第一章・ヌクモリ
雨風がもはや気持ち良い。体が火照っているからかもしれない。さっきから頭が痛くて、気持ちも悪い。だけど、人生を終えられるなら。
「気が楽だな。」
クマのぬいぐるみをぎゅっと抱いた。死ぬのは怖い。でも真っ暗闇の中をただ佇むよりかは遥かにマシだと自分に言い聞かせる。
確か靴を脱ぐはずだったから脱いで。綺麗に並べた。
遺書はいらない、宛先がないから。
「よし。」
瞼を閉じて、ゆっくりと足を前に踏み出す。片足がふわふわと、浮遊感に包まれる。後は体を前に傾けるだけ。それだけ。
「………。」
未練は残されていないはずの左足がやけに重たい。私はもう一度、ぬいぐるみをぎゅーっと抱きしめた。やっぱり、温かい。
そうしてようやく、私は前に進めた。
体が重力に先導され、落下していく。
行く先はあの世。そのはずだった。
「……?…あ…かっ…。」
ビチッ、と人肉がアスファルトに打ち付けられる鈍い音が聞こえて。その後はキーンと耳鳴りが頭の中に残り続けた。全身が痛くて、肩が、足が火傷しそうなほど熱い。そのはずなのに打ち付けられる雨が体温を奪って心がどんどん冷たくなっていく。
抱いていたはずのぬいぐるみがなくなっていた。
(そっか、そんな高さないと死なないんだ。人って。)
2階建てのアパートじゃ、どうやら上手く死にきれなかったらしい。
けど大丈夫、問題はない。このまま倒れていればいずれは死ねる。
待つのは慣れてる。
(だいじょう…ぶ。)
瞳を閉じると走馬灯でも見えるかなと、ちょっと期待したけれど。私の人生に色とりどりな思い出はなかったことを思い出した。
・・・
眩しさに目を覚ました。いや嗅いだことのない美味しい匂いに目を覚ました?
いやいや、遠くで聞こえる薬缶の叫び声に目を覚ました可能性もある。
「……暖かい。」
身に覚えのない温もりで、私は目を覚ました。視界に映る知らない天井だけで私の上半身を起こすには十分な情報量だった。
「ど、どこ!?…ここが天国?」
「人の家を勝手にあの世にしないでよ。人聞き悪い。」
「誰!?痛っ!?」
「騒がしい子ね…。」
声のする方へ首を向けると、ちょっと顔のきつめのおばさんが仁王立ちで立っていた。謎の迫力に私は口をぱくぱくと、金魚みたいな顔をしてたと思う。
「まだ安静にしときなさい。」
「あうっ。」
頭をとんと押され、頑張って置き上げた上半身はスタート地点に戻されてしまう。まだ追いつかない脳の上に今度はやわらかい何かがぽすんと投げられる。
「これ貴女のでしょ。洗っておいたわよ。」
「クルミ…。」
「なに、ぬいぐるみに名前つけてるの?」
「へ、変ですよね。」
「んーん、その手もあったかって。」
「?」
ずっとこのおばさんに流れを持っていかれ追いつけない状況。少しでも安心したくたぬいぐるみを布団の中へ招き入れぎゅっとした。やっぱり暖かさがあって、冷静さを少し取り戻せた。
すると…
ぐ~
「あっ…。」
「お腹空いたこと思い出すくらいには体が回復してるのかな。ご飯食べる?オムライスでいい?」
「……たべる。ます。」
「年上には敬語、わかってるわね。ふふっ。」
おばさんは魔女みたいな笑顔で一時その場を去って行った。どこか怖くて、どこかぬいぐるみと同じ温もりを感じさせる。
(助けてもらった、ってことなのかな。…そうだよね、こんな意識はっきりとしないよね。死んでたら。)
安静にしとけと言われたけれど、中学生の好奇心はそう簡単には押さえつけられない。私は体を起こし、部屋を見渡す。家具の少ないシンプルな部屋だったけど、明らかに異質なものが一つ置かれていた。
「ギター?」
「あー、起きてる。寝とけって言ったよね。」
「あっ、寝ます!」
ばさっ、と勢いよく体を倒したがぽこんとノーダメージパンチが飛んで来た。
「な、なんで。」
「安静にしろとも言ったよね。」
「う…。」
(そ、それもそうだ…。)
「……ギター興味あるの?」
「い、いえ。べつに。」
「素直ね。まぁちょっと変ではあるか、部屋に1個だけギターって。」
「えっと…おばさんが弾くんですか?」
「リピートアフターミー。お姉さん。」
「…。お姉さんが弾くんですか?」
「そう、趣味なの。って、オムライス冷めちゃう。喋ってる場合じゃなかったわ。ほら、背中乗りなさい。」
「…?」
私は突然しゃがんで背を向けたおば…お姉さんに戸惑う。
(背中に乗る…?って、どうやって…?)
ベットの上でおろおろとしているとお姉さんが私の方を見て、『まだか?恥ずかしいんだが?』みたいな怖い顔を顔面積30%で伝えて来た。もうなるようになれ!
