こうして血に汚れるのは、平民である自分たちだけでいい。あの二人の貴人は、美しいまま返してやらなくてはならない。
少しでも二人の貴人が楽に過ごせるよう、地面に寝なければならない時には、寝藁か、代わりになる落ち葉を集めてマントの下へ敷いた。聖女の治癒魔法と聖魔法はパーティにとって不可欠のものだから、その聖女と後衛を守る騎士にはきちんと回復しておいて欲しいのだ、と「自分たちばかり」と遠慮しようとする二人にそう言って、いつも一番寝心地の良い場所を譲った。
ご馳走を食べ慣れている二人が少しでも飢えないよう、野営をするような道中は積極的に鹿や猪などの獣を狩った。同じ冒険者である戦士は、ずいぶんと贅沢な旅だなと笑ったが、旅慣れぬ二人の貴人に保存食だけで我慢させるなどという蛮行は、勇者のほうが耐え難いことだった。
聖女様、と呼ぶと名前で呼んで欲しいと言われて、いつも困ったように笑って誤魔化すしかなかった。必要以上に近づくつもりはなかった。勇者は、魔王を倒す旅路の途中だからこそこうして共にいるが、本来ならばこのような尊い方々とはこんなに近くで過ごしたり、ましてや言葉を交わせるような立場にはないのだ。
魔王の住む城が近づき、旅の終わりが見えてくる頃には、仲間と旅が終わったらという未来の話をすることがあった。王国は役目に応じた褒美を用意するつもりがあるということを、騎士も聖女も繰り返し言っていた。 魔法使いは魔法を研究するための施設を、弓使いは故郷の再興を、盾を持つ戦士は大金を望むと言う。勇者は? と聞かれて、思いつかないな、金かな、と答えつつ、聖女の肖像画をこっそりねだろうかなどと考えたりするのは、存外楽しい想像だった。
騎士と結ばれる聖女の姿はどれほど美しいだろう。旅を終えて王宮に戻れば、聖女は王女としていくらでも贅を凝らした装いができるはずだ。この清く正しい騎士の横に、純白の花嫁衣装を纏って微笑む聖女が並ぶ姿を見ることができるのなら——命さえも惜しくはない。
勇者は、楽しい想像に微笑む自分を、騎士の陰から聖女が柔らかい視線で見つめていることには、ついぞ気が付かなかった。
最終戦。魔王との戦いは、一昼夜にも及んだ。何度も剣を叩きつけ、呪文を重ね、矢を放ち、激しく激突した。怪我を負っては位置を下げて、聖女からの回復を待つ。聖女も、喉が枯れて腕が上がらなくなるほど回復呪文と聖呪文を唱えた。騎士は、今日ばかりは勇者の代わりに前衛に出ることもあった。
全員が、死に物狂いで戦った。ポーションも魔力も体力も気力も尽きて、それでもなお戦い続けて、そうしてやっと終わりの時が来た。
崩れ落ち、塵になる魔王を見届けた瞬間、彼らもまた、その場に崩れ落ちた。それほど、長い戦いだった。
地に伏せた聖女が弱々しく勇者の名を呼んだ。最後の力を、勇者に使おうとしているのだ。
勇者は慌てて力の入らぬ身体を叱咤して起き上がり、聖女自身をまず癒すべきだと叫んだ。そして、もしも魔力がまだ残っているのならば、洗浄魔法を聖女自身にかけて欲しいと言った。まるで生きた人間のように弱り、汚れた姿などは見ていたくなかったのだ。
「とにかく、今は順番に癒しを」
魔法使いが呻きながら、最後まで隠し持っていた魔力回復薬を聖女に転がした。聖女は頷いて回復薬を飲み、まずは自分を、それから近い順番に癒しの魔法をかけていった。残った魔力で先に血まみれの勇者たちを洗浄しようとしているのに気がついて、勇者はまた「まずはあなたが洗浄魔法を使うべきだ!」と叫んだ。聖女が驚いたように固まる。違う。怖がらせたいわけではない。
「怒鳴ってしまってすみません。でも、汚れが多い我々を先に洗浄すると、魔力が足りなくなるかもしれないので……まずは後衛のあなたたちから」
