美貌の妹に婚約者を譲れと命じられた実務家の姉ですが、ブラック実家の裏帳簿を丸投げして辞職しました
「クロエ・フォン・アルバーン! お前との婚約を破棄する!」
煌びやかな王立学園の卒業パーティー。その喧騒を切り裂くように、私の婚約者、ルーク・バルト男爵令息の声が響き渡った。彼の腕には、私と同じアルバーン家の血を引く妹、マリアがしなだれかかっている。
「俺は真実の愛に目覚めた。マリアこそが、俺の隣に立つにふさわしい光だ。お前のような、帳簿ばかりを眺めている地味で無愛想な女ではない!」
周囲の貴族たちがクスクスと笑い声を漏らす。その視線は、マリアの着ている豪奢なドレスに向けられていた。バラのようなピンクの生地に、これでもかとあしらわれた最高級のレース。それを買ったのが、私が行った深夜までの事務作業と、商人たちとの泥臭い交渉によって捻出された「領地の緊急予備費」であることを、この場の誰も知らない。
「お姉様……ごめんなさい。でも、ルーク様は私を愛しているとおっしゃるの」
マリアが潤んだ瞳で私を見つめる。その瞳の奥に、勝ち誇ったような光があるのを、私は見逃さなかった。両親もまた、愛娘であるマリアの肩を抱き、私を汚物でも見るかのような目で睨みつける。
「クロエ、聞こえたか。お前のような可愛げのない娘はこの家には不要だ。家督はマリアとルークに継がせる。お前は今すぐ、この家から出ていくがいい」
父の冷酷な言葉。普通なら、ここで泣き崩れるのが「幸せな家庭の令嬢」の役目なのだろう。しかし、私の中に去来したのは悲しみではなく、冷徹なまでの「解放感」だった。
(……ああ、ようやく解放される)
私は前世、日本の会計事務所で働く公認会計士だった。激務の末に過労死し、気づけばこの乙女ゲームのような異世界の、無能な放蕩貴族の長女に転生していた。以来、私は「この家の長女としての義務」を果たすため、父の博白による借金、母の見栄による無駄遣い、そしてマリアの湯水のような浪費を、複式簿記を駆使して、首の皮一枚で繋いできたのだ。
「分かりました。婚約破棄、および家籍の離脱、謹んでお受けいたします」
私が淡々と、事務的に答えると、会場が一瞬静まり返った。ルークが拍子抜けしたように眉を寄せた。もっと泣きつくと思っていたのだろう。
「……なんだ、その態度は。少しは反省の意を見せたらどうだ」
「反省、ですか。ええ、十分にいたしましたわ。これほど効率の悪い投資先に、自分の貴重なリソースを費やしてきたことを。ですので、最後にこれを置いていきます」
私は使い古した、実務用の丈夫な革鞄から一冊の分厚い帳簿を取り出した。それをルークの胸元に叩きつけるように差し出す。
「これは……?」
「アルバーン家の、真実の貸借対照表です。それから、明日期限の支払い手形三通、再来月の税収予測、および各債権者からの最終督促状。全てここに揃っています」
「なんだそれは、気味の悪い。帳簿などマリアでも付けられる。数字を横に並べるだけの単純作業ではないか」
ルークが鼻で笑い、マリアがキャハハと可愛らしく笑った。「お姉様、私、可愛いお花柄の家計簿なら持っているのよ!」
私は彼らの無知に、憐れみすら覚えた。
「ええ、そうですわね。……あ、そうそう、マリア。今あなたが着ているそのドレス、まだ支払いが済んでいませんの。明日の朝、王都で一番執念深い商人が屋敷に伺うはずですから。ルーク様、次期領主として、せいぜい頑張ってくださいませ。……さようなら」
私は完璧な礼をして、そのまま一度も振り返ることなくパーティー会場を後にした。
翌朝、私は王都の中心部にある宰相府の門を叩いた。目的は、昨日見かけた求人だ。
『緊急募集:国家会計の整理補助。経験不問だが、計算に自信のある者。待遇、応相談』