「…ん…何してんの?」
「の、乗るってなに。ですか。」
お姉さんの背中にお尻を乗せたらやっぱり変な顔をされて、不安いっぱいになってすぐに正解を聞いた。最初からそうすればよかった…。
「ふっ、ふふっ。あっはっはっは!ナニコレ。…って笑い事じゃないわねこれ。」
「え、えっと……。」
「逆よ逆。くるって。ほら。あ、クルミちゃんは私が持つわ。ジャマでしょ。」
「お、お願いします。」
雰囲気に流されて大切な親友を今さっき話したばかりのお姉さんに手渡してしまった。お姉さんはさも当然のように、ぬいぐるみの頭とおしりを支え、赤ちゃんを抱っこするみたいに持ってくれた。
(お母さんは頭わしづかみだったな…。)
「承った。で、えーっと待ってねおんぶの説明とか人生初だわ。あ、クルミちゃんで説明する。見て、こう。手を肩から垂らして足は私が持つの。あとは体預けて。」
クルミがおんぶとやらを知らないお姉さんにされてる光景と、とっても真面目に説明するお姉さんの顔がなんかツボに入ってしまって。
「ふっ、へへっ…ふふっ。」
「何笑ってんのよ。これなら足使わないから大丈夫でしょ。ほら、早く乗ってよ。」
「な、なんか面白くて。初めて見ました、ぬいぐるみ背中に乗せる人。」
「私だって人生でまさかぬいぐるみでおんぶ実演する羽目になるとは思わなかったわよ……。」
一旦クルミにはまたお姉さんの腕の中に戻ってもらって、私は足に力を入れないようベットからずり落ちるように背中に今度こそちゃんと乗った。
「よいしょっ、と。軽いわね、ちゃんと食べてるの?」
「…。」
「……おんぶ、されたことなかった?」
「幼稚園の頃、見た気がします。」
自分で歩けるのにわざわざ大人に運ばれているのはなんでだろうと幼いながら疑問に思っていたけど、あの子は足を怪我していたんだと13年ぶりに腑に落ちた。
「そ。…どう、人生初おんぶ。」
「たかい。」
「ふっ、私の後頭部しか見えないでしょうに。」
揺られながら、お姉さんの心臓の鼓動を感じながら私は移動させられた。初めておんぶをされるはずなのに密着して伝わってくる温もりには、どこか既視感があって。
(…あ、クルミをぎゅっとした時と同じだ。)
キッチンに連れて来られた私は、丁寧に椅子に座らせていただいて。
机の上に用意されていたのは絵本の中でしか見たことのなかったオムライスと味噌の塊が透けて見えるお味噌汁。
「好きな言葉は?ケチャップで書いたる。」
「クルミ。」
「そりゃそうだ。」
お姉さんはくるくると魔法みたいに赤文字を綴って行く。ひらがなで『くるみ』、その少し下に小さなクマさんの絵を書いてくれた。
「じょうず!です。」
「だろ!さぁ召し上がれ。色々話したいことはあるけど、まずは腹ごしらえしなさい。」
「い、いただきます。」
プラスチックのスプーンを手に取り、オムライスへと侵入させていく。卵3割、ケチャップライス7割くらいのミニオムを口へと運ぶ。ケチャップの酸味と卵のまろやかさが口の中で混ぜ合わさり、舌が喜んでいるのがよくわかった。
この感情を一言で表すなら、そう。
「おいしい!」
「そう言ってもらえて嬉し。全部無理して食べなくても良いからね。もう熱下がってたけど、私が拾った時すごい熱だったから。体がびっくりしちゃうわ。」
「あ、ありがとうございます。」
「道端で女の子が痣まみれで倒れてて見捨てるほど私も…。…腐ってないから。」
「……?」
何故かお姉さんは一瞬言葉を区切った。違和感はオムライスと一緒に飲みこんだ。
全部食べなくていいとは言われたものの、初めて食べる美味しい誰かの作った料理に手加減などできなくて。
「けふっ。ごちそうさまでした。」
「全部食ったわね…。おそまつさま。はいお茶。」
差し出された湯呑には温かいお茶が入っていて、茶柱は横たわってた。さっきの薬缶のお湯はここか。
お姉さんはマグカップだった。大人の苦い匂いが漂ってくる。
「ほんとに美味しかったです。」
「初めて食べたの?オムライス。」
「そういうおにぎりは食べました。」
「……コンビニの?」
「はい。」
「あれ美味しいわよね、手軽で。」
色身が似てたからそれと同じ味なのかなと予想したけど、全然違ったからびっくりした。
「冷たいままより温かい方が美味しいんですね。知らなかったです。」
「…口元ケチャップついてるわよ。」
「んむっ。」
ティッシュで頬をむぎゅっとされた時、近づいたお姉さんの瞳がやけに暗く見えた。
対面するように座ったお姉さんは一口コーヒーを含む。
「さてと、お腹も膨れたろうしそろそろちゃんとお話ししましょうか。まず、お名前から聞いても良い?」
「それ美味しいんですか?」
「話聞かない子ね…。コーヒーよ、知らない?」
「お母さんが朝似た匂いのやつを飲んでました。」
「…お母さんがいるのね。」
「お父さんはいません。どこかに言っちゃったんだよって教えてもらいました。」
「ふぅん…。で、名前は?」
「あ、橘真紀です。13歳です。中学1年生です。」
「真紀ね。私は日崎リメ。35歳です。誕生日は3月9日。血液型はO型。」
「あ、わ、私は1月18日。です。血液型はわからない。です。」
「最近は血液型調べない子の方が多いんですっけ?いつか調べておいた方が良いわよ。必要になるかもしれないから。」
「はい。…あ、でもお母さんのは知ってる。ます。Bだって。」
「お父さんの方は…あぁ、知らないのか。」
「いや、お父さんもBです。」
「なら真紀もBじゃない。てか、仲良いのね。……か。」
「え?」
「なんでもないわ。血液型の話をお母さんとしたのね。」