勇者がそう言い訳をすると、ようやく納得したように聖女は自分に洗浄魔法をかけた。擦り切れた服は元に戻らないが、これで汗や泥の汚れは落ちて、いつもの美しい人に戻った。やっとあるべき姿に戻せたことに、勇者は心から安堵した。そうなると、一気に身体に疲れが戻ってきて、意識が遠くなってくる。
勇者は自分の名を呼ぶ仲間たちの声を遠くに聞きながら、意識を失った。血まみれで泥だらけのひどい状態だったが、特にそのことは何とも思わなかった。
帰りの旅路は、穏やかなものだった。まだ、魔物は時折姿を現したが、魔王が生きていた頃ほど強力なものは出なかった。いよいよ旅が終わる。この高貴な方々と共にいられるのもあと少しだけ。
勇者は、帰路ではことさら狩りに精を出した。少しでも良いものを食べさせたい、そう思ったからだ。
今夜もうさぎ肉のシチューを煮込む焚き火を囲みながら、騎士と並ぶ聖女をうっとりと眺める。炎に髪を黄金色に染めて、柔らかく微笑み合う二人はそのまま絵に描いて欲しいほどに眩しく、尊いものに映る。見たこともない神々の姿を見せてもらっているような、敬虔な気持ちになった。このまま時が止まれば良いと考えている自分がいる。
もう少ししたら街道沿いの街に着くから、そこでは宿に泊まることになる。良い環境に二人を置ける安心もあったが、こうして焚き火の炎に照らされる聖女を隠れ見ることもできなくなるのだなと思うと、寂しさも覚えた。
街に着くと、王の手配で良い宿に泊まれるようになった。衣服も全員に新しいものを用意されており、勇者は恐々と仕立ての良いそれらを身につけた。きちんと風呂で身を清めてから着替え終わった騎士の姿が、大層立派で素晴らしく見栄えが良く、勇者は自然と聖女の姿に期待をした。
「ニコラス様、さすがに良くお似合いですね」
勇者は騎士に話しかけた。普段ならこちらから声をかけるような真似はしないが、少し気持ちが緩んでいた。
「ケインもよく似合っていると思うよ」
「いえ、俺なんかはこんな立派な服を着ていると、破りそうでドキドキしてしまいます」
「ケイン、ニコラス。あなたたちも着替え終わったのね」
聖女だった。長い亜麻色の髪は艶やかに輝きながら肩を滑り落ち、新しい装束は白を基調としていながらも銀糸の刺繍が入り上品だ。空を映したような青い瞳は、微笑みに潤んでいる。思わず息を呑むほどに整えられている姿に、勇者は畏敬の念を覚えた。これぞ神に愛された娘なのだと思い知る。
こちらへ歩み寄ってくるのに、思わず後ずさった。無意識だった。
「どうしたの? ケイン」
「あ、いえ——ニコラス様と聖女様のお邪魔になるかと……」
「いやね、勇者様こそ、そんな遠慮するなんて」
「そんな、俺はたまたま選ばれただけの平民ですから」
「勇者殿はあんな活躍をしておきながら、腰が低すぎるのが欠点だな」
「本当ね。世界を滅ぼそうとした魔王を討ち果たした勇者様なのに、いつまで経っても謙虚なままで、さすが神に選ばれただけあるわ」
「恐れ多いことです」
「この先は、迎えの馬車が来るので、それに乗って王国まで戻る算段だ。国王陛下にねだる褒美を考えておいたほうが良いぞ」
「王国が破産しなければ良いけれど」
そう言って二人は笑い合い、街の代表と会いに出ていった。勇者は先ほどの狼狽えの理由を探ったが、自分でもよくわからなかった。
「褒美か……あのお二人の結婚式に招待して欲しいと言ったら、叶うだろうか」
あの美しい二人が寄り添う姿の完成形だ。許されるのならば、この目に焼き付けたい。花嫁衣装を身につけ、盛大に飾り立てて、幸せに微笑む聖女の姿を想像しようとしたが、先ほど見た以上のものを想像できなくて勇者は肩を落とした。
王国の用意した馬車に分散して乗り、旅は一気に楽なものになった。王国に入ると、街道には勇者たち一行を一目見ようと、民たちが群がった。
馬車から慣れたように手を振る聖女と騎士を、勇者は慣れない熱狂的な視線に晒されながら、密かに眺めた。尊い方々は今日もやはり美しい。この風景を見るために、過酷な旅はあったのだと再確認する。