この国、アシュラム王国の国家会計は、伝統的に「単式簿記」……つまり、お小遣い帳レベルの管理で行われていた。急速な領土拡大と複雑化する物流に対し、その管理手法はとうの昔に限界を迎えているはずだ。案の定、案内された執務室は、書類という名の暴力によって埋め尽くされていた。
「……また志願者か。悪いが、君のような華奢な令嬢に務まるほど、ここは甘くない。昨日もベテランの文官が『数字が合わない!』と叫んで窓から飛び降りそうになったばかりだ」
低い、氷の柱を撫でるような声。デスクの奥に座っていたのは、この国の若き宰相、レオンハルト・フォン・アシュラム公爵だった。銀髪を乱し、目の下には深い隈があるが、その美貌は恐ろしいほどだ。彼は、積み上がった数字の山に殺されそうになっていた。
「発狂の理由は、原因不明の使途不明金ですか? それとも、予算の二重計上でしょうか」
私の問いに、レオンハルトの碧眼が鋭く光った。
「……ほう。両方だ。この国の文官たちは、入ってきた金と出ていった金の合計が合わないだけでパニックになる」
「それは、彼らの能力不足ではなく、管理のシステムが『単一視点』だからですわ。閣下、私に三時間だけ時間をください」
私は彼のデスクの端を借り、用意していた計算用紙とペンを取り出した。混乱の極致にある「軍事費」の項目。私はそれを、複式簿記の概念で分解していく。貸方、借方。仕訳。減価償却。
ペンが紙を走る音だけが、静かな部屋に響く。レオンハルトは、最初は不信げに、途中からは獲物を見つめる獣のような鋭さで、私の手元を凝視していた。
「……終わりました。閣下、これが昨年度の軍事費の『真実』です。不明だった三万ガルドは、ここ。資材の先払い分が、次年度の予算と混同されていました」
私は一枚の、美しく整理された試算表を提出した。
レオンハルトはそれを手に取り、しばし沈黙した。その指が、わずかに震えている。
「……信じられん。三ヶ月かけても解けなかったパズルを、たった三時間で……。この『左側』と『右側』が一致するという概念は……何だ?」
「複式簿記ですわ。この世の全ての富の移動には、必ず二つの側面があります。一箇所が動けば、必ずもう一箇所が動く。それを捉えれば、数字が嘘をつくことはできません」
その瞬間、レオンハルトが椅子を蹴るようにして立ち上がった。彼は私の肩をがっしりと掴み、その冷徹な仮面をかなぐり捨てて叫んだ。
「素晴らしい! 君こそ、私が求めていた『救世主』だ! 今すぐ正式な上級監査官として雇用する! 待遇は……給与は現在の文官の五倍、いや、十倍だ! 私の隣の執務室を使え。必要なリソースは全て与える。だから……どこにも行かないでくれ!」
「あ、あの、定時退社と完全週休二日は……」
「約束する! 君の健康を管理するのも私の仕事だ。さあ、まずはこの三〇年分の使途不明金を、君のその美しい魔法で整理してくれ!」
こうして、私の「ホワイト(?)な職場」での生活が始まった。
それから数週間、アルバーン男爵家は、崩壊へのカウントダウンを刻んでいた。私が去った翌日から、領地の実務は完全に停止した。マリアとルークは、私の残した帳簿を見て絶叫したらしい。そこに書かれていたのは、ただの数字ではなく、「明日死ぬかもしれない家計」の現実だったからだ。
「クロエさえ……! あの地味なクロエさえいれば、何とかなったはずなのに!」
マリアの着道楽による未払金、父の賭博による借金の利息。それらは、私が絶妙な交渉術で引き伸ばし、他の収益で穴埋めしていた「爆弾」だった。私という安全装置が外れた瞬間、それらは一斉に爆発したのだ。