「あ、いえ…勝手に聞いた。です。たまたま。」
小さなころの記憶なんて曖昧だけど、その血液型の話は不思議と印象に残っていた。お母さんが誰かと電話をしていて、私にかける声よりもすごく甘ったるい高い声でしゃべっていたからよく覚えてた。その時、血液型の話をしていて。【私たちBで、運命ね。】みたいな言葉が記憶に焼き付いてた。
「そ、そう。にしてもお母さんは大変ね。一人で子供を育てなきゃなんて。朝コーヒー飲んでたのも眠かったからなんじゃない。」
「あ、毎日じゃない。です。たまに家に帰ってきてた時飲んでたのを見た。んです。」
「たまに家に?」
「お母さんは私が学校から帰ってきたらお金だけくれてそのままどこか行くんです。朝まで帰ってこない事の方が多かった。…です。」
「お金?なんの。お小遣いとか?」
「夜と朝のご飯。」
「あぁ、そうか。忙しいとご飯も作れないか。…何円くらい?」
「500円。」
「…ごっ?!…あぁそうかだからコンビニ…。ん~…んんんんっ!!!んっ!」
当然お姉さんはコーヒーを一気飲みして、冷蔵庫を荒々しく開けて缶ビールを取り出した。それもまた、多分半分くらい一気に飲んだ。
「な、なに、ですか。日崎…さん。」
「ごめん飲みたくて。発作。」
「びょ、病院。」
「アル中じゃないから、心配してくれてありがとね!はぁ……。ちなみにだけど真紀、今家にお母さんは?いる?」
「多分いないと思います。…今日帰ってきたら、その。お母さんのもの全部なくなってて。クルミだけ残ってて。」
「まんまじゃない……。はい、決めた。もう決めた。真紀、貴方ここの家に住みなさい。」
「えっ!…そ、それは…いい。めいわく、かける。」
日崎さんがいなくなったら抜け出して、もう一度確実に死のうと思っていた。誰かに迷惑をかけ続けるくらいならいっそ死んだ方が気が楽だ。
だが、そのわがままは叶わなそうだった。
「よくない!」
「えぇっ。」
「私が良くない。帰る家があるならもちろん別よ。けど、あなたは自殺をしなきゃいけないほど追い込まれていた。」
「…!」
今の今まで、絶対に聞いてこなかった私が道端で倒れていた理由。このまま聞かれずに入れるのかと無警戒でいた私へ突然現実が突きつけられる。
気付いていたのに言わなかった日崎さんの優しさに涙が流れる。
「その目から流れている涙ごと、私なら救ってあげられるわ。これでもお金はあるのよ、もう。」
「……なんで、無関係なのに。おかしい。知らない人が知らない人を助けるなんて、ふつうあり得ない。」
「そうね、私たちは確かに他人。けど、家族だって他人よ。」
「え。」
「人が人の事を完全に理解することはそう簡単じゃない。わからないのよ、どうしたって完全に信用されることはないし信用できるわけがない。真紀、貴方が思うより世界は薄情で、優しさに溢れてるの。貴方の常識が間違ってるって、言い切るわ。私は。」
「……むずかしい。」
「なら簡単に言ってあげる。私は貴方の事が気に入ったの。いてほしいの。」
日崎さんは言ってて恥ずかしくなりそうなことをさも当然のことのように…言ってなかった、耳の先赤かった。
けど言い切れるなんて、かっこいいと思った。私にはない言葉の力強さが羨ましくて、尚更面倒を見てもらう事はできないという決意がかたまって行く。
こんなすごい人の人生に、私みたいなバグをまぎれさせたくない。
「私も、日崎さんのことはその…。」
「…好き?」
「う、うん。暖かいし、優しいし、オムライスも美味しかった。だから…余計嫌なの。私はいっぱい迷惑をかけちゃう。気が気じゃ…なくなる。」
「はぁ……ちょっと待ってて。」
そう言って日崎さんはいなくなった。もしかしたら警察にでも電話をしにいったのかもしれない。
(どこまでも優しいなぁ。こんな面倒くさい子供さっさと家から追い出せばいいのに。ちゃんとそういうとこに報告はしてくれるんだ。)
孤児院とかに連れていかれるのかなと、まだそこの生活の方がマシなのかとか想像していると…。
「それじゃあ聴いてください。」
「は。」
日崎さんがギターを持ってやってきた。さっきまで座っていた椅子を大きく引いて、かっこよく座り急遽始まったゲリラライブ。
イントロはなんだか寂しくて、弱弱しいのに芯のある音が奏でられる。
「~♪」
(わっ、歌上手…。)
イントロが終わったのか、落雷のような振動を感じる強い大きな音を歌と共に日崎さんは創り出し始める。激しいギターの音に合わせた荒々しいロックな歌い方。そのはずなのに綺麗で滑らかな耳ではなく心に語り掛けてくるかのような声色にびっくりして跳ねた心臓が一瞬にして落ち着く。
瞬間、一つの歌詞が胸に刺さる。
『私は貴方以外を愛せない。だって1人分の愛情しか持ち合わせてないんだから。』
そう歌う日崎さんの表情は楽しそうで、なのに悲しげで。儚さを纏った音にさっきまでの不安が吹き飛び、贅沢に夢まで見てしまった。
(私も、ギター…こんなふうに弾いてみたい。)
実時間3分、体感30秒くらいの演奏が終わった。私は無意識のうちに拍手してしまう。
「……すごい。かっこいい。」
「『アンタレス』。作詞作曲私。」
「もっとすごい。」
「ふぅ…。で、なんだっけ?真紀。」
「え。」
「あぁ、迷惑かけるとかなんとかか。…そーゆー自分はめちゃくちゃ重たいので関わらないでくださいって自意識過剰なやつ、私大嫌い。」
「うぇ。」
「もうとっくに胃袋掴まれて出て行きたくないって顔してるのに、素直にならないの大嫌い!」
「え、え、え。」