残りわずかな行程で、少しでも多くの思い出を詰めるために、勇者は勇気を出して聖女と騎士のそばに寄ることを自分に許した。王宮に着くまでの間だけ、宿での夕食を共にとることを求めたのだ。これは自分を納得させるのに少し苦労した。しかし、あとわずかで、もう二度とこんなに近付けることなどなくなるのだと思うと、二人のいる距離に入り込むためのなけなしの勇気を出すことができた。この許されない行いは、王宮に着いたら終わるのだから、と。
街の宿となると、これまでの野営とは違ってそれなりの料理が出るようになる。慣れないカトラリーの使い方を騎士と聖女は嫌がることもなく教えてくれて、勇者はますます二人の心根の美しさに感服した。
魔王を倒し終われば用済みと言われてもおかしくないのに、二人はまるで平民の勇者に自分たちと同じ価値があるかのように扱ってくれる。自分だけは勘違いしないように気をつけようと、勇者は心に誓った。
いよいよ王宮に近い王都にある最後の宿に泊まった際、王宮からの使いが来て、王宮までの道でパレードをして欲しいと言う。この宿では、さらに高級な、まるで貴族のような衣装が用意されていて、勇者だけでなく戦士や弓使いも引き攣った顔をすることになった。
「ケイン、こちらの馬車に乗ってくれないか」
「え、俺がですか?」
屋根のついていない真っ白な馬車に乗った聖女と騎士から声をかけられて、勇者は驚いた。自分のような平民が、王族と貴族である二人と共に馬車に乗るなんて、とんだ冒涜だ。勇者はそう思って辞退しようとしたが、騎士は勇者こそがパレードの主役なのだと言う。繰り返し説得されて、勇者は渋々聖女の隣の席に腰を下ろした。
「みんな、勇者様であるあなたを見に来ているのよ」
聖女の微笑みが自分に向けられているのが落ち着かない。つい、窺うように騎士を見ると、力強く頷かれてしまった。
「適当に外に向けて手を振っているだけで良いから」
そうも言われて、勇者はカチコチに身体を強張らせながら、馬車に乗って手を振り続けた。戦いのほうが断然マシだと思いながら。
けれども、最後にこんなに近くで聖女の着飾った姿を見ることができたのだけは良かった。亜麻色の髪が、陽の光にキラキラと王冠のように輝いている。聖女の笑みも常よりもなお明るく、神々しさに震えるほどだった。これで、心置きなく元の世界に戻ることができる。そう思うと、これまでの旅での苦労がすべて泡となって消えていくような安堵があった。
王宮に着くと、すぐに聖女や騎士とは別れて案内され、広くて綺麗な部屋でもてなされた。夕食もこれまで食べたことがないほどに豪華だったが、勇者が平民だと気遣ったのか、フォークとスプーンだけで食べられるようになっていたのがありがたかった。
ここでは召使に風呂場で全身を磨かれるというショックな出来事があったが、翌日は国王陛下の前に出るのだからと言われたら、平民には逆らえようもない。香りの良い石鹸をこれでもかと泡立てられ、髪や肌にも花の匂いがする香油を擦り込まれ、全身を揉みしだかれる。夜着に着替えた頃にはクタクタになっていた。
どこまでも沈み込みそうなベッドに潜り込むと、こんなに柔らかなベッドで眠っていたお姫様が、自分が用意したあんな粗末な枯葉の上に寝ていたのは、本当にありえないことだったのだなと改めて思う。焚き火に照らされていた聖女の柔らかな姿が、脳裏に浮かんだ。もう、あれを見ることは二度とないのだなと考えながら、勇者は眠りに落ちた。
「魔王を倒した褒美として、勇者ケインを伯爵に叙爵し、聖女である王女マリエラの降嫁を許す」
国王の前に朝、教え込まれた通りに膝をつきながら、勇者は言われた言葉を理解できなくて黙り込んだ。
「は……? え?」
「貴族としての地位を与えられて、聖女マリエラ様と結婚できるということですよ、勇者様!」