屋敷には借金取りが押し寄せ、家財道具には次々と赤札が貼られていった。ルークもまた、バルト男爵家がアルバーン家の負債の連帯保証人になっていたことが発覚し、親子揃って首を括る寸前まで追い込まれていた。
「そうだ……クロエだ! クロエを連れ戻せばいいんだ! あいつはこの家の長女だろう! 義務を果たせ!」
彼らは厚かましくも、私が宰相府で働いているという噂を聞きつけ、王城の門へと押し寄せた。
「クロエ! 出てこい! お前、こんなところで何をしている! 早く戻って帳簿を付けろ!」
門の前で叫ぶ、薄汚れた身なりの父とルーク。そこに、私はレオンハルト様と共に通りかかった。
「お姉様……! 助けて! 私、もうパンも買えないの……!」
マリアが地べたに這いつくばり、私の靴を掴もうとする。しかし、その手は冷たい風に遮られた。
レオンハルト様が、私の前に一歩踏み出し、凍てつくような威圧感で彼らを見下ろしたのだ。
「……下賎な者が、私の『国家最重要監査官』に気安く触れるな」
「こ、国家、最重要……?」
「彼女は、この国の腐敗した血管を浄化する唯一の存在だ。貴様らのような寄生虫に費やす時間は、一秒たりともない。……衛兵。この者たちを捕らえろ。罪状は、国家資産の横領、および脱税だ」
レオンハルト様の手元には、私が数日でまとめ上げた「アルバーン家およびバルト家による、過去十年の不正納税記録」が握られていた。私が実家にいた頃、父が隠蔽していた裏金。その証拠を、私はしっかりと保管していたのだ。いつか「損切り」する日のために。
「そんな……そんな殺生な! クロエ! お前が告発したのか!?」
「いいえ、父様。私はただ、数字を正しく整理しただけですわ。数字は嘘をつきませんから」
私は微笑み、そのまま彼らが連行されていくのを眺めていた。彼らはこれから一生、鉱山で「数字の合わない肉体労働」に従事することになるだろう。自業自得、という言葉さえ生ぬるい結末だった。
平和な時間が訪れた。
実家という巨大な不良債権を清算した私は、宰相府で充実した毎日を送っていた。……唯一の問題は、上司であるレオンハルト様の「福利厚生」が過剰すぎることだ。
「クロエ、今日の三時のティータイムだ。隣国の王族しか食べられない幻のケーキを取り寄せた」
「閣下、私はまだこの港湾税の監査が……」
「却下だ。君が過労で倒れたら、この国は再び暗黒時代に戻る。それは私の心が許さない。……さあ、あーんして」
「……っ、閣下! 誰かが見ていたらどうするんですか!」
「誰も見ていない。ここは私の私室だ。……それに、君のその、数字を語る時に輝く瞳を、他の男に見せたくなくてね。私は独占欲が強いんだ」
レオンハルト様の顔が近づく。氷の宰相、なんて嘘だ。私に向けるその眼差しは、砂糖菓子よりも甘く、執着に満ちている。
「クロエ。私の人生という帳簿に、君という項目を書き加えたい。それも、一時的な経費ではなく、永続的な『資産』としてだ」
「……資産、ですか?」
「そうだ。私の全てを君に預ける。君の自由も、君の有能さも、全て私が守る。だから、私の妻になってくれないか。……これは、命令ではない。一生をかけた、最高条件の『契約』の申し出だ」
私は、彼の真摯な瞳を見つめ返し、小さく笑った。
「ふふ。……閣下、そんなに甘い条件では、私の『借方』がパンクしてしまいますわ」
「いいんだ。君が隣にいてくれるだけで、私の人生は常に黒字だから」
私は、彼の差し出した手を取った。かつては、ただ奪われるだけだった私の手。でも今は、この手で未来の数字を、そして愛する人との幸せを、一文字ずつ丁寧に書き記していくことができる。
ブラック実家を損切りした先にあったのは、完璧にバランスの取れた、最高のハッピーエンドだった。