貴方の事が気に入ってる発言と真逆の事を言われて戸惑った。
日崎さんはギターを肩にかけたまま、私との距離を縮めてきた。
「言葉が足りなかったか、もう一度言うわよ。ちゃんと聞いてね。《《帰りたい場所》》があるならもちろん帰ってもらって構わない。ないなら、ここをあなたのいれる場所にして。それ以外の選択肢にもしまた死を選ぶなら、罰として私のギターの聞き役一生やってもらうわよ。」
「それは罰にならないんじゃ…。」
「なら家事して。対価は…そうね、ギター教えてあげる。」
「!!」
ギターが弾ける。生まれて初めて心が躍った。さっきの日崎さんのように、私もなれるのかと。なっていいのかと。
「さ、私は本気で歌って、本音も言ったよ。今度は真紀の番。言ってみ、だいじょぶ。絶対笑わない。」
「……温かいベットで寝たい。」
「良いよ。……他は?」
「オムライスまた食べたい。お味噌汁も美味しかった。ほかのも食べてみたい。」
「みそ汁はインスタントだけどね。良いよ、ここにいてくれるなら今度はパスタでも、コロッケでも。作ったげる。まだない?」
「……ギター、弾きたい。」
「よし!もちろん教えたげよう。女に二言はない!」
今言ったのは全部本音だけど、全部の本音を言ったわけじゃなかった。
恥ずかしくて、言いにくくて。
でも。
「それで全部?」
「まだ、ある。」
「あ、まだあるんだ。なんだろ……今の3つくらいしか予想してなかった。」
「……日崎さんに、嫌われたくない。」
「え。」
「……大嫌いって、言われたくない!」
この人みたいになりたいなら、恥ずかしい事でも本人に正面から言える勇気が必要だ。これはその第一歩。子供らしく生きる、最初のステップだ。
「ふ、ふーん。それはその…ほら、真紀次第だよ。」
「…?日崎さん顔赤い?」
「そっ、そんなわけないでしょ!おら、見な!もうお外は真っ暗だよ!寝な!」
「え、まだ私言ってない。」
「何を!」
「ここにいたい。いさせて。」
「あ。……と、当然、だ、ぜ。」
「なんでカタコト。」
「黙っとけいガキンチョ。大人だって予想外の嬉しい事が連発したら慌てるんだよ。」
「ふふっ、嬉しいの?ですか?」
「だぁもう、空気読まないやつはだいきら……あー…ちょっと嫌い。へへっ。」
屋上から飛び降りたその日、私は新しいお家と、新しい家族ができた。
まさに、生まれ変わったようだった。
・・・
昨日結局寝れたのは深夜0時だった。原因は2つ。慣れない『ベット』というものに改めて寝転がったことと明日からの生活が楽しみすぎたこと。将来が楽しみで眠れない、なんて感情を私の人生で持つことがあるのかと心底報われたような気がして。けどなんの努力もしてないことに気付き、明日から頑張ろうと目を閉じた。
「ふわぁあっ……。んー…何時だろ。……ん?んん?」
ベッドの横にある木製のチェストの上に置かれた時計の長針と短針はきっかり8時30分を示していた。これは私の中学校の始業時間と全く同じものである。
「遅刻だ。……遅刻だ!?」
私は咄嗟に起きて、歩こうとして痛む足に転んでしまった。
「痛っ…。」
日崎さん曰く骨折とかはしていないらしいがそれでも強く体を打ち付けたせいで全身を打撲してしまっている状態。うまく歩けないのも当然なのだけど、あの高さから落ちてこの程度で済んでいるのは奇跡だって、運が良かったわねと言われた。
(確かに、あそこで死んでたら日崎さんにも会えなかったんだ。)
『早く死にたい』が『生きてて良かった』にころっと変わる自分の都合の良さに苦笑いしていると、部屋の外からどたどたと何かが急いで走ってくる音が聞こえた。
「真紀!?大丈夫?!」
「おはようございます、日崎さん。」
「冷静~。おはよ。……あぁ、歩こうとしたのか。まだ無理だよ。二階から飛び降りて歩けると思うなよ?若造。」
「昨日から変なテンション。ですね。」
「……ま、ずっと1人だったから。ほら、おんぶ。クルミちゃん忘れないでね。」
「わかってる。ます。」
昨日とは違って、もうおんぶで躊躇わなかった。そして変わらず、温かい。
安心して、体重を完全に預けようとして自身が中学生であることを思い出す。
「あ、そ、そうだ。日崎さん。私中学校行かなきゃ。」
「私中学校嫌い。」
「い、いやそういう話はしてない……。」
「光来中学校?真紀が通ってるのって。」
「そう。なんでわかったの?ですか?」
「一番近い。」
「あぁ。」
「連絡しとくよ、真紀さんはねん挫で少し休みますって。」
「ば、バレちゃいません?」
「そん時はそん時。お姉ちゃんですとか言うから。ふふっ、歳離れ過ぎかな。」
本気で言ってるのか冗談で言ってるのかわからない、ふわふわとした会話をしながら私はキッチンの椅子に下ろされた。目の前には食パンと目玉焼き。
日崎さんはもう食べ終わってるみたいで、沸いているお湯を止めた。
その後ろ姿がまるで……。
「……お母さん。」
「え?」
「えっと、お母さんって言えば良いんじゃないのかなって。私のお母さんは別に学校に連絡とか今までしなかった。…です。」
「あー……ならそうしよっかな。うわ、もうこんな時間か。コーヒー飲めないか仕方ない。ごめん真紀、私もう行かなきゃだから外出るね。17時には帰ってくるかな。はいこれ、やってほしいことリスト。朝ご飯食べたら見といてね。じゃばーい。」
「あ、あ、え。」
いってらっしゃいも言えず、物の数分で日崎さんは去って行った。足を痛めているから玄関まで追う事もできない。
もどかしさの中、ただちょっと気になったのは。
(ギター持ってった。お仕事で使う……のかな?)