そばについていた侍従が耳元で囁く。呆然としたまま騎士のいるほうを見ると、笑顔で拍手をしていた。国王も、王女も、貴族たちも、みなが笑顔で勇者を眺めている。
勇者は、愕然とした気持ちでそれを見た。
「な、なぜ——ニコラス様は、それで良いのですか!?」
絞り出すように声を上げる。呻くようなその声は、なんとか騎士の耳に届いたらしく、軽く首を傾げられた。
「私はマリエラ様の護衛騎士でしかありません。そのような目で見たこともない。勇者様のように、王女を望めるような立場にありません」
「だってあんなに二人で仲が良かったじゃないですか!」
「乳兄弟なので、親しみはあったかもしれません。が、それだけです」
「そうね。元々気心が知れていたから護衛に選ばれたのだけれど。ケイン、私と彼のことを誤解していたの?」
「勇者ケイン、そなたは旅の途中でも常にマリエラを気遣い、冷たく硬い土の上で寝かさぬように枯葉を集めたり、少しでも良いものを食べさせようと頻繁に狩りをしたり、命懸けで何度も身体を張って守ってくれたりもしたと娘とニコラスから聞いている。それだけ想われれば、きっと娘も幸せになれるだろう。貴族としての生活にはすぐには慣れんかもしれぬが、この国でそれを笑う者など誰一人いやしない。安心して、受け取るが良い」
「え……俺が? 聖女様と結婚、するんですか? そんな……許されない……」
「勇者様?」
侍従の戸惑いの声も届かないほど、勇者は混乱していた。ずっと見続けてきた世界が、すべて嘘だったのだとひっくり返ったような、裏切られたかのような気持ちだった。
ただ、あの二人が共にいる姿を見ていたかっただけなのに、何を間違えた? 自分はなんでこんな目に遭っているのか。
「俺のような平民が、聖女様と結婚するなど畏れ多いことです」
震える唇から、ようやくそれだけがこぼれ落ちる。心臓がギュッと掴まれたように苦しく、どんな敵を前にしても折れなかった心が、情けなくも砕けそうだった。
手に触れられないからこそ、その美しさを愛でられた。二人の風景が完成されたものだと信じていたからこそ、尽くせた。どこまでも、恋ではなく崇拝していたのだ。手に入ると言われて、初めてそのことに気がついた。
野営の時、二人の髪色が焚き火の炎に黄金色となって溶け合っていた姿を思い出す。そうして二人は柔らかく微笑み合うのだ。完成された美しさで。それが何より好きだった。けれど——このままでは壊れてしまう。そう思うだけで血の気が引いた。
「身分が……身分が違いすぎます! 俺は誰の子かもわからない孤児上がりの冒険者で……とても貴族だとか、そんなものにはなれません! このあとは故郷でまた、一介の冒険者として暮らすつもりでいました」
思いつくままに必死に言い募る。
脳裏に浮かぶのは、焚き火に浮かぶ騎士と聖女の微笑み合う姿。戦闘中に見慣れた、後衛の聖女を守る騎士の姿。そして夢見た、心根まで美しい二人の幸せな結婚式。自分の理想が、勇者という自分の存在によってすべて崩れていくのが、今はただ恐ろしかった。
「ふむ、少し急かしすぎたかの? 一度、下がりなさい。決して悪いようにはしないから、よく考えるといい」
国王陛下に声をかけられ、侍従の促すままに御前から下がる。代わりに、魔法使いが王の御前に呼ばれ、堂々と歩いていくのが見えた。
「大丈夫かい? 顔色が悪い」
心配げな表情の弓使いと戦士に、軽く頷いてみせるが、何が大丈夫なのか自分でもよくわからない。言われた言葉が、ただグルグルと脳裏に回る。貴族に——王女と結婚——。
「そんなこと……望んでなどいなかったのに……」
呻くように呟く。自分は、ただあの美しい人を、尊い方々を、遠くから眺めることを許されたかっただけだった。決して手に入れようなどという烏滸がましいことなど、考えたことは一度もなかったというのに。
「まさか……聖女のことが好きなわけではなかった、とでもいうのか?」