ふとギターを使う仕事を洗い出してみたけれど、大きなドームで演奏しているようなプロの人しか思いつかなくて。日崎さんを結び付けてみたけどそんなわけないないと1人首を振った。
「ごちそうさまでした。」
食パンを食べたことがなかったわけじゃないけど、ジャムをつけるとこんなに美味しいんだという貴重な体験を終えた私は渡されたメモに目を通すことにした。
緑色のメモにはなんともこう、独特な文字が書かれていた。
(字汚いんだな…。『い』とか『り』にしか見えない。)
「えーっと…あ、これ『れ』か。……え?」
数分経って解読できた文章は、想像していたものとは全く違って。読み間違たのかなともう一度読み直したのだが……やっぱり、こう書かれていた。
【やってほしいことは3つ。できれば動かない、寝る、安静に。】
「…家事じゃないじゃん。あれ、裏にまだ書いてある。」
ぺらっと捲ると、さっきより乱暴に書かれた文章。だけど、意外にもすぐに読むことができた。
【もしくはギター。ベッドの横置いといた。】
「ギターやらせたいだけなのでは……。」
何もせず、やりたいことだけをやっていいのかと怯えた。我慢の連続。耐えることが生きることだと、そういう思考回路だった私は数分食べ終わった朝食のお皿を眺めてしまって。
(だけど……うじうじしてたらまた日崎さんに大嫌いって言われちゃう。)
「…よし。」
私はクルミを抱きしめ勇気の共有をしてから、ゆっくりと椅子から降りた。今まで慌てて歩こうとしたから痛かったんだ。落ち着いて、静かに歩けば案外そこまで足は痛まなかった。
「はぁっはぁっ…ついた。」
日崎さんがベットからキッチンまで歩くのに1分もかからなかったのに、自分の足だと5分以上かかってしまった。
(情けないな……。あれか、日崎さんのメモのやつ。)
視線をベッドに移すと、本当に横にギターが置いてあって。さらに『初心者向けギターの弾き方』なんて本まで置かれてあった。ベッドに身体を倒してから、本を手に取る。
「この本ぼろぼろだ。付箋もいっぱい……。」
ぱらぱらと捲るとすぐわかった。この本を使ってギターを練習した人は本当に何時間も時間を費やしたんだと。努力の積み重ねが視覚化されているようで、圧倒されてしまう。
「メモも多い。あ。この文字。」
『い』が『り』に見える筆跡は今さっき見た。この本は日崎さんが使っていたんだ。
あんなに上手で、自分の手足みたいによどみなくギターを弾いていた日崎さんでも初心者の時代があったんだと、当たり前のことなのになんでか今さら気づいた。
「私も日崎さんみたいになるんだ。やろう。」
そうしてギターを持ってみた。思ったより重たくて、だけど重圧感が満悦感につながった。こうしてるだけで日崎さんになれたみたいだ。
「じゃあクルミ、貴方が最初の観客さんね。聴いててね。」
ぬいぐるみを自分の前に座らせてから、本の中の絵を参考に構えてみる。かっこいい。昨夜見せてもらった通りなら、こんな感じで…。とそれっぽくやってみたのだが。
「ふ、不協和音…。なんで?」
目の前のクルミが『そりゃなんもまだ学んでないじゃん』とでも言いたげな目を向ける。気がしただけ。ぬいぐるみだもんそんなこと言わない。
「こーど…ねっく?あ、ここか。あー…んー?思ったよりこの紐弾くの痛い。硬い。」
初めて触れるギターはもちろん思い通りに行くはずがなくて。やって行くうちに手は痛くなるし、日崎さんのような音は一ミリも奏でられなくて。
「ふふっ、楽しい。」
けど楽しかった。どんな音でも、少なからず音ではあるんだから。自分がそれを出してる。この広い世界に比べれば砂粒よりももっともっと小さい、誰に聞かせているわけでもない音だけど。自分が何かを作ってる感じがして、わくわくした。
「あ、クルミがいたね。ごめん。」
ぽんぽんとぬいぐるみの頭を撫でると、ガチャリと玄関が開いた音。そして余韻なくまたどたどたと誰かが走ってくる音が聞こえて来た。
「あれ!?キッチン真紀いない!?どこどこどこ!?」
(すごいなぁ、扉閉めてるのにクリアに聞こえてくるよ。)
「ここか!真紀!?大丈夫!?」
「17時じゃなかったんですか。帰り。」
「クール~。いや、よくよく考えたらキッチンに置いて行っちゃったなって。歩けた?大丈夫?」
「ゆっくりなら歩けました。」
「良かったぁ。今日の合わせ、ずっと考えてたせいで上の空だぞってメンバーに怒られちゃった。んじゃお昼ご飯作るから。」
「え?お昼?」
ぐ~
「あ。」
タイミングよくなったお腹の音。時計を見ると12時半になっていた。どうや3時間くらいずっとギターを弾いていたらしい。夢中になりすぎた。
「ふふっ、ギターはまったみたいね。どう、何か弾けるようにはなった?」
「CコードとGコードだけ…でも日崎さんみたいに綺麗には弾けないです。」
「やってみて。」
「あー…またこんど。」
「なんでよ。」
「完璧じゃないから…。」
(ちゃんとできてないもの見せても、褒められない…。)
小学校の頃、お母さんにどうしても振り向いてほしかった。
勉強を頑張った。私は一度も100点が取れず、90点のテストを見せたけど何も言ってくれなかった。
リコーダーを頑張った。拙く、でも一生懸命吹いたけど、うるさい、不協和音だとしか言われなかった。
運動を頑張った。走って、飛んで。誰よりも前に出れば目立つだろうって。だけどお母さんは運動会に一度も来てくれなかった。
(私が悪かったんだ。もっと、もっと凄かったらきっと見てくれたのに。)
日崎さんにはちゃんと見てほしい。だからまだ見せられないと顔を伏せる。3時間もやって1個もまともにできなかったの?って怒られちゃうかな…。
「……?」
言葉が返ってこなくて不安になり、日崎さんの顔を見た。すると…
「いーよ。初日で弾けるわけないじゃん。ギター舐めんな。」
「え。」
「ほら、やってみ。見せて。」
「わ、わかった。です。」
恐る恐る弦を弾いた。手に汗かいて、1人でやってた時はまだもう少しまともな音が出ていたのに緊張でぶれぶれな音がギターから出る。
「ぜ、全然きれいじゃないですよね。ごめんなさ…」
「チューニングずれてるかも。貸して。」
「え?あ、はい…。」
「あーやっぱか。私が一番最初に使って奴だからメンテほったらかしたよ。ごめんね、こんなので練習させて。」
謝ろうとしていたのに、逆に謝られてしまった。すぐにギターが戻ってくる。
「できた。どぞ。」
「もう一回ですか?」
「うん。」
私はもう一度、覚えたてのコードを弾いてみた。すると今度は本当に自分が出したのかと疑うくらい、綺麗でちゃんとした音が出た。流石に日崎さんには劣るけれど、クルミが『やるじゃねぇか』とでも言いたげな目をしてくれるくらいには良かった。
「んん、才能を感じるね。上手。けどちょっと締め過ぎかな。音が高くなってる。あと指も痛いんじゃない。…ほら、赤くなっちゃってる。」
「日崎さんは痛くないの?ですか。」
「いっぱいやってると皮膚硬くなるんだよ。触ってみな。」
日崎さんの手を触ってみると、ごつごつと硬かった。
私のマシュマロと比べたらおせんべいみたい。
「ふふっ、真紀はやわかいな。」
「私もこうなれますか?」
「この柔らかさ失うのは国家レベルの損害だけど……続けたらなるよ。」
「頑張ります。」
「あー国家転覆。……ってそうだ。お昼ご飯作りに来たんだった。ぱぱっとやるから待ってて。」
颯爽と飛んで来てすぐにいなくなる日崎さんを見て、嵐みたいな人だと思った。お昼ご飯を作ってくれる嵐。
「……足治ったら私がご飯作れるようになろ。今はギターやろ。」
ほんの少し、私にも自分を優先する気持ちが芽生えた。
お昼ご飯を作ってすぐ、日崎さんはまたいなくなった。やっぱりギターを持って。
(そういえば合わせとかメンバーがとか言ってた。何のメンバーなんだろ。)
帰ってきたときに聞いてみることにした。ちなみにお昼はカルボナーラだった。
「ごちそうさまでした。よしギターやろ。」
溢れるギター欲を抑えてゆっくりとまたベットに戻る道中。最初戻る時は歩くことに集中しすぎて気づかなかったけれど、扉が全開の部屋を見つけた。
(不用心な人だな。閉めてあげ…。)
「な、なにこれ。」
内開きの扉だったから、部屋に足を踏み入れることになって。部屋の奥にある、本来あるはずがない道具に目がいった。
「これ…天体望遠鏡ってやつだ。」
真っ白で大きい、本の中でしか見たことのなかった天体望遠鏡に人の部屋に勝手に入る、より興味が勝手しまった。この部屋はなんなんだろう。
「星座の本…天体に衛星の本も。…この絵、もしかして日崎さんが?」
様々な星にまつわる書籍が置かれている中、何枚かの絵が積みあがっていた。どうやら星をスケッチした絵みたいで、実物なんかもちろん見たことない私でも見惚れてしまうくらい上手だった。
(日崎さんギターだけじゃなく絵も上手なんだ。なんでもできる人なんだなぁ…。)
あまり勝手にみられるのも嫌だろうとようやく申し訳なさが湧き上がってその部屋はそれ以上見ないで、ベッドの上に戻ることにした。
もっともっと、日崎さんに褒められたいから。褒める時『すごいね』とか『上手だ』とか。ありきたりな言葉ももちろん使うけど、その後にすぐアドバイスをしてくれた。笑いもせず、真面目にまっすぐ年下の私のギターに向き合ってくれて、自分の中の大人の認識が日崎さんのおかげで少し変わった気がした。
そうしてギターに夢中になっていると、気づけば時刻は17時。本当にぴったり17時にがちゃりと、今日2度目の日崎さんの帰宅の音を聞いた。流石に今度は激しい足音はしなかった。でも玄関の扉が開いてすぐ、そんな時間も経たず足音が近づいてきた。
「ただいま。体調とかどう?」
「おかえりなさい。元気。です。」
「ん。じゃあご飯…」
「あのあの、できるようになった。ました。DコードとEmコード。」
「まじ?すごいじゃない。聞かせて聞かせて。」
今度は緊張しなかった。落ち着いて日崎さんの前で弾いてみせられた。
「うん、上手。すごいね1日でここまで。本当に才能あるかも。」
「日崎さんみたいになれますか。」
「……私みたいにはならないでほしいな。」
「え?」
「真紀にしか奏でられない音を奏でてよ。待ってるからさ。」
「は、はい。頑張ります。…けど、私家事とかしてない。です。」
「怪我治ったらで良いよ。あ、料理は私が作るから。」
「申し訳ないです…。」
「ふふっ、真面目だね。私が中学生の頃はもっと悪ガキだったよ。授業とか全部サボってた。」