驚いたように弓使いが言う。
「あれだけ尽くしておいて?」
肩をすくめ、呆れた様子でそう付け加えられた。
言われた意味がわからなくて、顔を見る。こんな顔をしていたんだな、と、いまさら思う。長い間一緒に旅をしてきたのに、まじまじと顔を見た覚えがなかった。戦士もそうだ。すぐ隣で、唯一の前衛同士で命を預けあった仲なのに、あまり顔を見て話した覚えがなかった。旅の記憶で思い出すのは、聖女と、騎士の二人の姿ばかりで。
「いくら好きと言っても王女様相手だ。突然結婚を許されたら戸惑いもするだろうさ」
戦士が、励ますように肩を叩いてくる。敵と向かい合う前に何度もしてきた仕草だ。けれど、今はまったく必要ではなかった。それよりも誰かに説明して欲しかった。なぜ、こんなことになっているのかを。どうすれば、自分の望みが壊れることなく叶うのかを。
騎士のほうを見る。旅の間に見慣れた、擦り切れた服と傷のついた鎧ではなく、今は貴族らしい立派な装いだった。黄金のような金髪を後ろに撫で付け、優美な顔が晒されている。菫色の瞳は、見慣れた柔らかさで、しかし今は聖女ではなく国王をまっすぐに見つめている。
——私はマリエラ様の護衛騎士でしかありません。そのような目で見たこともない。
もう、どこにも勇者の理想は残っていなかった。足が震える。このまま立っていられそうになかった。よろけた勇者を、戦士が支えた。
「国王陛下の前がそんなに緊張したか……俺たちは平民だものな。気持ちはわかる」
「違う……そうじゃないんだ……全部、こんなの間違ってる……どうしてあのままじゃ駄目だったんだ……」
姿だけでなく心根まで美しい二人が寄り添い並び立つ姿を見るのが、厳しい旅路の何よりの支えだった。ただの孤児の分際で、勇者として選ばれたからには、こんなに美しい人たちがいる世界を守らなくてはと奮起した。本来ならば声をかけられることも、目に入ることもない高貴な方々。 それが、今だけは仲間だと言って、近くにいることを許された。
旅の途中、何度もひどい景色を見た。潰された道。切り裂かれた大地。崩れた家。血の海に沈む人々。血と汗と脂に汚れた自分。そんな中で、彼らだけは高潔で美しくて——自分にとって、彼らこそが守りたい世界そのものだったのだ。
「具合が悪いのなら、部屋に戻れるか訊いてやろう」
「そうだね。おおい、誰か!」
戦士に支えられながら、勇者は世界が壊れる音を聞いていた。あんなに大切にしていた世界が、世界を救ったことで壊れてしまうなんて。しかも、壊したのは自分らしい。なんと言う皮肉か。
勇者は青ざめた顔のまま薄く笑った。やはり、自分は不相応なものを望んでしまったらしい。最初から、近付くべきではなかったのだ。もっと、もっと遠くから眺めているだけで満足していればよかったのに、欲を出して近付いたりしたから壊れたのだ、きっと。
あんなに完全で美しい世界だったのに、壊れてしまった。壊してしまった。
部屋に戻ったあとの勇者の姿を見た者はいない。勇者は、翌朝には姿を消していた。
『聖女様の幸せまで壊したくはありません。きっと自分よりも相応しい相手がいるはずです。俺は、残った魔族を倒す旅に出ます。今度こそ、世界を救ってみせます』
残された手紙は、何度も何度も書き直した跡があり、途中の意味が少し通じないところもあった。けれども聖女と騎士は、彼がずっと旅の途中で、救えなかった人々のことを悔いていた姿を思い出して、彼の世界を救い続けたいという願いを叶えたいと王に願った。
勇者は二度と王国へは戻らなかった。しかし、旅先で絵描きに会うと必ず、亜麻色の髪の乙女と金髪の騎士の肖像を描いてもらうのだという。王国では、仲間思いの勇者の伝説として語り継がれることになった。
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