「えぇ…。それ大丈夫だったんですか?色々。」
「ま、生きてるし。」
「最低限過ぎる…。」
そうこぼすと、日崎さんのあのノーダメージパンチが頭に当たった。
「生きてるだけで良いんだよ人生なんて。真紀も生きてたからギター触れられたんだから。でしょ?」
「…はい!」
「ん!夕飯何がいい?できる限りリクエストに応えよう。」
「オムライス。」
「ふふっ、またか。良いけど。んじゃ待っててね~。」
夕飯は本当にオムライスになった。2日連続でも全然美味しかった。更に昨日とは違って、みそ汁ではなくポトフが現れた。じゃがいもが程よくほろほろで、人参も甘くおかわりをしてしまったほどだ。
「あの、日崎さんの仕事って何なんですか?」
「私の仕事?」
「はい。メンバーとか言ってた。ですよ。」
「あぁ…まぁ隠す必要もないか。バンドやってるんだよ。ライブハウスでね。それなりに売れてるの。」
「バンド…。」
「そう。ボーカルとベースとドラムとピアノ、あと私の5人でね。とは言え1年前ようやく軌道に乗れたんだけどさ。」
「人の前で弾くってことですか?」
「そだよ。曲を自分たちで作ってね。」
そういえば、最初拾いしてくれた曲も日崎さんが作ったと言っていた。ただギターを弾くだけじゃなくて、誰かの前で披露するなんて…。
「遠すぎます。」
「何が。」
「日崎さんに追いつきたいのに、ギターできて、曲作れて、人前で演奏できる勇気があって。しかも絵も上手で、すごい人。です。日崎さん。」
「ふふっ、別に私に追いつく必要はないわよ。好きな道を自分で作って行った方がきっと楽しいから。」
「ううん…。」
日崎さんは何故か憧れさせてくれない。人に認められるほどの努力をしたことは知っているのに、自慢を露骨にしようとしない。これが大人ってことなのかもしれない。
「あれ?私絵描くなんて言ったっけ?」
「あ。す、すいません。あの望遠鏡のある部屋入っちゃいました。」
「行ったのか。まぁ扉開いてたしね。」
「星、好きなんですか?」
「昔ね。まだ捨てられないだけ。…あの望遠鏡は貰い物なの。」
「へぇ…。」
誰のですか?どこからですか?そう聞こうとしたのだけど、日崎さんの顔がとても寂し気で、聞いたらその綺麗な表情が崩れちゃうと、聞かないことにした。
日崎さんはどうやら、昔に何かがあったみたいだ。
「………あ、もう食べたね。片付けちゃうからお皿貸して。」
「あ、はい。」
「お風呂入っちゃおうか。昨日はタオルで拭いただけだし。足も歩けなくはないんだよね。」
「大丈夫。です。」
「…でも心配だし、一緒に入る?」
「え。」
恥ずかしくて散々抵抗したのだが、結局押し切られてしまって私たちは同じ湯船につかることになった。
「ぶー…。」
「こーら。湯船に空気を供給しないの。汚いでしょ。」
「無理矢理脱がした。」
「だってお風呂入らないとか言うから。」
「一人で入りたかったんですよ!もう…。」
「はいはい。場所開けて。私も入る。」
ざぶん、と日崎さんが湯船に入るとお湯がぎりぎりまで持ちあがった。ちょっと狭い。
「誰かとお風呂とか、初めてです。」
「修学旅行とかなかったの?小学校で。」
「行かなかった。ので。」
「……そか。」
あまり人の体をじろじろ見てはいけないと思うけど、どうしても日崎さんの体に目が行ってしまった。
「何見てるのエッチ。」
「ち、違いますよ!…そのお腹の痣、どうしたんですか。」
日崎さんのお腹には異常なほど大きな痣があった。
「これは勲章。」
「くんしょう?」
「そ。私は戦ったんだぞって証。」
「誰とですか。」
「魔王。」
「魔王がいるんですか!?」
「あっはっは、冗談だよ。マイケルジョーダン。」
「誰ですか。」
「知らないんだ…。あ、そだ。お風呂あがったらギターちゃんと教えてあげる。音は綺麗に出てるけど、指がぐちゃぐちゃだったから。もっと難しい複雑なコードとか進行する時手こずるよ。」
「日崎さんが教えてくれるんですか?」
(てっきりあの本だけで頑張れよって意味かと思ってた。)
「私は我流だったけど、やっぱり誰かに教えてもらった方が絶対上達は早いからね。なんかわくわくしてきちゃった。もう上がろうか!」
「わ、わかった。」
お風呂から上がって、よくよく考えたらパジャマがないことに気付いた。
「あ、下着とか寝巻は全部買ったから。というか今日1日何着てたのさ。」
「日崎さんの子供の頃のお古だと思ってた。」
「私のそんな綺麗じゃなかったよ。」
「そうか。」
「納得されるとそれはそれでなんかなぁ?」
服まで買ってもらってしまって、また謝りそうになったのを喉の寸前で止めた。日崎さんは私が謝ることを嫌う。『大嫌い』と言う事はもう無くなったけど、それでも露骨に嫌そうな顔をする。私のせいで少しきつめだけど、綺麗な顔が歪むのは嫌で。
けどこの罪悪感は捨てきれない。
「あ、あの。日崎さん。」
「どったの。」
お風呂上がり、おんぶで運ばれている時に意を決して聞くことにした。どうしたらいいかわからない時は聞く。小学校の頃先生に教えてもらったことだ。最も、『どうやったらお母さんに褒められますか』という質問に先生は困ったような顔をして『頑張りなさい』とだけしか言ってくれなかった。
(日崎さんならなんでも答えてくれるはず…!)
「あの、その、パジャマとかもらって。ご飯とかも美味しくて。迷惑かけ…あ、その…。」
説明しようとしたのだけど、何を言っても日崎さんのノーダメージパンチが飛んできそうな気がして言葉を選ぶけど、まだ短い人生で選べるほどの語彙を持っていなかった。どう伝えれば良いのか、足りない頭をフル回転させて考えていると…。
「最後まで言って。ちゃんと伝えてくれないとわかんないわよ。」
「けど、日崎さんが嫌いな言葉を使うかもで…。」
「別に単語そのものが嫌いな訳じゃないから。ごめんなさいアレルギーとか存在しないから。とりあえず言ってみなさい。」
「…うん。迷惑とかかけてさ、申し訳ないんだけどごめんなさいは使いたくない。んです。何て言ったらいいの?ですか。」
「………ありがとうじゃない?」
「ありがとう。」
「ど、どういたしまして。…ふっ、何今の会話。」
(ありがとう、か。そっか、そう言えばいいんだ。)
きっと、今私がした質問は人間関係の上で当たり前の事だったんだと思う。でもちゃんと教えてくれた。日崎さんはやっぱり、良い大人だ。
「はい到着。じゃ私のギター持ってくるからちょっと待ってて。」
「わかった。ました。」
背中から降りて、私はぬいぐるみをいつもの定位置に座らせた。中学生にもなってまだぬいぐるみを頼ってる私は恥ずかしいのかも。
「………そもそもクルミって、いつから私の傍にいたんだっけ?」
クマのぬいぐるみのクルミ。小さな鞄を肩から掛けている、茶色のふわふわなぬいぐるみ。日崎さんが選択してくれたからか、前よりぴかぴかに見える。
この子は物心つく前から私の傍にいた。お母さんがくれたのかと一瞬考えたけど、あのお母さんがこんなちゃんとしたぬいぐるみをくれるとも考えにくい。もしかしたらお母さんも、生まれた時は私の事をちゃんと見ててくれたのかな?
「クルミちゃんとにらめっこしてどうしたの。」
「あ、日崎さん。私いつからこの子持ってたのか覚えてなくて。」
「ふぅん。まぁ小さい頃なんじゃない?覚えてないのも仕方ないくらいの年齢の時でしょ。」
「普通に考えたら…そうか。」
「さ、クルミに音聞かせてやろ。いつかは一緒に弾けると良いね。」
「私と日崎さんがですか!?恐れ多いです。」
「まっすぐとした目で見ないでよ…。簡単なのはできるって。練習開始~♪」
それから眠くなるまで日崎さんとギターを弾いた。ご近所さんへの音の迷惑はないのかと途中聞いてみた。
「問題ない!防音対策してるから!」
そう言いつつも目が泳いでいた。大人でも嘘つくんだと勉強になった。
「ここだよ、ここ。人差し指がここで…そそ。」
「指…が…んむっ。ふわぁあっ……。」
「あ、もうこんな時間か。早いな過ぎるの。寝よう。」
「まだしたいです…。」
「ダメダメ。中学生とか一番身長伸びる時期なんだから。寝なさい。」
「ふぁい。」
「全くもう。若者の原動力と成長力に乾杯。」
よくわからないことを言いながら日崎さんは私のギターを持って行ってしまった。ギターを没収された私は不本意ながら眠ることにした。
「ほら倒れる。」
「うぐ。」
「ほらクルミ。」
「あい。」
私は強制的に横に倒されて、強制的にクマを抱かされて、強制的に布団をかけられた。
(流石大人だ、抵抗できない不思議な力がある…。)
これが睡眠欲であることを私はまだ知らない。
(今日は人生で一番短い1日だったな…。なんでだろ。わかんないけど、日崎さんのおかげだってことはわかる。)
「あの、ひざきさん。」
「おやすみ。」
「あ、その。」
「おやすみ。」
「少しくらいは許してください…。」
「1分以内ね。」
「きょ、今日1日がすぐ過ぎました。楽しかったです。ありがとです。」
「…おやすみ。」
「はい。」
部屋を出ていく日崎さんの顔は、どこか赤らめていた気がする。大人も、嬉しい事があったら顔に出るんだなぁと、変な関心をしながら眠りについた。
1週間後まで、1か月後まで、1年後まで。こんな生活が続いたらいいのに。
明るい未来を望んでもいいと、許された気がした。
「あ、そだ。」
「おわっ。」
「明日連れてきたいとこある。行こ。おやすみ。」
「え、あ、はい。おやすみなさい!」
(…連れてきたいとこ?)
病院とかかなと、テキトーに憶測をしながら私は意識をシャットダウンした。
まだ私は知らなかった。人生の最高の瞬間がこの先、何度も塗り替わることを。




